(青年の学び共)
世界の大転換  (明医三  昭和十八年十月二十三日)
  私は、私の創成した日本医術なるものは、如何なる理由によって生れたかといふ事と、今日迄病気の原因が不明であると共に、既成療法なるものの殆んどが誤謬であって、それが発見されなかったといふ事に就て徹底的に説明してみよう。
  抑々、此大宇宙を観る時、それは実に際涯(サイガイ)なき天空の無限大より顕微鏡によっても視る事を得ない無限微に至るまで、実に凡ゆる物質は大中小それぞれ相応の理によって生成を化育し、離合し、集散し、破壊し、建設しつゝ、無窮の進展を挙げつゝあるのである。そうしてすべてに陰陽ある如く一年にも寒暑の別あり、一日の中にも昼夜の別あり、十年にも昼夜の別あり、百年に千年に万年にもそれがあるのである。
  以上の如き理によって、数千年か或は数万年目に当然来るべき夜と昼との転換期があり今やその時が来つゝあるのであって、今日はその黎明期に相当するのである。私の斯様な言説に対して読者は判断に苦しむであらう、何とならば夜昼は一日の中にのみあるからである。従而此説明は非常に困難ではあるが、何人にも解釈出来得る筈である。
  それは曩に詳しく説いた如く吾々の住んでゐる地球の上には、霊界空気界物質界の三段階によって構成されてゐる。そうして之は亦二段に分ける事も出来る。即ち空気の水素と地球の土素とは物質であり、霊即ち火素は全然非物質であるからである。即ち霊と物質とを区別すれば、霊界と現界とになる。
  そうして霊界と現界との関係を説くに当って先づ知らなければならない事は、凡ゆる事象は霊界に先に起り、其儘が現界に移写されるといふ事である。恰度映画に於けるフィルムが霊界であり、銀幕が現界であるのと同様でそれが天地の厳然たる法則である。丁度人間が手足を動かすといふ事は、眼に見へぬ心が先に動きその命によって手足が動くので決して手足が先に動いて後に心が動くのではない。之と同じく霊界は心であって現界は手足であるやうなものである。
  そうして私が前に述べた数千年又は数万年目に来るといふ夜と昼とは霊界に於ての事象である。故に此意味に於て今日迄の世界は永い間夜であったのである。それが今や将に昼の世界に転換せんとするのである。此事は古事記にある天の岩戸開きの事であって、天照大御神御出現とは、昼の世界になるといふ一大予言でもある。又西洋に於ての昔から唱へる東方の光といふ言葉は、此事の予言に外ならないと私は思ふのである。
  そうして右の如き夜昼転換といふ事を立證せんとするには、霊感や神憑的では一般現代人には受入れ難いであらうから、私は最も判り易い例を以て説明しようとするのである。
  即ち、日本の国名は日の本即ち太陽の本であり、国旗は日の丸である。「東方の光」即ち太陽の光は日本から出現するといふ事も動かすべからざる宿命である。
  それによって私は、黎明期の第一歩が満洲事変であると思ふ。即ち日の光が先づ西射し満洲を照し始めたのである。次いで支那を照し、今や南洋を照さんとしてゐるのである。何れは西比利亜(シベリヤ)も西南亜細亜も太平洋もそうなるであらう。日の丸の国旗が立つ所--それは太陽の光が届いた所である。

夜と昼  (明医三  昭和十八年十月二十三日)
  以上の如く、最近までは夜の世界であったから、凡ゆる文化は夜の文化であった。即ち月の文化、水の文化、体的文化、右の文化、緯の文化であった。それが漸次昼の文化となりつゝある事で、それは太陽の文化、火の文化、霊的文化、左の文化、経の文化となるのである。従而、体的人種である白人が形成した文化が、西方から東方へ向って浸漸した事は、それは逆であった。然るに今度は黄色人種である太陽の民族が創成した文化が西漸する時になったのでそれが正しい法則である。
  それに就ての私の発見をこれから順次説くのであるが、先づ夜の世界と昼の世界に就て別の方面から解剖してみよう。最近の科学に於ける電子論即ちミクルトンとヱレクトンの運動などは可成の所まで進んできてゐる。又光の微粒と其運動や、音の電波等に就ても、或点までは開明されたのであるが、私はそれ等より一層深く説かふとするのである。それは電子よりも一層微なるもの仮に霊子と名付ける元素である。此霊子は非常の速さを以て渦を巻いてゐる。その渦の捲き方は、夜の世界即ち暗に於ては右進左退であり、昼の世界即ち光に於ては左進右退である。此理によって水は右進であり、火は左進である。

