このミニ講座は月に一
度、メシヤ講座とは別に当
支部で開催している勉強会
をミニ講座として会員等が
学んだ内容を掲載していま
す。

 たまには、ページ数が多
い時もありますが、どの月
もほぼA4版にして約6ペー
ジ前後でまとめてあり、1
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は、閲覧される方の自己責
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平成26年6月度 ミニ講座

三度目のブタ箱入り (自叢九  昭和二十四年十二月三十日)

 前項に述べた如く、復活した私は一年有余の空白を埋めようとし
て一生懸命治療に励んだ。すると三年目の昭和十五年十一月又々玉
川警察へ召喚された。其時は物々しく警官二名が附添ひ自動車で警
察へ送り込まれた。私は何事かと思ったが、署へ入るや主任らしい
者がイキナリ、
「君は医師法違反をやったね。」といふので、
私は面喰ひ乍ら、
「ソンな事はあるはずがない、違反になっては大変だから、充分注
意してゐる。」

 --といふ言訳を聞く処ではなく、彼は私を抱えるようにして留置
場へ打ち込んだ。私は何が何だか判らない、すると三日目であっ
た、主任は私を一室へ呼び訊問を始めたが、その時彼が言ふには、

「君は或病人に対し、医者へ行かなくても自分の方で治ると言った
覚えがあるだらう。」

 私は「それは確かに言ひました、嘘ではない、事実だからです。」
といふと
「ソノ言葉が立派に医師法違反ではないか。」と言ふので、私は
唖然とした、そこで私は

「ソノ位の事は療術業者は誰も言ひますよ。」といふと、
彼は、
「ソレは小規模でやってゐる者は大目に見るが、君のように堂々た
る門戸を構えてやってゐる以上、社会に害を及ぼす事は大きいと見
るから、看過する訳にはゆかない。」

といふので、私はどうも彼の態度から見て、
「キット営業禁止迄もってゆくに違ひない。」と推察したので、
「ヨシ先手を打ってやらう。」と、私は、
「そんな事で医療妨害の罪に問はれるとしたら、到底持続してやる
事は出来ないから今日限り廃業します。」

と言ひ放ったので、今度は彼の方が唖然としたようであった。それ
が十一月三十日である。


 処が彼は先手を打たれ、よほど口惜しかったと見えて、それから数
日経た或日私を呼出し、
「誓約書をかけ。」と言ふので、
私は「何の誓約書だ。」と訊くと、
「君は療術行為は如何なる事情があっても一生涯やらない事を誓ふ
といふ事を書いて出せ。」といふので、「実に御念の入った事
だ。」
と驚きながら、言ふがままの誓約書を入れたのである。


処が、之に就て面白い事が起った、といふのは翌年であった。それ
は某大臣、某将軍、某大実業家等が私の治療を乞ひに来るので、私
は、

「今は廃業して治療は出来ない事になってゐるから、是非治療して
貰ひたければ、警視庁の許可を得なさい、そうすれば何時でもやっ
て上げる。」
といったので、それ等の人は、警視庁へ許可を受けに
ゆくので、同庁でも当惑し私に向って、「療術行為の届出」をして
貰ひたいと要望するので、私も仇を討てたような気がしてその通り
届出をし、それからやむを得ない人だけ治療をしてやる事にしたの
である。それが終戦迄の経路であった。




   運命の転換    (自叢九  昭和二十四年十二月三十日)

 私は前項に述べだ如く、昭和十五年十二月一日愈よ治療をやめ、
いはば一個の浪人となった
のである。それは寧ろ霊的にみて、一段
階上った事になるので内心は喜ばしく思った
のである。というのは
それまで治療という極限されたいはば、第一線に於る体当り的兵隊
の仕事であったからでもある。その月の二十三日は私の五十九歳の
誕生日であったので、信者中の重なる二三十人が日本閣という料亭
へ私を招いて、誕生祝をしてくれた其時出た歌に、


   「キリストも釈迦も再び生れ来よ
                     汝と吾との力  試さん」

というのがあった。それから閑のある内と思ひ関東方面各地に旅行
する事となったが、之は経綸上重大意義のある事で、神様がそうさ
れた
事は勿論で、少からず奇蹟もあったのでその中の差支えないも
のだけかいてみよう。


