このミニ講座は月に一
度、メシヤ講座とは別に当
支部で開催している勉強会
をミニ講座として会員等が
学んだ内容を掲載していま
す。

 たまには、ページ数が多
い時もありますが、どの月
もほぼA4版にして約6ペー
ジ前後でまとめてあり、1
時間程度で読めるようにし
ています。

 もし、皆さんの信仰の向
上に役立つようであれば、
ご自由にコピーして御使い
下さい。

 

 当HPのご利用に当って
は、閲覧される方の自己責
任に基づいてお願いしま
す。


※何か質問などある場合
は、「お問い合わせ・質問
等」の欄よりメールでお願
いします。

平成28年2月度 ミニ講座

         ( 信 昭和二十四年一月二十五日)

 世界も、国家も、個人も、凡ゆる問題を解決する鍵は『誠』の一
である。
 政治の貧困は誠が貧困だからである。物資の不足は誠が不足して
ゐるからである。

 道義の頽廃も誠のない為である。秩序の紊乱も、誠のない所に発
生する。

 凡ゆる忌わしき問題は誠の不足が原因である。
 宗教も学問も芸術も、中心に誠がなければそれは形骸でしかな

 嗚呼、誠なるかな誠なる哉、人類よ、問題解決の鍵は、ただ誠あ
るのみ
である。



    幸 福     (地一号  昭和二十三年十二月一日)

 古往今来、如何なる人間と雖も幸福を冀はぬ者はあるまい。幸福
こそ実に人間最初にして最後の目標
であるからである。幸福を獲ん
が為の学問であり修養であり努力であるに拘はらず、満足に掴み得
る者は果して幾人あるであらうか。大部分は幸福を獲得せんと思ひ
続けつつ反って不幸の境遇にあり、解決の喜びを遂げらるる事なく
して不帰の客となるといふのが一般人の現実である。然らば幸福を
得るといふ事はそんなに難しいものであらうか、私は否と言ひ度い
のである。


 抑々幸福とは、病気貧乏闘争、此三大問題の解決が基本である事
は誰も知る処であるが言ふは易く実現は難く大抵は諦めるの余儀な
きに至るのである。一切は原因があって結果がある。勿論幸福とて
も同様
であるとすれば
その原因を先づ知る事こそ問題解決の出発点
であらねばならない。

 従而その原因に不明である以上、何程努力しても実現の可能性は
ないに決ってゐる。然らばその原因とは何か、それを私は述べてみ
よう。昔から言ふ処の
善因善果、悪因悪果とは実に千古を貫く真理
である。此理を知って他人を幸福にする為に努力する事こそ、自分
自身を幸福にする絶対的条件
であらねばならない。処が世の中には
他人の不幸を顧みずして自分だけが幸福にならうとする人間があま
りにも多い
事である。一方不幸の種を播きつつ幸福の実を得ようと
するのであるから、全く愚かな話
である。恰度水を押すと手前の方
へ流れ、引くと先へ流れるのと同様である。


 宗教が人間にとって如何に必要であるかは此点にあるのである。
即ち
キリスト教の愛といひ仏教の慈悲といふのも他人を幸福にする
利他的観念を植付けるのが本義
である。此様な簡単な道理も人間は
なかなか認識し難いものである。そこで神様や仏様は種々の教義を
作り、心言行の規準を示し、見えざるものの存在を教へ、取次者を
して誠心誠意信仰に導く
のであるが、一人の人間を救ふにも容易な
ものではないのである。それも無理はない、
一般人は見えないもの
は信じないといふ教育の下に唯物思想に固ってゐる
ので、仲々耳を
傾けようとはしないのであって、迷夢に鎖され暗黒の中を彷ひ苦し
みながら、結局帰らぬ旅路へ赴くのであるから、洵に儚ない人生と
いふべきである。


 然るに、生あるうちに歓喜に浸り法悦の境地に住し長寿を得、真
の幸福者たり得る方法がありとすれば正に此世は天国であり、生甲
斐がある
といふべきである。然し乍らいふであらう。此様な苦の娑
婆に居てそんな幸福者たり得る筈がないと諦めてゐる人が一般人の
考えであらう。然し吾等は断言する。
右の如き幸福者たり得る秘訣
のある事で、それを御伝授する手引として先づ此雑誌を提供する

である。





 御垂示         (地天1号 妙智之光(一)より)

