平成30年10月度  支部ミニ講座

          H30, 10, 17
世界の大転換  (明医三  昭和十八年十月二十三日)
  私は、私の創成した日本医術なるものは、如何なる理由によって生れたかといふ事と、今日迄病気の原因が不明であると共に、既成療法なるものの殆んどが誤謬であって、それが発見されなかったといふ事に就て徹底的に説明してみよう。
  抑々、此大宇宙を観る時、それは実に際涯(サイガイ)なき天空の無限大より顕微鏡によっても視る事を得ない無限微に至るまで、実に凡ゆる物質は大中小それぞれ相応の理によって生成を化育し、離合し、集散し、破壊し、建設しつゝ、無窮の進展を挙げつゝあるのである。そうしてすべてに陰陽ある如く一年にも寒暑の別あり、一日の中にも昼夜の別あり、十年にも昼夜の別あり、百年に千年に万年にもそれがあるのである。
  以上の如き理によって、数千年か或は数万年目に当然来るべき夜と昼との転換期があり今やその時が来つゝあるのであって、今日はその黎明期に相当するのである。私の斯様な言説に対して読者は判断に苦しむであらう、何とならば夜昼は一日の中にのみあるからである。従而此説明は非常に困難ではあるが、何人にも解釈出来得る筈である。
  それは曩に詳しく説いた如く吾々の住んでゐる地球の上には、霊界空気界物質界の三段階によって構成されてゐる。そうして之は亦二段に分ける事も出来る。即ち空気の水素と地球の土素とは物質であり、霊即ち火素は全然非物質であるからである。即ち霊と物質とを区別すれば、霊界と現界とになる。
  そうして霊界と現界との関係を説くに当って先づ知らなければならない事は、凡ゆる事象は霊界に先に起り、其儘が現界に移写されるといふ事である。恰度映画に於けるフィルムが霊界であり、銀幕が現界であるのと同様でそれが天地の厳然たる法則である。丁度人間が手足を動かすといふ事は、眼に見へぬ心が先に動きその命によって手足が動くので決して手足が先に動いて後に心が動くのではない。之と同じく霊界は心であって現界は手足であるやうなものである。
  そうして私が前に述べた数千年又は数万年目に来るといふ夜と昼とは霊界に於ての事象である。故に此意味に於て今日迄の世界は永い間夜であったのである。それが今や将に昼の世界に転換せんとするのである。此事は古事記にある天の岩戸開きの事であって、天照大御神御出現とは、昼の世界になるといふ一大予言でもある。又西洋に於ての昔から唱へる東方の光といふ言葉は、此事の予言に外ならないと私は思ふのである。
  そうして右の如き夜昼転換といふ事を立證せんとするには、霊感や神憑的では一般現代人には受入れ難いであらうから、私は最も判り易い例を以て説明しようとするのである。
  即ち、日本の国名は日の本即ち太陽の本であり、国旗は日の丸である。「東方の光」即ち太陽の光は日本から出現するといふ事も動かすべからざる宿命である。
  それによって私は、黎明期の第一歩が満洲事変であると思ふ。即ち日の光が先づ西射し満洲を照し始めたのである。次いで支那を照し、今や南洋を照さんとしてゐるのである。何れは西比利亜(シベリヤ)も西南亜細亜も太平洋もそうなるであらう。日の丸の国旗が立つ所--それは太陽の光が届いた所である。

夜と昼  (明医三  昭和十八年十月二十三日)
  以上の如く、最近までは夜の世界であったから、凡ゆる文化は夜の文化であった。即ち月の文化、水の文化、体的文化、右の文化、緯の文化であった。それが漸次昼の文化となりつゝある事で、それは太陽の文化、火の文化、霊的文化、左の文化、経の文化となるのである。従而、体的人種である白人が形成した文化が、西方から東方へ向って浸漸した事は、それは逆であった。然るに今度は黄色人種である太陽の民族が創成した文化が西漸する時になったのでそれが正しい法則である。
  それに就ての私の発見をこれから順次説くのであるが、先づ夜の世界と昼の世界に就て別の方面から解剖してみよう。最近の科学に於ける電子論即ちミクルトンとヱレクトンの運動などは可成の所まで進んできてゐる。又光の微粒と其運動や、音の電波等に就ても、或点までは開明されたのであるが、私はそれ等より一層深く説かふとするのである。それは電子よりも一層微なるもの仮に霊子と名付ける元素である。此霊子は非常の速さを以て渦を巻いてゐる。その渦の捲き方は、夜の世界即ち暗に於ては右進左退であり、昼の世界即ち光に於ては左進右退である。此理によって水は右進であり、火は左進である。