そうして右進左退は遠心的運動となり、その結果は分裂となるのである。又左進右退は右と反対で求心的のそれとなり、統一となるのである。之を卑近の例をもって判り易くいへば、時計のゼンマイは左進によって捲かれ右進によって解かれるのである。又鍵は左進によって締り右進によって開かれるのである。又炭団(タドン)は左進によれば丸まるが、右進では崩壊するのである。故に右進左退の結果は分裂となるので、思想的には個人主義となり利己主義となり民主主義となり、尚進んで共産主義となり、政治的には多数決となり、下剋上的となり、経済的には自由競争を生み、凡ての法規は其条文が益々繁雑化するのである。又右と同様に医学上に於ても極端に分裂して内科・外科・婦人科・小児科・脳神経
科・整形外科・泌尿科何々等々、益々専門的にその科目を増してゆくのである。従而、療法に於ても服薬注射は固より、ラヂウム・レントゲン・紫外線・赤外線・不可視線、曰く何々等弥々その数を増し、其他電気・磁気・温熱・鍼灸・温灸等は固より、民間療法に於ても幾十幾百の種類があるか分らない程である。従而、病気の種類に於ても益々殖えつゝある事は周知の事実である。故に今仮りに一人で脳病・眼病・中耳炎・胃病・皮膚病の五種の病に罹ったとする。これを別々の専門家へ行く事は到底不可能であるから綜合病院即ち大学等の大病院へ行くとする。然るに朝早く行ったとしても、一科目に就て少くとも二三時間乃至半日はかゝるであらう。故に、一日がかりで二科か三科目だけの診療がやっとであ
らうから、五種の病気では一回だけの診療に二三日はかゝるであらう。故に、大抵の病人は奔命(ホンメイ)に疲れて、病気によってはその為に増悪する場合もあらう。実に馬鹿々々しい限りである。
  之は近来よく唱へる説であるが、西洋医学の対症療法は部分的加療であるから間違ってゐる。元々人体機能はそれぞれ相互関係によって生命を保ってゐるのであるから、一局部の病気と雖も、全体的加療でなくては効果は薄く、正しい療法とはいへないといふ事で、之は全く真理である。

然るに、本医術に於てもそうであって、根本療法である以上、全体的に病原を発見しそれを衝くのである。例へば、前頭部頭痛の場合はその部だけ治療しても効果は薄いのであって、病原は実は頸部淋巴腺の浄化熱の為である。従而、頸部淋巴腺を施術すれば、前頭部に施術を行はなくともよく治癒するのである。又後頭部の頭痛はその原因が延髄部毒結の浄化熱の為であるから、其部と其部の根原である腎臓の治療によらなければ奏効しないのである。又近眼及び乱視は、後頭部、延髄附近の固結が原因であり、鼻のつまりは延髄部及び背面腎臓部であり、そこの毒素溶解によって快癒するのである。又皹(ヒビ)、霜焼、〓疽(ヒョウソ)等の如き手指の疾患は、その局部のみでは効果薄く、肱(ヒジ)より手首まで
の間に根原である毒結があるから、それを溶解する事によって根本的に治癒するのである。又手の甲の疾患は肱と腕の上末端との間に根原があるので、それを治療する事によって全治するのである。又足部の疾患もそれと同様である。次に私は以前歯痛を治癒すべく、その局部を施術した処一時的効果はあったが、復(マタ)痛み出したので頸部淋巴腺を施術した所、一旦治癒したが翌日復痛むのである。従而頸部淋巴腺の筋を下方へ辿って胸部を施術した処、一旦治癒したが復翌日痛み始めたので、今度は又下方へ向って施術探査しつゝ、終に盲腸部までに及んだのである。そこで初めて判った。それは此人は盲腸を数年前手術したので、其際の薬毒が固結してをり、それが歯齦から排除されようとして運動を起した
のであるから、盲腸部を施術した処、今度は完全に治癒したのである。歯痛の原因が盲腸部にあらうとは、之は夢にも思へない事であらう。之等によってみても局部的対症療法が、如何に誤りであるかといふ事を知るであらう。
  そうして夜の文化の分裂作用は、凡ゆる部面に於ても微に入り細に渉って倍々末梢的になりつゝあるのである。然るに昼の文化は此反対であるから、統合と単一化即ち一元化となる事で、中心に帰一する事である。それが今日何人の眼にも映じつゝある所の世界的大転換の真相である。(中略)
  その何よりの表はれとして、私の創成した此日本医術が生れんとしてゐる事である。
  此日本医術に於ては、一人の患者で五種も六種もの病気を有ってゐる者と雖も、施術者一人で全部を治療し、全部が次々治癒してゆく事である。全く一元的療法でなくて何であらう。そうしてその原理は、霊を以て霊を治癒するのであるから、白人創成唯物的方法とは反対で、全く東洋的否日本的唯心的方法である。
  右の意味に於て、好むと好まざるとに関はらず、唯物的分裂化の西洋医学にも清算の前夜が迫りつゝあるのである。