【問】邪神はことさら正神らしく見せかけるように思われますがい
かがでしょうか。


【答】これは無論そうであって、最初から邪神と分かられては人間
のほうで警戒するから、邪神の目的は立たぬ、
どこまでも正神と見
せかけて間違ったこと悪いことを、善いこと正しいことのように思
わせる
ものである。邪神はいわば人間界の詐欺師のようなものであ
る。これを認識しないと邪神の術中に陥るのであるから、よほどは
っきりとした眼識をもたねばならぬ。


 私の「信仰雑話」を書いたのも一つはそういうものにしっかりし
た判別力を植え付けるため
でもあるから、どうしてもこれによって
智慧証覚を磨かねばならぬ。従って邪神の言動は立派に見えても必
ずどこかに欠点のあるもの
で、容易に見破り得るのであるが、人間
はその判断がつかぬため他愛なく騙されるのである。例えば共産主
義のごとき、これは自己の階級だけを愛し、他を打倒しようとする
間違ったものであるが、主義者はこれこそ大衆を救う唯一のもので
あり、絶対の真理だと信じてやっている。それだけにまた非常に強
いところがある。


 また社会主義のごときもそうで、これが本当のやり方で、これに
よって社会は救われると信じ切っている、この主義によると、賢者
も、智者も、愚者も、偉人も
平等に取り扱おうとする、そこに不公
平がある
大自然を見てもいっさいにおのずから階級がある。偉人
とか智者は社会からそれ相当の地位を与えられ優遇さるべきが本当
であって、それによって社会の秩序が保たれる、また社会主義は人
間の競争心をなくそうとするが、これは文化の進歩を阻害すること
になる
。競争心があるので進歩発展するのである。


 次に資本主義もはなはだ間違っている、これは、金力をもって大
衆の幸福を蹂躙することになる
からである、どうしても全体が幸福
を得るという全体幸福主義というような新しい思想が生まれなくて
はならない、そこまで文化が向上することを念願として進むべきで
ある。



【問】人類にはいかなるわけで悪があり、苦がありましょうか。

【答】これは人類を造った神様でなくては、造られた人間では判り
得べくもない
。私も造られた人間であって造ったほうではないから
その真意は判らぬが、ただおよその想像はできるわけで、無論なに
かの必要があって、そういうふうに造られたものと思う。


 元来主神は全宇宙そのものがその御所有物であって善も悪もない
が、神典にあるごとくその主神から分かれて霊系の祖が高皇産霊神
(たかみむすびのかみ)、体系の神が神皇産霊神(かむみむすびの
かみ)となられた。
これは陰陽の神であり、陽陰はすでに善悪であ
る。そして
悪に属する神を邪神善に属する神を正神という。この
善悪が始終摩擦し争闘しつつ、人類は生成化育し今日のごとく輝か
しい文化の発達をみた
のである。この点が人間としての考え方の難
しいところで「悪人を造っておいて裁くなら初めから造らなければ
いいではないか、審判などといって人間を悪いことをするように造
っておきながら、罪を罰するとは無慈悲不合理だ」
と言う人もある
が、私としても造られた側に立っているので神意を知り得べくもな
いが、なんのために悪を造られたかの想像はつく。それはたしかに

悪によって善が活動し文化が進歩を遂げたという事実である。

 しかしながら人間として悪いことをすると悪い結果が必ず来る
すなわち
因果応報で、これは間違いのない事実であり、真理であ
る。
どんなにしても善でなくては栄えない

 人を苦しめれば自分が苦しむ人を幸福にすれば自分が幸福にな
。そうすると善いことをしたほうが得だという結論になるから人
間は善事を目標としなくてはならぬ。


 次に苦しみもなにかの必要があって造られたもので、現実の苦は
いかにして祓除(ふつじょ)し得るかである。それは神から苦悩の
元たる曇りを除っていただくほかはなく、神仏の光によって除って
もらう
のである。観音教団の浄霊はそのためにできたもので、この
浄霊により神の光が放射され曇りは解消し、苦悩はさっぱりと除れ
のである。そうしてこの曇りは信仰と徳の程度により、大きくも
小さくも除れる
のである。邪念や言葉の罪などは朝夕神仏を礼拝す
ることによって大方は浄められる
それのみでは本当でない。やは
人を幸福にすることが肝要で、信仰は拝むのみでは本当に救
われぬ。まず多くの人に喜びを与えなくてはならぬ




