このミニ講座は月に一
度、メシヤ講座とは別に当
支部で開催している勉強会
をミニ講座として会員等が
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 たまには、ページ数が多
い時もありますが、どの月
もほぼA4版にして約6ペー
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平成27年2月度 ミニ講座

  生きてる宗教 (栄二百三十三号  昭和二十八年十一月四日)

 宗教にも生きてる宗教と死んでる宗教とがあるといったら変に思
うであろうが、それをこれからかいてみよう。
生きてる宗教とは即
ち実際生活に即したもの
を言うのであって、死んでる宗教とはその
反対
である。処が世間数ある宗教の中で実際生活にピッタリしてい
るものは絶無とは言わないまでも洵に寥々たる有様である。成程教
えはどれもこれも実に立派に出来てはいるが、
教化力の点に至って
は気の毒乍ら期待をかけられまい。しかし何百何千年前教祖開教当
時は、その時の社会情勢に合い教化の力も大いにあったには違いな
いが、その後星遷り年変り、時の流れにつれて教勢は漸次衰え、現
在の如き状態となったのは周知の通りである。これも自然の成行で
あって致し方はないが、この事は独り宗教のみではない。凡ゆるも
のがそうであって、只宗教だけは遅れて最後になった訳である。


 併しその間と雖も時代に即した色々な新しい宗教が生まれたのは
何処の国でも同じであるが、さらばといってそれまでの宗教を圧倒
する程の力あるものは滅多に出ないので、いつか姿を消してしまう
のが常である。その中で兎も角近代に生まれ、今尚相当勢力を保っ
ているものとしては、彼の日蓮宗と天理教位であろう。以上は大体
の宗教の推移であるが、それはそれとして今言わんとするところの
ものは
現代としての宗教のあり方である。知らるる如く十八世紀以
降科学文化の発展
は、宗教にとっての一大脅威となり、それがため
今日のごとき衰退状態となったのは争えない事実である。そのよう
なわけで、科学は恣(ホシ)いままに人心を掌握してしまい、今日科学
の文字が入らなければ、人は承知しないようになってしまったので
ある。


それだけならまだいいが、これが原因となって無神思想を生み道義
の頽廃止まる処を知らざる有様
で、国家社会は混迷状態となり、現
在の如き宛(サナガ)ら生地獄そのままの世界となった
のである。然も

旧い宗教にあっては、今尚何百何千年前の教祖の教えを建前とし
て、長い間に練り上げた教えを以て教化に努めているが、何しろ時
代から余りに離れすぎたため教化の力とてなく、正直にいって
現実
性を失った骨董的存在でしかない
ことになってしまった。成程その
当時は香り高い美術品として大いに用いられたには違いないが、今
日となっては重要文化財としての価値だけであろう。


処が新宗教の中には右の重要文化財を恭しく飾り立て人寄せに利用
はしているが、これとても或時期までの生命でしかあるまい。何と
いっても素晴しい文化の進歩に追越され、宗教は遙か遠くへ置去り
にされた形である。これを例えれば飛行機や自動車、無線科学時代
の今日、マサカ牛車や駕篭を持ち出した処で何の役にも立たないの
と同様であろう。


ここでいつも乍らの自画自讃を言わざるを得ないが、本教は知らる
る如く歴史は歴史として尊重はするが、それにこだわる事なく、

命のまま独自の方針をもって進んでいる
。然も新生宗教としての
若々しさは青年の血が通っており、今行っている事業にしても、

学や農業の革命は固より、凡ゆる文化の欠陥を指摘し、新文化の理
念を指導精神としている


その具体化の一つが地上天国の模型や美術館の建設であって、これ
こそ第一線的のものであり、勿論この狙いは汚され疲れた魂の憩い
の聖地
であると共に、俗悪極まる今日の娯楽に対する一塊の明礬
(よ)として、
人間の品性を高める事でもある。

