このミニ講座は月に一
度、メシヤ講座とは別に当
支部で開催している勉強会
をミニ講座として会員等が
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い時もありますが、どの月
もほぼA4版にして約6ペー
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平成26年4月度 ミニ講座

はしがき    (自叢九  昭和二十四年十二月三十日)

 之は私の自舒伝である。最初わが半生の記と名づけたのであるが
「光への道」の方が感じがいいのでそう名づけたのである。私の前
半生は洵に平凡で世間ありふれた経歴で、面白くないから書かない
事にしたのである。それが
三十八歳の時私は運命の一大転換に逢着
した。それからが波瀾万丈の生活が始ったのである。或時は高山へ
登り或時は谷底へ転落したといふような経路を経つつ、凡ゆる人生
の苦悩を嘗め尽して来た
のである。とはいふものの三十八歳は私の
第二の誕生
でもあった。それからは予期しなかった信仰生活に入
り、初めて私に課せられたる天の使命を知った
のである。宗教人と
なってから苦悩の大きい代り、又実に欣喜雀躍する程の喜びもあ
り、全く文字通り悲喜交々の人生を経て来た訳である。勿論神幽現
三界に渉り神仏の存在、生と死の本義や、過現未に渉る世界の動
向、人生の意義等々、何人も窺知し得なかった処の彼の釈尊が七十
二歳にして到達し得た処の所謂見真実の域にまで達した
のである。
此の喜びは如何ばかりであったであらう。恰度達磨が面壁九年八月
十五夜の満月を仰いで悟道に徹したといふ歓喜に勝るとも劣らない
と思ったのである。


 由来一宗の開祖たる人は、昔から非常に奇蹟に富んだ事は普く人の
知る処であるが私も同様幽玄にして
神秘極まる奇蹟の生活を続けつ
つ今日に至ってゐる。今一つ特に言ひたい事は、文献等による今日
迄の宗祖開祖に比し、私といふものの凡てが余程変ってゐる。其中
の著しい点は、
私の生活態度は凡人と少しも変った所がない事で、
之は人からもよく言はれるのである。そのように
私は常に常識をモ
ットーとし、奇矯な言動は極力嫌ふ
為でもあらう。又私ほど多角性
のものもないと思ふ。私は宗教家であり乍ら、政治、経済、芸術、
教育、美術等々殆んど人生百般のものに、趣味と関心をもってゐな
いものはないと言ってもよかろう。此事は実に多幸とも思ってゐ
る。之は私として常に神に感謝してゐる処である。

 以上の如き、私が辿って来た奇蹟に富める活歴史を之から書こうと
するのであるが出来るだけ興味に富めるものを主として記事を進め
るつもりである。




   入信以前の私   (自叢九  昭和二十四年十二月三十日)

 私が信仰生活に入ったのは、前述の如く、大正九年夏三十九才の時
であった。私の性格と入信の原因に就て述べてみるが、それまで私
といふものは
無神論者のカンカンで、神も仏もそんなものはある筈
がない。そういふ見えざるものを信ずるのは迷信以外の何物でもな
としてゐた。といっても不正な事は嫌だ。善い事はしたいといふ
信念は常に燃へてゐた。こういふ事もあった。明治神宮を代々木へ
建立する時、全国民から寄附金を募集した。私も町内の役員からそ
の勧誘を受けた。其頃私は小資産家の部に入ってゐたので、町会役
員の方では三百円乃至五百円位の推定をしてゐた事は後で判ったの
である。処が私は金五十円也を寄附をしたので、意外の少額に驚い
たらしかった。それに就て私の理由は斯うである。「世界の凡ゆる
国家を見渡した時、神社仏閣の多い国程、その国家は振はない。例
えば伊太利、ギリシャ、インド、ビルマ、中国等であり、新進のア
メリカやイギリス、其頃のドイツ等の如きは、宗教的建造物は余り
ない。といふ訳で、明治神宮の如き大きな神社が一つ殖えるという
事は甚だ面白くない」
といふ解釈によった為である。


