このミニ講座は月に一
度、メシヤ講座とは別に当
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をミニ講座として会員等が
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い時もありますが、どの月
もほぼA4版にして約6ペー
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平成26年12月度 ミニ講座

大乗と小乗   (信  昭和二十四年一月二十五日)

 昔から大乗小乗の言葉がある。勿論之は仏語であって、仏教に於て
も相当悉(クワ)しく説かれてゐるが、どうも納得(ナットク)出来得るよう
な説は、私の寡聞(カブン)の為か未だ聞いた事がない。之に就て私見
をかいてみよう。

 先づ一口に言えば小乗は経で、大乗は緯である。又小乗は感情であ
り、
大乗は理性である。小乗は善悪を差別し、戒律的であるから
般からは善に見られ易い
が、大乗は善悪無差別で、自由主義的であ
るから
善に見られ難(ニク)いのである。之を判り易くする為二三の例
を挙げてみよう。


 茲に一人の盗人がゐる。夫を改心させようとする場合乗的行方で
ゆくと悪事を窘(タシナ)めるべく説得するのであるが、大乗に於ては、
自分も一旦盗人の仲間へ入り、機を見て、「悪い事をすると大して
儲かりもせず年中不安に脅えておって詰らないではないか」という
ように話し、悪を廃めさせ善道へ導くのである。又親に従う事を以
て孝の基とされてゐるが、偶々自分は目的を立て、それを遂行せん
とする場合、親の許を離れなければならないが、親は不賛成をい
う。止むなく一旦親に叛いて家出をし、目的に向って努力し成功し
てから、親の許に帰れば親もその光栄に喜ぶは勿論で、大きな親孝
行をした事になる。之を観察すれば、
前者は小乗的孝行であり、
者は大乗的孝道
である。

又国家主義民族主義等も小乗的善であり、共産主義も階級愛的小乗
善である。由来何々主義と名付くるものは大抵、小乗善であるか
ら、必ず行詰る時が来る
。どうしても大乗的世界的人類愛的で行か
なくては、真理とはいえない。日本が侵略主義によって敗戦の憂目
をみたのは、小乗的国家愛小乗的忠君であったからである。以前日
本で流行した皇道という言葉は、小乗的愛国主義であった。何とな
れば、此皇道を日本以外の国へ宣伝しても、恐らく之に共鳴する者
はないであろうからである。故に世界人類尽くが共鳴し謳歌するも
でなくては、永遠の生命あるものとはいえない訳で、之が真の大
乗道
である。


由来何々主義というものは、限定的のものであるから、他の何々主
義と摩擦する事になって、闘争の原因となり、遂には戦争にまで進
展し、人類の惨禍を与える事になるので、
小乗の善は大乗の悪であ
り、
大乗の善は小乗の悪という意味になるのである。然し茲に注意
すべきは一般大衆に向って、初めから大乗道を説く事は誤られ易い
危険があるから、
初めは小乗を説き、相手が或程度の覚りを得てか
ら大乗を説く
べきである。


 次に私は宗教に於る大乗小乗を説いてみよう。元来仏教は小乗であ
り、
キリスト教は大乗である。仏教は火であり、キリスト教は水
ある。
火は経に燃え水は緯に流れる。故に仏教は狭く深く、孤立
的で緯に拡がりがない
。反対にキリスト教は大乗であるから、水の
流溢する如く世界の隅々までも教線が拡がる
のである。面白い事に
は小乗である仏教の中にも大乗小乗の差別がある。即ち南無阿彌陀
仏は大乗であり、陰であるが、南無妙法蓮華経は小乗であり、陽で
ある。
大乗は他力であり、小乗は自力である。彼の阿彌陀教信者が
「南無阿彌陀仏と唱えさえすれば救われる」という他力本願に対
し、小乗である法華経は「妙法蓮華経を称えるのみではいけない。
宜しく難行苦行をすべきである。」といふ事になってゐる。


