このミニ講座は月に一
度、メシヤ講座とは別に当
支部で開催している勉強会
をミニ講座として会員等が
学んだ内容を掲載していま
す。

 たまには、ページ数が多
い時もありますが、どの月
もほぼA4版にして約6ペー
ジ前後でまとめてあり、1
時間程度で読めるようにし
ています。

 もし、皆さんの信仰の向
上に役立つようであれば、
ご自由にコピーして御使い
下さい。

 

 当HPのご利用に当って
は、閲覧される方の自己責
任に基づいてお願いしま
す。

 

※何か質問などある場合
は、「お問い合わせ・質問
等」の欄よりメールでお願
いします。

平成28年1月度 ミニ講座

今年の新年の学びは、年の初めに当たり、メシヤ教の会員、メシヤ
様の信徒としての基本姿勢を確認する学びです。よろしくお願いし
ます。(観音様という部分をメシヤ様に置き換えて拝読していただけ
ればいいかと思います。)




   御 講 話       (昭和十年八月十一日)

 (前略)一言改めてお話しますが、実際の処、観音力だけで、その他
には何物もないので、
観音様が○さんを使ったんであります。

ですから観音様の御都合により、その時の仕事の上において誰を使
ふか判らぬ。
今後と雖も観音様は必要があれば誰でも使ふ。もし使
はれた人が、俺がこうであるから使はれたとか、俺がどうだからと
思ふと間違がある。
観音様から斯ういふお見出しに与るといふ事
は、
一生涯の光栄で、それに対しては唯感謝より外何もない感謝
して有難いと思へば後又使はれる。
少しでも自分がやったと思った
ら観音様はもうお使ひにならぬ


此点は大変重大な事で、観音会がだんだん発展する上に於いて
も、
観音様は非常に和らかくて厳粛で、沢山な人を呼び寄せては、
一人も残らずお試しになり、すぐりにすぐり此人はといふ人だけ残
し、そういふ人達で固めて建設される
ので、実にその点は大磐石
で、たゞパッと拡げない。世間ではよく形だけみせるやうにする
が、こういふ行り方は非常に観音様は嫌はれる。場当りのいい或一
時的の仕事などはなさらない


要するに真実で飾り気のない事、人間のやうに衒ひも何もない
当のお試しとは、自己といふものを全然みない
。本当に世界人類を
救はなければならぬといふ止むにやまれぬ状、また此の世の中の状
態をみて、実に哀れだ、可哀相だ、見てはをれぬ、然し人間の力で
はどうする事も出来ぬ、然し観音様が観音力を揮はれるにつき、そ
の一部にも加へてもらって、そして力限りやらして貰ふといふそれ
だけ
で、そこに名誉心などがあると、反対の結果になる


 こういふ様に、一寸考えが違ふと、大きい違ひが出来る事になる。
どこまでも自分の存在に無関心で、世の中や観音様の為と思ふと、
その人の存在は大きい存在となる
。之は生長の家の物質は心の影と
いふのと似てゐる。自分を見せやうとすると空虚になる。世の人の
為と思って自分を無視すると、無視した自分が立派に存在する


ここの道理のはっきり判った人は、本当の働きが出来る。神の道が
ある。自分の都合よくなりたい、よくしたいといふ念が、少しでも
あるとすれば、物が思ふ様に行かぬ。自分を空虚にする、自分を無
視すればする程、自分の実在は確かになる。
此点だけが肝腎な悟り
で、此前お話したが、お釈迦様の時代に目連尊者といふ人がゐて、
母が地獄で苦しんでゐるのが見えるので、どうか助けやうと思って
も助からぬ。他の人はいくらでも助かる。で、お釈迦様に、お母さ
んを出さうと思ふが、どうしたら地獄から出せるかと聞くと、お前
のお母さんはお前が忘れればいいといはれた。そこで考へた結果、
はっと思った。


 俺は天下万民を救ふ使命によって働いてゐるのに、自分の近親の者
親の事ばかり思った為救へなかった
。大変な間違ひをした。第一に
天下万民を救はなければならぬと、それからは母の事も忘れ、一切
衆生を救ひの為活動して、一年経って地獄を覗いてみると、もう地
獄には母は居なかったといふのであります。

 自分を良くしたいと自分だけよくしやうとすると、先づそうなさな
ければならぬ。
人をよくしやう、人を助けやうとする時に
自分はよくなる。
信仰の妙諦はここだけ
なんであります。

