平成25年3月度 ミニ講座

罪穢と病気   (天  昭和二十二年二月五日)

罪穢と病気の関係に就ては、宗教方面に於て多く唱へられてきた。之は事実であるが、私は霊的医術の見地から説くつもりである。
前項に述べた如く、人は悪を想ひ悪の行為を累(カサ)ねるに従って漸次曇が増量する。然るに曇の濃度が或程度に達する時、それを解消すべき自然浄化作用が起る。勿論霊界に於ける鉄則であるから、如何なる人と雖も免れ得ない。

 そうして右の浄化は多くの場合病気となって表はれるが、時としては他の形即ち種々の災害等による事もある。勿論右の曇と雖も、体的には毒血、膿の溜積である。然し乍ら体的方面からでなく罪穢による-霊的から来る病気は治り難く長年月を要する。結核、カリエス、等執拗なる症状の多くは、之に属するのである。

罪穢を払拭する方法としては、苦悩によるか又は善行を重ねるかの二つであるが、後者を選ぶ方が如何程安易であるか知れない。

 此例として私が天理教研究時代斯ういふ話があった。肺結核で不治と断定された一青年、天理教の信仰に入り、何か善行を施さんと思案の結果、都会の道路上に吐き出された痰を清掃せんと思い立ち、三年間毎日それを実行した所が病気はいつしか跡形もなく消え全快したとの事であった。

 次は有名な話であるが、彼の清水の次郎長事山本長五郎氏が当時ある高僧に出会ひ、その僧侶から『貴下の顔には死相が表はれてゐる。恐らく一年以上此世に在る事は難しい』と言はれたので、次郎長は死を決し、資産全部を慈善事業に投じ、某寺に入って死を待ってゐた所が、一年を経、二年を経ても何等異常が無かったので非常に立腹してゐた。偶々曩の僧侶に会ふ機会を得たので大いに詰(ナジ)らふと思った。遇ふや否や彼の高僧曰く『実に不思議だ、貴公に以前遇った時の死相は跡形もなく消えてゐる。之は何か深い仔細(シサイ)があるだらう』とアベコベに詰られたので遉(サス)がの次郎長も、実は斯々と語ったので、その僧侶も『それは貴公の善行によって、死生を転じたのである』。-との話であた。

是で此理を拡げてみる時、日本が敗戦の結果、国民殆んどが苦悩に喘いでゐる現実も全く長い間、他国を侵略し、他民族を搾取し又は殺戮した罪穢に対する浄化作用に他ならないのである。



   人間は想念次第    (光二十五号  昭和二十四年九月三日)

 感謝が感謝を生み、不平が不平をよぶとは正に真理だ、何となれば感謝の心は神に通じ不平の心は悪魔に通ずるからだ、此理によって常に感謝をしている人は自然幸福者となり常に不平不満や愚痴を言う人は不幸者になるのは事実だ、大本教のお筆先に曰く
「喜べば喜び事が来るぞよ」とは正に至言である。



   霊界の不思議   (地九号  昭和二十四年十月二十五日)

 霊界なるものは、実に霊妙不思議な存在であって、現世人の常識判断では到底理解し難いものである。それに就て人間の想念が霊界に如何に反映するかをかいてみよう。

 霊界は全く想念の世界である以上、無から有を生じ、有が無になり変異極りないものである。その例として茲に絵画彫刻等によって神仏の本尊が作られるとする。処がその作者の人格によって、懸り給ふ神霊仏霊に自ら高下を生ずる。即ち作者の人格が然らしめるので、最も高い場合はそれに相応する高級神霊が降臨される。故に形は同一であっても、作者の人格が低い場合はそれに相応した代理神霊、又は分神霊が懸られるのである。

 今一つは、凡て礼拝の的である御神体に対し、礼拝者が誠を以て心から念願する場合、その神霊の威力、即ち光明は偉力を発揮するに反し、礼拝者の想念が形式だけで、心からの尊信の念がない場合、神霊の偉力はそれだけ減殺されるのである。又礼拝者が多数あればある程、神威弥々赫々たる光明を増すのである。

 よく昔から、「鰯の頭も信心から」といふが、之はどういふ訳かといふと、何等資格もない下根の者が御神体を作り、巧妙なる手段を以て宣伝をすると、一時は相当多数の参拝者が礼拝するとすれば、参拝者の想念によって、霊界に神仏の形が造られるのである。従而、相当の威力を発揮し、利益も与えらるるので、之は全く人間の想念の作為で、実に不思議といふより外はない。然し之等は或期間は繁昌するが、それは本物ではない。一時的架空のものであるから、いつかは消滅するのである。斯ういふ例も少からずある事は誰もが知る通りである。所謂、流行神といふのは此種のものである。

