平成25年5月度 ミニ講座

新人たれ    (栄七十三号  昭和二十五年十月十一日)

人は常に進歩向上を心掛けねばならない。特に信仰者にして然りである。処が世間宗教や信仰などを口にすると、どうも古臭く思はれたり、旧人扱ひされたりする。成程在来の宗教信者は、そういふ傾きがあるのは否めないが、本教信者に限っては全然反対である。否反対たるべく心掛けねばならない

先づ何よりも大自然を見るがいい。大自然に於ては、一瞬の休みもなく新しく新しくと不断の進歩向上を続けてゐる。見よ、人間の数は年々殖える。地球上の土地も年々開発される。交通機関も、建造物も機械も、一として退嬰するものはない。草も木も天に向って伸びつつある。一本と雖も下を向いてゐるものはない。此様に森羅万象悉く進歩向上しつつある実態をみて、人間と雖もそれに傚(ナラ)ふべきが真理である。

此意味に於て、私と雖も去年より今年、今月より来月といふやうに、飽く迄進歩向上心の弛まないやう努めてゐる、といっても只物質的の事業や職業や地位が向上する、といふそれだけでは、根底のない浮遊的のものである。根無し草である。どうしても魂の進歩向上でなくてはならない。要するに人格の向上である。此心掛けを持って一歩づつ気長に、自己を積み上げてゆくのである。無論焦ってはならない。ほんの僅かづつでもいい。長い歳月によれば必ず立派な人間になる。否そのやうに実行せんとする心掛け、それだけでもう既に立派な人間になってゐる。そのやうにすれば、世間からは信用を受け万事巧くゆき幸福者となる事は請合である。

斯ういふ言ひ方をすると、現代青年などは何だか旧道徳論を聞くやうで、陳腐に思ふかも知れないが、実は陳腐処ではない。之が出来れば本当の新人である。此様な点を規準として私は多くの人を見ると、古臭く見えて仕方がない。何等進歩がなく、相変らずの考え方や話で、何処にも変り栄へが見出せない。だから斯ういふ人に逢っても少しの興味も湧かない。話し合ってみても世間話以外何物もない。宗教も政治も哲学も、芸術などの匂ひすらない。世間の大部分は斯ういふ人が殆んどであるが、それも敢て咎める気はないが、少なくとも救世教の信者だけは、そういふ旧人型は感心しないし、又そういふ人は余りないやうだ。本教は知らるる如く、世界の転換期に際し、全人類救ひの為に、誤れる文化に目醒めさせ、理想的新世界を造るにある以上、飽く迄新人たる事を心掛けねばならない。私がいつもいふ廿一世紀的文化人にならなくてはいけないと言ふのは、その意味である。



   世界人たれ   (栄百二十四号  昭和二十六年十月三日)

之からの人間は、世界人にならなければ駄目だ。之に就て面白い話がある。終戦直後或軍人上りの人が私の処へ来て、憤懣に堪えない面持で『今度の降伏はどう考えても分らない、実に怪しからん』と言って、憤慨しながら話かけるのだが、私の方はサッパリ気が乗らないので、彼は呆れたらしく曰く『先生は日本人ですか』と質くから、即座に『私は日本人じゃない』と答えると、彼はギョッとして、震え乍ら『では何処の国の人間ですか』と質き返えすので、私は言ってやった。『つまり世界人なんですよ』其言葉に、彼はポカンと気の抜けたような顔をして、其意味の納得のゆくまで説明して呉れろと言うので、私も色々話してやったが、今それを土台にしてかいみよう。

 元来日本人とか、支那人とか言って差別をつけるのが第一間違っている。アノ頃の日本人がそれで、日清、日露の二回の戦役に勝ち、急に一等国の仲間入りをしたので逆上(ノボ)せ上り、日本は神国なりなどと、何か特別の国のように思ったり、思わせたりして、遂にアノような戦争迄引き起したのである。そんな訳だから、他国民を犬猫のように侮蔑し、其国の人間を殺すなど何とも思わず、思いのままに他国を荒し廻ったので、遂に今日のような敗戦の憂き目を見る事になったのである。其様に自分の国さへよけりゃ、人の国などどうなってもいいという様な思想がある限り、到底世界の平和は望めないのである。