斯様に経と緯と別々になってゐたのが今日迄の宗教であったが、
後は経緯を結ぶ、即ち十字型とならなければならない
。此意味に於
時所位に応じ経ともなり、緯ともなるというように、千変万化、
応現自在の活動こそ真理
であって、
此十字型の活動が観音行の本義
である。昔から観世音菩薩は男に非ず女に非ず、男であり女である
という事や、聖観音が御本体で、千手。十一面。如意輪。准胝(ジュン
テイ)。不空羂索。馬頭の六観音と化現し、それが分れて三十三相に化
現し給うという事や、観自在菩薩、無尽意菩薩、施無畏菩薩、無碍
光如来、光明如来、普光山王如来、最勝妙如来、其他数々の御名が
あり、特に応身彌勒と化現し給う事などを以てみても、その御性格
はほぼ察知し得られるのである。因みに
阿彌陀如来は法身彌勒であ
り、釈迦如来は報身彌勒であり、観世音菩薩の応身彌勒
の御三体
を、
三尊の彌陀と称へ奉るのである。又日の彌勒が観音であり、月
の彌勒が阿彌陀であり、地の彌勒が釈迦であるともいえる
のであ
る。茲で注意すべきは、観世音菩薩の御本体は天照大御神の顕現と
いう説があるが、これは誤りで天照大御神は大日如来と顕現し給う
のである。




    大乗と小乗   (栄八十一号  昭和二十五年十二月六日)

 大乗と小乗に就てよく質かれるが、此事に就ては以前にも相当かい
た事があったが、
どうもまだ徹底しないようだから再び筆を執った
のである。

 先ず根本から説いてみるが、大乗は緯で小乗は経である。即ち大乗
は水で、小乗は火
である。だから大乗はどこ迄も拡がるから無限大
である。小乗は深くして高くはあるが狭い事になる。例えばキリス
ト教は大乗だから世界的に拡がったが、それに引換へ仏教は小乗だ
から拡がらない。孤立的になる。又大乗は唯物的で、小乗は精神的

であるから、キリスト教によって白人文明は物質的に発展したが、
仏教は精神文明であるから隠遁的で、一時は発展したが漸次衰えつ
つある。


 又卑近な例ではあるが、日本が米国に負けたのは、日本は火であり
アメリカは水であるから、どうしても火の日本は水のアメリカに消
されてしまう。以上のように今日迄の世界は、火の経と水の緯とが
対立的であった。之に就て今一つ斯ういう点も見逃す事は出来な
い。それは彼の共産主義も火であるから、赤い色である。とすれば
之もアメリカの水と対立している訳である。だから
最後に世界は、
経と緯と必ず結ぶ
事になる、即ち十字形である。此十字形文化こそ
理想世界の完成
であって、キリスト教の十字もそれを暗示したもの
である、成程キリストの受難である十字架も、そういう意味もある
が、これは小さい。神ともあろうものがそんな小さい意味だけでは
ない、右のような大きな意味も示唆している事を知らねばならな
い。


 又、十字形とは経は霊で、緯は体であるから、どちらに偏っても本
当ではない
。前述の如く両方が結んでこそ完璧である。即ち大乗に
して小乗、小乗にして大乗
であらねばならない。
そのように結んだ
真中が伊都能売という観音様のお働き
になる、観音様は男であり女
であるというのも、その意味に外ならない。故に
十字の真中に心を
おくとすれば、千変万化融通無碍の働きが出来る
のである。即ち心
魂を中心におく時はいとも小さいが、一度経緯へ拡がれば如何程で
も大きくなる。そうして経の働きは厳として犯すべからざる父の如
く、緯の働きは自由自在で春の如く、何人も懐かしむ母の如く
でな
ければならない。又気候にしても冬は小乗であり、夏は大乗である
からどちらも極端で、春と秋が好い気候であるから之が十字型の真
中であり、中性である。だから此時を彼岸と言うのは、理想である
彼方の岸、即ち天国浄土的の気候であるから、お祝いをしたり、お
寺詣りをして霊を慰めるのである。

 以上によって、大乗小乗の大体は理解されたであろう。



     大乗たれ  (地三十号  昭和二十六年十一月二十五日)

 私はいつもいう通り、大乗の悪は小乗の善であり、小乗の悪は大乗
の善
であるという事であるが、此肝腎な点をどうも忘れ勝ちな信者
がある
が、之は大いに反省して貰わなければならないのである。判
り易く言えば、
何事も大局的見地から観察するのが大乗的観方であ
る。それに就てよく説明してみるが、一生懸命善と思ってしている
事が、結果に於て案外教の御邪魔になる場合がある
。而も斯ういう
人に限って自力的で人間の力を過信し、大切な神様の御力を不知不
識忘れ勝ちになっている
のは、誰でも覚えがあるであろう。