 そういふ位だから、其頃の私は神社の前を通っても、決して頭を下
げない
。何となればお宮とは、職人が木の箱と屋根を造り、扉があ
り、その中へ鉄製の鏡か石塊、文字のかいた紙片のようなものが入
ってるだけであるし、寺院の方は阿彌陀様や観音様など彫刻師が木
を刻み、又は鋳物師が金属で鋳たものであって、金箔や鍍金できら
びやかに見せ、それ等をいとも勿体らしく厨子へ入れたり、須彌壇
(シュミダン)の上高く飾ったりして拝ませる。又
神主や坊主が衣冠束帯
や袈裟衣を美々しく着飾り、さもさも有難そうに、恭々しく祝詞や
お経を奏げ礼拝するといふのであるから、実に馬鹿々々しい限り

ある。斯ういふものは悉く偶像崇拝であって、単に人間の気安め以
外の何物でもない
のであるから、社会の為、凡ゆる迷信はよろしく
打破しなければならない。といふ訳で、偶々法事などで、寺の本堂
に参列する場合、何時も私は居睡りの連続である。


 処が私には一面又妙な考えの下に、慈善的行為が好きであった。人
を助ける事が愉快でならなかった。私は信仰生活へ入るまでの数年
間、救世軍へ毎月一定の寄附をしてゐた。その為、牧師が時々来て
は信仰を勧めた。曰く、「救世軍へ寄附する人は殆んどがクリスチ
ャンであるのに、貴方は珍しい人だ。然しそういふ心の人は必ず信
仰へ入れるから是非教会へ来て呉れろ。」
といはれたが、どうして
も私は行く気になれなかった。その理由は斯うである。当時救世軍
は免囚保護事業をしておったので私は考えた。「もし救世軍が救っ
てくれなかったら、出獄した囚人の誰かが私の家へ入り、被害を受
けたかもしれない。それを逃れ得たとしたら救世軍の御蔭であるか
ら、其事業を援助すべき義務がある。」
といふ。頗る合理的観念が
私をそうさせたのである。


 斯ういふ事もあった。私の家に傭はれてゐた一家婢があった。此女
は肺病になって郷里へ帰ったが、家が貧しい為邪魔にされ、進退谷
って私に救ひを求めに来た。私は憐愍の情制え難く、彼女の食費医
療費等、必要な費用は何程でも送金してやるといったので、彼女は
喜んで郷里へ帰った。それは房州の或村で、その村の人々は不思議
な慈善家もあるといって評判になったとの事で、私は本人を助ける
事よりも村の人々に良い感化を与えた事の方が大きいと思ひ、僅か
な金で功徳をしたと喜んだのであった。処が私の周囲の者は、肺病
なんか死ぬに決ってゐる。それを助けてやっても詰らないではない
かといふので、私は斯う答えた。「治って御恩返しを期待する事は
本当の慈善ではない。恩を施して徳を酬ゐさせるといふ一種の取引
だ。故に
報恩を期待しないで人を助ける。之が真の慈善ではない
か。」
といった事もある。




   入信の動機    (自叢九  昭和二十四年十二月三十日)

 私の若い頃は不正を憎む心が旺盛で困る事がある。特に政治家の不
正や、指導階級の悪徳ぶり等を、新聞や雑誌でみたり、人から聞か
されたりすると、憤激が起ってどうにも仕様がない事がある。全く

信仰上からいえば厄介な小乗的人間であった。

此様な性格が私をして不正を行はしめない処ではなく、何か社会人
類の為、役立つ事をしたい。社会悪を少しでも軽減したいといふ気
持が一杯で、それにはどういふ事をしたら一番効果的であるかを考
え抜いた末、先づ新聞を経営し、新聞によって大いに社会悪を矯正
しようと考えた。それが恰度大正七八年頃で其頃大新聞でなくとも
中新聞位を経営するにも先づ百万円の金を用意しなくてはならない
といふ事を知ったので、よし一つその百万円の金を儲けようと決意
した。


