このミニ講座は月に一
度、メシヤ講座とは別に当
支部で開催している勉強会
をミニ講座として会員等が
学んだ内容を掲載していま
す。

 たまには、ページ数が多
い時もありますが、どの月
もほぼA4版にして約6ペー
ジ前後でまとめてあり、1
時間程度で読めるようにし
ています。

 もし、皆さんの信仰の向
上に役立つようであれば、
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下さい。

 

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平成30年12月度  ミ ニ 講 座


  ミロクと千手観音様、一厘とメシヤ様について(2)
“千手観世音菩薩と不空羂索観世音菩薩とはどう違ふので御座居ませうか。
“御名によってお働きが違ふ。千手観音は凡ゆる権力や物質の――邪神に奪られていたのを取返すお働きである。今迄、邪神の手にあったから災いや苦しみの原因となった。観音様の御手になると、幸福になり、救ひとなる。(御手は両方が十九本づつで真中が托鉢になっている)
  不空羂索観音は、不空は空に非ず、即ち現実の働きといふ事。蜘蛛の巣や網の目のように  悪魔を制えつけるといふ意だと思ふ。邪神が働けぬように、大小の網で制える訳である。現在は――五六七世まで千手のお働きである。故に御讃歌の冒頭に、千手観音の事をお書きになった。
  聖観音は教えを説かれる。一つ所にじっとして、落ちついて教えをお説きになる。千手観音は落着いてはおられるが、手を方々へ出される。            (S23)

(前略)神は唯物文化の清算をされ給う時期が来た事は明白であって、邪神の目的通りにならんとする其一歩手前に来た現在、神は私を通じて真相を明かにさせ給うのである。之を深く考えれば其深遠微妙なる大神策は、実に端倪すべからざるものがある。茲で別の意味からみれば、神の力は十全であり、邪神の力は九分九厘であるから、神の方が一厘勝っており、此一厘の力を以て掌を反すので、此力こそ如意宝珠であるから、私が常にいう如く、現代文化は九分九厘迄で切替えとなり、其時がキリストの言われた世の終りであるという訳である。従って、此時こそ霊界に於ては仰天動地の一大異変が起るのは必然で、此事を信じ得る人にして、永遠なる幸福者となるのである。(後略)       (「九分九厘と一厘」栄138号  昭和27年1月9日)

“五六七(ミロク)(火、水、土)、六六六(水、水、水)、三六九(水、水、水)の意味を御教えを御願い申し上げます。
“五六七は火水土であるが、今迄火が下に隠れていた。東洋は土が上で水が下で、釈迦は土の弥勒である。西洋は水が上で、土が下。
  六六六は夜の世界である。水の世界であり、物質万能の世界である。今迄は六六六の世界であったが、今度は天の一が地に降って、天が五に、地が七になると言ってある。その一が如意の珠で、如意宝珠、麻邇の玉―即ち主の身魂にもなる。九分九厘と一厘といふのもそれで、地へ降りると五六七の順序が正しくなる。(お守のヽ)
  三六九といふのは、すべてが三六九になる。これが正しい順序となるのである。(後略)
                        (「五六七、六六六、三六九」S23・11・21)

(前略)私の方で九分九厘と一厘と言う事を言いますが、九分九厘迄悪が勝つのですが、一厘で掌を引繰返すと言う事ですが、つまり一厘の力です。一厘の力と言うのは物質面の力ではないので見えざる霊的の力です。此の力で悪を押返して今後は善の方が多くなるのです。それで悪は全然無くなると言う事はないがつまり善の方が勝つのです。そういう時期と言うものは今なのです。それでキリストが言った「世の終り」とか「最後の審判」とか言うのは今迄の悪が勝っていた世が終るということです。それを今私はすっかり書いているのです。之は文明の創造という本です。(後略)
        (「為郷恒淳氏との御対談  一厘の神様のお仕組とは?」栄179号  昭和27年10月22日)