 之を日本の国だけとして例えてみても分る。恰度県と県との争いのようなものとしたら、日本内の事であるから、言わば兄弟同志の食(ハ)み合いで、簡単に型がつくに決っている。此道理を世界的に押拡げればいいのである。彼の明治大帝の御製にある有名な"四方の海みな同胞と思ふ世に、など波風の立ち騒ぐらむ"即ち之である。みんな此考えになれば、明日からでも世界平和は成立つのである。全人類が右のような広い気持になったとしたら、世界中どの国も内輪同志という訳で、戦争など起りよう訳がないではないか。

 此理によって今日でも何々主義、何々思想などといって、其仲間のグループを作り、他を仇のように思ったり、ヤレ国是だとか、何国魂とか、何々国家主義だとか、神国などと言って、一人よがりの思想が、其国を過らせるのみか、世界平和の妨害ともなるのである。だから此際少なく共日本人全体は、今度の講和を記念として、世界人となり、今迄の小乗的考えを揚棄し、大乗的考えになる事である。之が今後の世界に於ける、最も進歩的思想であって、世界はこの種の人間を必要とするのである。

 話は違うが宗教などもそれと同じで、何々教だとか、何々宗、何々派などといって、派閥など作るのは、最早時代遅れである。処が自慢じゃないが本教である。本教が他の宗教に対して、触るるななどというケチな考えは聊かもない。反って触るるのを喜ぶ位である。というのは本教は全人類を融和させ、世界を一家の如くする平和主義であるからで、此意味に於て、本教では如何なる宗教でも、仲間同志と心得、お互に手を携え、仲良く進もうとするのである。



 序 論      (医革  昭和二十八年)

 人類は今日まで実に恐るべき過誤を犯して来た。恐らく之程大きな誤算はあるま。それは何かといふと医学である。何しろ人間にとっての最も貴重なる生命を、保するものとしての重要な存在であるからである。然るに之が前記の如しとすれば、以上の大問題はあるまい。従って現在文化の素晴しい進歩によって、人間に与えらてゐる処の、礼讃し感謝しても尽し切れない程の福祉も、此医学によってその功績を抹殺しても、尚余りある位である。処が之程の誤りを今日迄気付かなかったといふ事は、実に不可解というべきである。処が神の大愛はいつまでもそれを許される筈はない。茲に医学の蒙を啓くべく、断乎としてその手段を執られ始めた。即ち医学の革命である。

 昔から革命と名の付くものは幾度かあったが、それは一国家、一民族、若くは一時代、一思想といったやうに限られてゐたが、今私が行はんとする此医学革命に至っては、全人類の生命を永遠に救うという、その福祉の大きい事は、破天荒といっていいか、画期的といっていいか、言葉では現はす事は不可能であろう。要するに神は全人類苦悩の根本である医学の過誤に目醒めさせるべく、私に対しそれに必要な智慧と力を与へられたのであって、此事こそ真理の具現であり、救ひの基本的条件である。処が人類は何千年間に亘って真理を知らなかった。否神は或事情によって知らせなかったのである。併し愈々天の時到って茲に真理を知らせ、文明転換といふ史上空前の偉業を開幕されたのである。之こそキリストの曰った"世の終り"であり、"最後の審判"であり、世界的大清算である。

 此時に際して、神の大慈悲は今や此渦中に巻込まれ、溺れんとする最大多数の生命を救はんとするのである。勿論此大清算こそ、既成文明の欠陥を明かにし、真の文明のあり方を教へ、神の大目的たる理想世界を実現せられるのである。之もキリストの曰った"天国"、釈尊の曰った"彌勒の世"、本教のモットーである"病貧争絶無の世界"であり、その根本こそ何といっても人類から病を無くす事である。

