平成30年8月度 ミ ニ 講 座(支部)

平成30年8月度 ミ ニ 講 座(支部)       
本教は神道か仏教か (光十一号 昭和二十四年五月三十一日)
標題の如き疑問に就てよく質かれるから、茲に説明してみるが、抑々観世音菩薩の御本体は、今は時期尚早の為深くは発表出来ないが、一流の神様には違ひないのである。
茲で神と仏に就て説明するが、何千年前世が替った時があって、すべての神々は仏として化現された、例えば月読尊は阿彌陀如来となり、天照大神は大日如来と、稚姫君尊は釈迦如来と、伊都能売神は観世音菩薩となったやうにである、此期間が夜の世界で所謂真如の世であった、よく仏教では真如実相というが、真如は真如の月即ち夜の世界で、実相は昼の世界であるから、今迄は真如を上に実相を下にしたのである。真如とは読んで字の如く真の如しで真ではない、釈尊が仮の娑婆といったのもそういふ訳である、仏滅の世が来るといはれたのもその意味である、故に今度霊界が転換すれば昼の世界即ち実相世界となるのである。
右に関連し、法華経の意味を説く必要がある、法華経は読んで字の如く仏法を華に例え一度華を咲かせるといふ意味で、それによって実を結ぶのである、法華経二十八品のうち二十五番目の観音普門品がそれである。
本教出現の理由も茲にあるのであって、仏華散って生れた実がわが観音教団であるにみて、本教の出現の密意は窺知されるであろう、実に生れるべくして生れたのである、此事だけにみても、本教は決して人造的宗教ではなく天の時愈よ熟して世の転換期における人類苦悩の救済の為呱々の声を挙げたのである、此事だけでも既存仏教が本教の真相を認識されたとしたら、本教を援助すべく起上るであろう事も予想されるのである、勿論釈尊と雖も、霊界の極楽浄土に於て満足され給う事は勿論である。
話は横道へ外れたから本論へ戻るが、前述の如く主なる神は仏として化現し給うたのであるから昔から神仏同根といい、仏神一如ともいわれたのである、今は恰度諸々の仏霊は本来の神格に復元されつつある大転換の過渡時代であるから、本教に於ては神仏両様の御扱いを実行している所以である。

            観音普門品について


(前略)それから最近日蓮宗が非常に活動しているのです。メシヤ教は別で、之はナンバーワンという事になつてますが、新宗教の内で兎に角盛んなのは、日蓮宗です。日蓮宗の霊友会一派です。そんな様な工合です。それも近来に至つて急激に日蓮宗が活動し始めたのです。それは何か訳がなくてはならないが、処が訳は大有りなのです。仏教の内で日蓮宗丈は変つているのです。他の仏教は全部月の系統です。大体仏教は月の教え――夜の教えです。処が日蓮宗丈が昼の教え――昼の仏教になるのです。それで日蓮と名前を附けたのです。それで日蓮宗は非常に陽気です。だから仏教の内では昼の仏教に入る。処で、仏教の方で言うと、法華経――法の(ハナ)華です。法華経二十八品の内二十五番目の観音普門品―
―之が実(ミ)になるわけです。そうすると、実が生(ナ)る前に――実が出来る前には華を咲かせなければならない。というわけで今華やかに活動しているのは、華を咲かせているのです。そうして大体メシヤ教は元は観音さんだつたのです。そこで現界的に観音さんを生むという一つの経綸になつているのです。だから今非常に骨折つて華を咲かせているわけです。(後略)
日蓮宗が急にそういつた活動を始めたというのは現界的に観音様が生まれられる、要するに現界的にメシヤ教が生まれるという意味になるのです。ですから非常に御苦労なわけなのです。華ですから、咲けばやつぱり散りますから――。それは何ういう点で散るか、何ういう風に実が生(ナ)るか、それは言えないが、そういつた様な事が今後出るわけなのです。そんなわけでそういう点を見た丈でも、之からメシヤ教は何ういう風に発展していくかという事は大分見当が附くわけです。それで、神様の方はちやんとプログラムは出来ているので、只時節に依つてそれが現われて来るのですから、結局コツコツやつていれば良いわけです。神様の為さる事は、一寸見ると遅い様でまだるつこいが、それでいて非常に早い
のです。というのは、やり損いがないからです。やり直しがないからです。ちやんと予定通りにいくからです。そこで案外早いのです。(後略)                  (御教え集14号 昭和27年9月26日)