“「御観音様は菊供養」といふ事はどういふ事で御座いませうか。
“菊供養は九月九日、重陽の節句である。九九は、九分九厘、観音様は一厘になる。
  九分九厘の世の中に表はれる一の身魂といふ事。大本では一厘の仕組といっている。一厘の身魂といふ。九分九厘と一厘の戦いで、九分九厘の世の中を一厘の身魂が表はれて覆すとある。以前或人から一厘銭をもらい、又明治四年の銀貨と天保銭をもらった。
  大本教祖は釈迦の生れたもの。聖師は法身弥勒で阿弥陀如来、素盞嗚尊である。弥勒三会といふが、三人のミロクが一ぺんに会ふ事である。それが済んだ訳で、弥勒三会の鐘が鳴るといふ事がある。                       (重陽、菊供養 年代不明)

(前略)ですから丸のポチが今迄無かつたのです。ポチが隠れていた。ですからこの輪(○)――つまり言わば空つぽです。ですから今迄は空つぽ文明です。そこでポチですが、ポチは一厘なのです。之(丸)が九分九厘なのです。九分九厘と一厘というのはそういう訳です。で、一厘の仕事をするのが私の使命なのです。 (後略)    (御教え集13号  昭和27年8月16日)

“麻邇の玉は、完全無欠の魂、観音様の霊になる。玉は魂で、立派にいふ為宝珠といふ。五六七の三位一体の力を発揮出来る玉で、世の中を本当に救ふには、麻邇の身魂の力でなくては救えない。                                                          (S23・6・23)

“『大神のマニの力に依らざれば曲津神には勝たん術なし』と仰せられて御座いますが、麻邇の力と申し上げるは、どう云ふ御力で御座いませうか。
“マニの玉とは、完全無欠の魂といふ事。之は神道の言葉で、仏語では如意の宝珠といふ。又五百津美須麻琉の玉ともいふ。五百津は五で、美須麻琉は三で、いづのめの玉(魂)となる。如意は、意のままにする力で、如意輪などといふのは、如意の力を揮ふお働きをなさる観音といふ事になる。これは日月地三位一体の力であり、霊体一致の力、自由になる力でもある。
                                                          (年代不明)

(前略)世界制覇を目的とする邪神の赤龍黒龍という連中は、世界に勢力を張っている民族をできるだけ弱らせて、最後に武力をもってやっつけてしまい、世界を自分のものにするという事を、二千数百年前から計画を立てているのです。そしてそのとおりになって来つつあります。(中略)そこでその手段というのが薬をのませる事です。薬でなく毒をのませて弱らせているのです。それで“薬は非常に効き、病気をなおすものだ”という様に巧妙に瞞ましたのです。注射とか、手術というのは、みんな邪神の巧妙な計画なのです。日本もそのお相伴(シヨウバン)をして、今盛んに弱らせられている現状です。これが九分九厘です。九分九厘まで文化民族を瞞ましてしまったのです。それで私が医学の革命という事を始めたのは一厘の仕組です。この九分九厘と一厘という言葉は、それが根本なのです。そうして目覚めさせるというわけです。
(後略)                       (御教え集19号  昭和28年2月5日)