 以上の如く私は、古往今来夢想だもしなかった大胆極まる宣言をするのであって、之は神言である以上、一点の誤りはないのである。此意味に於て本著を精読するや、茲に豁然として目覚むるであらう。



 子供(妻)等が犠牲になる場合の浄化  その1

《例1》
「名古屋市外の春日井市の経師屋で、中々熱心であり、別院の表装もお願いして居りますが、家族はおじいさん一人と夫婦と子供三人で、長男十五才、次男十才、長女十三才で御座いますが、長男は生まれつき白痴であります。次男は八月廿五日に苔猿と言う有名なお寺に遊びに行き、小川で溺死しました。去年の三月二十五日には当人の叔父が縊死して居りますが、何か関係があるものでしようか。おじいさんは、本当のおじいさんですが、家がなくなつたので、伴と言う家に行き、その家を立てたのですが、禅宗で、今迄おじいさんの家でお祀りしてましたが、次男が亡くなつてから本願寺でお祀りしてます」

代々禅宗ですか。
「代々禅宗で、その家の息子が養子したのです」
家が本願寺ですね。おじいさんが禅宗で、夫婦先の家が真宗ですね。
家と言うのは夫婦養子の家ですね。おじいさんのは他にあつたのですか。
「狭い為に真宗の仏壇は家に預けまして、おじいさんの禅宗の仏壇でお祀りしてました」
別に構はないですがね。それは良いが、祖先はおじいさんの方に祀つてあるんですね。
「子供が死んでより、家に引取り、別々にお祀りする様にしてます」
おじいさんの家は絶へちやつたんですか。
「はい」
しようがないですね。
「叔父が縊死しましたのと、次男が溺死したのは、因縁が御座いましようか」
叔父は夫婦養子の兄弟ですかね。縊死したのは祀つてあるでしよう。縊死したのはどつちですか。夫婦養子の方の叔父さんですか。
「生まれ元の叔父です」
すると禅宗ですね。それは何処に祀つてある。
「一軒持つている為に嫁が祀つてあります」
そうすれば、そんな事はありませんよ。何時入信ですか。
「二十三年の冬で御座います」
 そう言う訳はないがね。おかしいですね。男に祟つてるんですね。余程罪があるんですね。祖先の罪ですね、信仰の間違いじやない。長男が白痴と言うのは、余程前世に罪があつた。男に跡が継げない様にさせられている。妻君は幾つ位ですか。
「三十四、五位と思います」
 未だ子供が出来る可能性がありますね。どうしても、人間にひどい罪があると、子供を幾らか犠牲にしないと追いつかないんです。普通では、そうでもないが、段々世の中が切変えになる時になると、清算されて来るから、大きな罪が取れると良くなります。信仰を一生懸命やると良い。伴と言うのは藤原から出たものですね。                        《御垂示録2号  昭和二十六年九月五日》


《例2》
「西平クニ(五月入信)入信動機は、主人の歯痛が良くなり、御屏風観音様をお祀りされました。九月十日の夕方、橋の上でトラツクに跳飛ばされて即死しました。夫婦共入信して居り、一家に反対者も居りません。一家の大きな贖罪だと、割切つて居り、信仰は熱心で御座います」

 おかしいな。余程事情があるんですね。普通じやないですね。そう言うのは、こう言う意味ですね。そこの一家に非常に罪があるんです。その場合に、其罪を無くしなければ、一家が本当に仕合せにならない。そう言う場合に。誰かを犠牲にしなければならない。子供は無いんですか。
「五、六人居ります。皆んな頭が良く、長男は青年団長をして居ります」
おつ母さんは幾つです。
「四十七歳で御座います」
そこで、誰かを犠牲にしなければ罪が消えない為に、奥さんが選ばれたんです。そう言う事は滅多にないが、偶にはない事はない。そこで、反つて主人公が熱心になる。と言うのは、そう言う意味です。偶にはそう言う事は仕方がないですね。何しろ霊界が段々、最後に近附いて来るんで、祖霊なんかも急(アセ)つて、早く罪を取る手段をやる訳です。            《御垂示録4号  昭和二十六年十一月八日》