 御垂示・・・「御教え集2号  昭和26年9月8日」より抜粋

(お  伺)  昭和二十三年九月頃より目が悪く、それより御浄霊を戴
いて居りますが、目の玉に「イボ」様なものが出来て時々痛みま
す。家族九人中五人迄お守を戴きまして、光明如来様も昨年二月に
お祀り致し、御浄霊は毎日戴けて居りますが、未だ良く目が見えま
せん。如何にしたら宜敷いものでしようか。


 又今年十五歳になる私の娘も、二カ月程前から、午前中に一回必
ず発熱し、会社に通つている都合上医師の診察を受けた処、結核三
期と言われ、又他の医師に診て貰つた処肺浸潤と言われ、其後、又
外の医師に診察して貰つたら、今度は肋膜と言われましたが、注射
も薬もして居りません。本人は今尚変りは御座いません。やはり午
前中は熱があります。霊的でしようか。如何致したら宜敷いでしよ
うか。



 御垂示は、お陰話の後へ掲載しています。御垂示を見る前に自分
だったらどのように答えるか一度考えてみて下さい。

 それから、御垂示を見て下さい。よろしくお願いします。



 《お陰話》
   私の体験      
      自観叢書第1篇『結核と神霊療法』昭和24(1949)年6月25日発行
       『地上天国』2号、昭和24(1949)年3月1日発行
          大分県 日本五六七教会如意輪会 農業 房前圭正(22)

 私の家は世間の不幸を一家に集めたのではなかろうかと思われる
程、病苦と貧乏に喘ぐ惨めな家
でありました。


 それは父が軍隊より退役後病弱にして何等なす事なく十余年を経
てこの世を去り、その後母一人の手で四人の兄弟を養育せねばなら
ず十余年の間、重なる苦労に、母は終に昭和二十一年四月より病床
に伏する身
となりました。最初は気管支炎と言われておりました
が、八月には肋膜炎が併発し一旦は入院も致しましたが、病勢は募
るばかりで何等の効果もなく最早取返しのつかない病気となって終
いました。私は母が発病した年、学校を終えて多忙な家事を一人で
切り廻しておりましたが、二十二年四月頃より身体がとてもだるく
なり、心配の余り早速医師の診断を受けましたところ、肺門浸潤と
宣告
せられ愕然として家に帰り、最早その日から昨日とは打って変
って病床に伏する身となりました。


 かくする中にただ一人の働き手である姉も農繁期を済ませた頃よ
り私と同じ状態
となり、私の家は三人枕を並べて病床に伏する事と
なり、近所の人は言うに及ばず、村人も親類の人も寄り付く人さえ
なく、無念とも残念とも言いようもなく哀れ淋しき明暮れのうち
に、
迫り来るものは無気味な死と経済難とでありました。

私の家はこの三人の外妹一人弟一人おりますが、いずれも登校中で
思うように家事の手伝いもしてくれず、それでも朝早く起きて自分
で炊事を済ませて学校に行く姿は誠にいじらしくも哀れでありまし
たが、今はどうする事も出来ずただただ運命の翻弄に任せるのみで
ありました。その間にも病勢は募り三人共散歩等は思いもよらぬ
事、その上頭痛、倦怠、咳嗽、不眠症等
あらゆる病苦に悩まされ
した


 そして他人から聞いた良いと言う方法はどれでもやってみる、
も色々と飲んでみましたが更に効果なく
、最早死を待つばかりとな
りました。しかし生に対する欲望は断ち難く、時々こんな事を考え
るのでありました。
「一体この世に神や仏というお方があるのでし
ょうか、もし有るとしたらなぜ私達のような不幸の者を救っては下
さらないのでしょうか」
と又ある時は「この世に神仏等あるべきは
ずはない」
と否定してみたり、様々に迷う心のあてもなき、明暮れ
に早一年という年月が流れ去りました。


 ところがこの不幸な私の一家に遂に一大光明の輝く日が訪ずれて
参りました。それは今年の四月十三日幾山河隔てた母の里から母の
知人が訪ねて来られ、
「今、日本五六七教会という宗教が出来てい
て手を振っただけでとても有難い御利益があり、又これは誰でも出
来るのであるからあなたの家でも是非誰か
一人入会してそのお力を
いただき、自宅でやってみるが良い」
と言われました。母は早速
人の言を聞き入れて
元気な妹を選び入会
させました。