 又、斯ういう事も屡々聞かされる。それはアノ人は随分熱心にやっ
ているが、其割合に発展しないのはどういう訳であるのかと訝(イブ
カ)るが、之こそ小乗信仰の為
であって、小乗信仰の人はどうも堅苦
しく窮屈になるので、人が集って来ないから発展もしない
のであ
る。而も
一番不可(イケ)ないのは、物事が偏りすぎるから常識を外れ
て、奇矯な言動をする
之を見て心ある人は、本教を低級迷信宗教
と思い、軽蔑するようになるので此点大いに注意すべき
である。処
が其反対に、それ程熱心に見えないようでも、案外発展する人があ
る。斯ういう人こそ本当に大乗信仰を呑み込んで実行するからであ
る。


 今一つ言いたい事は、小乗信仰の人に限って、他人の善悪を決めた
がる。
之も私は常にいう事だが、人の善悪を云々するのは飛んでも
ない間違い
で、人間の善悪は神様以外分るものではないのだから、
人間の分際で善とか悪とか言うのは僣上(センジョウ)の沙汰で、如何に
神様を冒涜する事になるか分らない
ので、
之程大きな御無礼はない
訳である。何よりも斯ういう人に限って独善的で鼻が高く、人徳が
ないから発展しないばかりか時には碌でもない問題を起し勝
であ
る。


 此例として、終戦前の日本をみればよく分る。忠君愛国の旗をかつ
いで、全国民命掛でやった事が、アノような結果に終った一事であ
って、此道理は大なり小なり何にでも当嵌る。成程其当時はみんな
正であり善であると思って行った事だが、此善は小乗の善であるか
ら、自分の国さえ良ければ人の国などどうなってもいいという利己
的観念の為の其報いである。それに就て私は先頃「世界人たれ」
いう論文を出したがつまり其意味であって、大乗の善即ち世界的善
でなくては、本当の善とはならない事を示した
のである。勿論斯う
いう考え方でゆけば、侵略戦争など起りよう筈がないから、アノよ
うな悲惨な目にも遭わず、今日と雖も平和を楽しみ、世界から尊敬
される国になっていたに違いないのである。


 別言すれば、愛にも神の愛と人間の愛とがある。即ち神の愛は大乗
であるから、無限に全人類を愛するが、人間愛は小乗愛であるか
ら、自己愛や自分の仲間、自己の民族だけを愛するという限定的で
あるから結論は悪になる。此意味が分ったとしたら信者たるものは
何事に対しても、大乗でゆかなければならない
訳で、即ち神の愛を
確かり胸に畳んで御取次する事
で、必ず好結果を齎(モタラ)すに決って
いる。故に
どこ迄も神の御心を心とし、無差別的愛で臨む以上、誰
しも快く接する事が出来、喜んで人が集って来るのは当然であり、
発展するのは間違いない事を、最近感じたまま茲にかいた次第であ
る。




参考文献   嘘の寸言     井上茂登吉 
            『栄光』104号、昭和26(1951)年5月16日発行

 明主様はある日つくづく仰せられていた。

「今の世の中の人間は実に嘘をよくいう、アメリカなどは少いよう
だが、特に日本人は殆んど嘘つきといってよい、毎日訪問に来る客
でも、全く嘘をつかぬ人は少い、一頃は私を誤魔化そうとするもの
が毎日来たものである、ひどいのは私をまるでお人好しのお大名の
ようになめ切つて巧くハメ込もうとして、誠しやかに見え透いた嘘
を並べるので呆れてしまう、私にはどんな巧い嘘でも分り過ぎる位
判るんで、いつも程よくあしらってはボカしてしまうので終に諦め
てしまうが、寸鉄で「あまくない者を甘く見るあまさ」と言ったの
はそれである、そういう人間は嘘をつくのが習性になっていて、平
気で嘘を言うし、又自分で嘘を言ってる事さえ気がついていない、
中には自分の嘘に陶酔している者もある
、私の部下の中でも、よく
ありのまま答えればすぐに出来る筈の返事を言い渋っている事があ
るがこれは「どういう風に誤魔化せば叱られずに済むか」と言訳を
考えているからである、私はそういう場合よく言ってやる「嘘を言
うのはやめよ、お前達に誤魔化されるようで、世界人類の救済が出
来ると思うか」