 昭和十六年五月、渋井氏以下数人の信徒を伴につれ、丹波の元伊
勢神宮へ参拝
に行ったのである。此事に就て興味ある一挿話をかい
てみるが、今日の伊勢山田の皇大神宮は、今から約千百年以前此丹
波の元伊勢から遷宮されたという事になってゐる
。それに就て斯う
いう説がある。遷宮の際御神霊を御輿に乗せ奉り、一里離れた所に
和知川の下流で五十鈴川があり、その川を渡御せんとした際、急に
御輿が重くなり、どうしても渡り得なかったので引返したというの
であるから、
伊勢の山田には御神霊は移らなかった訳である。それ
を今日実證した一つの出来事があった。


それは此参拝から一ケ月余経た七月一日私は中島氏以下数人を従
え、伊勢山田の皇大神宮へ参拝に行った。社前に額いて祝詞を奏上
するや、社の中から神の声が聞えた。それは
「デワ私はこれから故
郷へ帰らしていただきますから、後は宜しく御願申します。」
とい
ふ言葉である。すると私の傍に又別の声がした。「永い間御苦労で
あった。」
との御言葉で私はハッと思った、といふのは、逾よ、

照大御神と御留守居の神との交替
である。

いふまでもなく私は先日元伊勢へ参拝に行ったのは大神をお迎えし
ので、今日の行事の為であった。お留守居の神とは勿論、神素盞
嗚尊で朝鮮へお帰りになったのである。其時私が思はれた事は、い
よいよ
日本の霊界が明るくなり、正邪善悪の是正が行はれる時が来
のである。然し其頃であるから露骨にはいえないので、周囲の者
へ斯ういった。「何れ日本の上層部に大変化がある。」事である。
それが四年経った廿年に現はれた彼の特権階級の転落であった事
は、神様の方では既に決ってゐたのである。


 今一つ斯ういう事があった、十六年六月廿二日渋井氏初め十数人
を従え、茨城県霞ケ浦の鹿島、香取の二神宮へ参拝した。最初香取
神宮へ参拝したが、神様は御留守であった。次に鹿島神宮へ参拝し
た時の事である。突如無声の声がした。
「貴下はいよいよ重大な御
役をさるる事になった事をお祝い申す。就ては諸々の神様が御守護
さるるが、私もその一人である。今日お参りに来られた事を、御礼
申す。」
という意味で、勿論神様は武甕槌の命である。その帰途、
駅へ立寄った処、号外が貼ってあった。みるといよいよ独ソ戦が始
まったという事がかいてあった。


 其時の十一月、善光寺へお詣りに行ったのである。此時も渋井氏
以下数人を従えた。最初軽井沢の紅葉を観、別所温泉へ立寄り、長
野へ一泊、翌日草津温泉から吾妻川渓谷の関東一の紅葉を賞で帰京
したのである。善光寺へ参拝の時、阿彌陀如来が出て来られた。曰
く、
「儂は、もう少し経つと印度へ帰るからそれまでは自分をわる
く言はないようにして欲しい。」
といふ言葉なので、私は、ハッと
冷汗三斗の思いがした。というのは、それまで時折り、如来の行跡
を非難した事もあったからである。私は陳謝したので、如来も快く
挨拶され、奥の座へ入られたのである。


それまで私は如来は最早印度へ帰還されたと思ってゐた処、未だ在
日されてゐた事を知ったのである。私は方々のお宮へ参拝の時仲々
面白い事があった。よほど以前、江の島の弁天様へ参詣した時、弁
天様はお留守で、その後へ狐が蟠居しをり私を見るや、彼は大いに
驚いて、三拝九拝するので、笑ひが止らぬ事があった。




   宗教となる迄  (自叢九  昭和二十四年十二月三十日)

 治療をやめたのは十五年末で、それから十九年春まで、重に治療
師養成に専念
した。処が世の中は戦時色が段々濃厚になり、十六年
十二月八日逾よ火蓋を切る事になったが、東京は無論爆撃の為焼土
と化する事は、以前から判ってゐたので、前以て信者にも注意を与
へてゐた
のである。私もその場合の悲惨事を想像し、見聞する事の
堪えられないばかりか、全然仕事も出来なくなるので、疎開すべ
く、予ねて心中ひそかに決めておった箱根強羅を探さした処、今の
神山荘が見当った。之は元、藤山雷太氏が建てた家で、嫡子である
愛一郎氏から購入する事になったのである。