             光明如来様の学び
  昔から、妙智力又は観音力というが、勿論妙智力は観音力と同意味である。世に阿彌陀力とか、釈迦力、達磨力などいう言葉がなく、ただ観世音菩薩だけがその力を唱えたという事は、不思議であると共に、理由がなくてはならない筈である。之に就て、文献もなければ言伝えの如きものもない。私は以前から此事に就て疑問を抱いていたが、信仰が進むにつれて、実にはっきり判る事になったので、それを解説してみよう。
  それに就て今一つの疑問がある。之はよく聞かれる事であるが、観世音菩薩は男性であられるか、女性であられるかという点であるが、之こそ、観音力と密接不離の関係があって、実をいうと世尊は男であり、女であり、いはば両性を具備され給うておらるるのである。
  そうして、男は陽、女は陰である事も、昔から誰も知っている処で、火水に分ければ、男は火で、女は水であり、火は経に燃え、水は緯に流れる。此経緯がいよいよ結ばるという時が来たのである。
  又光とは、火と水の密合であって、火素の量が勝つ程、光は高度を増すのである。此理に由って、昼の世界は、火素の量が殖えるから光が強くなる。観世音菩薩の御働きが、光明如来と現ぜられる所以である。
  次に最も重要なる点は、経緯の結合する事によって真の力が発生する。力という字は、経の棒と緯の棒と結んで曲り、その先端が撥ねる。之は結ぶ事によって、左進右退的回転力が発生躍動するという意味で、全く文字なるものゝ意義深きを思わしむるものがある。以上の如く観世音菩薩に限り、経緯両性を具備さるるのは、経緯の結合によって力が生ずるそれで、特に観音力という所以である。
  序でに、今一つの重要事をかいてみよう。観世音菩薩は光明如来と現じ給い、次は、彌勒又はメシヤの御活動をなされるのである。前述の如く、光は火と水であるが、之に土が加わる事によって、火水土の御働きとなる。元来火と水だけでは霊の御働きだけで体がないが、之に土が加わって、初めて火水土の三位一体の力を発揮されるので、之が如意宝珠であり、麻邇(マニ)の玉である。又火は五であり、水は六であり、土は七であるから、五六七の数字をミロクと読むのである。彼の釈尊の予言にある五十六億七千万年後、五六七の世が始まるという事は、此五六七、即ち火水土の順序正しき世界が出現するという事でなくて何であろう。(中略)
  観世音菩薩のミロクとは、応身彌勒の事で、それは仏説の通りであるが、今後此応身彌勒の千変万化の御働きこそ、刮目して見るべきである。
  又五六七の数も三六九も合計十八である。十は結びであり、八は開く数である。観世音菩薩の御本体は、一寸八分の黄金と昔から定ってをり、御堂は十八間四面と言う事なども、意義深きを思わしむるものがある。     (「観音力とは何ぞや」自叢十二  昭和25年1月30日)

  (前略)化身で一番重要な事は、仏は全部神の化身であつて、夜の世界の間は仏の世であるから神々は全部仏に化身された。天照皇大神が大日如来、月読尊が阿彌陀如来、稚姫君尊が釈迦如来というようにである。随而、仏滅といふ事は仏が皆元の神格に還り給ふ事である。善言讃詞に「観世音菩薩此土に天降らせ給ひ、光明如来と現じ応身彌勒と化し」とあるが、観音は伊都能売の神であり、ミロク神の化身である。従而、何れは観音といふ御名も無くなる時が来る。霊界では既に殆んどなくなつている。    (地上天国4号  妙智之光  昭和24年5月25日)

“光明如来と日月地大神の相違に就て御教へ願ひたいのですが。
“結局同じもんですがね。つまり最高の地位になられた場合「日月地(ミロク)」です。
「日月地」は大神で神の位です。これで五六七となって御働きが完全になる。光明如来の方は火と水です。観音様は火水土ですが、土が少しなんです。何故土が少いかと云ふと、之は私が出てから加はったからです。観音様は慈悲の御働きで善悪無差別、一切衆生凡てを救ふ御働きであって、あいつは悪いとか、こいつはどうとか云ふのは観音様ではない。観音様の御本体は国常立命で、北海道の芦別山におしこめられてから霊界で閻魔大王となり審判のお働きをされる。従って頗る苛しいんです。所がそれだけでは人間がやり切れぬから慈悲の神として現れたのが観音様であり、神や如来の地位では高すぎて衆生済度が出来ないから菩薩の位に下がられたんです。それが一段上ったのが光明如来です。今迄は観音様
を拝んでも御利益はあったが弱かったんです。そこへ土が加わると力が強くなる。土とは人体です。それが光明如来になると火と水=光が強くなる。今度離して御浄めする様になったのは、光明如来の御働きで、くっつけてしてゐたのは観音様の御働きです。そして土の力が完全に強くなられたのが「日月地」です。
  私は昭和三年から六年間菩薩、九年から十五年まで如来、十六年から二十一年まで「日月地」の働きをしてゐたのです。之は霊界であって現界は去年から「日月地」になった。一昨年までは私も治療したが、去年から出来なくなった。それは位が高くなって大衆と離れたためなんです。                         (御光話録  昭和23年3月28日)

観音様は仏であり光明如来も仏であるのにそれに神主の服をつけ祝詞を上げたりするのは一寸変かも知れないが、観音様は菩薩から出世するのではなく、一時菩薩の位に衆生済度のため下げられたから、元の上の位に御戻りになるのであって、一段上の位が光明如来それから五六七大神になられる。今は仏と神との中途です。(後略)   (御光話録  昭和23年8月18日)