 以上の如き本教の経綸は、個人的には健康、救貧、思想の健全化
等に資する
は勿論、大にしては明朗不安なき社会を作らんとする
である。この事は近来識者間にも漸く認められ、注目の的になりつ
つあるのは喜ばしい限りである。しかし今は小規模であるが、何れ
は世界的に拡充された暁、
日本から平和幸福な理想世界の構想が生
まれる
わけで、これは敢えて夢ではない事を明言する。これ等によ
ってみても
本教こそ真に生きた宗教のあり方でなくて何であろう。

只併し遺憾に思う事は、現在新宗教を目する社会の眼は、残念乍ら
甚だ冷淡軽侮的なものがあり、特にインテリ層程そうであって、本
教に触るる場合と雖も世間を憚(ハバカ)る如き心使いをする傾向のあ
るのは遺憾に堪えないのである。


 併しこれも無理はない。何しろ旧い宗教にしても、信者の数だけ
は夥しいが、教養が低く所謂愚夫愚婦級の人が大部分であり、新宗
教にしても顔をそむけるような奇矯極まる言動のものや、迷信的分
子が多分に含まれ、常識眼で見てさえ苦々しく思うようなものも相
当ある
からで、これ等も或時期までとは思うが、当事者には考慮を
促したいのである。又右とは反対に古い聖者、賢人、教祖等の説を
焼直し、新しい衣を着せて時代に迎合するような宗教学者もあっ
て、外面からは進歩的に見え、インテリ層には受けそうには思われ
るが、果して
実際生活にどれだけ役立つかは疑問であろう。これに
就いて思い出されるのは、彼の有名な米国の哲学者ウイリアム・ゼ
ームスのプラグマチズムである。訳して哲学行為主義であるが、こ
れを私は
宗教行為主義に替えたいと思うのである。



  プラグマチズム   (信  昭和二十四年一月二十五日)

 私は若い頃哲学が好きであった。そうして諸々の学説の中、最も
心を引かれたのは彼の有名な米国の哲学者ウィリアム・ジェームス
プラグマチズムである。先づ日本語に訳せば哲学行為主義とでも
いうのであろう。それはジェームスによれば、唯だ哲学の理論を説
くだけであっては一種の遊戯でしかない。宜しく哲学を行為に表わ
すべきで、それによって価値がある
というのである。全く現実的で
米国の哲学者らしい処が面白いと思う。私は之に共鳴して、其当時
哲学を私の仕事や日常生活の上にはで織込むべく努めた
ものであっ
た。その為プラグマチズムの恩恵を受けた事は鮮少ではなかった。


 私は其後宗教を信ずるに至って、此哲学行為主義をして宗教にま
で及ぼさなくてはならないと思うようになった
、即ち
宗教行為主義
である。宗教を凡てに採入れる事によって如何に大なる恩恵を受け
るか
を想像する結果として、斯ういう事が考えられる。

先づ政治家であれば第一不正を行はない、利己のない真に民衆の為
の政治を行う
から民衆から信頼をうけ、政治の運営は滑らかに行
く、実業家にあっては誠意を以て事業経営に当るから信用が厚く、
愛を以て部下に接するから部下は忠実に仕事をする為堅実な発展を
遂げる。


教育家は確固たる信念を以て教育に当るから生徒から尊敬を受け、
感化力が大きい
。官吏や会社員は信仰心がある以上立派な成績が挙
り、地位は向上する。芸術家はその作品に高い香りと霊感的力を発
揮し、世人によき感化を与える。芸能家は信仰が中心にあるから品
位あり、観客は高い情操を養ひ、良き感化を受ける、といっても固
苦しい教科書的ではない、私のいうのは大いに笑わせ、大いに愉快
にし、興味満点でなくてはならない。其他如何なる職業や境遇にあ
る人と雖も、宗教を行為に表わす事によってその人の運命を良く
し、社会に貢献する処大であるかは想像に難からない。


茲で私は注意したい事がある。それは宗教行為主義を実行の場合、
味噌の味噌臭きはいけないと同様に
宗教信者の宗教臭きは顰蹙(ひん
しゅく)に価する
。特に熱心な信者にして然りである。

