このミニ講座は月に一
度、メシヤ講座とは別に当
支部で開催している勉強会
をミニ講座として会員等が
学んだ内容を掲載していま
す。

 たまには、ページ数が多
い時もありますが、どの月
もほぼA4版にして約6ペー
ジ前後でまとめてあり、1
時間程度で読めるようにし
ています。

 もし、皆さんの信仰の向
上に役立つようであれば、
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は、閲覧される方の自己責
任に基づいてお願いしま
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平成26年2月度 ミニ講座

真の救ひとは何ぞや            
           
(光四十一号  昭和二十四年十二月二十四日)

 今日批判者の極っていう言葉は本教が宗教でありながら、治病
に専念するというのは間違っているという
のである、然しよく考
えてみるとこんな訳の判らない話はない、何となれば右のような
批判者の考え方は宗教なるものは精神的方面のみの救いで、物質
方面は宗教の分野ではないと決めているから
であろう、したがっ
て病気治しという如きは、物質方面であるから宗教でないと思う
のである、彼等は物質的救いとは宗教を逸脱しているように思
い、精神的方面のみが宗教の本質と決めてかかっている
、勿論彼
等の思う精神的救いとは一言にして言えば諦めである、苦悩を物
質的に救う力はないから、やむを得ずせめて精神上の諦めだけで
も苦悩を減らそうとする訳である、これが今日までの宗教に対す
る多くの人の観念
であった事である。


 ところが物質を度外し、精神方面だけの解決では実際上の救い
とはならない
、というのは物質的解決が可能であることの実證を
信ずるからこそ精神的にも真の安心を得られる
のである、例えば
腹の減った場合、何れ誰かが食物を運んでくれるという信頼があ
ってこそ安心が出来るので、誰ももって来ないと判ったら餓死の
恐怖に脅えるのは当然である、その他
病気にしても、生活苦にし
ても信仰によって解決出来るという事を認識するから真の安心が
得らるる
のである、このように物心両面の解決こそ真の安心立命
の境地に救い得らるる
のである。

 とすれば、物心共救いの根本は病気を解消し健康人たらしめる
以上のものはない、たとえ金銀財宝が山と積まれても山海の美
味が食膳に堆(ウズ)高く積まれても、地位や名誉が如何程与えられ
ても病苦に悩んでいたら、一切は零である、しこうして
人類を救
う第一条件
としては、何よりも先ず健康の達成であらねばならな
い、本教が
救いの根本として病なき人間、病なき社会を目標とす
るのは、右の意味に外ならないのである。




    本教救ひの特異性         
          
(自叢四  昭和二十四年十月五日)

 本教の使命地獄で苦しんでゐる人達を、天国へ救ふので、
れによって社会を天国化そうとする
のである。此意味に於て、
を天国へ救ふには、先づ自分が天国に上って天国人となり、大衆
を救ひ上げる
のである。つまり地獄から天国へ梯子をかけて、手
を延して一段一段登らしてやる
といふ訳である。之が今日迄の凡
ゆる宗教と異る点
で、それは寧ろ反対でさえある。


 周知の如く、昔から宗教人といえば、粗衣粗食、最低生活に甘
んじ、難行苦行を重ね、自分は地獄的状態にあり乍ら衆生を救は
うとするのであるから、梯子を逆に用ひる訳である。即ち、救ふ
者が救はれるものを押し上げてやるのであるから、上から引張る
よりも押し上げる方が、どの位骨が折れるかは、推察さるるであ
らう。


 処が、その当時としては、実は天国は出来てゐないから止むを
得なかったのである。勿論それは時期尚早の為で、霊界が夜であ
ったからである。然るに、
昭和六年以降、漸次霊界は昼になりつ
つある
ので、天国を造る事は容易になったのである。否、人間が
造るのではない、神様が造るのであるから、自然に時の進むに従
ひ進捗するので、人間はただ神のまにまに動けばいい
のである。
即ち、神が設計し、監督し、多数の人間を自由自在に使役する
で、私としての役目は先づ現場監督と思えば間違いないのであ
る。勿論其一部として現在天国の模型も造ってゐるので、信者諸
君はよく知る処である。