 今日号外などで出たんですが、又々大阪神戸などに水害があった。
先刻の号外によると、京都では十人位死んだといふ事で、
相当大き
な洪水
と思はれる。先刻二、三人の人にも話しましたが、どういふ
訳で洪水になるか、其原因の話をしましたが、
すべて天災地変は人
間が造る
ので、陽気がわるいとか、不順だとかいふのも、みな人間
がその原因をつくる
。去年は非常に不作だったんですが、或人に私
は言った事がありましたが、私は一昨年これを知ってゐた。一昨年
は豊作で米が大変安くなったんで、豊年飢饉といふ事を言ってゐ
た。あまり米が安くなったんで、百姓は食へなくなった。それ故に
半産運動など起って作るのを加減しやうとした。それで、今度は不
作だなと思ったんです。何故ならば、神は豊作にして下すったの
で、豊作ならば人民は非常に有難い事で、それを昔は有難がったも
のを、今は怨むやうになった
それで神様としては、こんなに豊作
にしてやっても、怨むなら不作にしてやらうといふ事になる
。それ
は極った事で、これが去年不作になった原因と思ふ。そういふ
人間
の間違った言葉、人間の間違った心で、天災地変を造る
んでありま
す。


 天災地変のみでなく、一切の人事も人がつくる俺はどうして信用
されないのか
といふ人があるが、それはされないのでなくて、され
るやうにしないから
で、信用されない人は、信用されない様な事を
してゐる
んであります。人からよく思はれないのも、よく思はれぬ
やうな事をしてる
ので、たゞ自分で気がつかぬだけのもので、
天地
の法則といふものは、そこは厳として犯されぬやうに出来てゐる


 今年の八月は十日程前から涼しいといふより寒い位で、こんな事は
実に珍らしい。毎年今頃一番暑い時で、寒いといふ事は人間の心が
冷酷だからで、
すべて陽気は人間の想念、天気は人間の言葉によっ
て造られる事を、私は知らされてゐる
んであります。陽気の不順な
のは人間の心が不順
で、変動が激しければ人間の心の変動が激し
それがそっくりそのまゝ天気に出る
人の悪口を言ったり、悪
い事を言ったりすると霊界が曇る。或程度曇ると掃除されなければ
ならぬ一つの法則が出来てゐる
。従ってそれは風によって吹き払
ひ、或は大雨によって水で流し、火によって浄化したりされる。も
しそれが浄化されなかったら、或程度迄人間は弱る。随って人類は
栄えない。衰亡する。そうならない様に掃除される訳であります。
それですから、
水も火も風雨も有難いわけであります。

去年の大阪方面の七十米の颱風があったのも、あの位ひどい風がな
くては曇がとれない
今度の水もそうで、水は物質、火は霊ですか
ら、物質の出すべきものも出さず貯めてゐて金儲けしてる。自分の
懐だけ肥して世の為人の為には使はないで貯めるから、
水が溜る
になる。その為に水がたまって苦しむ。揚句の果てはその金を出さ
なくてはならぬ事になる
。大変な損害だといふ事であります。


今迄間違った金を貯めてゐたのを吐き出して、水が出て失って、生
命は助かったんで、もし水が無かったら生命は助からなかった
。そ
れで
人間は金を溜めるのもいゝが、程度を越えると罪穢となって、
その苦しみによって出さなければならない事になる
。昔からあっち
の人は金を貯める事が好きですから水が出る。


 霊界の中で曇りのひどい所と、そうひどくない所とあって、酷い所
は余計に水が出る
人間でも霊体の非常に曇ってる者は、曇った霊
界へ行く
様になる。曇った人は曇った所へどうしても行く事にな
る。
霊体の綺麗な人は綺麗な霊界へ行く。そして綺麗な霊界の所へ
は水が行かない
。それで、
観音会は霊界が綺麗で光ってゐるので、
どうしても綺麗な人が来る。曇った人は来られない
。どうしても曇
った所へ行く。そういふ風に世の中は出来てゐるからそうなるの
で、
その浄化法として雷などがある。あゝいふ強い電気でなくては
霊界が清まらぬから、稲光りがピカピカするのも曇りに相応してゆ
く。電気も曇った所に相応して落ちる。曇りの程度を超えた人は雷
で死ぬ事になる。丁度震災の時など、被服廠などは曇ってるんで丁
度曇った人があそこへ行きたくなる。曇ってない人は行かぬ。間違
えて被服廠へ入った人でも、いよいよの最後の時は旋(ツム)じ風が起
って、それに捲き込まれて隣りの安田の池の中などへ投げられる。
それは相応しないから弾け出されるんであります。又、引越しの家
を見付けるにしても、方角も家相もない。曇りのない人は家相のわ
るいとこへ越せない。
越さうとすれば故障が出て来るといふ工合で
あります。