世間よく信仰を鼻の先へブラ下げてゐるような人がある。之を第三
者から見る時一種の不快を感ずるものであるから、
理想的にいえ
ば、些かの宗教臭さもなく普通人と少しも変らない、唯だその言行
が実に立派で、親切で、人に好感を与えるというようでなければな
らない。
一口にいえばアク抜けのした信仰でありたい、泥臭い信仰
ではいけない。世間或る種の信者などは熱心のあまり精神病者かと
疑わるる程の者さえある
が、此の種の信者に限って極端に主観的
家庭を暗くし、隣人の迷惑など一向意に介しないという訳で、世人
からその宗教を疑わるる結果となるが、之等は指導者に責任があり
大いに注意すべきであると思う。




  主なる病気(二)眼、耳、鼻、口
               (医革  昭和二十八年)

 眼病も甚だ多いものであるが、大抵の眼病は放っておいても治る
ものを、
薬を入れるから治らなくなるのである。というのは眼の薬
程毒素を固めるものはない
からで、盲目なども殆んどそうであっ
て、
一生涯不治とされるのも薬の為で、全く恐るべきものである。

特に盲目であるが、此原因は最初眼球の裏面に血膿が集溜したのが
底翳
であり、外側のそれが白内障又は角膜炎であるが、之も
自然に
委せれば僅かづつ眼脂や涙が出て治る
のである。又目星眼に出来
た小さな出来物
と思えばいいし、流行眼で目が赤くなるのは浄化に
よる毒素排泄の為
である。又小児などで目が開けられない程腫れ、
膿汁が旺んに出るのは非常に結構で、放っておいて出るだけ出て了
えば治るのである。処がその際
冷したり、温めたりするのは最も悪
く、その為長引いたり悪くなったりする
のである。

茲で特に注意したい事は点眼薬である。之こそ固める力が強く
吾々の経験上発病後直ちに浄霊すれば簡単に治るが、一滴でも点眼
薬を入れたらズット治り難くなる
のでよく分る。又硼酸で目を洗ふ
が、之も悪い
ので、硼酸の薬毒で其時は少しいいが、度々行ってゐ
ると中毒となって目がハッキリしなくなり、クシャクシャするやう
になるのである。考えてもみるがいい、瞼の裏の粘膜といふ柔い布
と、涙といふ上等な液で自然に洗はれるのであるから理想的であ
る。それに何ぞや愚な人間は余計な手数をかけて悪くするのである
から、常識で考へても分る筈である。


それから悲しくもないのに涙が出る人があるが、之は点眼薬中毒
あるから、顧りみればアノ時の点眼薬だなとすぐ分る。次に
トラホ
ーム
であるが、之は眼瞼の裏にブツブツが出来るが、之は脳にある
毒素排除による湿疹
であるから、放っておけば完全に治るものを、
無知なるが為手術するので、之が癖となって度々手術をするので漸
次悪化し、失明同様となる者さへあるのである。以上の如く
悉くの
眼病は、頭脳内の毒素排泄の為、一旦眼球や其附近に集合するのが
原因
であるから、此理が分れば少しも恐れる事はないのである。従
って之が一般に分ったなら、眼病盲目は今より何分の一に減るであ
らう。


 次に近眼であるが、之は延髄部に固結が出来、血管を圧迫する
為、眼の栄養不足となり、遠方を視る力が足りないのが原因
である
から、固結さへ溶かせば容易に全治する。又
乱視の原因も同様であ
るが、只近眼と異ふ処は毒素の性質上固定的でなく、動揺性である
からである。


 次に耳の病であるが、最も多いのが中耳炎であらう。之は淋巴腺
附近に固結せる毒素が浄化で溶け、耳から出やうとする為
で、激痛
は骨に穴の穿く為であるから、之も放っておけば穴が開き、排膿し
て治ると共に、穴も自然に塞がるのである。又
鼻の病鼻茸、肥厚
性鼻炎、鼻カタル等
色々あるが、之も頭脳内の毒素が溶解流下し
て、鼻の附近に溜るのが原因
で、之も自然にしてをけば必ず治る。
鼻に就て注意したい事は、コカインの吸入を頻繁にする人がよくあ
るが、此中毒で死ぬ事があるから、そういふ人は断然廃めるべきで
ある。