 右の如くであるから、土地にしても予期もしない時期に、予期
もしない位置に、売りたい人が出る、すると私はハハー神様がこ
こを買えといふのだなと思ふが否や、それだけの金額は別に苦労
しないで集ってくる。それに準じて、最も適した設計者も土木建
築家も、材料も思ふ通り必要なだけは、判で捺したように入手す
る。庭木一本でも突如として誰かが持ってくる。それがちゃんと
当嵌まるような場所がある。時には、庭木が数本も数十本も一時
に入手するので、私は戸迷いするが、之は神様がなさる事と思ふ
から庭を睨み乍ら、順々に植えて行くと、過不足なく、きっちり
当嵌ってしまふ。その度毎に、
一切は神様がやられる事が実によ
く判る
のである。或位置に斯ういふ石や木が欲しいと思ふと、一
日か二日でちゃんと来る。之が奇蹟でなくて何であらう。斯うい
ふ事をかけば限りのない程で、追々かく事にするが今はただ片鱗
だけをかいたのである。


 此文は凡て人間がやってゐるのではない神様の経綸のまま
に、人間がやらされるといふ事を、判らせる為にかいた
のであ
る。之等によってみても、神意は地上天国建設の第一歩として、
その模型を造られるといふ事があまりに明かである。然し乍ら、
模型ばかりではない、
人間、個人が天国人とならなければならな
い。否、なり得る時期が来てゐる
のである。勿論、家庭も天国化
し、天国的生活者となる
のである。それで初めて、大衆が苦しん
でゐる地獄から救ひ上げ得る
のである。故に信者に対し、私は常
出来るだけ苦のない生活環境を作るべきで、それが神意に叶ふ
所以である
といふのである。即ち、病貧争の三苦が除去されなけ
れば本当に人を救ふ事は出来ない
。然し其様な事は、夜の世界で
は不可能であったが、今日はもはや可能となった
のである事を知
らなければならない。彼の釈尊の唱えた苦の娑婆の時機は最早終
ったのである。
此事の真諦が判ったとしたら、その歓喜は人類の
経験にない程絶大なものがあらう。




     現当利益   (栄七十七号  昭和二十五年十一月八日)

 本教は、自画自讃ではないが、現当利益の素晴しい事である。
昔から幾多立派な宗教が生れ、今尚キリスト教、マホメット教、
仏教の三大宗教を初め、有力なる宗教がそれぞれの地位を確保し
てゐるが、其殆んどは出発時から、精神方面の救ひを専らとして
来た事は誰も知る処である。


 本教は、開教後日未だ浅く、他に比べては教線甚だ微々たるも
のではあるが、それでも発展の速かなる事は、前例がないとさへ
言はれ、注目の的になってをり、其為五月蝿い事も多いが、之も
亦止むを得ない過渡期の現象であらう。といっても之は時の問題
で、何れは公平なる世の批判の下に真価を認められる日の来る事
は勿論である。然し本教も他の宗教と同様、教義もあれば理想も
あって、精進努力しつつあるが、それに就て
本教が既成宗教とは
根本的に相違する点
があるのをかいてみよう。此点が認識出来な
ければ、本教の実体は掴み得ないのである。


 それは何であるかといふと、本教は現当利益が大いにある事
ある。それに対し有識者等が、宗教を観る場合、現当利益的宗教
は低級であるとし、殆んど歯牙にかけない態度である。然らば何
故そうであるかを考へてみるに、それには訳がある。今日本に於
ける数ある宗教を見渡した処、
世俗的のもの非世俗的のもの
の二種がある。一方は例えば何々稲荷とか、何々様とか、何々明
神とかいふのが、信仰の対象となってをり、之等信仰者は例外な
く現当利益が目的で、理論も哲学も智性的のものはないといって
いい人達で、只御利益本意であってみれば、識者からみれば愚劣
で、問題視するには足らないものとしてゐる以上、現当利益追求
は、直に低級信仰と決めて了ふ
のである。


 そこで現当利益など問題にせず、教義を学問的に扱ひ、巧妙に
理論付けてゐる宗教形態を高く評価する。而も相当古い歴史を有
っており、その間有名な中興の祖や、幾多高徳が輩出してゐる以
上、其宗教を重視するといふ訳で、之等を高級と見做すのであ
る。要するに看板が物を言う訳である。之に対し私は卒直に批判
の言葉をかいてみるが、兎も角
前者の信仰は卑俗的ではあるが、
事実は予想以上に一般民衆をリードしてゐる。何しろ民衆として
は智的レベルが低い為理論もヘチマもない。只時々お参りに行
き、何かの願望を祈願し、金銭を献げてそれで満足感に浸って来
るのだから、至極簡単である。然し之等の信仰も社会人心にとっ
て或程度のよい感化を与へてゐる事は争へない、といふのは斯う
いふ信仰でも見えざるものを信ずるといふ唯心観念からである以
上、唯物主義に固まったものよりは、社会上プラスになってゐる
のは確か
である。仮にも神仏を拝む位の心の持主であるとすれ
ば、平気で兇悪犯罪など犯す訳はあるまいからである。