“観音様が、位が一段高くなると光明如来になられ、光明如来を尊称して大光明如来と申し上る。光明は「火と水」である。
  大日如来は天照大神が仏界へ表はれ給ふた時の御名である。太陽の表現神であるから日の神になる。
  大日如来の方が御位は上であるが、働きは光明如来様の方が広い。神様にすると、伊都能売神となる。――火と水のお働きであるから、火と水は光明になり、霊的のお働きであるが、それに土のお働きが加はる。之が三位一体で、弥勒の神となる。
  光明如来は今働いておられる。暫く経つと弥勒の働きとなる。すると力が強くなる。邪神も邪魔が出来ぬ。今では邪神が発展を妨げようと大活躍している。(後略)
                               (講話集補 年代不明)

“観音様、光明如来様は仏様でせうか、神様でせうか。仏様の様に思いますが、拍手致しますわけをお尋ね申します。
“観音様は菩薩。光明如来様の如来も仏名で、梵語でボージーサットヴァ等といふ。
  光明如来様は伊都能売神の化身である。神が本体で、仏は化仏といって化けている。
  夜の世界は仏で、昼の世界は神である。今は夜と昼との境目で、一日々々昼が濃くなる。であるから、今は神の扱いでも仏の扱いでも、どっちでもよい。
  朝は神としての拝み方、夕は仏としての拝み方で、両方でよい。又両方が本当である。
  光明如来様は衣冠束帯で拝む。結局、時の進むに従い、全然神様の御扱いをする事となる。(後略)                           (講話集補 年代不明)

  (前略)釈尊は説いて曰く、末法仏滅の世と成れば、その時彌勒出現して個々にミロクの世が成就すると畏怖。これは法滅人今日及び彌勒出現成就経等に詳しく出てをるから瞭(アキラ)
かであるが、畢(ツイ)に其の時期が到来したのであって、其の弥勒の本体こそ之又観世音菩薩であられるのである。それで弥勒と称えても三弥勒在られ、昔から報身、法身、応身弥勒と申上げてゐるのである。報身は釈迦であり、法身は阿弥陀であり、応身は観音である。又日月地に配すれば日が観音であり月が阿弥陀であり、地が釈迦である。又地理的に配すれば日本が観音であり、東洋が釈迦であり西洋が阿弥陀なのである。又之を三尊の弥陀とも称へ基督教で三位一体と称へるのも此の事である。(三尊の弥陀に就いては孰れ詳しく解説する積りである)而して此の三位一体の力を独り具有され、大千世界の最後的救済を為さるのが、観世音菩薩即大弥勒神の御活動で被在(アラ)せらるるのである。(後略) 
          (「全人類待望の炬光  大聖観音力の顕現」東光3号  昭和10年2月23日)

 伊都能売大神様と伊都能売について



(前略) 伊都能売大神はネ、日本に居られた時迫害をうけてお逃げになった。その時姿をかくすため頭巾をかぶり身を包んだ、そのお姿が絵に書いてある。古事記には世を浄める神と出てゐる。で、日本を脱出して支那から印度に渡り庵を作り観自在天となられた。観音様は日本人ですよ。だから釈迦や阿弥陀は頭の毛が縮れてゐるが、観音様は縮れてないんです。何故逃げたかと云ふと、それは素盞嗚尊に命をとられ様としたからです。(中略)
  伊都能売大神は天照大神の頃かそれ以前の神様です。素盞嗚尊は世界へ出て行きユダヤへ行ってユダヤ人の祖先となった。で素盞嗚尊の代りになったのは乙姫だ。観音とは、乙姫――音姫を観てゐる事を意味する。そして何れは日本に帰り、素盞嗚尊の実権を取り返さうとする時期を待って居られた。千手観音がそれです。(中略)
国常立命とは以前世界の実権を持って居られたが、節分の夜鬼門の方に押し込められ艮金神となられた神様です。国常立命が伊都能売大神になる。国常立命は霊界で閻魔大王になり、裁きの役をやるが、それが苛しくて可哀想だといふ事から半分は閻魔大王に半分は観音になる。神は厳格だが仏といふのは慈悲だから、伊都能売大神は、仏界で観音様になったんだ。即ち善悪無差別の慈悲である。本地垂跡説も今迄のは間違ひで、日本へ再び帰って来られて衆生を救ふことの意味である。 (中略)
  伊都能売大神の御働きは、イズ=火、ミズ=水です。ミイズといふでせう、之は逆なんです。火と水で光になる。夜の間は本当の火がない。月の光ですね。太陽は月の六十倍の光を持つといふが、今迄観音様をお祀りしても少ししか御利益がなかったのはそのためです。イズ、ミズが五、三、それでも足らず更に土の力が加はってそれが日月地の御力になる。今迄はニロク=二力だった。夜の間は三界(天界、中界、地界)は殆ど水だった。六、六、六だったが、今度は五六七になり、天の六が地に降り土の力が加はる。金剛不壊の力だ。絶対力になる。いかなることでも自由になる。神道で云ふマニの玉とは完全な玉の事ですネ。これから先は神秘になるから又時期に応じて説く。(後略)
          (御光話録  昭和23年2月28日)

(前略)終には観音様の御本体は伊都能売といふ神様である事を知り、何れ時機が来れば、観世音菩薩は或期間救ひの為に化身されたのであるから、最後には元の神位に復帰さるるといふ事なども判ったのである。(中略)全く私を機関として一切衆生を救はせ給ふのである。(後略)
                          (「私の告白」自叢四  昭和24年10月5日)