そうして右進左退は遠心的運動となり、その結果は分裂となるのである。又左進右退は右と反対で求心的のそれとなり、統一となるのである。之を卑近の例をもって判り易くいへば、時計のゼンマイは左進によって捲かれ右進によって解かれるのである。又鍵は左進によって締り右進によって開かれるのである。又炭団(タドン)は左進によれば丸まるが、右進では崩壊するのである。故に右進左退の結果は分裂となるので、思想的には個人主義となり利己主義となり民主主義となり、尚進んで共産主義となり、政治的には多数決となり、下剋上的となり、経済的には自由競争を生み、凡ての法規は其条文が益々繁雑化するのである。又右と同様に医学上に於ても極端に分裂して内科・外科・婦人科・小児科・脳神経
科・整形外科・泌尿科何々等々、益々専門的にその科目を増してゆくのである。従而、療法に於ても服薬注射は固より、ラヂウム・レントゲン・紫外線・赤外線・不可視線、曰く何々等弥々その数を増し、其他電気・磁気・温熱・鍼灸・温灸等は固より、民間療法に於ても幾十幾百の種類があるか分らない程である。従而、病気の種類に於ても益々殖えつゝある事は周知の事実である。故に今仮りに一人で脳病・眼病・中耳炎・胃病・皮膚病の五種の病に罹ったとする。これを別々の専門家へ行く事は到底不可能であるから綜合病院即ち大学等の大病院へ行くとする。然るに朝早く行ったとしても、一科目に就て少くとも二三時間乃至半日はかゝるであらう。故に、一日がかりで二科か三科目だけの診療がやっとであ
らうから、五種の病気では一回だけの診療に二三日はかゝるであらう。故に、大抵の病人は奔命(ホンメイ)に疲れて、病気によってはその為に増悪する場合もあらう。実に馬鹿々々しい限りである。
  之は近来よく唱へる説であるが、西洋医学の対症療法は部分的加療であるから間違ってゐる。元々人体機能はそれぞれ相互関係によって生命を保ってゐるのであるから、一局部の病気と雖も、全体的加療でなくては効果は薄く、正しい療法とはいへないといふ事で、之は全く真理である。

然るに、本医術に於てもそうであって、根本療法である以上、全体的に病原を発見しそれを衝くのである。例へば、前頭部頭痛の場合はその部だけ治療しても効果は薄いのであって、病原は実は頸部淋巴腺の浄化熱の為である。従而、頸部淋巴腺を施術すれば、前頭部に施術を行はなくともよく治癒するのである。又後頭部の頭痛はその原因が延髄部毒結の浄化熱の為であるから、其部と其部の根原である腎臓の治療によらなければ奏効しないのである。又近眼及び乱視は、後頭部、延髄附近の固結が原因であり、鼻のつまりは延髄部及び背面腎臓部であり、そこの毒素溶解によって快癒するのである。又皹(ヒビ)、霜焼、〓疽(ヒョウソ)等の如き手指の疾患は、その局部のみでは効果薄く、肱(ヒジ)より手首まで
の間に根原である毒結があるから、それを溶解する事によって根本的に治癒するのである。又手の甲の疾患は肱と腕の上末端との間に根原があるので、それを治療する事によって全治するのである。又足部の疾患もそれと同様である。次に私は以前歯痛を治癒すべく、その局部を施術した処一時的効果はあったが、復(マタ)痛み出したので頸部淋巴腺を施術した所、一旦治癒したが翌日復痛むのである。従而頸部淋巴腺の筋を下方へ辿って胸部を施術した処、一旦治癒したが復翌日痛み始めたので、今度は又下方へ向って施術探査しつゝ、終に盲腸部までに及んだのである。そこで初めて判った。それは此人は盲腸を数年前手術したので、其際の薬毒が固結してをり、それが歯齦から排除されようとして運動を起した
のであるから、盲腸部を施術した処、今度は完全に治癒したのである。歯痛の原因が盲腸部にあらうとは、之は夢にも思へない事であらう。之等によってみても局部的対症療法が、如何に誤りであるかといふ事を知るであらう。
  そうして夜の文化の分裂作用は、凡ゆる部面に於ても微に入り細に渉って倍々末梢的になりつゝあるのである。然るに昼の文化は此反対であるから、統合と単一化即ち一元化となる事で、中心に帰一する事である。それが今日何人の眼にも映じつゝある所の世界的大転換の真相である。(中略)
  その何よりの表はれとして、私の創成した此日本医術が生れんとしてゐる事である。
  此日本医術に於ては、一人の患者で五種も六種もの病気を有ってゐる者と雖も、施術者一人で全部を治療し、全部が次々治癒してゆく事である。全く一元的療法でなくて何であらう。そうしてその原理は、霊を以て霊を治癒するのであるから、白人創成唯物的方法とは反対で、全く東洋的否日本的唯心的方法である。
  右の意味に於て、好むと好まざるとに関はらず、唯物的分裂化の西洋医学にも清算の前夜が迫りつゝあるのである。