代価は当時の事とて十六万円であったが、私の手許には六万円しか
なかった。がその少し以前、某信者数氏から十万円程の献金があっ
たので、恰度過不足なく手に入れる事が出来たのである。其時が十
九年五月で、間もなく移転したが、それから二ケ月経た七月、熱海
に好適な売物があるのでみてくれというので見に行った。処が非常
に気に入った。それが東山荘である。此家は元、山下亀三郎氏の別
荘であったが売価七十万円というのであまり高価の為一時は諦めた
が、どうも欲しくて堪らない。すると之を聞いた某氏及信者諸氏か
ら、漸次献金があり、右の家を手に入れる事が出来て引移ったのが
その年の九月であった。


 戦時中の事はあまりかく必要がないが、兎に角、奇蹟の多かった
事は素晴しいものであった。
戦禍による災害を蒙ったものは殆んど
一人もないといってもいい位
だ。雨霰と降る爆弾が其人をよけてゆ
き聊かの被害もなかった話や、煙に取巻かれ、進退谷った時、道案
内するかのように、煙の幕の一部に人の通る位の間隙が出来た事
や、飛行機から機銃掃射をされたが、弾はその人を除けて前後左右
に落下した事など数限りない生命拾いの体験を、毎日のように聞か
された
ものである。


 逾よ終戦当日廿年八月十五日の翌十六日、信者数十名が参拝に来
た。殆んどの人はあまりの意外な結果に、精神喪失者のような有様
であったが、其時私は斯う言った。大きな声では言えないが、此結
果は、本当からいえば大いに祝はなくてはならないのであるが、今
は言へないが段々に判るといったのであった。そんな訳で私は嬉し
くてならなかった。というのは
日本は本当の正しい国になる時機
が、いよいよ来た
からである。判り易くいえば、ヤクザ商売から足
を洗って、堅気になったようなものだ。それ迄の日本はいはば国家
的ヤクザ
といってもいい。暴力を揮って弱い者虐めをやり、縄張り
を段々拡げて来て、終に有頂天になって了った
ので、神様はアメリ
カの手を借りて警察権を揮い、大鉄槌を加え、ヤクザ稼業から足を
洗はざるを得なくさせたからである。


 戦時中面白い一挿話があった。それは特高警察官の一人が来て曰
く、「君の方で病気が治るのは、観音様が治すのではない。天皇陛
下の御稜威で治るのだから、治った場合、天皇陛下に御礼をいふの
が本当だ。」との事であるから、私は病気の治った人は二重橋前へ
お礼にゆかなければならないと言った事があった。之をみても当時
の空気が判るのである。


 今一つ斯ういふ事もあった。私はブラックリストに載ってゐたの
で、行く先々の警察から、いつも警戒の眼を放されなかった。それ
が為私が熱海へ引移った早々、警察吏が或嫌疑で訪ねて来た時、ラ
ヂオが二三台あったので、それを専門店へ運んで綿密な検査をさせ
た事があった。どういふ訳かといふと、アメリカと短波で通信して
ゐるといふ疑いからだと聞いて実に滑稽と思った。又東山荘の向い
側の家に刑事が張込んでゐて、日々出入の多くの信者を詳細に記録
したといふ事もあった。


 其頃、特高主任の歎声を聞いた事がある。「岡田の奴を挙げよう
として随分査べたが、何にも材料がないので困って了ふ。」といふ
ので私は笑はずにはおれなかった。何故なれば、材料があるから挙
げるので、何にもなけれは良民である。それを困ったといふのは故
意に犯罪者にしようとするからである。実に解するに苦しむと言っ
た事がある。之等によってみても当時、如何に封建的警察制度が人
民を苦しめたかが窺はれるのである。


 非常に大雑把ではあるが、私が通って来た経路は大体記いたつも
りであるが、ただ
今言う事の出来ない神秘な事だけは時期を待って
かくつもり
である。ただ長い間病気治療に従事してゐた時の興味あ
るものを抜出してかいてみよう。




   或婦人の話   (自叢九  昭和二十四年十二月三十日)

 此婦人は当時廿五六歳位の人妻であったが実に不思議な病気で、
サンザ医療を尽したが治らない。その原因はといえば、結婚後三年
間に二人の子供を産み、其後間もなく自分はジフテリヤに罹り注射
を受けた処、薬が強過ぎた為か一週間位人事不省に陥った。それか
ら一年に数回入院し、入院と入院の期間は主治医の診療を受けてゐ
たが徐々として悪化し、最早どうにもならなくなったので私の所へ
来たので、見ると瞑目し乍ら蚊の鳴くような声で口をきくのであ
る。曰く、
「眼を開けてゐるのが何よりつらく、頭痛、食欲不振、
歩行困難、不眠等で、全身疲労倦怠感著しく、漸く生きてゐるに過
ぎない」
という状態である。

