平成30年5月度 ミ ニ 講 座(支部)

平成30年5月度 ミ ニ 講 座(支部)       
何故救世教となった乎

     『地上天国』14号、昭和25(1950)年3月20日発行
 開教以来いまだ三年とは経たない観音教団も五六七教会も、今回統合して一つになり、救世教の名によって新たに発足する事になったのは、いかなる訳であろうか、これは信者の誰しも知りたいと思うであろうから、ここにかくのである。
 以前から私が始終言っている事は、神様は何事も型で見せると共に、型を行わせらるるという事である。その意味においていつかは霊と体、すなわち経(たて)と緯(よこ)と結び、十字形になり、それからが本当の神様の御働きになるという事である。経と緯は火と水であるから、火はカであり、水はミで、カミの御働きになる。
 また仏教は月であり、月は夜の光であるから、観世音菩薩は御仏である以上、夜の月の御働きであるから、絶対力は揮い得なかったのは時期の関係で止むを得なかったのである。従って、いよいよ昼の世界になる以上、仏の御働きはここに解消し、神の御働きとならせらるるのである。それが前述のごとく救世教となった事はもちろんである。

 右のごとく神の御働きとなったとしても、日本古来からある神道とは違うのである。神道は日本の民族宗教で限られたるものである以上、万事世界的になった今日としては意味がなくなったので、終戦後神道の影が薄くなったのも、それに外ならないのである。という訳で、最高の神様は民族や国の差別などはなく世界全人類を救わせ給う事になり、実に有難い時となったのである。ここにおいて適当な名称を冠せなくてはならない、とすれば、救世の名こそ最も相応しいが、救世教では漢字である以上、東洋的で面白くない。そこでメシヤの振仮名を付けたので、これによって東洋も西洋も合せて世界的という訳である。特にメシヤの言葉はキリストに相通じ、文化民族憧憬の名称たるにおいてをやでもある。ま
た聞く所によれば、メシヤと最後の審判とは密接な関係があるという事で、吾らが常に唱える夜の終りと昼の初まりとの意味と同様であるのは意義実に深いものがある。
 ところで、観世音菩薩が神の御働きとなるとすればどういう変り方になるかは、信仰者として最も関心事であろう。それは度々言うごとく、善悪無差別的救いが無差別ではなくなり、善悪をはっきり立別けられるのである。という事は善の御守護は益々厚くなり、悪には今までと異(ちが)いいよいよ厳しく裁かれ給うのである。この点を深く肝に銘じて進むべきである。それには何よりも出来るだけ御神書を拝読する事である。
 神様は、御理想である真善美の完き地上天国を造らるる以上、心の穢れた間違った者を徹底的に是正されなければならないからである。

御神体奉斎に就いて       (栄二百五十五号 昭和二十九年四月七日)

これは滅多にはないがどうかすると偶にはある事だから、ここに注意するのである。例えば最初妻君が入信し、熱心な余り主人や息子がまだ分らない内に、御神体をお祀りする。それを又いいとしている教師もあるが、これは大変な間違いである。いつかも言った通り一家中全部が信仰へ入るとか、そうでなければ相当理解が出来てから、快く御祀りするのが本当である。そうでなく一人でも反対者があるとしたら暫く時を待つべきであるが、何とかして早く入信させたい焦りから、御祀りするのであろうし、又そうすれば早く分ると思うからであるが、これは人間の考え方で神様の方は別である。つまりその人それぞれの罪の軽重、因縁、使命等によって、入信の時期も遅速があるから、総ては神様にお任せしてい
ればいいのである。
それに就いて最近某中教会長が質ねた事は、会員の一人である、或る妻君が来ての話に、どうも主人が分らなすぎて困っていた処、最近或る晩の事泥酔して帰宅するや、何を思ったかイキナリ御神体を破り、神様に関したものは片っ端から放り出すので吃驚し、いくら歎願しても言う事を諾かなかったので、全く申訳のない事を致しました、何卒御無礼の段は御赦しをお願い致したく、明主様に御取次して頂きたいと申して来たので、如何致したら宜しいでしょうかとの事で、私はこう答えた。

