平成30年7月度 ミ ニ 講 座(支部)

平成30年7月度 ミ ニ 講 座(支部)       
無信仰と有信仰      (光二号 昭和二十四年三月二十日)
此論文を書くに当って断はっておきたい事は、無信仰と有信仰といふ此有信仰とは無論本教を指すのであって、他の宗教や既成宗教をいふのではない、そうして昔の事はイザ知らず、現在の此娑婆世界にあって生活してゐる人間を熟々客観してみるに、キリストの曰った「哀れなる仔羊」といふ言葉がよく当嵌っていると思ふ。

先づ考えてもみるがいい、真に何等の不安なく安心して日々を送ってゐるものは恐らく何人あるであらうか、その不安の中第一に考えられるのは言ふ迄もなく人間の病気であらう、如何なる人間と雖も何時何どき病気に犯されるか判らない、一時間後に風邪を引くかも判らない、風邪を引けば肺炎になるかも判らない、或は結核の初期であるかも判らない、今晩あたり盲腸炎が発病し七転八倒の激痛で苦しむかも判らない、明日あたり腸チフスになるか又は原因不明の病気に罹るかも判らない、子供のある人は生命とりといふ恐ろしい疫痢、ヂフテリヤ、脳膜炎等の重症に罹って二、三日で彼世へゆくかも知れない、又年寄りは年よりで、今にも脳充血から中風となり、半身不随のまま何年も床から離れられないよう
な悲惨な運命に陥るかも分らない、若しか家族の中誰かが伝染病に罹って、入院隔離されるかも分らない、そればかりではない、今日のように医療代が高くては、治療費や入院料がどの位かかるか分らない、それも短期間で治ればいいが、もしか長期にでも亙ったら入院料の為に長年辛苦して貯めた貯金が零となり、仮令病は治っても会社は馘になり、路頭に迷ふようになるかも知れない、然しそれでも生命さえ取止めれば又稼ぐ術もあるが運悪く不具者になるか死んででも了ったら一体どういふ事にならう、仮に主人であった場合遺族はどうして暮しを立てるだらう、又自分としても計画や事業半ばにして終りとなるし、未だ男盛りの年齢であるのに此世を去るとは実に残念だ、妻子と今愛着の絆を断たれるのはど
うしても我慢が出来ないといふような事態が来ないと誰か言ひ得よう、之等種々の事を考える時、病気に対する恐怖感は断えず鉛のように重くブラ下ってゐるのは、何人と雖も例外はあるまい。
以上述べたような恐ろしい人生である以上此不安から解放されないとしたら、釈尊の唱破した如く「此娑婆は火宅であり、人間は生病老死の四苦から免れる事は出来ないといふ諦めで我慢するより道はない、それが悟りである」と言ふのである。

以上述べた如くであるから此病気の不安から絶対解放される宗教が現はれたとしたらこんな大きな福音はあるまい、然し初めて此事を聞いた人は「そんな馬鹿な事が此世の中にあって堪るものか、君の頭はどうかしてゐる」といひ、先づ狂人の一歩手前位にしか思ふまい、処がどうだ右の如き宗教が確かに表はれたのである、読者諸君は先づ一応も二応も疑る処か否定するかも知れない、がもしそれが真実であったと知ったらどうなさる、大変どころの騒ぎではない、世界的一大センセーションを起さずにはをられまい、其中で運の好い人は、まあ兎も角一度研究してみようといふ事にならうし、反対にそんな話は迷信以外の何物でもないと鼻の先で笑ふ人もあらうが、斯ういう人は先づ華厳の滝か三原山へ飛込む人
のお仲間で、洵に不幸な人といふべきである。
斯ういふ事をいふと、余りに自惚れ過ぎるというかも知れないが、茲で先づ本教の信仰と病気に就て簡単に述べてみよう、本教によって信仰の実態を把握した限りの人々は、病気の心配は皆無となる事である。否病患の根本が明かになった以上、恐れる処か反って、それを喜ぶ位である。何となれば病気なるものは健康増進の為の自然生理作用であって神の一大恩恵であるからである、勿論凡ゆる病患が発生するや、神霊放射能によっていとも簡単に治癒されるからでもある。