やさしい現代語の『観音経』
『観音経』は、全二十八品(品は章の意味)から成る『法華経(ほけきょう)』の中二十五品『観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんぼん)』の略称です。
普門(あまねく開かれた門)の名にある通り、すべての人に向けて開かれた教えであり、あらゆる方向に顔を向けて、すべての人を救う観音菩薩の功徳を説いています。
 また、この経典に説かれているような救済が、本当に数多く起きて来たという歴史の実績がありますので、奇跡の経典とされているのです。
 ただ、『妙法蓮華経』からは独立した単独の経典として扱われる場合が多く、奇跡の経典として、宗派の枠を越えた観音信仰の広がりの基になっています。
 『観音経』は、本文の長行(じょうごう)と詩の応頌(おうじゅ)で構成されているのですが、『観音経』の解説といえばほとんどの場合、応頌の部分だけしか取り上げられていません。
 そこで当ページでは、『観音経』の全文の内容を現代語で、しかもなるべく分かり易く表わしてみようと思います。
 分かり易くするために、次の工夫を加えてあります。
   
1:仏教の専門用語にあまりなじみのない方にも分かるように、仏教独自の文化や登場人物などの前後には、簡潔な補足説明をつけています。
2:『観音経』の構成や意義を理解しやすいように、ポイントごとに青い文字で簡潔な解説文を入れています。
   
 このように、やさしい現代語の『観音経』は、漢文の『観音経』より少し“饒舌”ですが、それは『観音経』の具体的な内容をご存知なかった方に、その理解への手掛かりにしていただくための工夫ですので、その点はご了承ください。
   
あらゆる方向に顔を向けてあまねく眼を配っている観世音菩薩
   
 『観音経』は、お釈迦さまのお話をうかがおうと大勢の人々が集まっている中で語られた説法の様子を描いたものです。 その本文にあたるのが、散文体の長行です。
 それは観世音菩薩の名前の意味を説明し、称名(しょうみょう:名前をとなえること)による救済の功徳を約束する場面から始まります。
 その時、尽きることのない求道の意志を持つという菩薩である無尽意菩薩(むじんにぼさつ)が座から立ち上がり、体にまとっているきれの右の肩の方をはずして右の肩と腕をあらわにすることで尊敬とまごころを表わし、合掌しながらお釈迦さまにおうかがいしました。
「お釈迦さま。観世音菩薩は、どういうわけで観世音菩薩という名前がつけられているのでございましょうか。」
 それに対して、お釈迦さまがお答えになりました。
「それはこういうわけです。世の中の数え切れないほど沢山いる人々が、いろいろな苦しい目にあっている時に、この観世音菩薩の功徳(くどく:御利益の事)の偉大さを聞き知って、一心になってその名を称えれば、観世音菩薩はすぐにその声を聞き取り、救いにやって来て苦悩から逃れさせてくださいます。つまり、世の音を観ずる(知る、察する)という意味で、観世音と名付けられたのです。」
  