それは私が常に言っている事を忘れたからで、一人でも反対者がある場合、決してお祀りしてはいけないと戒めている。それに気が附かないとしたら、つまり御神書の拝読が足りないからである。そこで何より心得べき事は、信仰の根本は本人の自由意志であって、止むに止まれぬ信仰心が湧くのが根本である。それを何でも彼んでも無理に分らせようとするから逆効果となり、反って入信の時が遅れるのである。これに就いて一番知らねばならない事は、世の中の事は二二が四ではいけない。二二が、六、二三が七というように、理外の理のある事を悟るべきで、特に信仰に於てをやである。つまり何事も結果によって判断すべきで、これが千変万化、融通無碍の観音行であるから、この理を充分肚の底へ畳み込ん
で活動すれば、必ず巧くゆく筈である。

本教と天国化運動        『地上天国』6号、昭和24(1949)年7月20日発行
 本教の最大目標たる病貧争絶無の世界とは言うまでもなく全世界をして、天国化する事である。それにはまず個人を天国化し、家庭を天国化し、社会を国家を、ついには全世界を打って一丸としたる天国化であって、これこそすべての宗教が理想としていまだ達し得なかったところのものである。
 ひるがえって現代の娑婆世界をみる時、その余りにも地獄相を表わしている事で、全く眼を蔽わざるを得ない状態で、実に暗黒そのものと言ってもいい。およそいかなる面にも罪悪のない所はあるまい。これに対し、為政者も宗教家も教育家も大童(おおわらわ)となって努力を払うけれども、一向社会悪が減らないばかりかむしろ増加の傾向さえみえる。
 かような暗黒時代に向かって吾らは天国化せんとするのであるから、実に大胆無暴〔謀〕と思われるかも知れない。しかしながら吾らには絶対の確信がある。何となれば一度本教に入信したる誰もが、個人的にも家庭的にも一転して歓喜の生活者となるという嘘のような現実であるからである。これは何らの誇張もない。本誌のおかげばなしを見ればいささかも疑う余地はないであろう。
 この暗黒無明の娑婆世界をして天国化する方法として、吾らは自観先生の揮毫(きごう)になる光の文字を弾丸のごとく発射する。この光の力が暗黒を解かすのである。暗黒の溶けるところ天国化するのは当然である。しかしこんな事を言うと第三者としては到底信じ得られまい。そんな馬鹿な事があって堪るものか、光の文字が生物のように働くなどとは迷信以外の何物でもないと言うのは無理はない。それは過去における一切の経験によって判断するからである。ところが吾々は今やキリストの唱えた最後の審判の迫れるを信じている。これは二千年前の予言であり、過去二千年間の経験にはなかったのであるから。と言ってキリスト程の大予言者が嘘を言われたはずはない。ゆえに最後の審判などという空前
の事態も来ないとは言えまい。右の意味と同様に事実光の文字が有機的に活躍する事実もあり得べき事で信ずるもののみが知る特権である。この事によって吾々は天国化の実現を絶対に信じ、邁進しつつあるのである。


妙智之光               『地上天国』4号、昭和24(1949)年5月25日発行
【問】真を行なうにはいかがいたしたらよいでしょう。
【答】自分のことを第二にし他人を良くするのが誠である。すなわち人良かれの精神、利他的精神である。世の中とか社会のためになることを行なうことである。真とは嘘の反対で本当のことである。しかしながらただ正直のみでも困る。智恵が働かなくてはいけない。常識的判断がよい。自分の国家とか階級だけ良くするのは善いように見えて真ではない。それは小さい真であるから突きつめれば真でなくなってしまう。どうしても人類愛を本として判断しなくてはならない。

妙智之光               『地上天国』5号、昭和24(1949)年6月25日発行
【問】物事が順調に行かぬ場合は浄化でしょうか。なにかのわけがあるのでしょうか。
【答】物事が順調に行かぬ場合は浄化のための場合もあり、時節が来ぬのに焦るからでもある。果物がまだ熟さぬうちに取って食うようなものである。
 その他罪穢があるとそれに相当した邪霊が憑こうとするがこれとても一種の浄化の現われである。しかし誠の心を持てば速く浄化がすみ、善い心掛けと良い行いをすれば運勢が開けるようにこの世はできている。