又口膣内の病気であるが、最も多いのは歯槽膿漏であらうが、之は
首肩辺に固結した毒素が、少しづつ溶けて歯茎から出やうとする為
で、放っておけば長くは掛るが自然に治るのである。よく口が荒れ
たり、粘膜に湿疹が出来たり、舌に腫物が出来たりするのは、何れ
も飲み薬が粘膜から滲み、毒化して排泄する為
であるから、之も
るだけ出れば必ず治る
のである。


 次に婦人の乳癌もよくあるが、此殆んどは腫物であって、初めは
深部に出来るが、之も放っておけば漸次外部に腫れ出し、大きくな
って穴が開き、排膿されて治るのである。次に肺、心臓、胃以外の
主なる内科的疾患としては、
肝臓病胆石病が多いものであるが、
之は初め薬毒が肝臓部に固結し、肝臓が圧迫されるにつれて、その
奥にある胆嚢も圧迫されるので、胆汁が溢出して起るのが黄疸
であ
る。


胆石病に就いてもかいてみるが、此病気は腎臓から浸出した尿毒
が上昇し、右側背部から胆嚢に浸入する。すると胆汁と右の毒素が
化合して結石が出来る。之が
胆石であって、その石が輸胆管を通
過する際激痛が起るが、此痛みは医学ではどうにもならず、止むな
く一時的応急手段より外にないのである。而もその石が腎臓へ流下
したのが
腎臓結石である。尚困る事には結石に尿素が附着し漸次大
きくなり、腎臓壁に触れるので、痛むと共に出血する事もある。そ
うして此結石が膀胱に入ると
膀胱結石となる。処が此結石が膀胱の
出口又は入口につかへると尿が閉止し、下腹部が膨満する病気とな
り、非常に苦しんだ揚句大抵は死ぬのである。然し
浄霊によれば結
石は破砕され、砂の如くなって排泄し容易に全治する
のである。

 次は糖尿病であるが、之は膵臓の周囲に薬毒が固結圧迫する為
糖分の処理が不能となる、之が原因であって、之も浄霊で簡単に治
るのである。此病気に対して医師は食物を制限するが、之なども何
等意味はないばかりか、衰弱の為反って病気は悪化する位である。


次に腹膜炎であるが、之は腎臓の周囲に出来た固結毒素圧迫の為、
尿の処理が不活発となり、其余剰尿が腹膜に溜る
のである。之も
性は膨満
するが、慢性は極く僅かづつ溜って固結し、急激に浄化が
起る場合、高熱、激痛が伴ふので、医診は急性腹膜炎として大病と
するが、両方共浄霊によれば割合簡単に治るのである。


次に最も多いものに便秘症があるが、此原因の殆んどは下剤中毒
ある。というのは下剤を飲む以上便通機能が退化するから繰返す事
になり、遂に慢性便秘症になるので、之も自然にしてゐれば必ず治
のである。処が医師は便秘を恐れるが、之は全然誤りで、私の経
験によるも放ってをいて一ケ月目位から出るやうになり、何の障り
もなかった人もあり、半年なかった人もあったが、何の事もなかっ
たにみても、便秘は何でもないのである。此反対の
慢性下痢の人も
あるが、之も毒の排泄であるから結構
で、出るだけ出れば治ると共
に健康は増すのである。以前約三年私の言う通りに放っておいた
処、全治して非常に健康になった人もあった。


 次に腹に虫の湧く病気で、彼の蛔虫、十二指腸虫、真田虫、蟯虫
等があるが、之等も薬毒が溜って膿化し腐敗し、虫が湧く場合と、
伝染による場合とがある
。何れにしても考えて見て貰ひたい事は、
人間の躰の中に虫が湧くなどは実に恥辱である。之では塵溜か糞溜
と何等択ぶ処はないからである。故に虫など湧かなく清潔な身体で
あってこそ、万物の霊長といって威張れるのである。