 続いて七難に対する具体的な救済例が示されます。七難とは、火難、水難、風難、刀杖難(とうじょうなん)、鬼難、枷鎖難(かさなん)、怨賊難(おんぞくなん)の七つです。
「もし、この観世音菩薩の名を称えれば、燃えさかる大火の真ん中に飛び込んで行っても、決して火はその人を焼くことはできないでしょう。それは、この菩薩の持つ自由自在な力のおかげなのです。 
 あるいは、洪水に押し流されていたり、大海を漂流していたりしても、この観世音菩薩の名を称えれば、ひとりでに浅い所に流れ着くことができるでしょう。
 あるいは、たくさんの人々が、七宝として貴ばれている金、銀、瑠璃(るり)という青い宝石、シャコという美しい大きな貝、珊瑚(さんご)、琥珀(こはく)、真珠(しんじゅ)などの宝物を買って来るといって、広い海に乗り出して行ったとしましょう。その時、急にあたりが真っ暗になってひどい暴風が吹いて来て、船が押し流されてしまい、羅刹(らせつ)という人を食べる悪鬼の住んでいる島へ漂着したとします。そのような危機に際して、もし乗り組んでいる人々の中の一人でも、観世音菩薩の名を称えるならば、誰も羅刹に食べられずに済み、その危機から逃れることができましょう。
 こういうわけで、世の音をよく観ずると言う意味の名がつけられているのです。
 あるいは、ある人が他の人に刀で切られたり棒で打たれたりして怪我をされられそうになった場合に、観世音菩薩の名を称えるならば、相手の振り上げた刀でも棒でもバラバラに折れてしまい、怪我をしないで済みましょう。
 あるいは、世界中にいっぱいいる夜叉(やしゃ)と羅刹の悪鬼どもが大挙して、ある人を悩まそうとしてやって来ても、その人が観世音菩薩の名を称えるのを聞いたならば、夜叉も羅刹も邪悪な意志を持ってその人に向かうことはできなくなるでしょう。ましてや、実際に害を加えることなど、とうていできないのです。
 あるいは、ある人が罪をおかし、または無実の罪によって、手かせ・首かせをはめられ、牢獄に鎖でつながれた状態となったとしても、その人が観世音菩薩の名を称えれば、身を拘束しているそれらの物はことごとくバラバラに壊れ、たちまち自由の身となることができましょう。
 あるいは、どこまで行っても凶悪な山賊どもが横行している国があるとしましょう。そして一人の大商人が他の商人を大勢連れて、りっぱな宝物を買い込んでよその土地から帰る途中で、そうでなくても山中の険しい路である上に、山賊に最も襲われやすい危険な場所にさしかかったとしましょう。その時その中の一人が一同に向かって、『皆さん、恐れることはありません。皆さんが一心になって、観世音菩薩の名を称えてご覧なさい。観世音菩薩は人の怖いものを無くしてくださる方ですから、お名前を称えさえしたら、山賊に襲われる心配など無くなります。」と言いますと、全員がその言葉に従って声を合わせて一心に『南無観世音菩薩』と称えたとしましょう。そうすれば、一同は必ず難を逃れることが
できるのであります。
 無尽意よ。観世音菩薩の力はこんなに想像できないくらい偉大なものなのです。」
   
 次に、三毒と呼ばれる煩悩からの解放が説かれます。三毒とは、貪(とん:むさぼり。ここでは性欲で代表されています。)、瞋(しん:いかり。)、痴(ち:おろかさ。)の三つです。
「もし、性欲のために悩んでいる人があったならば、いつも観世音菩薩を心の中に思い浮かべて、敬うように心がけていれば、ひとりでにその欲から心が離れて、悩むことがなくなるでありましょう。
 あるいは、何かにつけて怒りを覚え、そのために自分自身を苦しめている人があったならば、いつも観世音菩薩を心の中に思い浮かべて、敬うように心がけていれば、腹が立たなくなりましょう。
 あるいは、愚かしい考えにとらわれている人があったならば、いつも観世音菩薩を心の中に思い浮かべて、敬うように心がけていれば、必ずその愚かしさから脱け出すことができましょう。
 無尽意よ。観世音菩薩はこのようにあらたかな力があり、人々に豊かな御利益を与えられるのです。それだから人は皆、しょっちゅう観世音菩薩を心に思い浮かべるようにしなければなりません。」
   