(前略)善言讃詞に観世音菩薩光明如来と現じ応身弥勒と化し、とあるが、観音は伊都能売の神であり、弥勒の神の化身である。(後略)                 (S23・9・21)

(前略) 悪        善と悪とを結べば悪はなくなるのである。善を結んだ中心が則ち伊都能売
      |        である。善悪を結んで火水(カミ)となる。(中略)
   火─┼─善    善悪結ばれし時より、悪は消えて完全なものとなるのである。
        |        伊都能売大神様の世則ち大光明世界が造られるのである。宗教の卍は右廻
        水    りなるが、是が今迄の右進左退の世則ち悪の世界であったのである。
                  伊都能売の大神様は左進右退になるのである。(中略)
  真(スとなり)マコト、善、虚仮空、美、実相世界。
  真善美の世界を造ると言う事は真はマコトである。
今迄は虚の世界、仮の世界、空の世界である。一切空、仮の娑婆である。何故かと言えば善悪両方を許してあったからである。或目的のものを造る迄の仮の世界であったから仮の娑婆である。真は霊返しで読むとスとなり実である。(中略)
  国常立尊は昔善一方で世界を治め様としたる為に、非常に他の神々に反感を買い、隠退遊ばされる様なことになった。
  真の字を離すと直と人となる。真直な人即すなほな人、シン、心、中心、神、信とて非常に権威のある言霊である。
  中心となると此度の御経綸を伊都能売の神様にお托しになった。是が観音様である。
                            (観音講座「第一講座」昭和10年7月15日)

(前略)伊都能売神様は、一方印度にて観音になられ、一方は兄の花姫尊(梅の花)となられて富士山に御鎮りになられ、又、一方は金龍となって近江の国の琵琶湖へお隠れになられたのである。其故富士山と琵琶湖を邪神に占領されたならば、日本は危険であるからである。富士山は何故大切かと言うと、人間で言うと富士山が臍であるからである。人間の体としても臍は一番大切な処とすればその意であるからである。この為兄の花姫と成られ、金龍となられてこの二ケ所を守られたのである。(後略)      (「第三講座  観世音の本体」昭和10年8月5日)

  (前略)伊都能売というのは数でゆくと「五」「三」です。「イズ」「ミズ」です。「イズ」という事は五つ、「ミ」という事は三つという事ですから、「ヒ」「ミズ」という事です。「ヒ」「ミズ」という事は「カミ」です。「ヒ」は「カ」「ミズ」は「ミ」ですから、伊都能売が本当の神なのです。(後略)                                 (御教え集27号  昭和28年10月15日) 

(前略)私は伊都能売ですから「八」になるのです。伊都能売というのは、数で言うと「五」「三」ですから「八」になるのです。そして「八」という数字は富士山になるわけです。ですから「八」という数字を書くと、富士山の形になります。(中略)それで静岡の裁判であっちの留置所に入った時に大きな神秘な事があったという事も、そういう因縁なのです。そうしてあの時も話したとおり、夢で、私が富士山に乗っかって景色を見るという話もしましたが、その時が私が生まれた、第二の誕生です。そこで、出てから「散花結実」という事を言いましたが、花が散って実を結ぶで、散花結実という事は種が宿ったという事です。それから私の力とかいろんな、そういう事が違ってしまったわけです。それからが本当
に開けたわけです。ですからあの時に救世教というものはすっかり壊れてしまったわけです。もうこれで駄目だというくらいに見えたのですが、それが花が散るという形です。 (後略)   (御教え集33号  昭和29年4月7日)

  (前略)伊都能売神は五三の神と書いてもいい。火水の神━光、火水では土が加はっていない。仏では光明如来様となる。土が加はって五六七大神。(後略)
                              (「八人男女と伊都能売神」S23・11・11)

(前略)経であり、緯であり。経にあらず、緯にあらず。経緯結んだ真中ですね。之が伊都能売です。私が伊都能売で、伊都能売が応身彌勒です。応身彌勒が観音様です。そこで、観音さんと言うのは男であり、女であり。男にあらず、女にあらずと言うんです。応身の彌勒と言うのは、如何なる事でも自由自在――千変万化ですね。(中略)
  それが分ると、実に良く解る。先方が堅苦しかつたら、堅く。女なら柔らかく。頑固なら頑固に――私はそう言う様に性格に変化があるので、変だなと思つていたが、応身の彌勒の働きが判ると、良く分ります。ですからメシヤ教の凡ゆる事が――決して何んにでも捉われない。宗教の様な処もあるし、それから今私は鉱山をやつているが、金儲けもあるし、芸術もあるし、何でもあるんですね。今迄は、宗教と言えば馬鹿に堅苦しくなつていた。之も伊都能売式なんです。凡ゆる色んな様相を備えているんですね。之によつて初めて、一般人類が救われる。民族にも色々ありますからね。
ですから、凡ゆる病気――肉体の病気も精神の病気も――それから貧乏、経済に関係しますが、経済も政治もあります。(中略)無論、論文なんかも私は始終書いている。今は伊都能売の働きなんです。之が本当のものです。真理ですね。ですから常識を尊ぶ。常識と言うのは、偏らない考え方ですからね。ですから、宗教的に非常に厳格な処もあるし、又非常にくだけた点もある。と言う事も、そう言う事なんです。(後略)   (御教え集3号  昭和26年10月1日)