《例3》
「教師の長男二十一歳、昨年二月入信。四月に光明如来様を御奉斎。五月頃よりマージヤンに凝り、放蕩し、九月に大光明如来様を御奉斎し益々放蕩が激しくなり、母は教師でありますので罪の払拭をさせて戴きてをりますが、母の信仰が進めば進む程激しくなります」

 結構ではありませんか。喜んで神様に感謝しなさい。一家に非常に罪があるので、それを信仰させる為に、早く罪を取つて呉れる。それには子供に金を使わせて、祖先が其の子供を一人犠牲にしているのです。
「ヒロポンを射つ様になり、買つて来て射ちますので、座敷牢に入れる事はいけませんでしようか」
 入れても構いません。座敷牢に入れるとか病院に入れるとか、然る可くした方が良いです。そうしてその子供を一人犠牲にするという腹になる事です。          《御垂示録14号  昭和27年10月1日》


《例4》
「救世教は救いの宗教であると御教えいただいてますが、神様の大愛とは、時によっては寿命のある者を殺し、時によっては寿命の無い者を更に命を長くする、というように考えても宜しいものでしょうか」

 つまり神様に殺されるのでなくて、自分自身で滅びるような運命にするのです。その人によっていろいろで、それは単純には言えないので、複雑極まるものです。
 それから又、祖霊の関係があります。即ち祖霊が、祖先以来の罪が非常に多いために誰かを犠牲にしなければならない。それともう一つは、祖霊の罪の種類によって、現界で働くよりか霊界で働いた方が罪が早く消える場合もあるのです。ですから、犠牲にする場合と、霊界で働かせる場合と、そのためにそこの子孫の、大勢居る中で、誰かを代表者にして、祖先の罪を早く消す場合は、むしろ祖霊が神様に御願いして、早く罪をとっていただきたいという場合には犠牲にした方がよい事になるのです。だからそこのところはいろいろあるのです。けれども、要するに、信仰に入ってから犠牲になるのは非常によい理由があるのです。

 昨夜読んだお蔭話の中にも、丁度そういうのがありました。子供だか何かが亡くなって、母親が非常に嘆いて、幾らか神様を怨むような気持があったのです。その内に祖先の霊か何かが憑って来て、それはこういう理由だという事をすっかり話したのです。それで初めて"大変よい事だった、有難い"という事が分って、非常に感謝しているというような事が書いてありました。だから非常に複雑な意味と、いろいろな事がありますから、簡単には言えないです。

 それから、信仰に入ってからは、どんな事があっても、それは良くならんがための一つの形をとるのだから、喜んでよいわけです。それは時日がたつと必ず分ります。                               《御垂示録29号  昭和二十九年三月一日》


《例5》
【問】生活能力のない夫に七年間仕へて来た妻が遂に愛想をつかして離れて了ったといふ事に打突ったのですが―

【答】それはね、その妻にその犠牲になるだけの罪があるのです。だから或時期まで待つべきです。我慢して待ってゐれば自然神様が主人と別れる様にしてくれるのです。その場合信仰心があるとその間の苦しみも軽いしその時期も早く来るのです。                              《御光話録  昭和23年12月8日》


 《例6》
 《教えの光》  夫婦は浄化を引受け合う事がある
【問】妻が姙娠の場合、夫が悪阻の状態をする例があり、その場合妻は何事もなく平気でおりますが、これは如何なる訳でせうか。又一般夫婦の場合、お互の浄化を引きうけ合ふ様な事があるでせうか。

【答】これは当り前で、夫婦の霊線が一番強く太いから、妻の悪阻は夫が引受けると、反対に夫に罪があつて浄化をせねばならぬ。夫が浄化の為一家の生活に困る場合、それを妻が引受ける場合もあり、親の浄化を子供が引受ける事もある。ひどいのは子供の生命まで犠牲にする場合もある。             《昭和二十六年五月二十日》