(お陰話)
  神は子供を慈しみ給う(二) 
               『栄光』139号、昭和27(1952)年1月16日発行
             『世界救世教奇蹟集』昭和28(1953)年9月10日発行
          東京都文京区弓町  神成中教会 布衣生・江川勝利(47)

 「やられちゃった。やられちゃった。早く浄霊してくれよ」上着
の袖を捲くったまま、次男坊がおどけた調子で叫んでいる。

 この坊主が、浄霊してくれ、と言う時は、その言い方で腹痛か、
怪我かが解るのだ。小さな声で、浄霊してくれよ、と言ったとき
は、転んで膝小僧を擦りむいたときだし、シクシク泣きながら、浄
霊、と、帰ってきた時は、足に踏抜きをしたり、野球で突き指をし
たときで、蛔虫のために腹が痛かったり、頭が痛むときは、きまっ
て、アアイテエ、アアイテエと、頭か腹を押えている。


 こうした、子供の癖を知っている私は、今のように、元気な声で
浄霊、と叫ぶような時は、大した事はない、と少しも驚ろかない。

 「学校で注射されちゃったんだよ」と言う子供の言葉にギクリと
した。「ホーソーか」「ううん、ツベルクリンだ。逃げちまおう、
と思ったんだけど、皆んなやらなければいけないって、先生が言う
からやったんだよ」

 私や妻が、ふだん、薬毒の恐るべき事を、未信者の人たちに話を
するのを、聞いている子供たち
は、怪我をした時も、浄化の時も、
「薬を」とは、決して言った事はない。学校で便の検査をして、虫
がいる、と言われても、他の子供のように、虫下しの薬を貰らって
来ないで「先生が、「虫がいる」と言ったよ。すぐ浄霊しておく
れ」という位、
薬と、注射の害は徹底して知っている。だからこ
そ、注射、と聞いて逃げよう、と考えたのだろう。


 子供のいいわけを聞きながら、赤く、少しはれている、その個所
を浄霊した。


 「この次は、B・C・Gか、あれだけは止めて貰い度いな。どう
してあれを強制するのか、これなんかも、憲法で保証されている、
基本的人権を揉欄するようなもんだ」


 傍で、縫物をしている妻に言った。

「洋服屋の金子さんは、上の男の子が、中学校で、B・C・Gを接
種されてから肺病になった、と言って、B・C・Gだけは、あとの
子供さん達にさせないそうですよ」


「家の子供たちにも、注射とB・C・Gはしてくれるな、と、学校
へ頼んでみるか」


「そうですねえ、弊害もある事を知っていながら、どうして強制す
るんでしょう。お役所のやり方には、何んだか頷けないものがあり
ますね」


 珍らしく、妻も、子供ゆえに、いきまいていた。この頃の学校の
子供たちは、予防医学の立場から、と言って、百日咳、ジフテリ
ヤ、チフス、種痘等、無暗に注射攻めにされている。
薬毒の恐ろし
さを知る私たち
は、それ等の注射があるたびに、顔を覆い度い思い
である。だから、といって、薬毒を知らず、善意でしている、相手
の立場に無理解ではないが、強制、となれば、問題はまた別であ
る。


 自分たち一家が、救世教徒である為めに、学校へ、公然と注射反
対の態度を表明し、それと戦う事になれば、事あれかし、と待ち受
ける、商業新聞の、悪意に満ちた宣伝材料に使われる。それは、結
局、救世教全体へ迷惑を掛けることになる、と、考えて、今までも
予防注射は受けさせてきたのだった。

 馬齢を加えた、私たち夫婦は止むを得ないとしても、折角、無医
薬で健康に育てた子供達の身体には、一滴の薬も入れたくない。こ
れは、薬毒の恐ろしさを、身をもって体験している、救世教信者の
血の叫び
であろう。

