このミニ講座は月に一
度、メシヤ講座とは別に当
支部で開催している勉強会
をミニ講座として会員等が
学んだ内容を掲載していま
す。

 たまには、ページ数が多
い時もありますが、どの月
もほぼA4版にして約6ペー
ジ前後でまとめてあり、1
時間程度で読めるようにし
ています。

 もし、皆さんの信仰の向
上に役立つようであれば、
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平成30年11月度  ミ ニ 講 座(支部)

信徒諸士に告ぐ!      (栄279号 昭和29年10月20日)
 本教信徒の中に、浄霊の場合、医師にかかること、薬をのむこと、注射をすること等について、否定する如き言葉ありやにて、本教の主旨を履き違え、社会の誤解を受くることは、本教を傷つける結果となることは勿論で、この点充分注意され、決して医療を否定する如き事無きよう、ここに重ねて戒意を促す次第である。
 以上に対し私の所見を述べてみたいと思う。先ず我がメシヤ教は宗教法人として認証され、国法によって保護を受け、信教の自由を認められている以上、法を重んじなければならないのは当然で、医師法に触れるが如きことは厳に慎まねばならない意味は誰しも分ると思う。
 処が本教浄霊法は現代医学と全く相異なる立場にたつ治病原理である以上、事実を事実として書いたり喋ったりすることが悪意に解されれば医療否定という事になる。とすれば右の一文に対し一見矛盾を感ずる人もあろうがそうではない。それは本教浄霊法の、他に追随を許さない大奇蹟である。先ず第一に医師に見放された重症患者を起死回生せしめる力の発揮である。しかもそれが入信すれば誰でもできること、疑っても治る事、お説教は第二第三で、直接人間の魂に集中透過し改過遷善できる、人を救えば救う程大きな御神力をいただくことができる、如何なる遠隔僻遠の地にあっても同様奇蹟をいただくことができること等々、無限絶対の力徳の根源でありその発揮であることは論をまたないところである。従って本教浄霊の原理、病理臨床上のことについて人に伝える場合、聊かも先方の意志を無視して強要する必要はないのである。否執拗に繰返すことは、熱心のようであって実は御神意に対する冒涜であると御垂教賜わっている。
 次に今一つ重要な事は、最後の時期が迫ってくるとともに救われるものと救われざるものと審判が厳しくなって来ることである。従って本教の話をして分らなかったり、事実に目を背けたり、御神書を見せても分らない人は、時期が来ていないか既に滅びの方に運命づけられているのであるから、如何に救わんとして努力すると雖も徒労に過ぎないばかりか、救われるべき人に対してそれだけ救いが遅れることになるので、この点も厳に戒しめられているところである。
 従って問題が起きる場合を振返ってみると、悉く小乗信仰の結果であり、何れも右の御教えに抵触していることは言うまでもない。小乗信仰とは自力本位であるから、如何に本教信者とは言え、否本教信者であるが故に御守護がないと言えよう。我々は、今後如何なる事態が起ろうとも、心を謙虚にし、神の愛を胸に畳んで、正邪善悪の判別力即ち叡智を賜わり進むならば、世に恐るもののないことを一層銘記するのである。

御注意             (栄84号  昭和25年12月27日)
  明主様より左の如き御言葉がありました。
  時々聞く事ではあるが、浄霊者が病人に対し、医者へ掛ってはいけない。注射をしてはいけない。薬も服むな。等というのは法規に触れる以上、決して言うてはならないのである。凡ては病人の自由であって、些かも自由を拘束してはならないのである。