と――(中略)

 私が御側にいる頃、屡々経験したが、右様な場合、正直にお答え
する時は、可成りひどい誤りでも、意外な程お尤めはなく御慈悲の
御心を泌々感ずるが、言い逃れの態度は絶対に許されぬ、言訳をす
ればする程益々立場に窮してお叱りを戴く結果となる、それは誤り
の粉飾に過ぎぬからだ、
間違いはお許しになるが、偽りは徹底的に
なくさしめんとせられる
、有難い思召しからである――
 明主様は又言葉をお続けになる。

最もひどいのは神様を誤魔化そうとする極悪な奴である、もし神
様が誤魔化せるとすれば、人間が神様より上だという事になる、ど
んなに巧く誤魔化しても嘘は必ずバレるもので、そういうすぐにバ
レるような嘘で固めて成功すると思う所に、彼等の頭は大きい欠陥
がある
、散々努力して築き上げては一挙に崩れてゆく、そんな精出
して笊へ水汲むような事を始終繰返している悪人の愚さは、言うべ
き言葉もない」

と。

 叙上の御言葉を承わって現代社会の真相をはっきりと判らしてい
ただけたような気がした、
よく自分に聞いてみると、熱心な信仰を
していると思っている吾々の心にさえ必要な嘘以外の多分に偽りの
分子がある事を否定出来ない、
時に御神書に照す時、自ら嘘と思わ
ぬ嘘も多々発見
する、せめて自分から嘘を無くそうと努めて来た
が、抜けそうでいてなかなか抜けないもの
である、明主様はよく


「嘘をつくと頭が曇るから、頭の働きが悪くなる」

と仰せられたが、自分の頭の悪さから考えると、未だ余程嘘がある
のかと思うが一面又祖先伝来のものでもあろう。


 由来日本歴史には権謀術数に織りなされた、支配者の歴史はあっ
ても、大衆の歴史は殆んどないといはれるが、長い間の封建制の桎
梏(しっこく)の中で、庶民もまた保身の道を身に着けて来た、それ
がいわゆる伝承の処世術即ち嘘吐き術
であったろう、そしてそれは
遂には尊重さえされて来た結果一つの国民性となって、今もなお陶
汰されずにいる所か、文化と共に進歩悪質化して行きつつあるので
はあるまいか、誰が考えても今の世の中は悪質な嘘で囲まれ、固め
られていて油断もスキもあったものではない、勿論必要な嘘もある
が、醜悪を蔽わんとする本質的な嘘はいよいよ倍々悪を醸成してい
る。


 又文化の面においても人間の力で解決のつかぬ事も解決出来たよ
うに見せかける嘘
の、恐るべき偉大な進歩を遂げつつあるものもあ
るし、その嘘に気づかぬ現代人の頭脳も又嘘で固っている、全く三
千誤魔化し世界とでもいいたいのである、もし
嘘のない世界、否
せめて嘘より真実が過半を占めたとしても、この世の中はどんなに
明るく住みよいものになるであろうか、それだけでも天国
といえ
る、本来住みよく明るい気楽な世を人間の嘘がわざわざ暗く、住み
にくい憂世にしている訳で、何という馬鹿げた事であろう、そうい
一切の嘘を明かにし、真実の世を造らるるのが明主様の御本願の
基本であり、本教の仕事
である。

 明主様は、実に驚く程正直な御方で、人の言う事は何でもそのま
まお受けになるが、それでいて絶対に誤魔化す事は出来ぬ、それは
御自身光明を放射され給うているのは勿論、
正直に徹せられた鏡の
如き真そのものの御心境
は、正邪、善悪、真偽を直ちに映破される
からである、嘘で充満した汚い社会を、大愛と絶対力をもって浄め
らるるは、全く想像もつかぬ御事であると思うのである。


