このミニ講座は月に一
度、メシヤ講座とは別に当
支部で開催している勉強会
をミニ講座として会員等が
学んだ内容を掲載していま
す。

 たまには、ページ数が多
い時もありますが、どの月
もほぼA4版にして約6ペー
ジ前後でまとめてあり、1
時間程度で読めるようにし
ています。

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平成26年3月度 ミニ講座

幸運者を作る宗教  (栄二百十二号  昭和二十八年六月十日)

 本来宗教とは何かというと、不幸な人を幸福に導く為に、神の愛に
よって発生したもの
であって、それ以外の何物でもない。知らるる通
りこの世の中に生を営んでいる誰もは、幾ら一生懸命に幸運になろう
としても、中々思うようにはならない
一生涯かかって幸福になる人
は九牛の一毛
で、殆んどの人は幸福処か逆に後から後から不幸という
奴が見舞って来る
。というように学校で学んだ学理も偉い人の修身談
や伝記、それに関する書籍を読み、その通り実行しても役立つ場合は
稀である。成程理屈は実によく出来ていて感心はするが、実際となる
と理屈通りにゆかないのは誰も経験する処であろう。


 早い話が正直主義でやると、お人好しやお目出度人間にみられるし、
方針を変えて変な事をすると、今度は信用を落したり、下手をすると
法律に引っ掛ったりする
ので、どっちにしていいか分らない事にな
る。そこで小利口な人間は正直らしく見せかけ、裏で不正直をやり、
口を拭いて知らん顔の半兵衛を決め込む
に限る。というのが世渡り哲
学という訳で、今日の人は滔々としてその哲学信者になってしまい、

このチャンピオンが出世頭となるのであるから、どうしても一般はそ
れを見習いたがる。これが社会悪の減らない原因
であろう。このよう
な世の中だから、正直者は馬鹿を見るなどと言われる
のである。故に
正直な人間程融通の利かぬ時世後れとされるし、正義など唱える人間
は人から煙たがられ相手にされず、社会の落伍者となるのもよく見受
ける。


 このような世の中に向って、私は常に正義感を振り翳しているのであ
るから、並大抵の努力ではない。普通人は馬鹿々々しいと思うであろ
うし、宗教家の決り文句で、意気地なしで欲のない変り者位にしか見
ない
であろう。そんな訳で以前は新聞雑誌などにも蔑視的興味本位に
書かれたり、裁判沙汰などにされたりして随分虐(イジ)められたもので
ある。それというのも私は悪と闘うべく、思い切ってかいたりするの
で、それが祟ると共に、急激の発展に対する嫉視も手伝い、大木に風
当りが強い訳であろう。


 処がそのような圧迫に遭い乍らも、一路発展の道を辿りつつあるそ
の力強さに、近頃は余程見直したらしく、形勢も大分緩和されたので
やり良くなったのは何より嬉しく思っている。それというのも神様が
後楯になっている以上、如何なる攻撃に遭ってもビクともしない
から
である。というのは
本教には今までの宗教に見られない大きな武器を
有っている
からで、それをかいてみよう。

 それに就いては今日迄の凡ゆる宗教の行り方を見れば分る通り、大別
して二通り
ある。一は真向から正義を振り翳して進む信仰で、この代
表ともいうべきものは彼の日蓮の法華教で、アノような法難に遭った
のもその為である。それが災いとなって宗祖一代中は余りパッとせ
ず、数百年かかって今日の如き隆盛を見たのである。といって法難を
恐れ安全の道を辿るとしたら、拡まるにしても大いに時を要するか、
さもなければ消えてしまうであろうから、茲に難しさがある。しかし
有難い事には民主主義となった今日、
信教の自由を許されたので、終
戦以前の日本と違い大いに恵まれ、致命的法難も避け得られたのであ
る。という訳で
私の大方針たる正義を貫くべく、一歩々々悪を排除し
つつ、善の目標に進みつつある
のである。