其当時私は小間物問屋を経営してゐたが、とに角廿五才の時の私が
商業には素人で、親から貰った資金が三千五百円位でそれで開業し
たのであるが、うまく当って十年間で十五万円位の資産が出来たの
で、些か自惚れも手伝って一日も早く百万の金を得やうとしたのだ
から大いに無理があった。処が世の中の裏を知らない私は、世間を
甘くみて、資本金二百万円の株式会社を作り、私は社長に納って、
大いに発展しようとした。それが大正九年の二月であった。右のよ
うな訳で一時は商品も充実さした。


処へ翌三月十五日彼の有名なパニック襲来が始った。株は大ガラと
なり、商品は一挙何分の一に下落したのだから、生れたばかりの株
式会社岡田商店は一たまりもなく転落、二ッチも三ッチもゆかない
事になった。それでも何糞と社運挽回に大努力をし、十年、十一
年、十二年頃は漸く瘡痍も癒えかかり、之からといふ時
、天は飽く
迄無情であった。同年九月一日、彼の関東大震災に遭ひ、店舗も商
品も全部烏有(ウユウ)に帰し、貸倒れも莫大な額に上り、もはや再起不
可能の運命に陥った
のである。


 これより先、大正六年頃より例の百万円獲得の為其の勧めに従ひ、
その頃景気の好かった株式仲買店に対し、金融業を始めた。それが
高利なので仲々馬鹿に出来ない程の収益があったので、段々拡張し
て、当時日本橋蠣殻町にあった倉庫銀行に私も些か信用が出来たの
で、手形や小切手の割引をし、金を貸し、その利鞘をとってゐたの
である。


処が八年春右の銀行は、突如支払停止となり、破産にまで転落
た。それが影響を受けて私も一大苦境に陥り、搗(カ)てて加えて、

の死
に遭った。而も妻は三人目の姙娠五ケ月にして逝いたのであ
る。
前の二人の子は死産と流産で、今度で三人目も又駄目となった
ので実に内憂外患悲観のドン底に陥った揚句、苦しい時の神頼み
で、無神論者のコチコチの私も、種々の宗教を漁り始めた
。どれも
これも面白くない。処が当時華やかであった彼の大本教に少からず
魅力を感じたので入信するにはしたが、あまり熱が出なく一年位で
忘れたようになってしまった。といふのは事業を建直して再興する
見込がついたからで、それが
信仰熱冷却の原因でもあった。又先に
述べた株式会社の、陣容を新たにすべき意味からでもあった。それ
不幸にして大震災に遇ひ、致命的打撃を受けたのだからどうしよ
うもないといふ訳で、愈々決心し、再び大本教に接近し、今度は頗
熱烈な信仰者となったのである。


 そうして漸次信仰生活の時を閲するに従って斯ういふ事を悟ったの
である。それは私の失敗の原因であった社会悪減少の為に、志した
新聞などは未だ効果が薄い。どうしても
神霊に目醒めさせる-之
だ。之でなくては駄目だ。どうしても人間の魂をゆり動かし目覚め
させなければ、悪の根を断つ事は不可能である事を知った
ので、そ
れからといふものは、
寝食を忘れ神霊の有無、神と人との関係、
信仰の妙諦等の研究に没頭
したのである。と共に次から次へと奇蹟
が表はれる。


例えば私が知りたいと思ふ事は、何等かの形や方法によって必ず示
されるのである。そうだ確に神はある。それも頗る身近かに神は居
られる。否私自身の中に居られるかも知れないと思ふ程、奇蹟の連
続である。それ処ではない。
私の前生も祖先も神との因縁も、私の
此世に生れた大使命もはっきり判って来た
のである。これは一大事
だ。一大決心をしなくてはならない-といふ訳で、営業は全部支配
人に任せ(後に全部無償で譲渡した)それからは
全身全霊を打込ん
で信仰生活に入った
のである。それは忘れもしない昭和三年二月四
日節分の日であった。




   入信以後    (自叢九  昭和二十四年十二月三十日)

 それから私は、信仰に関してどこまでも深く究めなければならな
い、という覚悟
を以て大本教に関する書籍、特にお筆先は繰返し、
繰返し熟読
したものである。尤も大本教に於てもお筆先を唯一の聖
典として、拝読を奨励したからでもある。処がお筆先というもの
は、
身魂相応にとれるといい、判りそうでなかなか判らない。それ
を判らうとする努力、つまり神秘を暴こうとする意欲から熱が出る