 高等学校へ行っている長男は、注射のすぐあとで、その個所を口
で吸い、そして自分で浄霊してくるが、小さい子供にはそれが出来
ないので、家へ帰ってから、私か、妻かがそれをやってきたのであ
った。

 「一年の時は、ツ反応が、陽性と出たので、B・C・Gはやらず
に済んだが、今度はどうだろう」「多分、大丈夫でしよう」

 縫い物の手を休めず、そう答える妻に、その知識があろう筈もな
く、もとより、希望的観測から一歩も出ていない事は解っていなが
ら、「そうであってくれればいいが」と、今日の、ツ反応の結果を
案じるのであった。


 それから、暫く経ったある日、今年、一年に上る三男に、ツベル
クリン反応の検査があるから、連れて来い、と学務課の通知があっ
た。「こんな、小さな子を、どうして痛い思いをさせるのか、学校
へ行って話して来ます」そう、勢い込んで行った妻が帰って来た
が、結果の悪かった事は、その顔色で察しられた。「学校で何んと
言った」「あちらからの命令だから、私たちには、どうにもならな
いって、てんで取り合ってくれません。ツベルクリンだけは仕方が
ないからさせて、あとは、神様にお願いしましょう」

 妻のその言葉には、思い詰めた母親の必死の響きが籠もってい
た。


 心配していた、ツベルクリン反応の結果が解った。学校医は、
「お気の毒ですが、この子は小児結核です。今年の入学を延期し
て、充分療養して、来年、改めて入学させた方がいいですね」と冷
めたく言った。

 「小児結核」。校医の診断を聞いた、私たち夫婦の驚きは大きか
った。

 肺病――死。不吉な翳が、さっと脳裡をかすめた。肺病。もしそ
うであっても、
薬の入っていない身体だから、浄霊で必ず治す事が
出来る
治す力を、私たちは神から許されているのだ。この絶対の
自信に考えが辿りつくまでには、長い時間がかかった。夢想だにも
しない小児結核と、唐突に医師に診断された為に、私たちの気持は
転倒し、冷静さを失ったのであった。


 「それにしてはおかしいね。今までに、幾人もの肺病の人を見、
浄霊で救ってもきたが、この子に、肺病らしい症状が、何処にある
だろう。近所の同い年の子供に比べて体重は多いし、食欲は見事だ
し、咳も出なければ、寝汗もかかない。肺らしい形跡は、一つもな
いが
」そう、いいながら、不安そうに両親の話を聞いている子供
の、頭、頸、延髄に手をあてて見た。今までの経験で解っているよ
うに、この子に何等、そうした病気のない事を、再確認しただけの
事であった。


 校医は、都の保健所を指定し、そこで、血沈と、レントゲンの検
査をしてくるように、と教えた。

 保健所へ行くと、私たちと同じように、心配そうに、子供を連れ
た親たちが、幾人も順番を待っていた。血沈の検査は、同い年の子
供に比べてやや多いが、レントゲンに写った両肺とも、何の異常も
認められない。

 「大丈夫です。この分なら今年から、学校へ上げてもいいでしょ
う」

 若い、保健所の医師の言葉に、張り詰めた心が、ホッと、ゆるん
だ。

 「アア、解った。これは神様の御慈悲
 帰りの電車の中で、妻は、私の耳に口を寄せて言った。

 「毎日、B・C・Gをうたずに済みますように、神様にお願いし
ていたので、こんな、とんでもない診断が出たのよ。今、小児結核
ならB・C・Gを接種するまでもない事だし、本物の結核なら、今
年は学校へ上れないし、
神様のお力は実に、深謀遠慮ね」と感嘆し
た。

 「深謀遠慮は良かったね」揺れる電車の吊皮に掴まりながら、改
めて神様の御慈悲に胸がつまり、「良かったなあ。学校へ上れる
よ」と、子供の頭をなぜたのであった。

                 (昭和二十七年一月八日)