序論  人類救済の大本願          (医講  昭和十年)
  抑々、人類の悩みは何ぞやといふと、大体病貧争の三つに帰するであらふ。併も、其三つの中に於て、病気の悩み程深刻なるものは蓋しあるまい。貧の原因の大方は、病気からと言っても過言ではなく、又、世上幾多の紛争は殆んど、経済問題に端を発すると言ひ得るのである。従而、病気の根絶、病人の無い世界なるものが儻(モ)し、出現するとしたならば、凡ての悩みは解決すべく、真に之こそ、人類空前の大福音でなければならない。然し乍ら、斯の如き、釈迦基督さへ企及しなかった、大胆なる経綸は、到底、痴人の夢としか思はれないであらふ事は、無理からぬ事である。それは、過去幾千年の歴史に捉はれて見るからである。
  然し乍ら、その歴史なるものも、眼光紙背に徹すれば、諸々の聖賢、偉人、開祖等の予言に、来るべき地上天国、五六七(ミロク)の世、救世主の出現等は、明かに記述されてあるのを知るであらふ。唯、その時が秘せられてあったまでである。
  茲に、天の時来って、愈々、幾多の予言の実現は、目前に迫り来ったのである。今や、大光明世界は建設せられんとするのである。人類の不幸災厄は跡を絶ち、人は、半獣の殻を破って、真に万物の霊長たる域に、飛躍する時となったのである。此二度とない、永劫に光栄ある大神業の根本経綸としての、日本医術なのであって、之即ち、大聖観世音菩薩の大本願の顕現であるのである。

主旨  岡田式指圧療法の原理と其目的      (医講  昭和十年)
  此療法の創成は、主神が、人類の最も苦悩とする病気疾患を根絶せんとなし給ふ御目的に出でたるものにして、その御目的遂行の為表現仏たる観音の霊体を通じ、仁斎の肉体を活用させ、茲に、神人合一的大能力を発揮するに到ったのである。
  此大偉業の神命を受けたる余は、爾来、七年間、凡ゆる病者に接触、研磨修錬を経、其間、観世音より、幾多の霊示を享けたる結果、従来の医学の、殆んど夢想だもせざる治療成績を挙げ得たので、爰に、日本医学の新しき名の下に、人類救済の根本的大経綸を開始する事となったのである。
  而して、此療法は、何人が修得すると雖も、余の許しを受くれば、其人の霊体を通じて発揮する観音力に依って、驚くべき治病能率を挙げ得るのである。

一人対一人では駄目だ             論文未定稿(年代不明)

昔からキリスト初め、幾多の聖者が現われ、人間救済に奇蹟を顕わし、大なる功績を残したことは、宗教史上今尚燦として輝いている。然し、治病に当っては、一人対一人の治病能力を発揮した事実である。然るに右の如く、一人対一人では多数の病者を救い得ることは不可能である。彼のキリストにしても、盲目者を開眼させたり、跛行を忽ち立たせたり、霊的病者に向って鬼を追ひ出して治したり、素晴しい奇蹟を顕したが、前述の如く、一人対一人の救いであったから、当時、余り衆目を引かなかったのは止むを得なかったといえよう。そうして右のような奇蹟は、本教信徒数万人が日々如実に顕わしつつある事実で、然も今後時の経つにつれて治病能力者は何万に上るか判らないのである。とすれば、漸次多数者が救われることになろうから、将来、世界的大問題となることも予想されるのである。右の如く本教の病療法は素晴しい医学には違いないが、吾等の終局の目的は、天国的理想世界を造るにあるのだから、肉体の健康のみでは本当ではない。肉体の健康と共に精神的健康たり得なくてはならない。
  所謂、霊肉一致の完全人間を作ることである。このような完全人間の増加によって、ここに地上天国は形成されるのである。愈々、天の時来って、艮(トドメ)の宗教として出現したのが本教であることは、右によってみても肯き得るであろう。何よりの証拠は、本教に入信するや、直に誰もが奇蹟的治病能力を発揮し得る事実にみても明かである。