治療をすると盛んにゲップをする。霊を入れる個所から必ずゲップ
が連続的に出る。而も其ゲップは非常に臭い。遂には肛門ではなく
陰部からゲップが出る。放屁と同じで、盛んに出るのでその臭気に
堪えなかった
のである。そうしてなかなか効果が現はれず、一進一
退を辿る中、衰弱その極に達し、愈よ断末魔が来た。医師の診察を
受けると、もはや数日の生命だとの宣告である。


 処が、実に書きづらい事だが、斯ういう事があった。その夫といふ
のが某省官吏で課長級である。妻が死ぬと決るや、早速モーニング
を誂(アツラ)えた。妻が質ねると彼は、
「お前はもう直ぐに死ぬのだか
ら葬式の時の礼服が要るから註文した。」
というので、私はそれを
聞いて何たる冷たい人間かと驚いたのである。其刺戟が私をして助
けたい熱意が強くなった為か、数日を経て僅かながらも好転しか
け、一ケ月位経て生命の危険がない迄に恢復した。処が夫たる彼は
私を怨み出した。その為邪魔をする事夥しい。二三日おきにその家
へ治療に行ったのだが、随分よくなったかと思って行ってみると案
外悪いので、質くと夫人は、
「先生に良くして戴いても、夫は私の
気持の悪くなるような事ばかり諄々しくいうので、斯んなに悪くな
って了う。」
と言うので、私もその都度憤慨に堪えなかったのであ
る。斯ういう事も聞いた。
「お前が先に○○教を勧められた時にそ
れへ入らなかった為、岡田に助けられてしまった。お前が死ねば、
財産はみんな俺のものになったのに残念で堪らない。」
と言うので
ある。というのは、彼は某大学出で養子に来たので、可成の財産は
妻君の名義になってゐたからである。それを聞いた私は、『世の中
にはヒドい奴もあるものだ。』
と憤った事が幾度あったか知れな
い。


 そう斯うする中、漸次快方に向ひ、日常の仕事も出来るようになっ
たが、天網恢々疎にして漏さずというか、
その夫は腹膜炎に罹っ
た。勿論医療一方でやったが漸次悪化して、終に親戚が私の所へ来
て是非助けて貰いたいと懇願するので、私も嫌で堪らない心を制え
てその家に行き治療廿分位した時、彼は仰向けになってゐたが、

「先生もうよしませう。」といい乍らクルリと横を向いて了った。

私は呆れて憤怒の心を制えながらその家を辞去した処、翌日夫人が
来て非常に謝ったが、私はどんな事があっても二度と治療はしない

と言って断ったのである。それから医療一方で一進一退しつゝ漸次
悪化し、数ケ月後死亡したのである。初め夫人を私が手にかけた頃
は夫は健康であったに係はらず、数年後反対の結果になったといふ
事は、不思議ではないが不思議とも思えるのである。右夫人は未亡
人として今日二児を養育しつつ頗る健康な生活を送ってゐる。




   浄霊の原理              (医革  昭和二十八年)

 今日世界広しと雖も、真に病を治す方法としては、我浄霊を措い
て他には絶対ない事は断言する
のである。そこで此原理を説くに当
って、前以て知らねばならない事は、一体人体なるものの構成
であ
る。之に対し科学は唯物的にしか判ってゐないから、それを基本と
してゐるのが現代医学である。処が之は半面であって、本当は
見へ
ざる霊と見ゆる体との二原素の結合から成立ってゐる
のである。此
理によって
病気とは体に現はれた現象であり、根原は霊にある
で、つまり
表と裏との関係になってゐるので、此事が認識出来ない
限り真の医学は生まれる筈はない
のである。

では霊とは何かといふと、之こそ無色透明一種のエーテル体である
から、科学で把握出来ないのも当然で、科学はまだ其処迄発達して
ゐないからである。然し神示によれば立派に実存してゐる以上、将
来科学が一層進歩した暁、把握出来るのは勿論である。此理によっ
て治病の場合、
病の本体である霊の方を治さなければ、体の方が治
る訳はない
ので、浄霊とは霊には霊を以て対するといふ、此平凡な
理屈にすぎない
のである。