 次に問題である人間の幸福に就いてかいてみよう。即ち幸福を生む
根本は
何かというと勿論善であるがこの善を通そうとするには悪に勝
つだけの力がなくてはならない
のは言うまでもないが、既成宗教には
この力が不足していた為、真の幸福は得られなかった
。そこで物質は
諦め、せめて精神面なりとも安心を得たいとの民衆の要求に応えたの
が、彼の仏教の悟りの説である。又キリスト教ではキリストに習えと
いう贖罪精神で諦めさせたのである。彼の"右の頬を打たれれば左の頬
を出せ"と言ったのも、無抵抗的悪に対する敗北精神であった。以上の
如く悉くの既成宗教は物質的には悪に勝てないので、考え出したのが
現当利益否定説である。曰く現当利益本位の宗教は低級であって、精
神的救いこそ高級宗教なりとの説を唱えた
のは無理はないが、それは
或時期までの便法
でしかなかったのである。これに就いて二、三の例
を挙げてみるがよく長い間病気で苦しみ乍ら救われたといって満足し
ているが、これは無理に本心を抑えつけて諦めているにすぎないの
で、一種の自己欺瞞
である。
病気が全快してこそ本心からの満足感を
得らるるのが真実
である。又昔からその信仰に如何程熱烈であって
も、物質的に恵まれず、不幸の絶えない家庭もよくあるが、その結果
精神的救いのみが宗教本来のあり方と錯覚したのである。


 処が我が救世教は、精神的救いと共に物質的にも救われる寧ろそ
れ以上
といってもいい程である。本教が数年の間に現在見る如く、各
地に地上天国や美術館等を造営しつつあるのも悉く信者の寄附金であ
る。しかも
本教は最も搾取を嫌い、自発的寄附を方針としている。に
も拘わらずこれ程の大規模の事業を経営するとしたら莫大な基金を要
するのは勿論で、それが集ってくるのは、実に奇蹟である。これにみ
ても信者の懐が楽であるからである。しかも一時的ではなく、多々
益々増えるのであるから、金銭上の心配などした事はない。次に言い
たい事は時代である。昔の各宗教が出た時代は小乗信仰でよかったか
ら、祖師は紙衣(カミコ)の五十年式で済んだが、今日となってはそうはゆ
かない。一切万事世界的となった以上、全人類を救うとしたら驚くべ
き大仕掛でなくてはならない。つまり規模が大きい程救われる人も多
数に上る
からである。以上の如き本教の大計画を知ったなら、何人と
雖も本教を見直さない訳にはゆかないであろう。




   現世利益と未来利益               
               
(光三十六号  昭和二十四年十一月十九日)

 世間宗教批判の場合、現世利益と未来利益とどちらを欲するのが本
当か
という、その是非に迷う者もある、というのは一般世人は例外な
く現世利益を欲する
に拘わらず、宗教家やインテリは口を極めて、現
当利益は低級宗教であり、未来利益を目的とするのが真の宗教であり
と言う
のであるが、之ほど可笑しな話はあるまい、何となればその批
判者自身にしても現当利益が欲しいに決っている、もし現当利益が欲
しくないとしたら、その人は先づ精神病者
でしかあるまい、死んでか
ら先の未来の利益だけが信仰の対象としたのは、既成宗教によくみら
るる説で、死後阿彌陀様の傍へ往けるのを唯一の楽しみにするのであ
る、之等も決して悪い事ではないが、今日の人間としてそれでは満足
出来る筈はない事は判り切った話である、
何だ彼んだといいながらも
現当利益がなければ信仰する人は恐らくあるまい


 とはいうもののその現当利益を与えるという事が問題である、マサ
眼に見える物質の力では社会事業で信仰とはならない、どうしても
見えざる力、即ち
奇蹟による物質的利益でなければならない、とすれ
その因って来る根源は何かというと、いうまでもなく神仏の力であ
る、
吾等が常にいう観音力である、之に因ってのみ不可視の神仏の実
存を知り得る
のである、此理によって、如何に表面を立派に装い形式
が完備していても、高遠なる理論を審かに説いてみた処で、そういう
宗教が発展する筈はない


 本教が短時日に前例のない発展をみつつある事は、右によって考え
れば明かにわかる筈である、又よく言われる終戦後人心の混迷に乗じ
て迷信邪教を流行らせ、うまい事をするというように新聞等によくか
くが、之等は人を愚にするのも甚しい訳で、大衆をあまく見過ぎると
言ってもいい、之は堪能なる政治家がよく言う言葉であるが「大衆の
眼や声は決して馬鹿には出来ない、事実天の眼であり、天の声であ
る」というが全くその通りである、それのみではない、
大衆が苦し紛
れにその宗教に縋ったとしても、
その苦悩の解決が出来なければ、直
に離れてしまう
のは決っている、従而教線の発展などはありよう訳が
ない
、特に、昔の未来利益につられて信仰をする善男善女などは今日
の社会にある筈はあるまい、而も金詰りの今日相当の費用と忙しい時
間を割いてまで迷信邪教に囚えられるようなものは先ずないといって
よかろう。