 人間の曇等により、人間の凡ゆる事件などは根本はそれによって起
る。非常に曇った時には戦争などがある。その点がはっきり判れ
ば、もう
自分は綺麗になるより仕様がない
 始終わるい事を喋舌ったり、嫌な事を喋舌ると、言葉が一種の曇り
になる
。以前、見た人の話によると悪口言ったりなどする時は、煤
(スス)みたいの鼠色の雲となって出る。
神様の話したり、神様を讃美
する様な事を言ってると白い光になって出る
。ですから、多くの人
が神様を讃えるやうな言葉を沢山いへば、曇りがとれて光の方が多
くなる
訳であります。そして天災地変がなくなる。之が判ったら恐
ろしい位であります。


 人に怨みを受けると怨みの想念が来て、それが曇りとなってその人
を取巻く
、一人位ならいいが、百人千人となってその人を取巻く
と、その人は病気になる
曇りが多いと悪霊が寄って来るから、ど
うしても病気災難など受ける
。反対に人を助けると有難いと思ふ想
念が光となって行く。


此間救世主の身体からは光が出るといふ事を言ひましたが、此理を
考へれば判る。救世主は何万何千万の人を助けると、有難いといふ
想念が無数の光となってよってくると、光で取巻くから肉眼でも見
えるやうになる。無論内部からも出るんで、内外両方の光が同時に
なる。それで、観音様を書くのに二重に輪を書く事があるが、外の
光と内の光と両方になる
んであります。そういふ訳ですから、人間
は曇りに取巻かれたら巧くゆかない。
悪魔は曇りのある所へ寄る
ら、わるい事ばかりで善い事はない。それ故
人間は怨みを受け
る事が一番悪い
。わるい事が絶えぬ。

 勝負の場合人を負かしたり、打っつけたりするのはよくない。負か
す時でも一分の逃げ道を造ってやるのが本当の英雄
で、戦人で偉い
のは敵を全滅させぬ。全滅さしてはいかぬ。一方の血路を開いて逃
げさせるのでなければならぬとは、何かの軍学家の言った言葉であ
ります。

 そういふ訳で、人から怨みを受けず、感謝を受けなければ、どうし
ても霊が取巻くから、すべて気持よく順調に行く訳はない
のであり
ます。




     「観音運動」(御発表)

 要するに寿命を延す事、之が凡ゆる問題の解決の根本になるんであ
ります。人間が四十、五十の寿を六十位にする。一番働き盛りの此
時代に、生命を落すんですから大変に異ふ。そうすると、一人の為
に多くの手を患はす事は、国家の経済上からみて大変な損失で、此

人達の病気を治し、寿命を延す事は大変重大なる事で、どれほど国
家の為になるか分らぬ。
之ほど偉大な運動はないと思ひます。世間
にいろいろそういふ運動はあっても出来ない。又、大きな事をいっ
ても実現の力はなく、言葉の遊戯の様なものが多い。ですから、此
点は宣伝する事は非常に意義ある事と思ひます。


 観音運動は如何なるものかといふと、病気を無くするものであると
いふと、現当利益かといふ。よく仏教で現当利益を軽蔑する。それ
は現当利益を与へたくても出来ないから、そういふ事をいふので、
先づ
信仰で現当利益のないものは、馬鹿々々しくて信仰する事は出
来ない

 何よりはっきりしてるのは、此十何年間、日本に出来た神道宗派
は、十年間に出来た派の統計をみると、八千いくら出来、天理教は
五千いくら出来てゐる。之は天理教が病気治しを宣伝したからであ
ります。之に対抗して、浄土宗、禅宗、一向宗といふものが、病気
治しを看板にしやうとしても、治す力がないから、苦しまぎれに現
当利益などいふのは低級信仰だ、上等の信仰はお金や病気にもっと
超越して、心の安心を得なければならぬものだと、友松円諦などが
やり出した。


 之は新興宗教に対抗の言葉で、実は現当利益をやりたくても力がな
いので、もはや論議の遊戯になって、反ってそういふものをみる
と、物の哀れを催す位です。現当利益で行くのが本当であります。
天理教もそろそろ現当利益がなくなったんで、之から論理になるか
何になるか判らぬ。