 処が科学は唯物理念である以上、体のみであるから治らないので
ある。此意味に於て
医学が如何程進歩したとても、結局無意味で徒
労でしかないのである。故に之から生まれた医学としたら駄目に決
ってゐる。又医療以外の凡ゆる療法もそうであり、只灸点だけは些
か異うが、之は刺戟によって一時的患部の毒素を誘導し、苦痛緩和
させるだけで、化膿を可いとするのも、それだけ毒素が減るからで
ある。茲で浄霊の根本原理を徹底的に説いてみよう。


 前記の如く病気は霊に発生するといふ事は、最初局部的霊に曇り
が生ずる。曇りの原因は薬毒が一旦体内に吸収され、血液が濁るの
で此濁血が
霊体一致の法則によって、霊の方では曇りとなる。する
曇りは自然浄化作用によって、漸次局部的に濃厚分子が出来る。
之が体へ移写して固結となる
之が神経を使う所程集るのであるか
ら、人間が神経を使う所といえば上半身で、頭脳を主とし眼、耳、
鼻、口、咽喉等であるから、其処へ集中する場合、一旦一歩手前で
ある肩、首の周囲に結集する。体では固結である。今日如何なる人
でもその部を探れば、必ず
固結やグリグリがあるのがそれである。
処が之に自然浄化が起ったのが感冒であるから、感冒に罹るや発熱
によって固結は溶け液体となり、之が痰、水洟、汗等であって、
を排泄する為のポンプ作用が咳であり、鼻汁が出る為の嚔
であるの
は此理によるのである。


 又、頭痛は頭脳内の毒素が熱で溶け、何れかに出口を求めやうと
し、神経を刺戟する為
であり、中耳炎、淋巴腺炎、扁桃腺炎、眼
疾、歯痛等悉くそう
である。又、彼の神経痛、関節リョウマチスも
そう
であって、人間が手足、指等を屈曲する為、その部に毒素固結
するその浄化の激痛である。以上ザッとかいたのであるが、要する
病気の苦痛は各局部に集溜固結せる毒素排除作用であるから、何
等恐るる必要はない
処か、之によって健康は増すのであるから、喜
んで我慢すればいい
ので、而も病気苦痛は誰も知る通り、その半分
以上は恐怖が手伝うので、右の理を知れば苦痛は半減する訳であ
る。


 そうして特にかかねばならないのは、彼の結核である。此原因は
最初浄化発生するや、体内各部に固結せる毒素が、熱で溶けて忽ち
肺臓内に滲透し、一時停滞するや、間もなく痰になって排泄され
る。之が自然原則
であって、それを知らない医学は、一時的肺臓内
に停ってゐる痰を、肺から病が発生した為と誤解し、極力停めやう
とする。
それで固まるだけは苦痛が減るから治ると思うのである。


そこで御注文通り痰の固りが出来、レントゲン写真に雲翳となって
写るので、医師は結核の初期、肺浸潤と診断する
ので、以上の経過
にみても全く
医療が結核を作る事がよく分るであらう。元来肺臓な
る機能
を分り易くいえば、液毒即ち痰が排除される場合、中間駅の
役目といってもいい
ので、それを医学は終点駅と間違え、中間駅に
汽車を停めるやうなものである。その結果出るべきものを止め、結
核を製造するとしたら、之程恐るべき誤謬はないであらう。


 次に近来恐れられてゐる病気に赤痢、疫痢がある。此病原も意外
な処にある。即ち頭脳特に後頭部から延髄附近にかけての固結毒素
が、熱によって溶解、下痢となって排泄される
ので、その過程とし
て液毒は一旦腸に溜り、下痢となって出るのであるから想像もつか
ないであらう。然し之は事実が立派に示してゐる。此病気の予後は
非常に頭脳明晰となり、学童などは俄然として優良児となるにみて
明かである。そうして医学は結核に限らず、凡ての病原を黴菌感染
の為としてゐるが、実は
菌なるものは、毒素が古くなれば自然発生
するもので、之が物質の原則
である。而も体温といふ好条件が拍車
をかけるに於てをやである。然し感染しない事もないが、それは問
題とはならない。要は無限に自然発生する事である。此菌に就ては
後に詳しくかく事となる。