 新興宗教は、とかくユスリタカリの如き嘘つき業者が蝟集し易い
ものである、何と言っても見えざる神を信ずる程の人は邪念薄く人
の言葉を信じ易い嫌いがあるそこが彼等の乗じ易しとする所
であろ
う、本教とてもかかる人種の策謀によって思わぬ被害を蒙ったが、
本教においては他に類例を見ぬ程大仕掛深刻で、従来幾多の危機に
見舞われたその深慮遠謀と策の巧緻なる、まことに心胆を寒からし
むるものがあったが、ことごとく明主様の御眼力に見破られるので
ある。しかし彼等の妨害は常に神業の新たな展開を結果し、神の御
眼には必要の為利用さるる具である事を知る時、経綸の深さに讃歎
久しうする次第である。


 過去において如何なる望みも成し遂げ来った、悪魔もただ一つ明
主様の放たれる御光の力は如何とも抗し得ぬ空前の脅威である。

 人類のすべてを動員し、偽瞞し、混乱し、破壊に導いた大詐偽師
悪魔の横行に艮(とどめ)さす、神の大御光の出現し給うた以上、
この世の偽りはここに終息し、真実の行わるる世の成就するは必然
の理である。




(お陰話)
  御神書の重要性を知らせて頂く 
           『地上天国』57号、昭和29(1954)年2月25日発行
       大阪府吹田市北泉町三、二二三   喜光中教会 清原 進(25)

 明主様日々の御守護の数々を心より御礼申し上げます。
  このたび戴かれました一信者さんの御守護を通じまして、その都
度戴いております明主様の御教えが真理であり、また、我々信徒に
対して欠くことのできない信仰の道標である
かということを痛切に
感じさせて戴きましたことを心より御礼申し上げますと共に、拙文
ではございますが御報告申し上げます。


 去る七月末の事でございます。信者さん正田某(三十九歳)の子
供さん(十四歳)が昼過ぎより、急激なる盲腸炎の御浄化を戴かれ
ました。早速母親と近所の信者さんと二人がかりで御浄霊を始めら
れました。ところが短時間の御浄霊にてあれ程激しく痛んでおりま
した下腹の苦痛がまるで大風の去った後のごとくピタッと止ってし
まいました。そして本人もケロリとして、食欲が出て来たものか早
速食事の要求です。子供は正直なもので、痛みが止り、食事が終る
と早速外に飛び出して遊んでいるではありませんか。


ところがその日の日暮れより急に「寒けがして仕方がない」とふる
えながら転がるように帰って参りました。あまりの状態に母親は驚
いて額を触ってみましたところが大変な熱なのです。驚いて早速首
回りから肩にかけて御浄霊をされたのですが、二時間過ぎても熱が
一向に下らないのです。子供さんは「頭が痛い寒い」と言ってウン
ウン苦しんでいるのですが、母親はどうすることもできず、たまり
兼ねて昼御浄霊に来て下さった信者さんにお願いに行かれました。


ところが帰って来てびっくりしたのです。あれ程ひどい熱にうなさ
れ苦しんでいた子供さんがスヤスヤと休んでいるではありません
か。しかも熱は平熱にまで下っているのです。母親は思わず「明主
様御守護有難うございました」と心の中で御礼申されました。とこ
ろが数時間経過致しますとまた先程のような熱が出て参りまして苦
しみ始めるのです。


母親は「これはきっと御浄霊の急所が間違っていたのだろう」と思
って不安とあせりから今度は所かまわず御浄霊をされるのですが、
一向に熱は下らないのです。思い余って「エエどうにでもなれ」と
半分執着を取った状態で浄霊を中止され、他の用事を始められまし
た。ややしばらくして子供の側に来て見ますと、また熱が下ってい
るのです。こうした状態が二日間繰返したものですから、母親はた
まらなくなり教会に飛んで来られました。そうして「急所を見付け
て戴きたい、どうも私には霊的のように思えるのですが」と御浄霊
のお願いに来られたのです。


 早速御浄霊に出張しようと思ったのですが、どうも私には割切れ
ないところがあるのです。それは盲腸炎の方は下痢と共に毒素は下
って非常に順調な浄化なのだ。そして一旦元気になって遊んでお
り、その後発熱ということになっている。しかもその熱は原因不明
である訳なのです。