のである。茲で神秘に就て少しかいてみるが、人間の意欲の中で、
此神秘を探りあてようとする事程魅力あるものはあるまい。
信仰に
熱が増すのは神秘探究心から
である。

従而昔から神秘の多い宗教程発展するのである。尤も神秘の表現化
が奇蹟
であるから、神秘と奇蹟とは切っても切れない関係にある。
本教の異常の発展も之が為であると共に、既成宗教不振の原因も是
にあるのである。


 面白い事には宗教と恋愛と相通ずるものがある。宗教の神秘に憧が
るる点と、恋人に憧がるる点とがよく似てゐる。従而
信仰の極致は
神への恋愛
である。此点恋愛と異ふ処は、誰かが言ったやうに、恋
愛は結婚が終極点であるとの通り、結婚が成立すると大抵は魅力の
大半を失ふものである。処が
神への恋愛は、其点大いに異う。とい
ふのは、
一つの神秘を暴けば、次の神秘を求める、知れば知る程愈
よその奥を究めようとする、そこに信仰の妙味があるのである。


 以上のような意味で、その頃の意欲は、神秘を探るには神人合一の
境地に到らなければならない
と思って、大本教が応用した古代に行
はれた鎮魂帰神法という一種の修業法があり、仏教の禅とよく似て
ゐる。それによって身魂を磨こうと一生懸命したものである。それ
と共に、自己ばかりではない、他人に向って之は帰神を抜いた鎮魂
のみの法がある、処が実際は他人に向う場合、鎮魂ではなく浮魂で
ある。鎮めるのではなく浮かせるのである、浮かせて口を切らせ
る、それは憑霊に喋舌らせる事であって、一時は随分喋舌らしたも
のである。それによって霊界の実相と憑霊現象を知りたいからであ
る。之は霊界叢談の著書に出てゐるから参照されたいが、此方法も
霊界を知る為には、幾分の効果はあるが、弊害も亦少くないので、
初心者は触れないように私は注意してゐる。




   大森時代   自叢九  昭和二十四年十二月三十日)

 愈よ全身全霊を打込み、神の命のまま進む事となった。何しろ神の
意図が半分、自己意識が半分
というような訳で、普通人より心強い
気もするが、普通人より心細い気もする。勿論それ程の経済的余裕
もなく、先づ数ケ月維持する位の程度しかなく、確実な収入の見込
もない、実に不安定極まる生活ではあるが、然し絶間ない奇蹟や神
示の面白さで、経済不安など忘れて了ふ程で実に、歓喜の生活
であ
った。只驀(マッ)しぐらに霊的研究と病気治療に専念したのであっ
た。


 病気治療といっても医学を修得した私でもなく、只種々な病気にか
かり病院へ入院した事三回、医師から見放された重病二回あり、四
十歳頃迄は健康の時より病気の時の方が多い位で、全く病気の問屋
であった為、其都度医学書を読み耽ったまでである。ざっとその種
類をかいてみると、十二三才頃迄は、腺病質の所謂虚弱児童で、薬
餌に親しみ通しであった。それでも小学校だけはどうやら終えた
が、子供乍らも、他の健康児童をみると実に羨しかったものであ
る。然し不思議にも学校の成績はよく、大抵主席か二番より下らな
かった。


十四才で小学校を卒(オ)え画家の目的で美術学校予備校に入学した
が、数ケ月後眼病に罹ったので中退、二ケ年有名な眼科医を巡った
が、終に治癒せず諦めて了った。処が間もなく肋膜炎に罹り、大学
病院施療科に入院、穿孔排水した処、二百グラム余出た。之は半ケ
年位で治癒したが、其後一ケ年を経て再発、種々の医療を施した
が、漸次悪化し、一年余すぎた頃肺結核となり、当時有名な入沢達
吉博士の診断を受けた処、不治の宣告をされた。それが
菜食療法で
全治
したのである。