 次に、望む通りの子宝に恵まれる功徳が説かれます。観世音菩薩が子宝を授けてくれる仏尊としても信仰されている理由がここにあります。
「もし、男の子の欲しい婦人が、一心に観世音菩薩を拝んで大事にすれば、必ず利口な男の子供が産まれて、その子は一生しあわせに暮らすようになりましょう。
 あるいは、女の子供が欲しいのなら、前世で沢山の善い行いをしたおかげで、この世で誰からもよく思われるような気立ても器量もよい女の子供が産まれましょう。
 無尽意よ。観世音菩薩にはこれほどの力があるのです。誰でも観世音菩薩を敬って大事にするならば、その御利益は必ずあります。だから、みんな観世音菩薩の名前を心にしっかりと保ち、決して忘れないようにしなければなりません。」
   
 以上の数々の功徳をさらに強調するように、観世音菩薩を供養することによって得られる福徳の大きさが喩え話で語られます。
「無尽意よ。もし、ある人がカンジス河の砂の数の六十二億倍という大勢の菩薩の名前をしっかり覚え込んで、一生の間そのすべての菩薩に飲食物や衣服や寝具から医薬品までをいちいち差し上げていたとしましょう。するとどう思いますか。こうした信仰深い人の受ける功徳は多いものでしょうか、少ないものでしょうか。」
 無尽意菩薩はすぐお答え申し上げました。
「もちろん、非常に多いと存じます。」
 そこで、お釈迦さまはこうおっしゃいました。
「そのとおりです。ところが、無尽意よ。ここに別の人があって、観世音菩薩の名前だけをしっかりと心に刻みつけていて、ほんのしばしの間でも拝んでお供え物を差し上げたとしましょう。そうしたら、前の人とこの人は、その受ける功徳はまったく同じで、異なる所はないのです。その功徳の大きさを言葉で述べようと思ったら、幾百幾千幾万億という時代をかけたって言い切れるものではありません。無尽意よ。観世音菩薩の名前を心に刻みつけていれば、このような限りない福徳を、御利益として受けることでありましょう。」
   