 以上のような現在の社会事情を全然把握出来ないで、唯単に大衆は
凡庸愚劣なりと即断してかかるジャーナリストの頭脳こそ問題なので
ある、故に吾等からみれば大衆こそ意外に理解力があり、賢明さのあ
点に鑑み、実に心強く思うのである、それに反し大衆指導者として
の役割をもつジャーナリストの諸君の無責任極まる丁髷的頭脳には悲
観せざるを得ないと共に、如何に彼等を啓蒙すべきやと日夜苦慮して
ゐるのである。


 以上はジャーナリスト諸君に対し、余り赤裸々に言い過ぎ不快を感ず
るやも知れないが、吾等は人類救済の建前上、やむにやまれず苦言を
呈するのである、此点大いに寛恕(カンジョ)あらん事を希う次第である。




  インチキの名を返上する             
              
(光三十六号  昭和二十四年十一月十九日)

 よく新聞などに  新宗教を目してインチキという名を冠するが、勿論
本教も其一人であろう、処がインチキという言葉は社会通念からみる
とマヤカシモノ即ち本物でない-という意味にとれるが、之に就て本
教としてはどの点がインチキであるかを釈明する事も満更無駄ではあ
るまい。

 本教も宗教である以上、信仰によって御利益を頂き救はれ幸福者とな
ので、それによって素晴しい発展を遂げつつあるのは言う迄もない
が、特に
本教に於ては幸福の原であるべき病難を解消する事に最も力
を注ぎ絶大なる効果を挙げつつある
事実で之は自画自讃としても一点
の誤りはあるまい、とすればインチキなる名称は全然当らない事にな
ろう、そうして本教に救を求めに来るものの大部分は重難病の末期の
ものばかりで死の一歩手前といってもいいのが殆んど
である、それが
一転して恢復に向い、決定的死の運命から復活の歓喜を得らるる
ので
あるから、その感謝はどうしても熱烈なる信者とならざるを得ない
になる、此結果本人は固より近親者も知人も、驚喜の感激は如何なる
反対を押切っても入信する事となるのは当然である、而も本人の発病
当初から、本教の救を求めに来る間際までに費やしたる療養費は勿
論、その苦痛と不安は想像もつかない程のものがあろう。以上の事実
によって厳正公平に検討するとすれば、その結論は何と下していいで
あろう、とすれば確実に治る本教浄霊がインチキで治し得ない療法が
インチキでないとすれば、石が流れて木の葉が沈むという訳である。

 以上によって、吾等はインチキの名を茲に返上するのである。



     Xの説明          (医革  昭和二十八年)

 前項によって治病上最も重要なのは、今日迄地球上になかったXな
るもの
であるが、では何故私を通じて発揮される事になったかという
理由をかいてみるが、前項にかいた如く神は
人類不幸の原因である病
なるものを絶滅するに就ての必要な条件
としては、病理の開明確実
な治病法
が生れなければならないのは言うまでもない。即ち病理は浄
化作用
であり、治病法は浄霊であるのは勿論である。

 そこで神は私を選び、智慧と力とを与へられたのである。之が曩に
かいた如く私の文字で作られる御守を使用する事であって、換言すれ
ば無形の原子爆弾であって、而も霊界に於ける火素が日に月に増量し
つつある為、それに伴ひ霊の曇りも溶け易くなりつつある事は、私に
伝達されつつある火素が漸次増量強化される
からである。それは私始
め数万の弟子達の浄霊の力が日に月に強くなりつつある事によっても
分る通り、治病力も著しく増して来のである。


 処が面白い事には此影響は医学の方へは反対に現はれてくる。とい
うのは已に説いた如く医学は溶けやうとする毒素を固める方法である
から、火素が増えるに従ひ段々固らなくなるから、固めるには漸次強
い力が必要
となる。それには之迄よりも薬の毒を強めなければならな
が、之も或程度以上強めると副作用が起るから、此副作用を起らな
いやうには毒素を加減しなければならない
から、之が亦厄介であっ
て、之が薬剤の進歩である。従って
此進歩は勿論病を治す進歩ではな
く、病を一時的固める進歩
である事は勿論で、之によってみても医療
の逆である事が分るであろう。以上の理によって新薬の進歩とは毒素
を強めた割合に副作用がない事で、つまり固め方法の進歩
である。そ
の結果結核などの死亡が減ったというのも此為であって、それは事実
が示してゐる。というのは死亡率が減った割合に患者及び発病者は些
かも減らないのにみるも明らかである。之に就いても此際私は警告す
べき重大事がある。