以上は病気のみに就て述べたのであるが、未だ病気以外にも不幸の因は多々ある、例えていえば現代生活に於ては交通機関とは切っても切れない関係にあるし、人によっては生活の大部分を占めるものさえある、之が為その不安も災害もなかなか軽視出来ないものがある事は皆よく知ってゐる、其他工場に於る機械の受難、火災の災害、盗賊の被害等々は固より、稀ではあるが地震洪水等の災害も由々しきものがある、斯様に病患を初め諸々の災害が何時如何なる時に襲いかかるかも知れない現代生活を考える時、実に一時と雖も安心出来得ないのである、之に対し官民共に凡ゆる防護施設を採ってゐる、健康保険、災害保険、失業保険等々はじめ貯金制度、諸種の保護事業等の施設もあるにはあるが、之等有形的の
手段は或限度以上の安心は出来得ないのである、どうしても無形の保険即ち神様の保険でなくては絶対安心を得られるものではない、然し現代人は無形の力とか、神様の保険だとかいってもなかなか受入れようとはしないのである、といって有形的方法だけでは真の安心は得られないといふヂレンマに陥って、相変らず不安な日を送ってゐるのが実状であるから、哀れなる小羊に過ぎないのである。
故に吾々信仰者の側から見ると、無信仰者の何等拠り所のない浮草のような生活裡に戦々兢々たる有様は実際見てはゐられないのである、恰度大海に小舟を操ってゐるものに、大汽船に乗れよといっても彼等は自己の船のみを見詰め、大きな船体あるを知らないようなもので、之等を見かねる吾等は折角信仰を奨めても否定の闇の中から抜け出る事が出来ない有様である。
斯様な素晴しい救の力は、人類史上未だ曽つてない事であるから、容易に信じ難いのは無理もない、然し此大いなる福音が現はれたといふ事そのものを考えても、病貧争絶無の世界である地上天国出現の間近に迫った事は一点の疑ふ余地のない事を知るべきである。

妙智之光           『地上天国』6号、昭和24(1949)年7月20日発行
【問】祝詞とお願い事とはいずれを先にすべきでしょうか。
【答】祝詞のほうを先に奏げるのが本当で、お願い事は私事であるから後にすべきである。祝詞を奏げる一番の目的は霊界を浄めるにある。また祝詞を奏げると霊がたくさん来る。祝詞をきくと霊が向上するからである。また祝詞は神に対する感謝の意が中心になっている。

【問】大阪市のある理髪店で奥の間の御神体に対し善言讃詞をお唱えしますと店の客が絶えます。ある霊憑りが、表をたくさんの亡者がうろうろしていて、お唱えの声が聞こえるとその家の前に立ちふさがり、現界人も出入りができなくなる。入口の戸を開けお入りなさいと言い御浄めをすれば亡者が救われに家の内に入り、またお客も入ることができると申し、事実客が絶えますごとにその通りいたしますとお客がまいります。他人に奇異の感を抱かせることにもなりますので、いかがいたしましたらよろしいでしょうか。
【答】これは本当である。善言賛詞を上げると亡者の霊が集まる。そしてそれを聞くごとに一段一段向上する。霊はありがたいから外の霊を勧誘し連れてくる。そういうことで本教は発展するのでかまわず続けてよい。亡者も無限ではない。また客の祖先など少しでも因縁のある人でなくては来れぬからである。その代わりいずれ霊はお礼するので繁昌することとなる。

【問】蚤や蚊に先天的に食われますとはなはだしく腫れ苦しむ人とさほど苦痛を感じない人とあり、また負ける人のほうへよく食いつきますがこれはいかなるわけでしょうか。
【答】ふつう虫に負けるというのは毒素の多い人で、刺された刺激によってそこへ毒が集まる。つまりそれは疥癬も同じである。しかし毒が非常に多くても浄化力の弱い人は毒素が固まっているから蚊も刺さないのである。

【問】神経痛、頭痛および尿量が天候に左右される理由。
【答】これはたしかに関係はあるがたいしたことはない。元来汗は小便と同じものであって、寒いときには冷えるので汗になって排泄されぬために小便が頻繁に出るのである。女学生は太っているのが多いがそれは学校へ行って小便を我慢する癖がついている。そのため尿が腎臓から外部へ滲出してそれが身体へ溜まる。それで身体が太るのでこれが健康体と誤られやすいが、実は俗に言う小便太りであって、これが病気の原因になる。こんなのは固太りで一見丈夫そうにみえるが、一度病気が起ると悪性である。この好例として、ある娘が固太りで神奈川で三人の優良健康女学生が表彰された一人であったが、浄化が起り終に死亡した。余剰尿は腎部から背中を伝わって背部に溜まり諸病の原因となる。よく背部張
りきって筋肉隆々とみゆる人があるが、これが実は尿毒である。小便を我慢するのは右のごとく不可であるが頻繁に尿するのも本当ではない。これは腹膜のため膀胱が圧迫され萎縮しているところである。
 神経痛、頭痛などが天候に左右されるのは、天気の悪いときは太陽の光線が少なく霊界に火素が少ないから毒が固まり、その圧迫で痛むのである。天候に左右されるのは固まる痛さである。