御教え 嘘と幸福              (地173号  昭和39年2月1日)
  私は約三十年前信仰生活に入ったのであるが、それまでの私は、その考え方がまことに不徹底であった。というのは、悪いことはすべきものではない、善いことをしなければならない、ということはつねに思ってはいるが、さてそれを実行に移そうとなるとどうも勇気がでない。というわけで、善悪ともにはなはだ微温的であった。恐らく世間にはこのときの私のような考え方の人が多いであろう。ところが信仰がだんだん深まるにつれて霊界と現界との関係はもちろん、神様のご意志というものがはっきり判り、考え方が断然変ってしまったのである。それはどういうことかというと、悪いことは想像以上大きな罪になり、善い行いはこれまた想像以上善果を得るということで、ここに心境の一大変化とともに、悪を絶対排斥し、善を極力実行に移すというように方針が変ったのである。ところが驚くべしそれからというもの、運勢が不思議にひらけはじめた。これなるかなとますます自信が強まり、実行すればするほど、それと交換するかのように良いことがブツかってくる。もちろん多数からの信頼も日に深まるというわけで今日におよんだのである。これはまったく幸福の哲学でもあろう。
  以上私自身の体験のみではない。世間多くの人を見るにつけ一生懸命努力するにかかわらずどうも思うようにいかない。時には躓(ツマヅ)いたり、損をしたり、骨折る割に人から好く思われない、信用もされないというわけで悲観する人がよくあるが、そういう人を仔細に観察してみると、かならずどこかに間違いのあることを発見する。とくに嘘を平気でつくということが一番悪いのである。かような人は、なによりもまず自分自身の心をよく省みることであって、かならず心のそこにその原因を発見するはずである。なるほどいままで如何に努力しても思うような結果を得られないのは、確かに自分の罪であることを悟るであろう。とくに信仰者は神様から選ばれたのであり、世人の模範たるべく約束されており、なおさら道にはずれることはできない。どこまでも俯仰天地に愧じないという心境であらねばならないので、そういう人こそ神様から愛されるからご守護も厚く、心はつねに明朗で、悠々として生活を楽しみ、敵を作らず、怨みを買わず、多くの人から尊敬を受けるようになるから幸福者となるのである。
  特に注意すべきは嘘をつくという一事である。殊に日本人の嘘つきということは世界的に知られているが、まったくそのとおりで、つねに嘘をつく人は、それが習性にまでなってしまって、自分はあまり嘘つきとは思っていないようになるものである。こういう人は自分の心の標準を高く揚げて、鋭い批判をしてみるといい。かならず嘘発見ができるわけである。それについてあまり人の気がつかない嘘を書いてみよう。
  それは約束時間を守らないことである。おそらく日本人中約束時間を厳守する人は幾人あるであろうか。この点外国人の時間厳守の話を聞くたびに私はうらやましく思っている。時間を約束して守らないということは人を騙したことになり、立派に嘘を吐いたことになる。嘘ばかりではない。相手を怒らせるからこれも罪になる。罪の二重奏である。ところが日本の社会では時間を守らないことが当然のようになってしまって、これに関心をはらう人はまことに少ないようである。昔から嘘つきは泥坊のはじまりという諺があるが、あるいはそうかもしれない。泥坊でないまでも些かの誤魔化しくらいはやるかもしれないと想われるのである。
  これについて私のことを書いてみるが、私は朝起きると予めその日のプランをたてる。何時から何時まで、何分から何十分まで何の仕事をするというようにきめておく。したがって、約束をした人がその時間より後れるとプランが崩れる。時によると滅茶々々にさえなってしまう。それがため三十分の予定の仕事が十分か十五分に切りつめなければならないことになるから、予期の成果が得られない。もちろん不快も手伝うからでもある。このとき痛切に思うことは、日本人の時間の観念があまりにとぼしいことである。したがって、ほんとうに改心するとしたら、一番身近なところすなわち約束時間の厳守で、これが嘘を追放する手始めとなろう。私がつねに思うことは、新日本建設の第一歩としては、まず日本人全体が約束時間の厳守からということを言いたいのである。