             光明如来様の学び
  昔から、妙智力又は観音力というが、勿論妙智力は観音力と同意味である。世に阿彌陀力とか、釈迦力、達磨力などいう言葉がなく、ただ観世音菩薩だけがその力を唱えたという事は、不思議であると共に、理由がなくてはならない筈である。之に就て、文献もなければ言伝えの如きものもない。私は以前から此事に就て疑問を抱いていたが、信仰が進むにつれて、実にはっきり判る事になったので、それを解説してみよう。
  それに就て今一つの疑問がある。之はよく聞かれる事であるが、観世音菩薩は男性であられるか、女性であられるかという点であるが、之こそ、観音力と密接不離の関係があって、実をいうと世尊は男であり、女であり、いはば両性を具備され給うておらるるのである。
  そうして、男は陽、女は陰である事も、昔から誰も知っている処で、火水に分ければ、男は火で、女は水であり、火は経に燃え、水は緯に流れる。此経緯がいよいよ結ばるという時が来たのである。
  又光とは、火と水の密合であって、火素の量が勝つ程、光は高度を増すのである。此理に由って、昼の世界は、火素の量が殖えるから光が強くなる。観世音菩薩の御働きが、光明如来と現ぜられる所以である。
  次に最も重要なる点は、経緯の結合する事によって真の力が発生する。力という字は、経の棒と緯の棒と結んで曲り、その先端が撥ねる。之は結ぶ事によって、左進右退的回転力が発生躍動するという意味で、全く文字なるものゝ意義深きを思わしむるものがある。以上の如く観世音菩薩に限り、経緯両性を具備さるるのは、経緯の結合によって力が生ずるそれで、特に観音力という所以である。
  序でに、今一つの重要事をかいてみよう。観世音菩薩は光明如来と現じ給い、次は、彌勒又はメシヤの御活動をなされるのである。前述の如く、光は火と水であるが、之に土が加わる事によって、火水土の御働きとなる。元来火と水だけでは霊の御働きだけで体がないが、之に土が加わって、初めて火水土の三位一体の力を発揮されるので、之が如意宝珠であり、麻邇(マニ)の玉である。又火は五であり、水は六であり、土は七であるから、五六七の数字をミロクと読むのである。彼の釈尊の予言にある五十六億七千万年後、五六七の世が始まるという事は、此五六七、即ち火水土の順序正しき世界が出現するという事でなくて何であろう。(中略)
  観世音菩薩のミロクとは、応身彌勒の事で、それは仏説の通りであるが、今後此応身彌勒の千変万化の御働きこそ、刮目して見るべきである。
  又五六七の数も三六九も合計十八である。十は結びであり、八は開く数である。観世音菩薩の御本体は、一寸八分の黄金と昔から定ってをり、御堂は十八間四面と言う事なども、意義深きを思わしむるものがある。     (「観音力とは何ぞや」自叢十二  昭和25年1月30日)

  (前略)化身で一番重要な事は、仏は全部神の化身であつて、夜の世界の間は仏の世であるから神々は全部仏に化身された。天照皇大神が大日如来、月読尊が阿彌陀如来、稚姫君尊が釈迦如来というようにである。随而、仏滅といふ事は仏が皆元の神格に還り給ふ事である。善言讃詞に「観世音菩薩此土に天降らせ給ひ、光明如来と現じ応身彌勒と化し」とあるが、観音は伊都能売の神であり、ミロク神の化身である。従而、何れは観音といふ御名も無くなる時が来る。霊界では既に殆んどなくなつている。    (地上天国4号  妙智之光  昭和24年5月25日)