【問】人間が再生した場合、副守護神は前生と同じものがつくでしょうか。また変わるとすればいかなる意味にて変わりますか。
【答】再生の場合、死後副守護神は必ず離れ、再生の場合副守護神は変わる。また死後副守護神はしばらく憑いてる場合もあるが、結局は離れる。再生のときその人に憑く副守護神は必ずなんらかの因縁がある。
 副守護神は人間が動物霊になったのや、その土地にいた狐とか狸とか、いくらか因縁のあるものが副守護神になる。決してでたらめではない。なんらかの繋がりがあるのである。生まれる子供が霊的階級の低いときは低い霊が憑く。それは祖先の罪穢の多少による。罪の多いのは、低いとその低さに相当した副霊が憑く。

参考文献   薬毒の恐怖   瓢箪  『地上天国』63号、昭和29(1954)年10月15日発行
   (一)
 私は毎年二回以上は消毒薬浄化による神経痛で死の苦しみを味わって来たが、その都度、明主様に御救い賜わり、年毎に苦痛も楽に、浄化の回数も減らして戴いたが、昨年秋十一月にも御浄化を戴き歩行不能に陥った。この前の浄化に比すればはるかに楽にして戴いたが、それでも痛苦の為不眠と絶食の日もあった。しかし最も苦しい症状は一度の御浄霊でお除り戴いたので、今迄にない短期間の、僅か一週間で歩行出来るようにして頂いた。そしてさしもの消毒薬も殺人的苦しみは与え得ぬほど薄くして頂いた事がはっきりと分り、有難さに堪えなかったのである。
 なお、この時の浄化状態の特異な点は、従来のように両脚の激痛に止どまらず、背部の手術個所の疼痛の執拗だったのと、右腕が痛んで利かなくなった事であった。そして驚くべきはその手術部の御浄霊戴くと、忽ちにして頭脳がすっきりし物がはっきり見える。腕や足もズーッと楽になり、羽化登仙別世界に引上げられたような全身的軽快を覚えるのである。これによっても、今迄長年苦しんだ足の激痛も頭脳の混乱も、結局はこの背部手術個所の消毒薬が根因となっていた事を、あまりにもはっきり分らして頂いた。実にこの部の薬毒こそ一時に浄化すれば、いかに私の生命力ありとも容易に奪いとる程の恐るべきものであったのである。私は身体も弱かったが、まず何よりも頭脳の変質と遅鈍を良くして頂き
たく、従来頭部と頸部の御浄霊をしばしば御願いしていたが、お蔭をもって頭も非常に楽になり、性格も体質も他人から変化を認められるほど穏健にして頂いた。こうして頭頸部の薬毒を減らし薄くして頂いたため、平均浄化的に、さほど激しからぬ苦痛で、背部手術部の浄化を賜わるに至り、ここにあらゆる苦悩の根源たる薬毒の本拠は白日に照らさるるごとくあらわになったと共に、今後これを解消して戴く事によって、初めて虫の境涯を脱して健全人間と生まれ変り、無上の幸福を与え給う事となった大御恵みの有難さ嬉しさは何と申し上げてよいか言葉もない。
   (二)
 私が頭頸部の御浄霊を賜わるようになってから頭も大変よくして頂いた事を自覚していたが、時として物を考えようとすると思考が分裂してまとまらず、無意味な妄想や、自分の意志と全く相反した不快極まる想念が沸いて混乱に陥ったり、ついには頭脳活動が停止したかと思う程無能力的になる。こういう事が度々あると、次第に自己の頭脳に自信がなくなり、なすべき事も段々出来なくなる。そういう時「これは自分の想念や行いの間違いによって曇りをつくり、その為に脳力に変調を来たしているにちがいない」と思うようになった。そしてその事を明主様に御伺いすると、『何を言っているのだ、決してそんな事はない、みんな消毒薬の為だよ、まだまだウンと消毒薬が延髄部に固っている。よほど消毒薬
を入れたものとみえる。お前の頭には普通人の何倍もの薬毒があり、それが頭の中で渦巻いているのだ』と御垂示賜わり、私は直ちには信じられぬ程ビックリしたのである。自分が今迄になくよくして戴いた事から頭の方の薬毒は充分減らして頂いたし、消毒薬は手術部に固結しているだけで、ただ信仰の至らぬ為の症状とのみ思っていた私には、消毒薬がこんなにも執拗な恐ろしいものであり、延髄の固結までもそれである、とは、全く気づかなかったのである。