  こういう話がある。昔天下の富豪岩崎弥太郎氏に見込まれその入聟となり、ついには総理大臣にまでなった有名な加藤高明氏は、若い頃三菱北海道支店に在職中、部下の一員がたまたま私信をだすのに三菱の社名入り封筒を使ったのを高明氏がみて戒告を与えた。それは私事に社用の封筒を使うのは、たとえ封筒一枚といえども盗みになるといって、それから社員全部に社用の封筒を使うことを禁じた。なるほどそれに違いないが、この社用封筒を私事に使うことは今でも世間普通のように思われている。これによってみても高明氏の識見が高邁でいささかの間違った行為も許さないことが窺われるのである。
                             本稿は、昭和二十四年頃ご執筆になられたご遺稿であります。
御教え 頑張り              論文集未定稿(年代不詳)
  世間よく頑張りという言葉を聞くが、之は近頃出来た言葉らしいが、此言葉の意味を考えてみると、どうも人間の力に頼りすぎる感じがする。それは事実をみても分る通り、成程一時は効果があるやうだが、結局に於て反対の結果が多いやうである。特に信仰者はそうであって、此点世間の人とは大いに違う。というのは頑張りという言葉は已に神様を忘れてゐる訳である。勿論私と雖も昔はそういふ事もあったが、信仰の真髄が分るに従って、甚だ間違ってゐる事がよく分るのである。
いつもいう通り、信仰の妙味は何事も神様にお任せする処にあるのであるが、信仰の浅い人はそれだけではどうも頼りない気がするので、自力に頼るといったやうにその点ハッキリしない。といってもお任せきりでも困る。ヤハリどこまでも人力を最大級に尽す事であって、そうしてをいて神様にお任せする。此点難しくもあるが又妙味もある。処が茲に間違い易い事がある。それはお任せして安心してゐると、思はぬ災が振りかかる場合もある。そこで迷うのだが実は神様はその人の信仰を試す場合、ワザと迷うやうな苦しみを与へる事もある。そこを頑としてフン張れば及第した事になるから、その後は結構にして下さる。その場合邪神のする事を許される。つまり神様は邪神を利用されるのである。即ち何れにせよ結果は良いのであるから、徒らに人間的考へで決めるのは危い話である。それには何よりも心の持ち方が肝腎である。之に就いて大本教の御筆先に斯ういふ一節がある。“御蔭は心でとりて下されよ”と実に寸鉄殺人である。
  そうして此事は世の中を見ても分る。その最も大きい例は此間の戦争である。最初は大いに勝って有頂天になってゐたが、それも束の間でいつしか段々不利になって来た。その時気がついて方策を立て直せばいいが、仲々そうはゆかないもので、遂にアレ程の惨めな終幕となったのである。此原因の一つは、誰も彼も勝利を夢見て、飽迄頑張り通そうとした点である。つまり頑張れば頑張る程無理が出来、結果は逆になるもので、近くはヒットラーの失敗にしてもそうで、何れも頑張りの失敗である。先づ頑張りで勝つのはスポーツ位であらう。
  今一つ注意したい事は、何事も時節がある事で、之から萌えやうとする春の季節と、凋落に向ふ秋の季節があり、作物にしても種蒔き、穫入れ等それであるやうに、人間の運命もそれと同様であるから、その点よく見定めてから着手する事である。私の経営がスラスラ行くのは神様の御守護は勿論だが、行り方もそれを方針としてゐる為である。又世の中の推移時世の変化も、近頃は特に甚だしいので、今可いと思った事でも忽ち変る事がある。最近の経済界にしてもそうで、一時特需景気などといっていい気持になってゐたのも束の間、貿易逆転、金詰り、不渡手形の激増等目も眩むやうな変り方である。以上ザットかいて此位だから、他は推して知るべきである。ではどうすればいいかといふと、大して難しい事はない。つまり頑張りも一種の執着であるから、之を慎む事であると共に、成功だけを考へないで失敗も必ず算盤に入れる事で、失敗したら斯うと予めその方法を立てて置く事である。又やり始めてみて少しまづいと思ったら一時陣を退き、徐(オモム)ろに考えて行り直すのである。
  私は神様が後に居られるから左程まで心配はしないが、それでも一寸やってみて、何か故障が起ると直にやめて了ふ。その例として熱海地上天国の美術館の予定地にしてゐたアノ地所へ、最初手を付けるや、確かジェーン台風だったと思った、その台風の為一部に地崩れがあったので、之は止めよとの事と思ひ、晴々台に替へたのである。まだ色々あるが、一例だけかいたのである。