 観世音菩薩が救う相手に応じて、それにふさわしい姿になって現われることが“すべて”を意味する三十三という数字の変身例をあげて説明されます。これを三十三応身(おうじん)と言い、観世音菩薩があらゆる姿に変身することを表わします。また、この三十三という数字は、観世音菩薩のキーナンバーとなり、日本各地にある三十三ヵ所観音霊場や、三十三種類の変化観音をまとめて信仰する三十三観音信仰へと発展して行くことになります。
 無尽意菩薩はこれを聞いて、更に重ねてお釈迦さまにおたずね申し上げました。
「お釈迦さま。観世音菩薩は人々に法を説く為に、どのようにこの世の中に現われて、どのような教え方をするのでしょうか。」
 するとお釈迦さまは、無尽意菩薩の問いに対してこうお答えになりました。  
「それはねえ、どこかの国の人たちが仏さまに教えてもらえば救われる場合には、観世音菩薩はすぐに仏さまの姿になって教えます。
 縁覚(えんがく)と呼ばれる孤高の聖者が救うのにふさわしい場合には、縁覚の姿になって教えるし、声聞(しょうもん)と呼ばれる知識の豊富な人が教えて救うのがよい場合には、声聞の姿になって教えます。
 天の神の姿で、清浄なる法の守護神である梵王(ぼんのう)となって救うのがふさわしい場合には、梵王の姿で現われて教え、善行を喜ぶ法の守護神である帝釈天(たいしゃくてん)となって救うのがふさわしい場合には、帝釈天の姿で現われて教え、それとは逆に悪行に詳しい自在天(じざいてん)となって救うのがふさわしい場合には、自在天の姿で現われて教え、その首領である魔王の大自在天となって救うのがふさわしい場合には、大自在天の姿で現われて教え、軍神である天大将軍(てんだいしょうぐん)となって救うのがふさわしい場合には、天大将軍の姿で現われて教え、法をよく聞くので多聞天(たもんてん)とも呼ばれる毘沙門天(びしゃもんてん)となって救うのがふさわしい場合には、毘沙
門天の姿で現われて教えるのです。
 もっと日常的な人間の姿で、普通の王の姿で救うのがふさわしい相手には、普通の王の姿で現われて教え、徳のある富豪の姿をとって救うのがふさわしい相手には、徳のある富豪の姿で現われて教え、在家のまま修行する人の姿をとって救うのがふさわしい相手には、在家のまま修行する人の姿で現われて教え、役人の姿をとって救うのがふさわしい相手には、役人の姿で現われて教え、家柄のよい人の姿をとって救うのがふさわしい相手には、家柄のよい人の姿で現われて教えます。
 坊さんや尼さんや男子の在家信者や女子の在家信者などの姿がふさわしい相手には、各々それに応じた姿を現わして教えます。先ほどの富豪や在家の修行者や役人や家柄のよい人の妻や娘の姿となって救うのがふさわしい相手には、各々それに応じた姿を現わして教えます。男の子供や女の子供の姿をとって救うのがふさわしい相手には、その姿で現われて教えます。
 また、天人でも、竜神でも、鬼神の夜叉(やしゃ)でも、天界の音楽師の乾闥婆(けんだつば)でも、戦いを好む鬼神の阿修羅(あしゅら)でも、巨大な鳥の迦楼羅(かるら)でも、天界の美声の音楽家の緊那羅(きんなら)でも、大蛇神の摩ゴ羅伽(まごらか)でも、その他いろいろな形をした生き物にでも、それぞれ相手を救うのに一番ふさわしい姿になって教えます。
 手に金剛杵(こんごうしょ)という武器を持ち法を守護する執金剛神(しゅうこんごうじん)の姿となって救うのがふさわしい相手には、執金剛神の姿を現わして教えるのです。
 無尽意よ。観世音菩薩は、こういうことが立派に出来るので、さまざまの姿になって、どのような場所にも自由自在に現われて、人々を悟りへを導いて行くのです。ですから皆さんは、一心になってこの観世音菩薩を大切にしなければなりません。」
   
 観世音菩薩が心の落ち着きを与えてくれる存在だと説かれます。そして、無尽意菩薩によって観世音菩薩に首飾りが供養され、それはお釈迦さまと、法が永遠に真理であることの証明である多宝仏塔(たほうぶっとう)に奉げられます。
「この観世音菩薩は、おそろしい災難や困難におちいった場合にも、人の心が動揺せず落ち着くようにさせてくれる存在だから、この世の中では皆が観世音菩薩を、無畏(落ち着き)を施してくださる者という意味で施無畏者(せむいしゃ)という名前でも呼んでいるのです。」
 それをうかがって感激した無尽意菩薩は、仏さまに申し上げました。
「お釈迦さま。わたくしは今ここで観世音菩薩にこれをお供えします。」
 そう言うと、自分の首に懸けていた金銀やもろもろの宝石をつらねた、その値打ちは金の何万両分とも知れない高価な首飾りをはずし、観世音菩薩の前に差し出し、「あなた、これをあなたにお供えしますから、お納め下さい。」と申し上げました。
 しかし、観世音菩薩はどうしてもそれを受け取ろうとはなさいません。
 そこで無尽意菩薩は重ねて、「あなた、どうぞお願いですから、われわれをかわいそうだと思って、この首飾りをお受けくださいませんか。」と申しあげて、押し問答になっています。
 そこで、お釈迦さまが中へお入りになって、観世音菩薩に向かっておおせられました。
「この無尽意菩薩の志しでもあり、出家・在家の修行者たちをはじめ、天人や竜神や夜叉や乾闥婆や阿修羅や迦楼羅や緊那羅や摩ゴ羅伽や、その他いろいろな形をした生き物や、そういうもの全体の心をくみ取って、その首飾りをお受けなさいよ。」
 それをうかがった観世音菩薩は、すべての人たちや天人や竜神や人間以外の生き物たちの心をくみ取られて、即座にその首飾りを受取られました。
 しかし、受け取られるとすぐその場で、それを二つに分け、一方はお釈迦さまに、あとの一方は多宝仏塔に奉げられたのであります。
 お釈迦さまは、おおせられました。
「無尽意よ。これでよく分かったでしょう。観世音菩薩は今言ったように自由自在な力をすっかり具えていて、その力で今この世にも来ているわけなのです。」
   