 それは霊界が昼になるに従ひ、浄化力が旺盛となるから毒素が固ら
なくなる
そこで薬の毒素を益々強烈にしなければならないのは当然
で、最早此限度に来てゐる事であって、之以上は危険線に入る以上、

固める力よりも溶ける力の方が勝つ事になるから、そうなると結核を
始め
凡ゆる病気は飛躍的激増となり、患者と死者の増加の為、空前の
修羅場が現出する
であらう。之こそ私が以前から唱えてゐる恐怖時代
である。斯うなったら最後医師が手を触れるや、忽ち悪化又は死とな
るから、
医師の恐怖時代ともならう。茲に至って医師が医療を放棄せ
ざるを得なくなる。そこで此惨害から免れる道を求める事になるか
ら、茲に至って私の説が初めて光り出し、万人救いを求めるべく、本
教目指し蝟集する
であらうから、その時の多忙なる到底想像がつかな
いと共に、漸次世界的となり、神の御目的である救世済民の大偉業が
達成するであらう。




 お陰話
  医学迷信の犠牲者光明の道に救わる          
               
『栄光』208号、昭和28(1953)年5月13日発行
                       東京都世田谷区下馬町  照明中教会 森 三重子(25)
 明主様、謹みて感謝の御報告をさせて戴きます。昭和二十二年八月
連日のうだる様な著さに倦怠感はいよいよ強く、まさか結核と診断さ
れ様とは夢想だにせず、医師の門を叩いて初診を求めたところ、すぐ
勤めを止めて安静療養生活に入る様にと申し渡された時の驚きと悲し
みは今もって忘れる事が出来ません。


以来二十五年四月までの約二年半の通院療養生活は医師の言う通りの
安静を第一とし、栄養、注射、薬剤等の固め療法に専心、又、複雑な
作業療法等によって漸く医師より全治したと申し渡されて喜んだもの
の、日常生活は少しも無理がきかず、睡眠時間は八時間以上厳守、疲
労感の一歩手前で仕事の手を休めて安静を、又健康診断をいつもうけ
るようにと、風邪は絶対にひかない様に等の注意に全く身動きも出来
ない窮屈な生活
でございました。


再発の危険性に常に戦き、まるで毀れ物でも扱う様に始終心は不安
で、少しも思い切って働く事が出来ず、どんどん思う存分働いている
人がとても羨ましくてなりませんでした。従って恢復したのだと言
う、そこに真の溢るる喜悦は無く、心の中には何か一抹の淋しい影が
去りませんでした。それ程にビクビクし大切にしておりました体も衰
弱療法で一時固めの現代医学では、そのまま長続きするはずがなく、
普通の家事労働にさえも耐えられず到頭昨年四月再発、その当時は

れ程医師の言う通り実行していたのに、何故再発したのであろうか?


 まるで廃人同様の我が身を思うとつくづく情なく絶望のどん底に突
落された我が身の運命の苛酷を嘆いて病床に呻吟しておりました。再
発の事とて再び医学に頼っても完全治癒するとは到底考えられず、今
直ぐにでも素晴しい新薬でも発見されない限りとても再起不可能なの
だと思いますと自分の肉体的苦痛にも増して、親姉妹等に与える苦悩
に胸は張り裂けんばかり、自らこの生命を絶って早くサッパリしたい
と何度思ったか知れませんでした。


しかし神の深い御意志によって生かされているのだと思いますと、そ
れは罪悪であり、最大の罪を犯す事はとても恐ろしく誘惑と戦いなが
ら一人悩み続けていたのでございました。療養所にでも入れば規則正
しい療養生活と、同病愛に浸って少しでも精神的苦痛が和げられるで
あろうと思い、両親に相談お願いしておりましたところへ突然大草管
長様のお嬢様より『栄光』新聞数部戴いたのでございます。ちょうど
八月二日でした。ああ神は罪深き私をも未だ見捨て給わず、この身に
御光の御手を差伸べられ給うたのでございます。


しかしその当時は誠に申訳ない事でございますが、キリスト教以外の
宗教は総て迷信邪教であると全然頭から馬鹿にし、その様な宗教にい
ささかでも心引かれる事は悪魔の誘惑に負ける事であり、又手を触れ
る事さえキリストに対し深い罪を犯す恐ろしい事と信じておりました

ので、お送り下さった『栄光』新聞にも目もくれず、一週間程放りっ
ぱなしで見向きも致しませんでした。それにも拘らず、神はどこまで
も未だ私を見捨て給いませんでした。