 其後数年間一切を放擲し、健康恢復に努めたので、漸次恢復し、漸
く自信を得るに至ったので、廿五才独立して小間物屋を創めた。素
人であり、而も母と親戚の娘と私との三人暮しで、九尺間口の借家
で店の事は一切万事私一人でやったのである。当時の模様をざっと
かいてみるが、朝起きるや、掃除一切は勿論商品の仕入れも販売も
私一人でやったのだから大変である。而も全然経験がないから、商
品の用途さえ分らない。その都度母に聞くのである。之は何といふ
名前だ、頭のどこにさすものだといふような訳で、化粧品から油、
元結に至る迄、俗に種類の多い事を小間物店という位だから、覚え
る事は容易ではない。其間客は絶えず買いに来る。


当時、スキ油一ケ、元結一束など一銭であったので、一銭の客にも
一々有難うをいひ頭を下げるのだから堪らない。それが為半ケ年位
経った頃とうとう重症な脳貧血に罹って了った。何しろ電車通りへ
ゆくとその音響の為、眩暈がして倒れたり、又十分も人と談話をす
ると、口が利けなくなるという位であるから、その苦痛は甚しいも
のであった。二三ケ月医療を受けたが効果がないので、人の奨めで
灸療法を受けた処、やや軽快に向ひ、その先生から運動を勧めら
れ、晴天の時は一里以上の歩行
をした。それが効果を奏し、二三ケ
月で殆んど全快した
のである。処がその空白を埋める為馬力をかけ
た事と、商売の方も相当熟錬したので非常に繁昌した。然し前途を
見る時、小売より問屋の方が有望と思えたので、多少儲けた金で創
めた処、頗る順調に発展十年位で一流の問屋となったのである。そ
の間にも一年に数回位病気に罹った。その中で重症なチフスに罹っ
た時は遺言までした位で、入院三ケ月で全治した。又痔出血で入院
一ケ月、その他胃病、リョウマチ、尿道炎、頻繁な扁桃腺炎、神経
衰弱、頭痛、猛烈な腸カタル等々
数え切れない程である。


 それから間もなく失敗、その結果信仰に触れる事になったのは別項
の通りである。茲で私の生れた頃の事をかいてみるが、私の生れた
のは東京都浅草橋場という町の貧民窟であった。今も微かに覚えて
ゐるが、親父は古道具屋で店が三畳位、居間が四畳半位の二間きり
であった。そこから十町位ある浅草公園に毎晩夜店を出しに行った
ものである。私が物心がついてから父からよく聞いた話であるが、
今夜幾らか儲けないと、明日の釜の蓋が開かないというので、雨の
降らない限り、小さい荷車へ僅かばかりのガラクタを積んで母は私
を背負い、車の後押しをし乍ら行ったという事である。そんな訳で

赤貧洗ふが如く、母は今でいう栄養失調という訳で、乳が碌々出な
いので近所に蓮窓寺という寺の妻君に乳貰ひに行ったものである。


それから私が小学校を出る頃、家計も漸く多少の余裕が出来るよう
になったので、美術学校へも入いれたのである。従而子供の頃と、
世帯を持ってからも、相当期間貧乏の味と金の有難味を充分植えつ
けられたので、それが非常に役立ってをり、今以て無駄と贅沢は出
来ないのであるから、寧ろ其頃の逆境に感謝してゐる
次第である。

 その後の病気をかいてみるが、別項の如き歯痛や心臓弁膜症、疥癬
等も随分苦しんだもので特に歯痛で悩んだのは、大変なもので左に
かいてみる。


 今から三十五年程前、私は慢性歯痛で苦しんだ事がある。何しろ一
本の歯の痛みさえつらいのに、毎日四本も痛むのだから堪らない。
当時米国で長く開業してゐた有名な某歯科医に、一年位かかって凡
ゆる薬をつけたが治る処か、益々悪くなるばかりだ。或日右の歯科
医は斯う言った、「私が知ってゐる限りの薬はみんなつけたが治ら
ないから、之以上どうしようもない。来月私の友達がアメリカから
帰ってくるので、いくつか新しい薬をもって来るだらうから、それ
をつけてみるより外に方法がない。」と言うのである。