“光明如来と日月地大神の相違に就て御教へ願ひたいのですが。
“結局同じもんですがね。つまり最高の地位になられた場合「日月地(ミロク)」です。
「日月地」は大神で神の位です。これで五六七となって御働きが完全になる。光明如来の方は火と水です。観音様は火水土ですが、土が少しなんです。何故土が少いかと云ふと、之は私が出てから加はったからです。観音様は慈悲の御働きで善悪無差別、一切衆生凡てを救ふ御働きであって、あいつは悪いとか、こいつはどうとか云ふのは観音様ではない。観音様の御本体は国常立命で、北海道の芦別山におしこめられてから霊界で閻魔大王となり審判のお働きをされる。従って頗る苛しいんです。所がそれだけでは人間がやり切れぬから慈悲の神として現れたのが観音様であり、神や如来の地位では高すぎて衆生済度が出来ないから菩薩の位に下がられたんです。それが一段上ったのが光明如来です。今迄は観音様
を拝んでも御利益はあったが弱かったんです。そこへ土が加わると力が強くなる。土とは人体です。それが光明如来になると火と水=光が強くなる。今度離して御浄めする様になったのは、光明如来の御働きで、くっつけてしてゐたのは観音様の御働きです。そして土の力が完全に強くなられたのが「日月地」です。
  私は昭和三年から六年間菩薩、九年から十五年まで如来、十六年から二十一年まで「日月地」の働きをしてゐたのです。之は霊界であって現界は去年から「日月地」になった。一昨年までは私も治療したが、去年から出来なくなった。それは位が高くなって大衆と離れたためなんです。                         (御光話録  昭和23年3月28日)

観音様は仏であり光明如来も仏であるのにそれに神主の服をつけ祝詞を上げたりするのは一寸変かも知れないが、観音様は菩薩から出世するのではなく、一時菩薩の位に衆生済度のため下げられたから、元の上の位に御戻りになるのであって、一段上の位が光明如来それから五六七大神になられる。今は仏と神との中途です。(後略)   (御光話録  昭和23年8月18日)

“観音様が、位が一段高くなると光明如来になられ、光明如来を尊称して大光明如来と申し上る。光明は「火と水」である。
  大日如来は天照大神が仏界へ表はれ給ふた時の御名である。太陽の表現神であるから日の神になる。
  大日如来の方が御位は上であるが、働きは光明如来様の方が広い。神様にすると、伊都能売神となる。――火と水のお働きであるから、火と水は光明になり、霊的のお働きであるが、それに土のお働きが加はる。之が三位一体で、弥勒の神となる。
  光明如来は今働いておられる。暫く経つと弥勒の働きとなる。すると力が強くなる。邪神も邪魔が出来ぬ。今では邪神が発展を妨げようと大活躍している。(後略)
                               (講話集補 年代不明)

“観音様、光明如来様は仏様でせうか、神様でせうか。仏様の様に思いますが、拍手致しますわけをお尋ね申します。
“観音様は菩薩。光明如来様の如来も仏名で、梵語でボージーサットヴァ等といふ。
  光明如来様は伊都能売神の化身である。神が本体で、仏は化仏といって化けている。
  夜の世界は仏で、昼の世界は神である。今は夜と昼との境目で、一日々々昼が濃くなる。であるから、今は神の扱いでも仏の扱いでも、どっちでもよい。
  朝は神としての拝み方、夕は仏としての拝み方で、両方でよい。又両方が本当である。
  光明如来様は衣冠束帯で拝む。結局、時の進むに従い、全然神様の御扱いをする事となる。(後略)                           (講話集補 年代不明)

  (前略)釈尊は説いて曰く、末法仏滅の世と成れば、その時彌勒出現して個々にミロクの世が成就すると畏怖。これは法滅人今日及び彌勒出現成就経等に詳しく出てをるから瞭(アキラ)
かであるが、畢(ツイ)に其の時期が到来したのであって、其の弥勒の本体こそ之又観世音菩薩であられるのである。それで弥勒と称えても三弥勒在られ、昔から報身、法身、応身弥勒と申上げてゐるのである。報身は釈迦であり、法身は阿弥陀であり、応身は観音である。又日月地に配すれば日が観音であり月が阿弥陀であり、地が釈迦である。又地理的に配すれば日本が観音であり、東洋が釈迦であり西洋が阿弥陀なのである。又之を三尊の弥陀とも称へ基督教で三位一体と称へるのも此の事である。(三尊の弥陀に就いては孰れ詳しく解説する積りである)而して此の三位一体の力を独り具有され、大千世界の最後的救済を為さるのが、観世音菩薩即大弥勒神の御活動で被在(アラ)せらるるのである。(後略) 
          (「全人類待望の炬光  大聖観音力の顕現」東光3号  昭和10年2月23日)