 次に後者であるが、之は前者と違ひ、見えざるものは信ずべか
らず、見えざるものを信ずるのは悉く迷信であるとして排斥する
人達
で、現在有識階級に最も多いやうである。勿論唯物主義者で
ある以上、宗教を学問的に扱ふのを可としてゐる。故に彼等は宗
教を云々する場合、悉く理論化し哲学化されなければ承知しない

ので、吾等から観ても、其論旨なるものの多くは外皮的浅薄極ま
るもの
で、吾等を批判する場合も単なる悪口にすぎないのであ
る。従って本当に宗教を批判するとしては、其宗教に深く没入
し、内容に向って鋭い眼を以て、其実体を見極めるべき
である。
そうしてどこ迄も主観を捨て去り、白紙となって批判すべきであ
る。由来宗教の本質は、外容的のものではない。内存的のもので
ある。としたら彼等の批判的態度も大いに革(アラタ)める必要があら
う。


 右の如くであるから、本教にしては批判の場合外廓だけをみ
て、現当利益本位だから世俗的信仰だと決めて了おうとする、不
親切な軽率さである。之を改めない限り百の批判も意味をなさな
いといってよかろう。故に本当に本教を検討すれば判るが、
本教
は世俗的信仰でもあり、理論的宗教でもある
未だ嘗て人類に経
験のない超宗教
と言ってもいい。そればかりではない、本教の主
張は独り宗教に関するもののみではない。医学も、農業も、芸術
も、教育も、経済も、政治も人事百般重要な部門は悉く対象とし
てをり、最高の指針を与へてゐる。之を一言にしていえば、
信仰
即生活の理論を如実に表はそうとする
のである。



   科学で病気は治らない (医革  昭和二十八年)

 科学の進歩は、科学発見以前の世界と較べたなら、比較になら
ない程素晴しいのは今更言う迄もないが、さりとて向後百年、千
年後を想ふ時、それは想像も出来ない程の超驚異的文明世界であ
る事も勿論である。そこでよく考えてみると、今日迄の科学の進
歩は、端的にいえば光学の進歩でしかない
事である。即ち小さな
ものが拡大して見える硝子玉の進歩
である。大は天体観測の望遠
鏡から、小は微生物発見の顕微鏡に至るまで、つまり大と小の極
端の進歩で、中間は殆んどないといっていい。そこで医学に関す
る面を主としてかいてみるが、現在の処電子顕微鏡で見得る限度
は二十万倍とされてゐる。此限度内で把握された微生物即ち黴
菌、又はヴィールスを病原としてゐるのが医学の考え方である。
そこで医学は此菌を殺滅すれば、病は治るものと信じ、それを建
前として研究を進めてゐるのは言う迄もない。


 処で考えねばならない事は、右の如く二十万倍以下の菌を対象
としてをり、それ以上の菌を重視しない事である。としたら茲に
問題がある。それは
真の病原二十万倍処ではない。百万倍か、
一千万倍か、科学者は想像もつかない
であらう。それのみか仮に
一千万倍の菌が見えるやうになったとしても、それで根本的治病
が可能なるかといふと、之も分りやう筈がない。或は真の病原は

菌の大きさ処ではなく、無限であるかも分らない。としたら科学
が如何に進むとしても、病気を治す事は絶対不可能
であるのは断
定しても間違ひはない。それに就いて言ひたい事は、医学は紀元
前彼のヒポクラテスが創始したものであって、已に二千有余年を
経てゐる今日、今以て病気は解決出来ないのである。併し言うで
あらう。十八世紀後半俄然として科学が勃興し、それに伴って医
学も発達したのであるから、此儘で漸次進歩の暁、理想的医学と
なるに違ひないから、それを期待してゐるのである。


 処が医学の病理の如く、病原は悉く黴菌としてゐる以上、前記
の如く顕微鏡が如何程進歩し、微生物の極致まで発見されたとし
てもそれで解決出来ないのは右によっても明かである。又別の面
から見ても、
人間の生命は造物主が造られた万有中、最も神秘極
まるもの
であって、他の物質とは根本的に違ってゐる事を知らね
ばならない。之は説明の要はない程高級な存在である。言うまで
もなく智性、思想、感情等の思想的面は他の動物には全然ない
此意味に於て
人間以外の一切は、科学によって解決出来ると共
に、益々進歩発達させねばならないのは勿論であるというのは一
切の物質は人間よりレベルが低く、従属されているものである。