 之程の歯痛の原因が偶然な或事により、薬毒という事が判ったので
ピッタリやめて了った。処がそれから段々よくなって今日に至っ
た。右の或事に就て何れ詳しくかくが、当時私は余りの苦痛に何度
自殺を企てたか判らない位で、右の或事は私の生命を救ってくれた
のである。




 (お陰話し)
   新しき道を得て                
          
 『地上天国』7号、昭和24(1949)年8月30日発行
      静岡県富士郡田子浦村中丸  日本観音教長生会 浅井能充(21)
 昭和二十一年十八才の夏。南瓜の青々とした棚の見える病院で乾
性肋膜炎と言い渡されました。私は別に心配もしなかったが家に帰
って父母に告げると、父母は意外な程沈痛な顔をして私を眺めて溜
息した。病状は意外に執拗であった。


一年経ってまた同じように夏が来てしまった。焼けつくような日の
光が去年と同じように南瓜の葉を照りつけるようになっても体は腑
抜けたように元気がなく、空しい寂寞とした毎日が続くばかりであ
った。秋の葉が落ちまた新しい春の芽が吹きはじめたが、同じよう
に空しい何時果てるともない執拗な病状が続いた。夏草を敷いた松
林に身を横たえて泣いたり意気地ない自分を嘲笑したりしたその
頃、次第に宗教を求め始めた。


二ケ年も同じように不安の伴った病に閉じ込められて宗教に心を向
けないものはありますまい。私も宗教に噛りついた。断えず来る不
気味な不安から逃避せんと振いつくように宗教に打ち込んだ
。海の
見える松林で宗教書を手当り次第に読んだ。当時を想うと悲壮な思
いがする。丁度その頃病状が腰を折るように一段と進んでしまっ
た、宗教による悲壮な努力も泡のように消えてしまった。


私は疲れてしまってもう何も求める心も湧いて来なかった、半ば自
棄的な毎日が続いた。観音教の浄霊を父母がしきりに勧めるように
なったのは、それからしばらく経った、ようやく秋の声を聞き始め
た頃であった。私はすぐには父母の勧めには従わなかったが、その
頃しきりに妙な不安に襲われる事が多かったので浄霊をうけてみる
気になりました。


 青白く尖った顔を枕につけて私は小説を読んでいた。そこへ先生
が来てくれた。玉蜀黍の葉が青く部屋に反射するような日であっ
た。多忙らしい先生はようやく電灯が欲しいと思われる頃来て下さ
る時もあった。私はそれがだんだん待ち遠しく思われるようになっ
てきた。数日が過ぎて私は妙に体の軽くなるのを感じた、いや体ば
かりではない、心までが何んとなく軽やかな喜びに似た感情を湧き
立たせるように思った。何げなしに動いてみたい気になった。先生
はすぐ床を上げてしまうように言った。私はすぐその通り実行し
た。体は益々軽くなり不思議な元気が盛り上って来た。遂に自転車
にまで乗り出した、近所の人達は驚いたり危んだりした。私自身は
ただわくわくする喜びがあるばかりで何の反省する余裕もなかっ
た。稲田の続いた田圃を縫い街をくぐって教導所まで通う事の出来
た喜びは例えようもなかった。母は私の帰りを心配そうに待ってい
たが、私の元気そうに帰ってくるのを見て非常に喜んでくれた。


「天国の福音」を読んだのはこの頃であった。非常に感激した。今
まで触れる事の出来なかった神秘な深い世界が目の覚めて行くよう
に自らわかった、もう何も憂うるものはない新しい喜びに満ちた生
活が待っているような気がした。夢のような計画も独りたてて喜ん
だりした、ところが私はこの頃からようやく浮いた喜びから自己と
取り戻すようになった。自己の囲りを改めて観察した時
観音教団の
神命を深く深く認識するように
なった。人を救わずして自己の幸福
の道がどうしてあり得ようと確信
するようになった。私の進むべき
道は完全に決った。
新しき理想世界の建設に邁進しよう。