 《例7》
【問】離婚といふことに就て――
【答】今度「信仰雑話」といふ本を発行するので私も「夫婦の道」に就て少し論文を書いてみたんですが、今迄の信仰はいろいろと間違ったまゝ続いて来た。私は本当の事を知らせたいと思って「夫婦の道」を書いたんですが、之が判れば離婚といふことも問題なくなる。

 (井上先生「夫婦の道」を朗読)

(要旨……近来見合結婚がいゝか、恋愛結婚がいゝかいろいろ問題になってゐる。然し之を霊的に見ると吾国は如何なる地域でもそれぞれ産土神(ウブスナガミ)を御祀りしてゐる。之は現界に於ける区役所の如く冠婚葬祭や出生を司る神で、子供が生れると産土詣りと云って御礼に行くのもそのためである。結婚もやはり産土神が男女を結合させるのである。これが判らぬから普通人間は男女二人が人為的に一緒になるのだと考へ勝ちなのである。かく折角神様の思召で結ばれた夫婦が勝手に別れたりするのは神への冒涜で、縁あって一緒になったのにどうこうしようといふのは誤りで寧ろ感謝すべきであり、又之が判って感謝の気持を持つ様になれば、いゝ妻にもなりいゝ夫にもなるのである。

 又子供の死は多くの場合夫の不品行に原因がある。例へば妻以外の女と関係するといふ様なことであって、かゝる罪は正に死に値するのである。この不品行を祖霊は非常に嫌ひ、且立腹するのであるが、罪の重い時は一家断絶といふ事さへある。勿論この罪の償ひはその主人が負ふべきであるが、主人は一家の柱石といふ大事な人間であるので、その身代りとしてその子供を犠牲にするのである。かゝることは世間にその例が多いから読者は必ずや身のまわりに思ひ当ることを見るであらう。夫婦不和の原因は多く妻の嫉妬と経済事情であるが、夫婦は神の御意志で結ばれたものであること、妻以外の女との関係は罪なる事を知れば自然夫婦は円満になるのである。これは決して作り話ではなく確たる事実なのである。)
"だから離婚なんかあるべきではない。もっといゝ女を妻に持とうといったって出来るものではないんです。祖霊は男女の不倫を一番嫌ひます不倫な夫婦の子供は御浄めしても効きませんよ。それですぐ判る。           《御光話録  昭和二十三年五月二十八日(金)》


 


お陰話
   医療に死し御光に蘇る                                

『地上天国』11号、昭和24(1949)年12月20日発行
           東京都板橋区成増二〇九六  日本観音教長生会教導師 鈴木やよひ(34)

 家族に見守られ死水まで頂いた信者が御浄霊に蘇えり、観音様の有難さを頑迷な家族に切々と説き、やがて来た御浄化に家族の皆様是非入信して下さいの言葉を残して出生に旅立った事実を御報告さして戴きます。
 この患者は昭和二十四早春、私が入信の御取次をさせて戴いた小寺よしさん(二八)でございます。婚家の皆様が頑迷な方々でございましたため、入信間もなく夫の病気に感染し嫁なるが故にその苦痛をジッーとこらえて起居するうち、遂に再起不能となり家人の招いた医師から死を宣告されたのであります。

 余命三日の診断は小寺さんをどんなに悲しみのどん底に叩き込んだ事でございましよう。思うだに御気の毒でなりません、刻々と迫る死期臨終は迫る、せめてお観音様にと思った小寺さんは家族の止めるのも聞かず私の許へ使をよこしたので御座居ます、しばらく見えませんので心配していた私は直ぐに馳せつけました。見れば顔はすでに真青となり、爪の色も変って身体は冷え冷えとしておりました。

