このミニ講座は月に一
度、メシヤ講座とは別に当
支部で開催している勉強会
をミニ講座として会員等が
学んだ内容を掲載していま
す。

 たまには、ページ数が多
い時もありますが、どの月
もほぼA4版にして約6ペー
ジ前後でまとめてあり、1
時間程度で読めるようにし
ています。

 もし、皆さんの信仰の向
上に役立つようであれば、
ご自由にコピーして御使い
下さい。

 

 当HPのご利用に当って
は、閲覧される方の自己責
任に基づいてお願いしま
す。


※何か質問などある場合
は、「お問い合わせ・質問
等」の欄よりメールでお願
いします。

平成28年8月度 ミニ講座

「明主様からメシヤ様へ」、
     そして「光の玉について」

  「メシヤの降臨---選ばれた人間の肉体に宿る」
                      (「天降説」昭和二十三年)

「キリストの再臨と云ひ、メシヤの降臨と云うが、これは肉体その
ままを以て天から降るのではない
。それは
特殊の神霊が天から降下
し、選ばれた人間の肉体に宿る
のである。彌勒下生と云うも彌勒の
御魂が下生、つまり下層社会に生れると云う訳である。又胎蔵彌勒
と云う言葉があるが、之は仏教の内に胎中の期間を言うので、実は
已に誕生されたのである。従而、彌勒が生れた以上仏界は最早消滅
期に入ったのである。彌勒出現成就経に仏滅後彌勒が生れると云う
事が書いてある。(後略)」




 「私は自分から救世主と名乗る事は好まない」
                 (「救世主は誰だ」昭和23年10月20日)

「(前略)救世主即ちメシヤなる言葉は、洋の東西を問はず、時の古
今を問はず、如何に言ひ古された事であらう。全人類待望の救世主
なる超人間的力の持主が、現実に此世の中に生れるべきものであら
うかといふ事
であるが、一部の宗教信者を除き、世界の大多数者
は、単なる理想的希望でしかない、大きな夢でしかないと思ってゐ
ると見るのが間違ひない事であらう。尤も俺は救世主だと誇称する
人も稀にはあったが、時の推移と共に何れも消えてしまふにみて
も、未だ真の救世主は表はれない事は明かな事実である。


 私は自分から救世主と名乗る事は好まないのである、といって救世
主ではないと断定する事も出来得ないといふのが偽らざる告白
であ
る。実に
救世主出現といふ事重大なる問題は、人類史上曽てない
事は今更いふ迄もない。此意味に於て決して軽々に論議すべきでは
ない事も勿論である。飜って考ふるに、救世主出現は単なる人類の
理想と極める事も出来得まい。何となればキリストの再臨もメシヤ
の降臨も、ミロク下生も、往昔の聖者が予言してゐるに於てをやで
ある。故に、何時かは出現の可能性がある事を信じない訳にはゆか
ないのである。


 之から私の心理描写にとりかかるのであるが、私は救世主の第一条
として以前から考えてゐた事は、何よりも先づ人間の病気を解決
する事
であって、人間の健康を完うし天寿を得させるといふ事の絶
対的方法を授ける
と共に、それへ具体化する力を有する--その資
格こそ救世主としての最大要素
であらねばならない。勿論肉体の健
康と相俟って、精神の健康が伴はなくてはならないのである。


 ナザレの聖者キリストの曰った、「汝世界を得るとも、生命を失へ
ば何の利かあらん」といふ有名な言葉によってみても明かである。
此意味に於て、人類から病気を滅消し得る力のない宗教も、宗教家
も、その価値は限定的のものしかない
といえるであらう。私は此理
論を常に抱懐してゐたのである。然るに、私が信仰生活に入って十
数年を経た頃の或日、
病気の根本原理と、その解決法とを知り得た
のである。嗚呼、其時の私の驚きと喜びは、何人も想像はなし得な
いであらう
。何となれば今日迄の世界の人間のうち、之程大きな発
見をしたものは絶無であったからである。如何なる大発見も大発明
も、此事に比較すれば問題にはならない
。実に私といふものは何た
る不思議な運命を持って生れたものであらう。」




 「或時期までは神様から発表を禁じられている」
                                       (「五六七大祭」救53号  昭和25年3月11日)

「(前略)大体、メシヤとはキリスト教と深い関連があるので、此解
釈は欧米に於ても諸説紛々として今以て決定はされないようであ
る、というのは人智では深い神秘の奥を探り当る事は困難であるか
らである。