【問】浄霊が比較的忙しくない場合は、一時的に他の職業と兼ねてもよいのでしょうか。
【答】これは臨機応変であるが、本当は他の職を求めるのはよくない。神様のほうにもいろんな事情があって遅速があるのである。
 私は最初のころよく「散花結実」という言葉を用いたがそういう場合もある。これは花が散って実が実るということで、多くの場合一時さかんになるが花が散る時が来ると暇になるのであるが、実ができるのは時間がかかる。人間は焦りたがるが、閑なのは一時的現象で決して長く続くものではない。なにごとも始めからパッとするのはいけない。実が実るように始めは小さく徐々に大きくなるのが本当である。
 また発展をしない理由は、なにか神様のお気に入らぬことがあるわけもあるから、よくその心と行いを考えてみるべきである。

【問】お葬式に参列の後で用足しをしたり、お墓参りをしてはいけないという理由。
【答】お葬式とか、婚礼とかは人生の重大な儀式であるから、参列したらそのまま帰るのが死者に対する礼節である。よく死汚れと言って死者のそばへ寄ると汚れると言うがこれはたいした意味はない。
 礼節は大事なことで浄霊に行くにも、用足しを先にすると効果が薄い。これは主客転倒であるからである。神社参拝も同様でお詣りは先にする。それから用を足すのが本当である。


  (世界救世(メシヤ)教元理事長)木原氏の言葉 (S30.8.15)

 (中略)この前言った通り、自分の病気を治してもらいたいというような、不甲斐(ふがい)ないことを二カ月も三カ月も続けて思っているようではだめなんです。そんなのはソーッとしときなさい。なるべく人を助けにゃならんと思う人達が、これから先は急速に出て来なきゃならん。一日二日同じような状態になって来ると、先生はああ言われるけれど、早う浄化が来ればいい。手前はまだウンと曇っている癖に、早う浄化が来ればいい……と思っていると、自分が先に潰れなきゃならん。いつ大浄化が来てもいいように、早く自分がチャンとなって、人助けのできる人を作ることです。それを作るおかげで、こっちがよくなってゆくんですからね。そこのところを忘れんようにしなきゃだめです。〃私は十年も
信仰しとります。〃なんて言っていながら、おかげで家の浄化の時は先生に来ていただくからというのではだめなんです。そんなのは足手まといになってしようがない。十年もかかってそんなのなら、私のような皮肉屋だったら、ほー十年もたってやっとあなたのところだけですか。これは大したひまがいるもんだべーと思いますよ。そういうところにも一つずつ気付くようにならなきゃならん。
 教導師専一にやっている人達でも、ちょっとしたところで想念が大変な違いになって来る。今日は何人来たからこれでいい、というような事ではしようがない。何人来てもこれでいいということはない。すこし少なくなるとどこが悪いのだろうか、と心配ばかりして、そしてお詫びばかりしている。お詫びばかり毎日しているのは、お詫び仙人と言う。お詫びというのは、一ぺんしたら二度と繰り返さんようにしてゆかなきゃだめです。何べんでもするのは、お詫び仙人というのだ。本当なお詫びをせんから、毎日お詫びをするわけです。(中略)

 (中略)神様は、その人を本物になすため、あらゆる方法をとられる。わからにゃわかるようにするぞよ!とおっしゃるから、素直になるよりしようがない。そのこつあいが、わかって来なきゃならん。「お守様を頂いておってどうしてあのようなことがありましょうか。」というのはわからん人の言うことです。その時に普通の人間はわからんものだから、こうだった、ああだったと、あった事を悪いように言う。本当はいいことだけしか起こらない。それは後にならなきゃわからんから困るのです。間違うのも当り前なんです。ちょっとこういう話はよほど信仰が進んでこないとわかりません。例えばこういうことです。明主様を、お迎えしたら悪いことは起って来ない。ただ悪いと思うだけなんです。なぜ思う
かというとそれが棒です。自分の持っている体験から割り出して決めるからです。それも審(さば)きです。あの時はこうすればよかった、というのはもうだめです。神様の御守護の中でいろいろのことが起っているのだから、今までを振りかえって見て、今までの全部に感謝が湧かなきゃだめだというのは、そこなんです。もし今まで暮してきたそのどれ一つでも、ああこうすりゃよかったと、もしちょっとでも思うなら、それはだめなんです。なぜだめかというと、神様に不平を言うているからです。そうすると神様を何と思うとるか。神様は絶対の力を持っておいでになる。その中につまり御守護の中にあるんですよ。私がここ出たらすぐ死んだとすれば、死ぬるほうがよかったということです。決して死んで
悪いということはない。死んで悪いような神様なら、地上天国なんて出来はしません。地上天国は出来るんですからね――。その御用を我々がやってるんだから、あったことに絶対に悪いということはないのです。それで始めてわかるんです。