 私はこれらの事は全く迷信とばかり思っており自分だけは絶対こ
の迷信にひっかかるまいと思っておりました。
ところが母や姉がそ
浄霊を受けるようになってから気のせいか、段々元気が出て来た
ような感じ
がしましたが、唯物観にとらわれている私に取ってはか
えって疑いを強くするばかりでありました。そして母の知人(三代
先生)が次に訪ねて来られました時には随分と理屈を並べたもので
した。結局理論では解決がつかず、
体験してみる事が先決問題と思
いまして、自分の意志をおしまげてまず先生の言われるままに浄霊
を受けました。ところがこれは又何と不思議な事でしょう。先生は
私の体に手を当てるのでもなく、圧するのでもないのに一種異様な
感じが致しました。そして今迄理屈を言っていた自分がいかに浅薄
であったか
をしみじみと悟らされました。そして観音力のいかに偉
大であるか
に驚きましたと同時にこれならばいかなる難病も治り得
という事を信ぜざるを得なくなりました。


 それから妹や先生の浄霊を約半月位受けましたところ、今迄の病
苦は跡方もなく吹飛んで、もう軽い仕事が出来るようになり、一カ
月位して元気な人と同様の仕事が出来るように
なりました。姉も母
も日増しに元気になり、今年の田植は人手を借りずに出来ました。
さしも惨めな私も観音力により蘇りました。
見る蔭もなき不幸な私
の一家
観世音菩薩の大慈悲により救われ、何年振りか笑い顔が出
ようになり、本当に光明輝く一家になりました。

 そして微力ではありますがこのような偉大な力を、このような有
難い観音様を一日も早く一人でも多く、世の皆様に知らせて上げた
いと思い、一家挙って信徒に加えて頂き、観世音菩薩に感謝すると
共に、その御恩の幾分なりとも報いたいと思いまして、東奔西走専
ら不幸の人達の浄霊に多忙な日を
送っております。




   〔御  垂  示 〕
 目が悪いと言うのは、良いんですがね。之は最初医者にかかつた
んですか。
薬が入れてあると治りが悪いのですがね。それでなけれ
ば、
目なんか必ず治る病気ですがね。時々痛いと言うのは結構です
ね。之は
ここ(延髄)前頭部後頭部ですね。そうすると治る筈
ですがね。薬が入つていても治りますがね。目ばかりやつているん
じやないですか。
目が悪くても、目ばかりやつていては治りませ
前頭部、後頭部――元はここですからね。ここをやると良い。
病気と言うのは、現われた処はあんまり効果はないんです。現われ
た処は舞台ですから、楽屋の処をやると良い
楽屋に気をつけて見
付ける
んです。不断から教えてあるから、それを守つてやる。


 それから、熱があるのは結構じやないですか。発熱位結構なもの
はないからね。
発熱さえして居れば必ず治ります発熱するのは治
る作用
だからね。喜んでどんどん会社に通つて良い。結核三期なん
て出鱈目です。肺浸潤とか言うが、肺浸潤をするんで、如何に毒が
減るかを考える
と――結構です。発熱したら喜んで良い


 注射も薬もしてない――結構ですね。霊的じやないですね。薬毒
があるので、それが溶ける
のです。之は放つたらかして置いても治
る。但し急所がありますからね。
急所を見付けなければならない
然し、急所と言つても定まつてますからね。ここ(頸部)ですね。
ここが一番熱がある
淋巴腺ですね。それから延髄のどつちかで
す。それから頭ですね。頭の――
前頭部に寄つた方――それを触つ
て御覧なさい。それをやると直ぐ治る。一寸も心配いらない。医者
なんかに行く必要はない。治りますからね。




 自分が考え答えた内容と、この御垂示との相違はどうでしたか?相手から悩み事
など相談を受けた場合、相手の言葉からその人に合った答えを導き出して話してい
くという事が大切です。


 皆さんが所属している教団のほとんどが、教団の言っているようにすればいいと
か専従者の言う言葉通りにしていればいいというように、信者に教団の姿勢をはじ
め、色々なことに対して考えさせないように、専従者からお世話をされてきている
のが現状です。これでは、人を救うという事は中々出来ません。メシヤ様の信者た
る者、様々な問題や起きてきたことに対して、自分自身がメシヤ様の御教えを拠り
所にして問題解決を図るような姿勢作りに務めたいものです。