 私自身としても未だメシヤとは名のらないと共に、キリストの再
臨ともいはない、
之は或時期までは神様から発表を禁じられてゐる
からでもある、尤も仮にメシヤの降臨などと思はれでもしたら大変
である、世界中からワーワーとやって来て、到底仕事など出来るも
のではないからである。

 今日確実にいえる事は、世を救ふべく大経綸を行ふ事である、之
現に私が行ひつつある事実を見れば判る、救世(メシヤ)教の名を冠し
たのもその為である。(中略)


 元来、宗教とは読んで字の如く宗祖の教である、彼のバイブルと
いい経文といい、コーランというも畢竟文字を介して教え人間の魂
を目覚めさせる
のであるから、畢竟人間の自力である、処が今日は
もはや人間力では間に合わない事になった、勿論教も必要ではある
が、それ以上大神力の発揮がなくてはならない
、といっても生神様
的個人の力でもむづかしい、どうしても
全人類を主宰し給う主の神
即ちヱホバの絶対力の発現
である、勿論人類発生以来今日まで、右
のような大神力は出なかった、それは地上天国準備だけの力でよか
ったからである、言はば本教と同様これまでの世界は楽屋であった
訳である、処が
いよいよ時期熟して世界は茲に一大転換と共に、
国樹立
といふ神の理想実現となった
のである。

 此事が根本であって、之を深く認識する事によって初めて大神業
に参加され得る資格者となる
のである。」



   「メシヤというのは許す方」 
                  (御光話録  昭和23年9月28日)

メシヤといふのはヘブライ語ですから一寸日本語には解し難い。
意味は
救世主、救ひ主といふ事です。キリスト教の人はキリストが
救ひ主だと信じてゐるが、本当は贖罪主
であって救世主とは大変違
のです。万民の罪を贖った人、罪の代表になり生命を「ギセイ」
にして初めて許された人ですが、
救世主の方は許されるのではなく
許す方
です。」



   「私は許し主」
                 (御教え集9号  昭和27年4月6日)

「(前略)キリストは贖罪主なんです。贖罪主と言うのは、一つの会
社なら専務ですね。専務みたいなものです。若し会社で色んな過ち
があつたりしますと、専務が代表者になつて、許して呉れと言つて
社長にお詫びします。贖罪主と言うのは、そう言うもの
です。万民
の罪を御自分が負つて、万民になり代つて十字架にかかる。贖罪主
とは別に、社長――即ち、
よし許すと言う、許し主がなくてはなら
ない。私は許し主
なんです。(後略)」



   「私の名称に就て」
                 (栄121号  昭和26年9月12日)

「(前略)私は現在は光明如来の働きを主にしておるので、釈迦如
来、阿彌陀如来と同等の地位
として、釈迦如来がよく曰われた十大
弟子の意味と思えばいいのである、又浄霊を専門にしてる人と、普
通信者と紛れ易いので、そう言った方が判り易いからでもある。

 以前私は大先生と呼ばれた事があったが、其時は観世音菩薩という
菩薩行であったからそれでよかった
が、
如来となってから明主の名
にした
のである、又自観とは自分は観音の働きをしてるという意味
であり、 (中略)

 そうして神様は私の霊的地位や、仕事の関係などから、相応した
名前を御付けになる
ので、今後と雖も名前が変るかも知れないし、
変らないかも知れないと思うが、考えてみると
明主の言霊は、メシ
ヤと五十歩、百歩
だから、或いはメシヤの名前になるかも知れない
とも想っている。」    



  「私に憑いているのはメシヤの神様」
                (御垂示録12号  昭和27年8月1日)

「(前略)神様の格にあります。高い神様だと光が相当あります。普
通は白い煙です。靄の様なのです。産土さん位になると薄光があ
る。神という名が附くと薄光がある。
良い神様になると段々光が強
くなつて来る
。産土の神というと其土地丈の光しかない。それから
国魂の神様というと、相当広い範囲になる。天照大神、素盞嗚尊と
かそういう神様になると、日本とか朝鮮とか、それ丈の大きさの光
になる。で、
世界全部の光というと私に憑いているメシヤの神様
す。之は世界全部になる。それで世界メシヤ教と言うのです。(中
略)ですから、
私に憑いている神様というのは一番光が強いのです。
(後略)」




 「私に居る神様は一番最高、私が拝む神様は無い」
                (御教え集32号  昭和29年3月27日)