 ここからは写経や読経でよく使われる韻文の応頌です。長行の内容が再び繰り返されています。まずは、観世音菩薩の名前と称名の功徳について歌われます。
 そこで、無尽意菩薩は歌で質問を繰り返しました。
 美しいお姿のお釈迦さま。私は今一度お尋ねいたします。
 あの菩薩はどうして、観世音と名づけられているのですか。
 美しいお姿のお釈迦さまは、歌の形で次のように無尽意菩薩にお答えになりました。
 それはねえ、観世音菩薩の働きは、いつ・どこへでも行って人々を救うことです。
 その救済の願いは海のように深く、人の頭でどれ程考えても思い及びません。
 無数の仏たちに仕え奉って、すばらしい清浄な願いを立てたのです。
 今私は、あなたにそのあらましを説明しましょう。観世音菩薩の名を聞き、その姿を見て、 心にしっかりと刻んで忘れないならば、人々のあらゆる苦しみは無くなるでしょう。
   
 七難に付加された十二難からの救済が歌われます。漢文では「念彼観音力(ねんぴかんのんりき)」の印象的なリフレインを使って歌われているのが特徴の部分です。
 なお、仏教の宇宙神話では、世界の中心には頂きに天人の世界がある須弥山(しゅみせん)という最高山があり、世界の果てには金剛山(こんごうせん)という峻厳な高山がグルリと世界を取り囲んでいる、とされています。
 もし、悪意のある者がいて、誰かを燃えさかる大きな火の穴に突き落としても、 観世音菩薩の救いを心から念ずれば、火の穴はたちまち池に変わるでしょう。 あるいは、大海原を漂流して、竜や怪魚や鬼などの様々な怪物が襲って来ても、 観世音菩薩の救いを心から念ずれば、荒波に呑まれて海中に沈むことはないでしょう。
 あるいは、須弥山という高峰の頂きから、誰かに突き落とされたとしても、 観世音菩薩の救いを心から念ずれば、空の太陽のように空中に浮かぶことができるでしょう。
 あるいは、悪人どもに追われて、金剛山という高峰の頂きから転落したとしても、 観世音菩薩の救いを心から念ずれば、一本の髪の毛さえ傷つかないでしょう。
 あるいは、怨みを抱いた敵の集団に囲まれ、皆が刀を手にして殺そうとしても、 観世音菩薩の救いを心から念ずれば、彼らは殺す気をなくし、優しい慈悲の心を起こすでしょう。
 あるいは、権力者の圧政にあって、今まさに刑場で死刑に処せられようとしても、 観世音菩薩の救いを心から念ずれば、振り上げられた刀はバラバラに折れるでしょう。
 あるいは、囚人となってかせや鎖につながれ、手足の自由を奪われても、 観世音菩薩の救いを心から念ずれば、それらの拘束具はたちまち壊れて自由になれるでしょう。
 あるいは、誰かの呪いや毒草・毒薬によって、危害を加えられようとしても、 観世音菩薩の救いを心から念ずれば、被害はそれを企てた加害者本人に戻って行くでしょう。
 あるいは、羅刹という食人鬼や毒竜や悪鬼などに囲まれても、 観世音菩薩の救いを心から念ずれば、これらのものは、危害を加えようとしなくなるでしょう。
 あるいは、恐ろしい猛獣に取り囲まれて、鋭い牙や爪で脅かされても、 観世音菩薩の救いを心から念ずれば、それらは何処かへ逃げ去ってゆくでしょう。
 あるいは、マムシや毒蛇やサソリの吐く毒気が、火焔のように迫ってきても、 観世音菩薩の救いを心から念ずれば、念ずる声を聞くやいなやそれらは退散するでしょう。
 あるいは、天がとどろき、稲妻が光り、雹が降り、大雨が降り注いでも、 観世音菩薩の救いを心から念ずれば、それらは跡形なく消え去るでしょう。
   