 私はこれ程に御明示戴いた事もいつしか忘れ、この時の浄化の時も再び深刻な地獄的想念に悩んだ。自分はなすべき御用も何一つ出来ぬ身をもって、かほどまでに大神様の御手数をかけ奉るのは何たる恐れ多く勿体ない事であろう。常に限りない大御恵みを頂きながら当然の御用さえ出来ぬとすれば信仰している意義はなく、生きていて何の甲斐があろう。このように何にも出来ぬのはよほど深い罪があるからに違いない。肉体の支柱たる脊髄まで傷つけられ、その薬毒の為こうまで苦しまねばならぬのは、よほど前世において、大神様に背き奉った最大の罪を身魂に背負っており、その罪に相応する医療の被害を受ける運命になったのではあるまいか、と思い、明主様にお伺いした。すると、
 『お前は一体、前世で神様に背いた覚えがあるのか』とお聞きになった。「それは何とも判りません」とお答えすると、
 『そんな不確実な事を考えるのは変ではないか、物事はもっと現実的に考えるべきである。手術を受けさした親も病気を治してやりたい一心でやったのだし、医師とても同様善意でやった事であって、誤った医学以外には誰にも罪はない訳ではないか。それが事実であり、最も正確な見方である。信仰者はすべて罪悪的非現実的に考えるし、無信仰者は唯物的にのみ考えるがどちらも本当ではない。私は何れにも偏らぬ最も正しい考え方を教えるのである』と御諭し賜わった。
 人類の罪を赦し給う救世主神の御眼には、人間の罪悪はあたかもお認めにならぬかのごとく、ただ罪悪を生み不幸を作る薬毒を滅せんとの大悲の大御心しかお待ちにならぬがに私には感ぜられた。そして又私は、常に陥りやすい既成宗教的、病的な考え方の急所をつかれ、悪夢からさめたような喜びを覚えたのである。結局私は頭脳をよくしていただいた為に、次々起った薬毒の浄化の為に、深い罪悪感に陥ち、自ら地獄を作っていたのであった。
 又、その後右腕の御浄霊をお願いした時、右頸部に痛みを覚えたので、まずその部の御浄霊をお願いした。明主様はちょっと御手をお触れになった。
 『これだな、随分物凄く脹ってるな、夜寝れぬ事があるだろう』と仰せられ、一、二分御浄霊賜わったろうか、気がついてみると腕はとても楽になり、右半身全体の重量は半減したように思えるし、顔の右半面がとても軽く左半面とズレたような妙な感じである。それよりも、今迄どうしてあんな考えを起したのか不思議なほど、変な妄念の湧起がとれて、何とも言えぬ明るい軽やかな気分にして頂いたのである。言うまでもなく頸部の弩脹は不眠から精神病に進行する毒結である。思えば私は軽度の精神病になっていたのであって、頭脳に渦巻く消毒薬が起す、救いようのないような陰鬱と寂蓼感と相まって、罪悪感を生み、自ら萎縮していた訳である。
 結局、恐るべき消毒薬は頭脳に固結して廃人同様の無能者たらしめ、頸部に固って精神病に至らしめんとし、腕に凝って不随にし、下降しては歩行を不能にし、名状すべからざる苦痛を与えたのである。まことに一人の人間を廃人にし、その人生を滅茶々々にする程の力もつ消毒薬の恐ろしさは戦慄を覚える。
 今仮に、この症状において御救いを知らなかったとしたらどうであろう。この背痛は非常に長く持続する為、医師は脊髄カリエスとしてギブスをはめて固める結果、薬毒は肺へ浸潤して肺結核にされ、これを固めれば心臓や胃に移行するという経過を辿る訳で、その間おそかれ早かれこの世をおさらばになるのは必然である。
 今、消毒薬がいかに恐るべきものかを知らず、医学の進歩とする手術を盛んに行って、多量に体内に注ぐ人々は無数であるが、その浄化が起った場合は一体どうなるであろう。何という戦慄、何という悲劇であろう。