(前略)力と言うものは、何時も言う通り霊体が、つまり経緯ですね。経緯が結ぶんですね。するとこの真中から力と言うものが出るんです。真中の力が主(ス)ですからね。この真中の主の力と言うものは、之も何時も言う伊都能売ですね。伊都能売になるとその力が出る。それが観音力と言うものですがね。結局、ですから力なんです。私はその力を神様から貰つている訳ですね、こう(御浄霊)して病気が治ると言う事も、その力の現われです。今迄はその力が出なかつたから本当に救われなかつたんですね。そこで、こう言う地獄の様な世界になつているんです。(後略)                     (御教え集8号  昭和27年3月17日)

(前略)今年から特に、信者の人は、方針と言つては変だが、今迄知つては居乍ら、どうも実行し得ない点ですね。その二、三の事を、今年の座右の銘とでもして聞いて貰いたい。何時も言う通り伊都能売ですね。伊都能売の働きにならなければいけない。と言う事は、つまり大乗と小乗――大乗が緯で、小乗が経ですからね。それを結んだ真中が伊都能売だと、始終言つてますが、処がどうしても、大乗になつたり小乗になつたり、片つ方にずれちやうんですね。結ばない。結べないんですね。そう言う人が沢山ある。之が根本なんですよ。メシヤ教の意味と言うのは。そこにあるんです。(中略)
それから「今の世は、自分さえ良ければ人は何うでも良いと言うむごい心になり居るから――」とある。ですから、大本教では「我良し信心」と言うのがありますね。之は勿論いけないですね。私の信仰雑話にある通り、自分が幸福になりたければ、人を幸福にする。何処迄も愛ですね。他人を幸福にすると言う――之が欠けていてはいけない。之が伊都能売になる。自分を捨てて人許り良くすると言うのも極端で、自分さえ良ければ人をぶつつぶしても良いと言う――之も極端です。(後略)              (御教え集6号  昭和27年1月1日)

  (前略)観音行は要するに伊都能売で、完全無欠なんであります。本当の人間の行で、そこまで人間は行くべきもの、発達すべきもので、そこまで行くのは、今迄の道徳等教へなければならぬ。
  伊都能売に至って本当に人間としての行が出来る。今日文化とか文明とかいふけれど、実は未だ未だ四ツ足から放れてゐない。今の人間は警察や軍隊などなかったら、どうなるでせう。泥棒、強盗、殺人等で、到底生きて行かれぬ。そこを考へると、未だ人間でない。(中略)
  弱い人を助ける。之が人間の思想で、弱い者を食ひ殺さうとしてゐる。今は物質的に発達した様だが、精神的には野獣で、どうしても観音様が之から本当の人間にする。伊都能売の身魂にするといふのが、観音様の思召しなんであります。
      「何事も程の一事を守りなば  たやすかるべき此世なりける」
  何でも程度といふものがあります。いくら信仰といっても程度があって、あんまり熱一方になると触ると火傷するやうになり、あまり冷いと触れない。暑からず寒からず、湯のやうでなくてはならぬ。それが程であります。(後略)       (「御講話」昭和10年8月1日)

  (前略)数字で解釈しますと「二十」という字は、文字でも数字でもそうですが非常に意味があるのです。これは「天地の結び」或いは「霊体の結び」という様な訳で、われわれの方で言う伊都能売です。(後略)               (御教え集18号  昭和28年1月1日)

  (前略) 強羅は西と東の真中になる。(中略)東西の真中といふことは、観音といふことになる。東西は火と水で云へば、火は五で水は六で五六即ちいづのめの神となる。五六が五六七でミロクとなる。東西に分けると、東陽西陰となる。いづのめ神は仏に化身して、観音となられる。(後略)                            (「箱根、熱海の意義」S23)

 ※五は日(火)で天照皇大御神様、六は月(日は月に含まれ、火(五)+水(六))で伊都能売大神様、七は地(火(五)+水(六)+土(七))で日月地大御神様。十月二十六日とは、十は神、二十は天地霊体を結ぶ、六は伊都能売大神様とすれば、十月二十六日とは、主神様のご指示で天地霊体を結ぶ働きを伊都能売大神様がご出世なされる日ということになるのではないでしょうか。
  また、現界において裁きを担当される国常立尊様と救いを担当される伊都能売大神様は、霊と体・経と緯・昼と夜の関係になり、同時に存在された事はこれまでの長い歴史の中では一度もなく、この二神は別の時代にそれぞれの御経綸においてお働きになられていましたが、いよいよ昼の御経綸を進めるに当り、数字の二十六とは国常立尊様と伊都能売大神様とを結ぶために、夜の六の御経綸を進められた伊都能売大神様がご出世になられる日ということも言えるのではないでしょうか。