『明主様に御救い願う霊界よりの通信』の内容(地上天国58号)(省略)この中
にある「
明主」というのは、つまり私の代理なのです。それで私の
代理になって仕事をする私の部下の神様が幾人か居る
のです。それ
何かの重要な事に私として出るのです。ですから私と思って差支
えないわけです。それから天理教の教祖の事は、何時か話をした事
がありますが、静岡県の留置所に居る時にいろんな霊を呼んでいろ
いろ話をした時に天理教の教祖とも話をしたのです。それで救って
くれ、宜しいと言ったその事を言っているのです。


 こういうような工合です。ですから私に居る神様は一番最高なの
です。ですから
私は神様を拝んだことはないと前にも言った事があ
りますが、
私より上の神様は無いのだから、別に拝む神様は無い
けです。それで私は拝まないわけです。けれども、こういう事が時
節によってはっきり出て来るので、
私は自分で"オレは救世主だ"と
か、そういう事は言いたくない
のです。つまり事実で見せる、事実
によって"なるほど"力と結果において"そうだ"という事を分って、
それが本当なのです。(中略)」


今までのキリスト、釈迦、マホメット等は、こうやって(手をかざ
して)病気を治す事ができなかったですし、しかもこうやって病気
を治す人を作れなかった
のですから、そこにおいて、力において想
像できるわけです。それで私は自分自身ああこうと、ドエライ事は

言いたくないですから言わないのですが、だんだん時節に応じて
ういう事が証拠立てられ、
分らないわけにはゆかなくなって来る
です。(後略)」 





  光の玉(麻邇の玉、如意宝珠)について
          
(前略)それは私の腹中に平常は直径二寸位の光の玉がある、之は見
た人もある、此玉の光の塊から光波は無限に放射されるのである、
然らば
此光の玉の其本源はどこにあるかといふと、之が霊界に於け
る観世音菩薩の如意の玉から、私に向って無限光を供給される
ので
ある、之が即ち観音力であり、不可思議力妙智力とも言はれるもの
である、如意輪観音が持し給ふ玉も之である。

  (「神示の医学  浄霊の原理  -第三-」光号外  昭和二十四年五月三十日)


"神道では麻邇の玉、仏教では如意の宝珠と云ふので、玉とは魂の事
で絶対力の意味
です。今まで世に出た事がなかった。で、本当の事
を云ふとおかしいが、之は私の腹の中に在るのです。だからいろん
な事が出来るのです。人を治す事も、キリストは僅かに十二弟子だ
けしかその力を授けられず、釈迦とても往来で急病で死んだのは自
分の体すら治すだけの力がなかったからです。
私はキリストと違っ
て何万人でも人を治しうる人を作ることが出来る。この働きが麻邇
の玉
です。(後略)      (御光話録2号  昭和二十三年十二月八日)


"麻邇は神道、仏教で如意宝珠の事。  完全無欠の魂――丸い玉。
 どんな偉人でも丸い玉はない。真ン丸でなく、角がある。
 力は完全の魂から発する絶対力である。如意の珠――何でも思うよ
うになる。神道で
五百津美須麻琉の玉といふ。 (講補 年代不明)


"麻邇の玉は、完全無欠の魂、観音様の霊になる。玉は魂で、立派に
いふ為宝珠といふ。五六七の三位一体の力を発揮出来る玉で、世の
中を本当に救ふには、麻邇の身魂の力でなくては救えない。

                                       (講補S23・6・23)

"一番力のある玉である。絶対力ある魂、麻邇(マニ)、完全無欠、神様
の魂
といふ訳である。禅宗坊主の如意は、それを形どったものであ
る。大先生のおやりになってる事は如意の働きである。

 観音様は如意の玉を持っておられたのであるが、本当に発揮する事
は出来なかった。それは、夜の世界で、水素多く、玉が包まれてい
たから充分に力が出なかった。

 一名五百津美須麻琉珠ともいふが、美須麻琉とは、三つの澄んだ玉
といふ事である。故に五三、
いづのめの魂といふ事である。
                     (講補 年代不明)

"マニの玉とは、完全無欠の魂といふ事。之は神道の言葉で、仏語で
如意の宝珠といふ。又五百津美須麻琉の玉ともいふ。五百津は五
で、美須麻琉は三で、いづのめの玉(魂)
となる。
如意は、意のま
まにする力
で、如意輪などといふのは、如意の力を揮ふお働きをな
さる観音といふ事になる。これは日月地三位一体の力であり、霊体
一致の力、自由になる力でもある。     
(講補 年代不明)