 従って人間が同一レベルである人間を、自由にする事は真理に
外れてゐる
から、どうしても人間以上であるXの力でなければな
らない。だとすれば人間が作った科学を以て、人間の病気を治そ
うとするのは、如何に見当違ひであるかが分る
であらう。故に治
らないのが当然
である。標題の如く科学で病気の治らない訳は分
ったであらう。又次の例を挙げてみると一層ハッキリする。昔か
ら至大無外、至小無内といふ言葉がある。勿論大も小も無限とい
う意味である。例えば大空の無限大と共に、微生物の本質も無限
小である。之を人間に譬えれば
想念の無限である。宇宙一切、森
羅万象如何なる事物でも
想念の届かぬ処はない。之によってみて
人間は如何に高級であり、神秘な存在であるかが分るであら
う。


 従って人間の病気と雖も、有限である科学では治し得ないと共
に、
無限の力によらなければ治し得ないのは明々白々たる事実で
ある。此理によって
医学の誤謬の根本は、人間と他の物質との違
いさを知らない処にある
。としたら、その幼稚なる未開人的とい
っても過言ではあるまい。以上思ひ切って科学にメスを入れた
が、現在の処私の説は到底信じられないであらうが、科学の理論
物理学が実験物理学によって確認されると同様、私の唱える理論
が実験上確認されるとしたら、
之こそ真理である。只私の説が余
りに飛躍しすぎてゐるので、直に受入れられないだけの事で、

認されるのは時の問題
でしかあるまい。

 以上の如く無限の病原を、無限力によって万人を救ふ例とし
て、現在日々数万の患者が救はれてゐる。例えば医学では絶対不
治とされ、死の宣告まで受けた患者が、医学の医の字も知らない
人々が数日間の修業によって得た方法を以てすれば、忽ち起死回
生的に全治する。又彼の盲腸炎の激痛でも、術者が数尺離れた所
から、空間に手を翳すだけで、二、三十分で痛みは去り、間もな
く下痢によって排毒され全治する。結核菌を呑んでも感染しな
い、感冒に罹る程健康は増すとしての喜び、目下流行の赤痢、日
本脳炎など、数日間で全治する等々、例は何程でもあるが、之だ
けで充分であらう。従って此著を読んだだけでは余りの偉効に到
底信ずる事は出来まい。恰度幼稚園の児童に、大学の講義を聴か
せるやうなものである。
此大発見こそ夢の現実化であり、不可能
が可能となった
のである。私は断言する何人と雖も之を身に着
ける事によって、完全健康人となり、安心立命の境地になるのは

断言する

 故に此事が全世界に知れ渡るとしたら、空前の大センセーショ
ンを捲き起す
と共に、文明は百八十度の転換となるであらう。そ
の時になって臍を噛むとも間に合はない。此例として明治以後西
洋文明が国内を風靡するや、今迄嘲笑され下積になってゐた人達
が、一挙に新時代を受持つ栄誉を担ふに反し、旧思想に捉はれ頑
迷な丁髷連中は、慌てて後を逐ふとも追ひつかなかったのと同様
である。而も此大発見たるや、それよりも幾層倍、否幾十層倍大
であり、永遠性があるとしたら、徒らに
躊躇逡巡バスに乗遅れな
いやう敢て警告する
のである。


(お陰話)
     浄化のおかげ               
  
           『地上天国』2号、昭和24(1949)年3月1日発行
       三重県北牟婁郡須賀利村  日本五六七教会春陽会 榊原広吉

 愛知県半田市近澤ぬい先生より二年程前お守をいただき先生の
御指導を戴いているものです。昨年暮入会し今年の八月教導師補
の資格をいただき日本五六七教会の発展のため専心いたしており
ます。この度大いなる御利益をいただき喜びの一端を御報告申し
上げます。

 家業が木材業のため当地の山へ参り現場にて作業中、鋸で足の
関節の所を傷つけ
別に大した事ないと存じ三キロ程の山道を帰
宅、早速浄霊をいたしましたところ、痛みは益々激しく腫れはひ
ろがる許り、翌日よりは立つ事すら出来ず、人の世話にならなく
てはならなくなり、一生懸命に浄霊を続けておりましたが、四日
目頃よりマラリヤ発生
四十度の熱が出て益々範囲が広く食事も進
まぬようになり、身体はむろん動かす事は出来ませんでした。早
速近澤先生の所へ
御守護をお願いし浄霊を戴きひたすら念じおり
ます中に八日目頃には傷口はすっかり塞いでおりましたが、御霊
膏をはらせていただきそれをめくる毎に膿がふき出る程たらたら
と流れ出て参り、気分的にも楽にさせていただきマラリヤも再発
生する事なく食事も進み傷口からは絶えず流れるように膿が出て
おりましたが、十日目ころより近澤先主にお立寄りいただけ浄霊
をいただきましたら思いがけなき所に口が開き、はれも痛みもす
っかり取れて足の自由も出来るようになりました。大先生の御守
護のおかけで実に
短い日数にて自由の出来る身体にさせていただ
き、
ただただ感謝の外はありません。