  (大本教 大正15年9号 神の国より引用)
『伊都能売神は慈愛の本源であつて、如何なる罪悪者をも救済して、一人も漏さない絶対無限の慈悲の神である。精神界は勿論、現界に於ける人間一切の苦悩を払ひ清めて、天国に導き玉ふ愛善神であつて、その愛善たるや絶対無限である。故に既成宗教の唱ふる如き、審判的思想は全然無いのである。善悪を超越し且つ審判思想を打破する、大愛大善大慈悲神であつて、一人と雖も蒼生の滅亡するのを忍ぶことの出来ぬ愛の生神である。而して霊肉の調和に就ても、難行苦行の修行を経過せず、信仰と歓喜との内に実現せしめんとする、真の絶対愛に住する神である。
悪人を悪人として罰し、善人を善人として賞するは、是現実界即ち自然界の人為的法則であつて、愛善そのものとは非常に遠いものである。罪悪に苦しみ、痛み、憂苦に沈んでゐる蒼生は、宜しく大本大神即伊都能売の神を信仰すれば、優窕しき慈顔を向け、温かき御手に、罪を負つて救つて呉れる神である、(中略)
厳の御魂五柱、瑞の御魂三柱(又は五柱)活動力を総称して、伊都能売の御魂と奉称するのである。而して伊都能売は即ち、観音にして木の花姫の顕現である。天地宇宙の間に、斯の神より外に何ものも無いと云つても良い位である。或る時は天神となり、地神と現じ、八百萬の天使と変じ、千変萬化五六七の活動を為し玉ひ、宇内を光被し、開発し、整理し、天国霊国に日月神と化現し玉ふは、皆伊都能売神の大神格の活動である。』







   伊都能売大神様について
 
我々は、昨年から現在に至るまでの間に伊都能売大神様のことについて、色々と教えていただきましたが、それを振り返って少し整理をしてみたいと思います。
 「地上天国」とは「大光明世界」であり「水晶世界」であるということですけれども、それは「伊都能売大神様の世」ということでもありますから、我々が伊都能売大神様をお迎えするということは、どういう人間になるように努めなくてはいけないのでしょうか?
 また、人間を本当の人間に、伊都能売の身魂にするというのが観音様の思し召しということですから、伊都能売大神様の横(体)の働きが観音様であられるわけなので、伊都能売大神様のお働きは裁きと救いの両方でありますが、我々人間は裁きは許されていないけれども、救いの部分で動く働くことが出来るので、救いということを考えれば、人間を通して観音が現れなければならないということであり、我々人間が伊都能売の身魂になるように精進して善悪というものさしで人を裁かず、観音様のような慈悲に満ちた人間になることを求められているのではないでしょうか。
 そもそも観音様の位が菩薩となっている為に低いなと惑わされてしまう部分がありますが、この高等技術を展開していくことができるのは、縦横・日月両方併せ持っていた伊都能売神様の横である観音様なのだから出来るわけで、円転滑脱融通無碍というのは宇宙規模の高さや幅の広さ、奥行きがあり、その中で自由に、かつデタラメではなくきちんと法に則った行を実行していくのであるから本来は大変難しいものなんだと・・・だからこそ、大きな御神意を汲み取り、そういう仕事をこれから人間がさせて頂かなければいけないのだから、毎日礼拝して最高神と霊線を太くしなければ出来ないということを学ばせていただきました。
  そういう伊都能売大神様に対する祭典を行わせて頂いた昨年の祭典では、

・ご神名をお唱えするにしても、どういう神様で、現界にて(自分達人間に向けて)どういうお働きがあるのか、更にはお退きになったのは何故なのか、今お出ましになる事の意味は何なのか、それらを掘り下げていく事。
・その上でお迎えさせて頂く側である人間として何を申し上げるのか、お詫びも含めて考えなさい。
 とのお言葉をいただきました。

そうしたことを踏まえて今一度過去に眼を向けてみると、前回の昼の時代、主神様のご意思が強かった時、地上は火が強かったので、その時は五であり善の国常立尊様の時代で、そのお働きで良かったという事になるのですが、それがあまりにも強過ぎたので、3000年前にその次の御経綸として六である伊都能売大神様→観音様がお出ましになる夜の時代が必要になり、主神様が霊的太陽の強さを絞って黒点の力を弱められ、その時の昼の時代を終わらせる段階に入ると、それが影響して地上では火の力が弱まり、その結果、国常立尊様の統治力は衰えてしまい、それまで国常立尊様に黙って従っていた八百万の神々には反発心が芽生えて、ついに他の神々の排斥に遭って芦別山に押し込められてお亡くなりになるので
すが、この時に善だけではいけないと思われ、また地上では夜の時代に入り世界中で悪が優勢になる世を可哀想であると思われた時に善と悪が交わった“慈悲”が生まれ、次の時代に必要な“中庸”“救い”という働きを表す伊都能売大神様の“慈悲”の部分となりました。