   「如意宝珠、麻邇の玉とは主の身魂」

五六七は火水土であるが、今迄火が下に隠れていた。東洋は土が上
で水が下で、釈迦は土の弥勒である。西洋は水が上で、土が下。

 六六六は夜の世界である。水の世界であり、物質万能の世界であ
る。
今迄は六六六の世界であったが、今度は天の一が地に降って、
天が五に、地が七になる
と言ってある。その一が如意の珠で、如意
宝珠、麻邇の玉―即ち
主の身魂
にもなる。九分九厘と一厘といふの
もそれで、地へ降りると五六七の順序が正しくなる。(お守のヽ)
(後略)                 
(講補S23・11・21)



  「夜の間は三界(天界、中界、地界)は
             殆ど水で六、六、六」

(前略)夜の間は三界(天界、中界、地界)は殆ど水だった。六、
六、六だったが、今度は五六七になり、
天の六が地に降り土の力が
加はる
。金剛不壊の力だ。絶対力になる。いかなることでも自由に
なる。神道で云ふ
マニの玉とは完全な玉の事ですネ。これから先は
神秘になるから又時期に応じて説く。(後略) 

               (御光話録  昭和二十三年二月二十八日)

「お筆先にあります『天が六、中界が六、地が六』と言うのは、何
う言う意味で御座いましようか」

 そうですね――つまり、夜の世界だつたんですね。天も夜、地も夜
と言うんですね。面白い譬喩ですね。
一厘の御魂が天から降りて、
天が五になり、地が七になると言うのは嘘じやない
んだからね。(中
略)             
(御垂示録3号  昭和二十六年十月五日)



   「一厘の御魂こそポチであり、麻邇の玉」           

(前略)度々言う通り、右の三聖者は本当の順序からいへば日月地、
火水土のそれであり、五六七でもあるので、此数を合はせると十八
になる。此十八の数に就て、大本教の御筆先に斯うかいてある『今
迄は天が六、中界が六、地が六でありたものが、
天から一厘の御魂
が地に降られた
ので、天は五となり、地は七となりたのである
よ』と。然し
此意味は最も深奥なる神の経綸であって、此一厘の御
魂こそポチであり、麻邇の玉であり、如意宝珠
であり、之によって
五六七の御代が生れるのである。(後略) 

            (「宗教篇  彌勒三会」文創  昭和二十七年)

「(前略)二十五年から先になると、日月地(ミロク)のお働きになり、如
意宝珠の働きになり、絶対力を発揮出来る。
(後略)」      
                        
(年代不詳)



  「火水土の三位一体の力の発揮が如意宝珠」

 (前略)序でに、今一つの重要事をかいてみよう。観世音菩薩は光明
如来と現じ給い、次は、彌勒又はメシヤの御活動をなされる
のであ
る。前述の如く、
光は火と水であるが、之に土が加わる事によっ
て、火水土の御働きとなる。元来
火と水だけでは霊の御働きだけで
体がないが、之に土が加わって、初めて火水土の三位一体の力を発
揮されるので、之が如意宝珠であり、麻邇(マニ)の玉
である。又火は
五であり、水は六であり、土は七であるから、五六七の数字をミロ
クと読むのである。彼の釈尊の予言にある五十六億七千万年後、五
六七の世が始まるという事は、此五六七、即ち火水土の順序正しき
世界が出現するという事でなくて何であろう。

       (「観音力とは何ぞや」自叢十二  昭和二十五年一月三十日)



   「如意宝珠の働き・・・意の如く」

(前略)私なんか、美術品を欲しいなと思うんですが、思つているだ
けで良い。ふと転り込んで来る。之が如意宝珠の働き
なんです。
「如意」と言うのは、「意の如く」と言うんですからね。全て思う
通りに行く
んですね。処で面白い事がありました。昔或信者に額を
書いてやつた。「如意」と書いてやつたんですが、すると落して了
つた。私が書いたものを落す事があるかなと思つていると、普通の
人のに「如意」とは言わないんです。だからそれつきり「如意」と
言う字は書かない。が、邪神の方が未だ勢力があるから、「如意」
を邪魔する。だが、もう「如意」の働きになる。唯、今の処は「如
意」が暇がかかるんです。(後略)

              (御垂示録2号  昭和二十六年九月五日)