ミロクと千手観音様、一厘とメシヤ様について(1)
(前略)大光明世界の建設は、難しいやうに思ふが、そう難しくはないのであります。つまり病貧争の無い家庭が世界中に満ちればよいのであります。それで、茲に世界は初めて、真の平和に浴する事が出来るのであります。観音力とは、昔から謂ふ「東方の光」であります。(中略)
私も七年前、昭和三年の二月の節分の日から「東方の光」に就いて、種々(イロイロ)と観音様から知らされたのであります。(中略)それに就いて、「東光男」といふ方が、(中略)写真を撮らして呉れといふ事で、撮ったのが御存じの「千手観音」の霊写真であります、それが「東方の光」の現はれる「第一歩の経綸(シグミ) 」で此の東方の光の最初の仕事が、千手観音様の御出現と、御働きなのであります。(中略)
で、千手観音様は別名、千手千眼観世音と申しまして、千の手を以て、あらゆるものに生命を与へ甦らせ、千の御眼(ミメ)から放たれる御光(ミヒカリ)に浴さしめて救はれるのであります。西洋文明が九分九厘になって行詰った時、一厘の力が出て生かすといふ事は、丁度、螺旋に例へると能く判ります。今迄は、右巻きに西洋文明が進んで来たのでありますが、九分九厘の瀬戸際で、俄然、左巻きに変るのであります。(中略)之から日の本の中心、此の麹町から、観音会から左巻文明を始めるのであります。そして完全無欠な文明世界、即ち吾等の目標たる、大光明世界を建設するのでありますから、大変な、開闢以来未だない、大きな運動であります。実に想像もつかぬ事なのであります。神様の方では、何千年、何万年前から水も洩さぬ準備をなされて居ったのであって、愈々其の時期が来たのであります。それで今申したやうに、一厘の仕組が千手観音の御働きといふ事になるので、それに就て面白い事がありました。(中略)
茲で序(ツイデ) に申しますが、観音様は一寸八分とか、十八間四面とか、凡て一八の数でありますが、之は五六七(ミロク)様の「御本体」が観音様でありますからです。ミロクとは五六七と書きます。五六七を合計すれば、十八の数になります。又三六(サブロク)、十八でもあります。又、十は神であり、八は寄せると、人と云ふ字になります、ですから十八は、神人といふ事にもなり、又、十八は十は結びの形、八は開く形ですから、経緯結んで開くといふ意味にもなります。「一厘の力」は小さくても、非常な力であります。如何なる悪魔の力も敵はないので、此の力で初めて全世界の一切が救はれるのであります。(中略)殆んどあらゆるものが、西洋に掌握されてをったのであります。それを、是から日本が握りかへすのであります。千手観音様の御働きに由ってそうなるのであります。吾々は、其の機関に過ぎないのであります。然し之は「絶対の力」に由ってそうなるのであります。チャンと、そう太初(ハジメ) から神様が、御計画なされて決ってゐるのであります。其の事を吾々は、全人類に向って知らせるのであり、世界全体をして東方に、眼を向けさせるのであります。之に由って、「滅ぶべき文明」危機に際する人類を、観音様に救って頂くのであります。そして風水火の大三災、飢病戦の小三災を絶無ならしむるのであります。病貧争のない「永遠の平和」と栄へ尽きざる「大光明世界」を建設するのであります。此の意味に於て、今日の発会式は、何千年来未だ無いところの「重大な意義」があるのであります。

(「大光明世界の建設 -会主仁斎先生の御話-」光世1号  昭和10年1月1日)