 観世音菩薩の勝れた救済力が歌い上げられ、観世音菩薩への礼拝が勧められます。
 人々が困難や災厄にみまわれ、さまざまな苦しみにさいなまれる時、 観世音菩薩の勝れた智恵の力はそれを察知して、人々を苦しみから救い出してくれます。 神通力を極めており、広大な智恵とそれを発揮するさまざまな手段に長けた観世音菩薩は、 あらゆる国のいたる所に姿を現わし、どこであってもその姿を見ることができます。
 輪廻の中の様々な悪い世界を巡り、地獄界・餓鬼界・畜生界に陥った苦しみ、 生まれ、老い、病になり、死ぬという苦しみを、しだいに消滅させてくれます。
 観世音菩薩には、真実を見抜く眼で観、汚れなき清浄な眼で観、広大な智慧を持つ眼で観、 悲しみを憐れむ眼で観、慈しみに満ちた眼で観るという、五観の力が備わっています。 だからいつも、観世音菩薩の出現を願い、その姿を仰ぎ見なければなりません。
 観世音菩薩の放つ汚れなき清浄な光は、智慧の輝きで無知の闇を消し去り、 よく災いの風や火を鎮め、この世を明らかに照らし出します。 観世音菩薩が憐れみの心で説かれる戒めは、雷が鳴り響くように偉大であり、 その慈しみの心は美しい大きな雲のように人々を覆い、 恵み深い智慧の雨を降らせては、人々の煩悩の炎を消し去るのです。
 争いに巻き込まれて法廷に立つ時や、戦場で死の危険にさらされた時も、 観世音菩薩の救いを心に念ずれば、あらゆる敵はみな退散するでしょう。
 観世音菩薩の音声は、妙なる美しさを持つ音、世を観る音、 清浄なる無垢の音、潮騒のように心にしみ込む音、 それはあらゆるこの世の苦しみや悲しみの音声を制する音なのです。 だから、常に観世音菩薩を忘れずに念ずるべきなのです。
 念じ、念じて、決して疑ってはなりません。
 観世音菩薩の清らかで聖なる心が、 苦しみと死と災いに満ちたこの世の中で、救いの真実の拠り所なのです。
 観世音菩薩はあらゆる功徳を具え、すべての人間を慈悲の眼をもって眺めています。
 その福徳は大海のように無量であり、だからこそつつしんで礼拝すべきなのです。
『観音経』のラストシーンは、持地菩薩(じじぼさつ:お地蔵さまの名で親しまれている菩薩です。)が感謝の言葉を述べ、多くの人々が正しい道を志す願いを起こして終わります。
 この説法をうかがって感動した持地菩薩は、座から立ち上がってお釈迦さまの前に進み出て、つつしんで申し上げました。
「お釈迦さま、どうような人でも、この観世音菩薩の自由自在な救済の働きと、相手に応じてさまざまに姿を変え、あらゆる所に出現される神通力を聞き知った人は、大きな功徳を得ることでございましょう。」
 こうしてお釈迦さまが、あらゆる方向に顔を向けてあまねく眼を配っている観世音菩薩の教えを説き終えられますと、大衆の中の八万四千人もの人々が、くらべるものもなく尊い『完全なる悟り』を得たいという願いを起こし、正しい道を志すようになったのでありました。