ある日何かしら不思議な力に導かれる様にして『栄光』新聞を手に取
りました。読んで行く内に明主様が
信じられない事を信じようとする
のは自己欺瞞
であり、病気を治して戴く時にも疑うだけ疑ってもよ
信じなくても奇蹟を見せて下さる、という様な数々の御言葉に対
し、こんな虫のいい宗教があるはずがない。又その様な偉大な力を持
った神様はキリスト以外出来ないと信じておりましたので、到底信じ
られず所謂新興宗教らしい事を言うと思うだけでした。


お蔭話はいずれも奇蹟ばかりで、万人が万人戴けるものとは思われま
せんでした。しかし千人に一人か二人位しか戴けそうもないお蔭話に
私ももしも千人の中の一人に数えられたならと言う、一線の頼りない
望みをかけ始めていたところへ、再び大草管長様より堀内会長先生を
御紹介下さったのでございました。早速会長先生が夜わざわざおいで
下さいまして
現代医学の誤謬、救世教の真髄等細かにお話し下さいま
して、自分が今まで信奉して居た現代医学に疑いを持ち始め、救世教
医学の理論に一つ一つ頷けるものを感じた
のでした。


会長先生御自身十年間もの腸結核がこのお道により完全に癒されたそ
の信じられない程のお元気なお姿を目のあたり見せられ、素晴しいお
力にただただ驚くばかりでした。先生よりいとも簡単に「すぐよくな
りますよ、お任せなさい。」
との自信を持ったそのお言葉には余り簡
単過ぎて信じられませんでした。


早速に初めて(八月下旬)お浄霊をいただきましたところ、今まで寝
たっ切りで入浴すら思う様に出来ずフラフラで、一寸でも起きていら
れなかった程の体でしたのに、急に体に力が出て来、その晩は九時頃
まで起きていても平気で、翌朝も爽やかな気持で起きられ動ける事が
出来ましたのには、お浄霊の効果がこんなにも早く現われたのかしら
余りの奇蹟に今まで新興宗教なんて、と言って馬鹿にしておりまし
た誤りを心より考えさせられました
。ただただ嬉しくその時の喜悦は
何時までも忘れる事が出来ません。


二回、三回とお浄霊をしていただきます度に身の廻りの事は楽々と出
来る様になり、急速度に元気になって行く私を見ては家族の者達はそ
れは気分的なものが大いに働いているのだ、といって一笑に付し、相
手にしないのでございます。しかし私はどうしても気分的と簡単に片
付けられず
、たしかに体的に変化を感じ、お道の偉大さに驚嘆するば
かり
、私のお縋りすべき神様はこのお道以外無いと信じ九月中旬、母
と共に入信させていただいたのでございました。十月初め会長先生と
一緒に初めて箱根御参拝、僅か離床一カ月で箱根まで何の疲労感もな
く、元気一杯行かせていただく事の出来る体にさせていただきました
事は、余りの身の変化に夢の様でございました。


現代医学でしたらレントゲンや体温、検痰等により半年がかりで作業
療法を行ったり、又全治したと言いながら再発したりする事を思いま
す時、救われた喜びを一入深く感ずるばかりでございます。御守護に
よりまして去年暮と新年の熱海御参拝も無事にさせていただきまして
明主様誠に有難うございました。第一回の御浄霊以来五カ月後の今日
まで一度も床につく程の苦痛もなく御浄化させていただき、教会に上
り、お手伝をさせていただいております。十月下旬お屏風観音様御奉
斎させて戴きましたところ、早速祖霊の救われました喜びを夢にて知
らされ、それにより
現界と共に霊界をもお救いいただけるお道の探さ
をしみじみと感じさせられました。又、その夢により、死後も霊魂不
滅を確信出来、祖先に対しては生前と同じ様に尽くすべき事をはっき
りと分らせていただきました


又信者の方達総てが結核患者に対しても普通人とは逆にいささかも区
別したり、恐れたりしないで親しく接して下さる事に、過去において
常にその様な精神的苦痛を味わっておりました私にとっては実に嬉し
く感じました。何年振りかで心も晴々と希望に燃えた新年を迎えさせ
て戴きました事を心より感謝申し上げる次第でございます。
「病気は
浄化作用なり」
という真理を体得させて下さいました上は、今後いか
なる大浄化にも決して迷う事なくひたすら尊いお道発展の為に邁進致
したいと念願致しております。明主様今後共罪深き身の誠に畏れ多い
事でございますが、何卒お役に立たせて戴きます様心よりお願い申し
上げます。            (昭和二十八年一月十七日)