そして、昼がほぼ終わって夜に転換する、ほんの一瞬だけ日本に火と水を結ぶ伊都能売大神様がお働きになられ、本格的夜の時代になった2600年前からは、伊都能売大神様は水の要素が多い世界で慈悲を施す仏の観音様(結び)としての救いのお働きになられましたので、この二神は接点があまりありませんでしたが、どちらも主神様のご意思による霊的太陽の強弱によってお働きが左右されており、それまでの昼の時代と今までの夜の時代は、それぞれ愛情と慈悲という二つを創り上げる為のものでありました。
そして、その両方を合わせて弥勒の世を建設していくということが主神様のご意思であり、今という時代でありますので、伊都能売大神様は、国常立尊様の経の裁きと一体化してこそ本来のお働きがなされる様に主神様が創造され、その本来のお働きをなさる時の御神名が伊都能売大神様という事でありますから、『伊都能売が本当の神なのです。』というメシヤ様のお言葉も理解できると思います。

また一方、2600年間も観音様として位を落とされていた伊都能売大神様は、弥勒の世が建設される時を迎えた今、夜の時代を通り抜けた人間に対して裁きだけでは可哀想であるという、裁きの時を迎える人間へ向けた主神様の慈悲の姿でもあって、その時が来るのを我々人間の為にずっとお待ちになられていた御存在であるという事も理解できるのではないでしょうか。

 そしてそれを結んで過去と現在、五と六を結んだ七の時代が昭和で、それを開くのが八の平成で、それを受けて最後まで行くところまで行くのが次の世の九で、大浄化を乗り越えて出来上がった世界が十で、地上天国、弥勒の世であるというわけなので、そうであればこそ、伊都能売大神様に対して、その御存在を深く認識し御神名の意味するところを理解しようという思いに至らず、今まで過ごしてきた我々の認識不足を深く反省し、最大限のお詫びと共に我々に心を掛けて下さるその御心に最大限の感謝を申し上げ、そしてお迎えさせていただくことが我々の務め、姿勢ではないかと思います。
 口先だけの感謝やお詫びにならないように、そういう思いが自然と湧き上がるように、何度も御教えを拝読させていただいて、そうした思いを心にいただいて祭典に臨ませていただければ大変ありがたいと思います。

 また、天津金木を使って簡単に説明すると、下の十字形になっている部分の真ん中に立っている経棒は、主神様のご意思を反映した霊的太陽の力の明るさ、黒点に込められたご意思そのもので、地上に対して向けられた熱(愛情)、火素の強さを表わしたもので、天照皇大御神様のご存在を表しています。
この力が地球に反映されると、地上では火の力が強くなり、それによって神様のご意思そのものを表現しようとするお働きが始まり、それが具体的には国常立尊様の“裁き”のお働きとなります。
次に、下の十字形になっている部分が緯の働きを示しており、“慈悲”を指しており、これは善と悪の二つが交わって成立するものであります。
この慈悲は私達が普段目にしている丸い太陽そのもののお働きで、その光とは火と水の密合したエネルギーで、太陽自体が月の水分を吸収して明るく光を発している存在である事から、日月・火水両方を持ち合わせているお姿を表わす意味で二本を交差させており、地上に向けられたそのお働きは森羅万象を育んで下さる力であり恵みであり、光となって地上を照らしています。その御存在が観音様であり、“裁き”と“慈悲”の両方のお働きをなされるのが伊都能売大神様であります。

 さらにもう一言付け加えるならば、我々は昨年より、大切な祭典を通して重要な神々をお迎えさせていただいてまいりました。
平成29年6月15日の「メシヤ降誕仮祝典」に於いては、我々人間の無知、認識不足の為に誠に申し訳なくも、日(火)の神様であられる天照皇大御神様御自らお出まし下さいましたが、今年の平成30年6月15日には、「新紀元祭」として、我々人間の意思で以って御神名を奏上申し上げて天照皇大御神様を現界の体にお迎えさせていただくことが許されました。
 そして昨年、平成29年10月26日には、『伊都能売大御神様御出世奉祝大祭』として日月(火水)の神様であられる伊都能売神様(光明如来様)を、この時も無知で充分な認識もないまま、メシヤ様のご配慮によってお迎えさせていただきました。
 さらに昨年、平成29年12月23日には、『御降臨祭』として五六七大御神様の体であられる日月地(火水土)の神様、日月地大御神様を、我々の無知、認識不足の中、霊界からのお力添えのお蔭でお迎えすることが許されました。
このように、それぞれの祭典を見てみると、6月15日は『日の祭典』、或いは『五の祭典』『神界の祭典』とも言えると思いますし、10月26日は、『日月の祭典』、或いは『五六の祭典』『幽界の祭典』とも言えると思いますし、水の働きも考え合わせれば『六の祭典』と言えるとも思います。また、12月23日は、『日月地の祭典』、或いは『五六七の祭典』『現界の祭典』とも言えますし、我々人間の決意が求めれることから『七の祭典』と呼んでもいいのかもしれません。

 天照皇大御神様にお出ましいただかなければ、伊都能売大御神様の御出世も日月地大御神様の誕生も、メシヤ様の降誕もないわけでありますので大切な『五の祭典』でした。そのように見てくると、この度の10月26日の『六の祭典』も大変重要な祭典でありまして、伊都能売大御神様の御存在への認識を新たにして、今までのお詫びと感謝を申し上げ誠心よりお迎えさせていただかなければならない大切な祭典であります。
 心新たに、当日を迎えさせていただきたいものであります。
 皆様、よろしくお願い申し上げます。