(前略)聖徳太子はつまり千手観音様が憑られたんです。ですから千手観音の御働きですがね。あの時には大体時代が時代ですから小さい御働きだつたですね。まあ、千手観音じやなくて百手観音様かも知れませんがね。そこで仏教を観音様が、つまり日本に本当に御自分が出る迄の間、仏教を日本に弘めて、それで救わなければならないと、そうして聖徳太子を働かせて、兎に角仏教を始められたんですね。(中略)で、私は芸術に依つてメシヤ教を開くという事は、丁度聖徳太子がやられた事を、もつと大きくして――世界的にしてやるのと同じですね。それで私が今やつている事は、つまり千手観音の働きになる訳なんです。
ですから私が一番最初に始めた時の観音会ですね。観音会を作るに当つて――それが昭和九年の十月でしたね。観音会を作つたんですが、其時に千手観音を画いたんです。之から千手観音の働きという訳ですね。私は其時には気がつかないで、画きたいから画いたんですが、今日になつてみると、そういう必要があつてやらされたんですね。ですから現在私が色んな事に手を出して、何でもやりますが、千手観音の働きですから色んな事をやる訳ですね。で、千本の手に色んなものを握りますがね。握るといつて、懐に入れちやう訳じやないんです。凡ゆるものを救われるんですね。救うという事は、それを自由にしなければ救えないから、つまり言う事を聞かなければね。それで、握れば自由自在になりますから、
それで思う様に救える訳ですね。(中略)
で、そういう神様の事というのはちやんと、年限でも時でも凡て決つているんですからね。そんなら早くそうしたら良いだろうというが、そうはいかない。やつぱり時期々々に依つてそうなつている。矢張り「神は順序なり」でね。花が咲いて実がなるのと同じでね。幾ら神様がみんなに綺麗なものを見せたいといつて、正月に桜が咲く事はないんですからね。そういつた、時と順序それは厳然として動かす事は出来ない。(後略)  (御教え集10号  昭和27年5月7日)

(前略)光の働きの時は光明如来。種々な救ひとか、悪魔の手にあったいろいろのものを取戻すのが千手観音のお働きである。                   (S24・9・6)

  十一面の前三面は慈悲、横三面は怒り、一方三面は勇気、後一面は笑いで、一番上は仏で、之は阿弥陀如来にもなる。十一面の働きが過ぎると千手観音になる。千手は凡ゆる物を握る、使用する。人間の心、神の心――。         (十一面と千手観音の御働き 年代不詳)

(前略)飽く迄、善の方が勝つと言う――抑えつける力があると言う事が本当なんですね。そこで、やはり十字になるんですよ。経は善ですからね。緯の方が悪ですね。どつちに偏つてもいけない。で、つまり経の方が緯よりか一寸長ければね。それで、同じでも霊の方が勝つ――霊主体従だからね――原則になつているから、それで良いには良いがね。それで、私は何時か男女同権論ではいけない。男女合権論と書いたが、そこで男が五分五厘で、女は四分五厘ですね。人間の簡単な事はそれで良いが、本当の大きな事から言うと九分九厘――神は一厘になつている。悪の方が一厘でも勝つとすれば、世界は崩壊している。そこで九分九厘と一厘――或いは神は十全とね。だから、大本教のお筆先に「大本は一厘の仕組であるから、一厘の御魂が出たら世界はひつくり返るぞよ」と言うのがある。一厘で、手の平を返す。で、一厘と言うのは、つまり私なんですよ。之は先にも話した事があるが、或る人から古銭――天保銭を一枚、五十銭銀貨、昔の一厘銭を一枚と、三つ貰つた事がある。天保銭は年号は書いてありませんが――大本教の教祖と言うのは天保年間に生れた人で、聖師様は明治四年に生れた。そうすると、五十銭銀貨と言うのは、明治四年なんです。私は一厘だから一厘銭を貰つた。その時神様は、面白い事を知らされたと思つた。だから、大本教の教祖は経の御魂――変性男子でね。変性女子は聖師様で、聖師様は緯の御魂であるからとね。経と緯を結んで、真中のポチだね。つまり心棒みたいなものが一厘になる訳です。で、一厘で手の平を返すと言うのは――私がやつている事は、一厘で手の平を返す事になる。今迄の凡ゆる間違つた文化ですね――それをはつきりさせる為に――ひつくり返つちやう。唯、理窟丈じや駄目だから病気は薬を無くして治して健康にして了う。それから、食糧でも――作物でも、肥料を使はないで増産する。農業をひつくり返しちやう。それから、犯罪は魂さえ神様と繋がれば犯罪は無くなる。と、みんな一厘でひつくり返すと言う意味になるんだね。夜の救いが昼の救いになる。つまり、暗が昼間になると言う訳ですね。神様の方は、そう言う風に決つているんだからね。(後略)
                          (御垂示録5号  昭和26年12月6日)