   浄化は神様から頂くもの         
         
『地上天国』18号、昭和25(1950)年11月25日発行
 兵庫県加古川町市寺家町三丁目  天国大教会神光中教会 板戸常治(36)

 不思議な御縁によりまして曇り切った罪多き我が家にも畏くも
神様の御救いの御手は差し伸べられて、昭和二十二年四月家族一
同御入信させて頂きました。それ以来、奇蹟の連続という程次か
ら次へと智慧学に解けぬ不思議な御蔭を頂き、神様の実在もはっ
きりと知らされ
、ただただ有難さに家族一同幾度感泣致しました
事か知れない程で御座います。


 昭和二十二年十月頃より家族一同疥癬の浄化を頂いたのであり
ますが、十月末より秋の取り入れで農繁期に入りました。当時私
も体の方は疥癬の浄化を頂いておりましたが、秋の取入れに従事
しておりましたところ、十月三十一日には手の浄化を頂き手が使
用出来なくなって
来ました。十一月になればいよいよ多忙期に入
りますが、私が手の浄化を頂けば、今年の秋はどうして取入れを
終るか、妻は二人の子供の浄化に手を取られ、妹は三人共手の浄
化で休ませて頂いております。人を雇うにも皆取入期で雇う人も
ありません。十月三十一日の夜は家族一同、どうすればよいかと
種々
思案に暮れましたが、御神前に額き、御守護をお願いしてそ
の晩は寝んだのであります。翌朝起きて見ますと不思議にも昨夜
痛んだ私の手はすっかり癒して頂いております。反対に妻は昨夜
まで何ともなかった手が朝起きて見ますと、両手の表裏に吹き出
ており手の浄化を頂いております
一晩の中に私と妻と浄化の交
をさせて頂いているのであります。


 ああこれが御守護でなくて何でありましょう。あまりにもはっ
きりと、
自由自在になさる絶対力に驚歎したのであります。
 私の手を癒して頂いたので秋の取入れも無事終らせて頂くこと
が出来ました。

 但馬地方では十二月末頃から翌年三月になるまでは雪のため閉
じ込められて百姓も野良仕事も出来ないのが普通で御座います。


 秋の取入れも終り冬籠りの準備も全部終ってから父も手の浄化
を頂き、家族九人共休ませて頂いておりましたが、不思議にも母
一人のみは体の方は疥癬の浄化を頂いておりましても、手には全
然出ません。もし母も同じように手の浄化を頂いておりました
ら、炊事をする者がなく困ってしまいますが、炊事をする者一人
だけは手の浄化はありません
。また熱や痛み等も家族の中で交互
に頂き昨日熱が出て苦しかった者は今日は楽にして頂き、楽にし
て頂いた者が苦しい者の御浄霊をさせて頂き、今日楽にして頂い
た者は明日は熱や痛みの浄化を頂くというように、実に不思議に

家族の者が交互に浄化を頂いたのであります。

 三月になって雪も解けて百姓もぼつぼつ野良仕事が出来るよう
になると同時に家族一同疥癬の浄化を終らせて頂き仕事も出来る
ようになり、ただただ有難さに感泣した
のであります。

 神様の御都合とあらばいかなる大浄化も一晩で癒して下さると
共にその人の都合のよい時期にいかなる浄化も神様から頂くもの

である事を身を以って体験させて頂いたのであります。大浄化を
癒すことも、大浄化を与えることも自由自在である絶対力の神様
であって始めて病貧争絶無の世界である地上天国建設も可能と信
ずることが出来る
のであります。

 浄化は神様から頂くものであり、神様の恩恵により健康にせん
がための浄化
であるとは知らず今日まで病気は悪いものとの解釈
により、医者や薬を手放す事も出来ず、神様の御意志に反し、自
ら底なき沼に沈み悩みし我が家も家族揃って次第に恵まれ何の不
安もなく明るき楽しき家庭にして頂いた
のであります。

 明主様の宏大無辺の大恩の万分の一なりと微力ながら御報いさ
せて頂きたく念願致しております。誠に拙文で御座いますが、私
一家の疥癬の浄化の体験を御報告させて頂きます。