ふと私の脳裏に浮かんで来たのは二カ月程前に戴いた栄光紙〔二一
〇号〕の「信仰の合理性と再浄化」の活字です。御論文によります
『神様というものは理屈に合えば何程でも御守護があるが、理屈
に合わなければいかに拝むとても御守護はないのである』
と御説き
戴いているのですが、そうした面から考えてみますとどこか不合理
なところがあるのではないだろうか。 どうか急所を教えて頂きたい
と心の内でお念じ致しておりましたところが「ハッ」と思い当るこ
とがあるのです。


それは数カ月以前、その信者さんが。近所の信者さんにこんなこと
をお話された事があるのです。「実は………現在私は妊娠三カ月の
身重なのですが、主人が子供が大勢いるところにまた子供なのか。
それ以上子供ができると益々生活が苦しくなるばかりだ、ぜひ堕胎
をするようにと責められて苦しんでいるのです。どうすれば良いで
しょうか」と真剣な面持で話されたのです。その信者さんは「御教
えには殺人の罪になるとお説き戴いておりますからそれは良くあり
ません」とお話されたことを思い出したのです。


私もそのことを信者さんよりお聞きした時その奥さんに一応説明し
てあげようと思ってはいたのですが、なにしろ主人は未入信でもあ
り、数々の御守護も戴いておられながらお道に大変な反対をされる
のです。それで私もその問題に触れずに知らぬ振りをしていたので
す。「そうだひょっとするとあの時に堕されたのかも知れない」と
思い支部長に一切をお話し致しましたところが「多分それでしょ
う、ぜひ明主様が今までそうした面について御説き下さっている御
論文を
真の大乗的見地に立って御取次してあげなさい」との御指示
を戴きましたので、早速御神書を整理致しまして、明主様に御守護
をお念じ致しましてのぞんだのです。


 行ってみますと「今丁度熱が下ったところなのです」と母親は申
されました。私は母親にそれとはなく聞いてみましたところが驚い
たのです。余りにも一致しているのです。「実はどうにも仕方なく
追いつめられまして明主様におわび致しまして……」との事なので
す。私はたまらなくなって母親にお話をさせて戴いたのです。 「実
は子供が宿ったということは神様から必要あって宿されものである
以上、自分の食いぶちは持って生まれて来るものなんです。それを
一身上の都合で堕したということは罪悪にもなるんです。また子殺
しという殺人の罪もあるんです」と説明して上げました。


また御垂示録(七月一日)には明主様は「祖先は系統が断えるとい
うことを非常に怒ります。その系統を絶やすという罪と祖先の怒り
でロクな事はありません」
と御説き戴いているように大変な罪にな
るのです。と申しましたところが自責に痛感されたのか、私が帰宅
した後で明主様に心より自分の間違いをおわびされ、自宅の仏前に
もひざまづいて先祖にもおわびされた
そうです。ところがスーッと
熱も下ってしまい、それっきり熱は出なくなったのです。翌日参り
ましてその報告を聞きまして、
御教えがいかに絶対的なものである
ということをハッキリと教えて戴きましてただ感涙に咽んでしま
いました。


 一昨年の四月の御教えの中に(御教え集九号二十一頁)
「私はただ、その場その場で簡単に言ってのけるので有難味がない
んですね、だからともすればそれを軽く思って聞き逃しちゃう訳で
すね。で何かあると、こう言うことを以前にお聞きした、これだと
言うことに気が付くんですが、初めは中々そう思わないんです。そ
れですから
私の言う通りやらない人も随分あるんです。私のお腹に
おられる神様は最高の神様
です。自分が言うこと、やることが。そ
のまま神様がやっていることと同じですからね。つまり直接なので
す」
と……。


 こうした一信者さんの頂かれました御守護によりまして、益々
神書拝読の重要性
を魂の奥底より感じさせて頂きました。

「読めば読む程信仰が深くなり魂が磨けるのである。御神書の拝読
を疎かにするものは力が段々減るものである。信仰が徹底すればす
る程貪るように読みたくなるもので、繰返し繰返し肚に入るまで読
むのがよいのである。もちろん読めば読む程御神意がハッキリ分る
ものである」


をお説き戴いているごとく、今後一層御神書と取組み御神業に励ま
せて頂きます。

 明主様有難うございました。