 折角御招きを受けたのに何とかしてと思いました私は、大先生様に御守護を御願いし、奇蹟を念じつつ御浄霊をさして頂いたのであります。しかし二分三分五分、遂に家族は見放してしまい小寺さんを囲んで最後の言葉を与えつつ死に水まで取り枕を北に移そうとしたのであります、胸せまった私はまだまだ見捨てられず必ず奇蹟があるような霊感を戴きましたので、家族を説得して無念無想ひたすらに御守護を御願い申上げました。

 即ち大先生様この患者に御用が御座いましたなら是非今一度御用に立たせて下さいませ、とかくして約三十分真黒に変った爪に不思議や、血の気がさし込み、見る見る中に体温を感じて参りました。さすが頑迷な家族の方々もこの奇蹟の前にはしばし呆然としておりました、私も幾人か御浄霊して来ましたがこんな事は始めてでただ嬉し涙で一杯で御座いました。

 やがて身体を動かし眼をみひらき御観音様ッーと叫んだのであります。助かったほんとに奇蹟的に助かったので御座います。まだお観音様の御用の身体だったので御座いましょう。例え後刻お召しがあるともこの危機だけは御守護を戴いたのであります。この蘇生への幽明界について小寺さんは次のように語っておりました。

 御浄霊を頂いている中に本当にすがすがしい気持ちとなり、花園のような原に行きました。見れば私の前につづれをまとった男の方が歩いております。私はこの人の後について行かなければならないような気がして知らず知らずに花園の中に入って行ったのです。

 この時不思議にも白衣の老人が現れしかも身から御光りが輝き、私の許に来て下さいまして御話しをして下さいます。果は疲れているようだからさすって上げようと申され、私の足の辺りをもんで下さいました。この時私は疲労しきってその場に倒れておりましたのです。私はまだ御面会に一度も参拝した事がございませんので大先生様の御姿を偲ぶよすがも御座いません。あるいはこの高貴な御方が大先生様かも知れないという気持ちになりまして、余りの勿体なさに御介抱を御断りしました所、それでは私についていらっしゃい、と申しますので御言葉に従い御伴する中いつとなくほんとに明るい世界に出る事が出来まして思わず――お観音様――と申上げ夢のようなうつつからさめる事が出来ました。せめて命ある中御奉仕させて戴き家族だけでも入信させて戴けるようにしたいと存じます。

 幽明境から御守護を戴いたこの患者の告白、流石に聞き入る家人もあまりの奇蹟に声もなく過去の誤れる罪に対してどんなに反省を余儀なくされた事でしょう。
 生れながらにして罪を持ち、誤れる教育にまどい知らずしらずのうちに罪穢を重ねている人生を果して既成宗教や既存医術が保証し得るでありましょうか、私達自然の愛を基礎として人類の幸福は誠の心にこそ存在し、あらゆる病気悩みもお観音様の御浄霊によって治して戴きまた。必ず治る現実に直面しているとき、この小寺さんの死から生への奇しき幽明体験談こそ、一路地上天国建設に邁進しようとする私共への御さとしであり、迷える終生に対する開眼の転機であらねばならぬと存じます。

 この危機を脱した小寺さんも以来、生は得たものの病床にあって家人を説得し日々反省を促し、家族の同意を得たのもそれから五日目「もうこれで私も安心いたしました」その一語を最後として六日急に久しきにわたる医療から来る心身の疲労にたえかねて、九月七日ああ九月七日、遂に永眠されたのであります、しかも死に臨み家族に対しくれぐれも観音様におすがりするよう訴え自らは善言讃詞を奉唱しながら、かすれゆく声寂とした部屋、悔悟の涙頬を伝うた、と家人は申しております。

 二十万信徒の皆様、この感激は到底私の筆を以っては表現出来ませんが、この一事実が皆様の御手元からさらに第三者に――と伝えられてこそ小寺さんの御心にかなう事であり引いては、大光明如来様の御神意に添いまつる事と存じまして御礼の言葉と共に御報告させて戴きました。