 観音会が荐りに現当利益を出すのは、之ほど宣伝力のあるものはな
い。
観音会は年々段々現当利益が強く大きくなって行くんでありま
す。そういふ風ですから、大いに
現当利益を看板にして、宣伝して
結構
と思ふのであります。稲荷さんの事をよく聞かれますが、之は
知ってゐていい事ですからお話します。


 稲荷といふものは、最初は豊受明神といって五穀の神が、稲を日本
中へ配られた。此時狐を使って、狐にそれを咥(クワ)えさせて日本中
を配った
。それで字によってみると、稲を荷ふといふ字です。又或
説によると、飯成りといって飯をならせるといふ説もあります。又
稲荷の画をみると、狐が稲を咥えて宙を飛んでる、その上に女神が
乗ってゐる。之が豊受明神で、そういふ具合に稲を狐が配った。
の稲を感謝の意味と、又配ってもらひたいといふ意味から、お百姓
が田圃にお宮を建てて祭った。それが正しい意味
であります。


所が、世は邪神の世となって、狐を使って悪い働きをした。邪神の
親玉として出たので、
豊川稲荷などに荼枳尼(ダキニ)天神といふのを
中途で祭ったが、
あれは金毛九尾の狐で、以前は稲の意味ばかりで
あったが、今度は何でも利く利益があるやうになった。芸者や女郎
が人をだまして金が余計入るとか、財産を潰す事などを願って、そ
れを狐が引受ける事になって、全然本来の使命は没却され他の事に
なり、その為に正一位稲荷大明神と明と神とを入れ、鳥居とか食物
を上げさし威張って、終には人間を下に見下すやうになった
。之は

人間が奉ってそうしたんで、稲荷の根本はそういふ意味なんであり
ます。


 今東京でなど、百姓でない人が祭る事は全然違ってゐる狐がどん
な神通力があっても、四ツ足で人間より下のもので地べたを歩くも
です。これに家の中で人間より上に祭るといふのは大変な間違ひ

で、霊界ではそこは地べたになるから人間のゐる所は地の下になる
訳ですから、
狐を祭れば災難や病人が絶えず、うまく行かぬ。之は
卜者(ウラナイシャ)よりもよく当る。


ですから、家の内には絶対祭ってはいけない。但し、祖先が
畜生道に落ちて狐に生れて来る事がある。そういふ場合は祖先です
から、祭ってはいけないと、その宮を壊はすのはいけない。そうい
ふ稲荷は、庭なり空地へ丁重にお祭りする
如何に祖先だと雖も天
地の規則は枉げられぬ。四ツ足を座敷に祭るといふ事はいかん
。丁
重に祭ると稲荷も、喜び、益々その家を守ってくれる。たゞ
人間よ
り上の座敷に祭るといふ事はいけない
。よく四ツ足の事ですから、
稲荷が祟ったりなどするから、気を付けなければならないのであり
ます。




     絶対健康法    (観講  昭和十年九月十五日)

 人間に曇りを無くすることが健康法の根本であります。
れは
光に浴することが一番で光にふれること
である。朝夕観音様を
拝む事は光にふれる事
で、光に照されること
である。魂に光を受け
るから清まる
のである。

 此の光に大、中、小がある本部が大であり、支部が中であり、
家の観音様が小
なのである。それ故曇りが取れて病気が起らなくな
のである。観音会に病気がないのは是が為である。


 又徳を積む事である。徳を積めば其徳により光が増すのである。
を救う。善い事をすると感謝となって、光となって其の人へ報い来
のであります。其の為其の人に威厳が増すから恭敬(ウヤ)まわれる
のである。魂の穢れた人は徳がないから光がない。始終ビクビクし
ているから卑しく見えるのだ。徳を積むには神様の事、社会の事、
個人を救う事をどんどんやる
のである。


其の人が仮に病気をしていて人を救うことが出来んというかも知れ
が、病気中なれば病気をしながらも人を救う様に世話をするのであ
る。神様の有難いことを話して神様を信ずる様にするなり、病人な
れば神様へ御治療を受けに行く様にする
事である。この様にすれば
病人でもその徳により自分の病気が直ちに癒る
のであるから余計に
神様からお光をいたゞくのである。


 信者を一人作らしていたゞくのや導くのは大変な御用である。其の
人が他人を救う。又其の救われた人が又救うといふ様に鼠算式に信
者が殖えると大変なことになる。


 それが絶対の健康法なのである。体的本位の健康法は末である。神
様の御用をすれば何を喰べても非常に健康なのである。滋養も衛生
も末の末、夜の世界の最後のものである。
滋養は神様の霊気が一番
なのである。