おかげばなし

    妙智力の現れ 
                          『地上天国』1号、昭和23(1948)年12月1日発行
                                        神奈川県足柄上郡金田村金子  長田トシ子(21)
 右の婦人は六月二日突然発作的にうつぶせになって会話はできず
その症状は死の刹那の形相で、今にも死にそうになったので、家の
者は右往左往手を施す術もなく救けるべき方法もなし、医者に来て
貰っても手遅れと云われるだろうし、実弟が神におすがりするより
外ないと私の所へ馳け込んで救けてくれとの嘆願に私は、一目散に
訪れ急いで浄霊に取りかかりました。所が患者は苦しそうに
「二人
では助からぬ」
と口ぐせにうなっているのです。このうなり方が死
の格好をするのでこれは死霊に違いないと思い即座に私は家の人に

「家族の中で変死した人はないか」と聞きましたところ「関東大震
災で病院へ入院した実姉が亡くなった。その時付添いの看護婦がそ
の実姉を救おうとして遂に二人共死んでしまった」
と事実を語り終
ると次第に苦しみも柔らぎました。


 間もなく落ち着いたので私は帰途につきました。すると夜中の一
時頃再びその家族から迎えがきたので、私は再発作したものと直感
し、もう自分の力ではとても鎮圧は出来ないと思い。勿体ない事で
すが、光明如来の御書(顧問大先生御揮毫)を胸に抱き再び急ぎま
した。行ってみると想像以上に物すごく、狂人の如き形相をして自
分の方を凝視しているのです。すぐ御浄霊にとりかかると暴れ出し
どうしてよいか手のつけようもなく家の人も途方にくれ、ただああ
と云い、呆気にとられ私の処置のみを待っているのでした。


 私自身もはや呑まれた形で胸に抱いたお軸のみをただ一つの頼り
としてその御書を病人の頭上にのせてしまいました
。すると驚いた
事には私が予想していた通りみるみる中に病人は静かになり、家の
者も余りの奇蹟に愕然とし、観音の妙智力の偉大さに思わず讃仰の
言葉を発しました。直ちに御浄霊に取りかかりますと、今度は何事
もなく一回目が終ると同時に病人が物凄く大きな声で
「黒い手が神
様と神様との間をくるから、その手を止めてくれ」
と云うのです。
私は突差の声に一寸迷いましたか「神様」と云った声を深く感じ、

「その神様は何とおっしゃる方だ」と聞きながら私は御浄霊特に頭
に深く霊射しました。すると再び彼女は口を開き「
今の御浄霊で黒
い手は消え去り、それと一緒に観音様が多勢の神様を連れて私を助
けにきて下さっている」
というのです。それをもっとくわしく聞き
正すと、足の方に観音様が現われて、向って右側に雨で濡れてしず
くのたれたはだしの神様が先頭にたって助けに来られている。左側
におられる神様は観音様がまぶしくてよく解らないと云いました。


 私はすぐ脳裏にこの偉大なる浄霊に黒い手は忽ち消え去り、観音
様が側に助けに来て下された事を有難く感ぜずにはいられませんで
した。家族の者ももう黙って私のする行動を見守っていました。私
は彼女が神がかりになったのではないかと感じました。


 それは家の祖先の事や現在の事など色々と云うのです。今主人が
シベリヤの方へ行ってまだ帰って来ないが、必ず帰って来るから安
心して待っていなさいとハキハキ答えたりするのです。彼女は
「主
人が帰ってきたら御礼方々二人で観音様へ参拝に行く」
と云いまし
た。


 その時の本人は全く自己意識がなく無我でありました。そのまま
彼女は
「これで助かった、安心して下さい」と云い「善言讃詞はど
うしてやるのですか」
と尋ねた。私は直ちに善言讃詞を彼女に向っ
て音読しながら一緒に称えた。


 唱え終った時彼女は「観音様がお帰りになった」と云って正気に
帰りました。その夜より三日位で平常の仕事につけるようになりま
した。家の者もまた私も彼女に神ががりや一切の今の現象を次々と
思い浮かべ全く観音妙智力は死に際会しても否日常生活においても
眼に見えない御守護のある事を感謝し、また家の事や遠く故郷を離
れシベリヤにいる主人の事をも教えて戴いた事数々ならぬ御守護は
肝を貫く感があります。家族一同感慨無量ひたすら朝に夕に妙智力
をあがめ尊んでいます。