浄化は神様から頂くもの 『地上天国』18号、昭和25(1950)年11月25日発行
   兵庫県加古川町市寺家町三丁目  天国大教会神光中教会 板戸常治(36)
 不思議な御縁によりまして曇り切った罪多き我が家にも畏くも神様の御救いの御手は差し伸べられて、昭和二十二年四月家族一同御入信させて頂きました。それ以来、奇蹟の連続という程次から次へと智慧学に解けぬ不思議な御蔭を頂き、神様の実在もはっきりと知らされ、ただただ有難さに家族一同幾度感泣致しました事か知れない程で御座います。
 昭和二十二年十月頃より家族一同疥癬の浄化を頂いたのでありますが、十月末より秋の取り入れで農繁期に入りました。当時私も体の方は疥癬の浄化を頂いておりましたが、秋の取入れに従事しておりましたところ、十月三十一日には手の浄化を頂き手が使用出来なくなって来ました。十一月になればいよいよ多忙期に入りますが、私が手の浄化を頂けば、今年の秋はどうして取入れを終るか、妻は二人の子供の浄化に手を取られ、妹は三人共手の浄化で休ませて頂いております。人を雇うにも皆取入期で雇う人もありません。十月三十一日の夜は家族一同、どうすればよいかと種々思案に暮れましたが、御神前に額き、御守護をお願いしてその晩は寝んだのであります。翌朝起きて見ますと不思議にも昨夜痛んだ
私の手はすっかり癒して頂いております。反対に妻は昨夜まで何ともなかった手が朝起きて見ますと、両手の表裏に吹き出ており手の浄化を頂いております。一晩の中に私と妻と浄化の交代をさせて頂いているのであります。
 ああこれが御守護でなくて何でありましょう。あまりにもはっきりと、自由自在になさる絶対力に驚歎したのであります。
 私の手を癒して頂いたので秋の取入れも無事終らせて頂くことが出来ました。
 但馬地方では十二月末頃から翌年三月になるまでは雪のため閉じ込められて百姓も野良仕事も出来ないのが普通で御座います。
 秋の取入れも終り冬籠りの準備も全部終ってから父も手の浄化を頂き、家族九人共休ませて頂いておりましたが、不思議にも母一人のみは体の方は疥癬の浄化を頂いておりましても、手には全然出ません。もし母も同じように手の浄化を頂いておりましたら、炊事をする者がなく困ってしまいますが、炊事をする者一人だけは手の浄化はありません。また熱や痛み等も家族の中で交互に頂き昨日熱が出て苦しかった者は今日は楽にして頂き、楽にして頂いた者が苦しい者の御浄霊をさせて頂き、今日楽にして頂いた者は明日は熱や痛みの浄化を頂くというように、実に不思議に家族の者が交互に浄化を頂いたのであります。
 三月になって雪も解けて百姓もぼつぼつ野良仕事が出来るようになると同時に家族一同疥癬の浄化を終らせて頂き仕事も出来るようになり、ただただ有難さに感泣したのであります。
 神様の御都合とあらばいかなる大浄化も一晩で癒して下さると共にその人の都合のよい時期にいかなる浄化も神様から頂くものである事を身を以って体験させて頂いたのであります。大浄化を癒すことも、大浄化を与えることも自由自在である絶対力の神様であって始めて病貧争絶無の世界である地上天国建設も可能と信ずることが出来るのであります。
 浄化は神様から頂くものであり、神様の恩恵により健康にせんがための浄化であるとは知らず今日まで病気は悪いものとの解釈により、医者や薬を手放す事も出来ず、神様の御意志に反し、自ら底なき沼に沈み悩みし我が家も家族揃って次第に恵まれ何の不安もなく明るき楽しき家庭にして頂いたのであります。
 明主様の宏大無辺の大恩の万分の一なりと微力ながら御報いさせて頂きたく念願致しております。誠に拙文で御座いますが、私一家の疥癬の浄化の体験を御報告させて頂きます。