 以上は、神霊に就てであるが、其反対である悪魔に就ても解説してみよう。
世の中に最も多い事、自己欲望の為、人に迷惑を掛け、人を苦しめ、不幸に陥れる悪徳者の余りに多い事である。無論之等は、吾々が常にいふ処の見えざるものを信じないといふ、唯物思想の産物ではあるが、之を霊的にみれば奇々怪々実に恐ろしいのである。

 人を苦しめる以上、其被害者は必ず怨んだり憎んだり、仇を打たうとする、その想念は、霊線を通じて相手にブツかってくる。それを霊的にみると、忿怒や怨みの形相物凄く、仮に眼に見えるとしたら、如何なる悪人と雖も一たまりもなく往生するのである。処が被害者が一人や二人処ではなく、何千何万の人数となると、多数の想念が集合し、いよいよ恐ろしい怪奇極まる妖怪が出来、種々の形となってその悪人を取巻き、滅ぼそうとするから堪らない。如何に英雄豪傑と雖も、終には悲惨なる運命の下に滅亡するより外ないのである。之は古今を通じて、歴史上の大人物をみれば例外なく右の如き運命を辿ってゐる。

 其他悪徳政治家の悲劇、成金の没落は勿論、多数の婦女を迷はせ飜弄した輩や、悪質の高利貸等の末路をみればよく判るのである。

 右に引換へ多くの善根を施し、多数者から感謝感激の想念を受くるとすれば、その想念は光となって、その人を囲繞するから、いよいよ有徳者となり、悪霊邪神もその光に恐れて近づき得ない以上、大いなる幸福者となるのである。よく神仏の像などにある円光なども、それを表徴したものである。
 以上によってみても人間の想念は、如何に重要視すべきものであるかが知らるるのである。



   神は正なり  (救五十四号  昭和二十五年三月十八日)

 今更神は正なりなどというのは可笑しな話であるが、一般人は勿論宗教に携はる教師も一般信者も兎角忘れ勝ちであるから茲にかくのである、というのは本教などは特に正義と善行に力を入れているに拘わらず、稀には本道から逸脱し、あらぬ方面へ彷うものもない事はないからである、その様な場合必ず神からお気付を頂くが、それを無視する場合神の大鉄槌を蒙るのである。

 先ず普通信仰者の最初の中は至極真面目に御神徳や奇蹟に感激し、熱心な信仰を続けつつあるのであるが、正しい信仰である以上おかげは著るしく自然多数の人から尊敬される事になり、生活境遇も大に恵まれるので、本来なれば愈よ神恩に感謝し、一層身を慎しみ報恩に尽すべきに拘わらず、凡人の悲しさ、不知不識恩に狃(ナ)れ、慢心が生じ、心に隙が出来るのである、処が邪神は此隙を常に狙ひつめてゐるので、得たり賢しとその隙に入り込み、その人を占領し肉体を自由自在に操るようになるので、実に危い哉というべきである、而も覇気あり役に立つ人ほど邪神は狙ふのである、然し本当に正しい信仰者でありとしたら邪神は手が出ないので  諦めて了ふから安全であるが、中には引っ掛る人もあるので此点仲々むづかしいのである。

 然し、之も標準に照してみればよく判る、つまり自己愛の有無である、神様の為、人類の為のみを第一義とし自己の利害など考えず驀らに進めばいいので、斯ういう人こそ邪神はどうする事も出来ないのである、処が少しうまくゆくと自惚が出る、自分が偉いと思う、此時が危いのである、終に野心を有つようになる、それが為自己を偉くみせようとし、勢力を得ようとする、実に恐ろしい事である。

 一度斯うなると、邪神は益々魂深く入り込み終に占有して了ふ、而も大きい邪神になると相当の霊力を発揮する、勿論一時的霊力ではあるが、病気を治したり奇蹟なども表はすから、慢心はいよいよ増長し、終には何々の神の身魂とさえ思はせられ、生神様となって了ふのである、斯ういふ生神は世間に沢山ある新宗教の教祖などは殆んど此類である、然し本当の神様ではないから、或時期までで没落して了ふのである。

 茲で注意すべきは、そういふ宗教の教祖とか生神様とかいうものの態度を厳正なる眼を以てみればよく判る、その著るしい点は、愛の薄い事と、信仰は小乗的戒律的で厳しいと共に、自分のいう事を聞かないと罰が当るとか、自分のグループ又は信仰から抜ければ滅びるとか、生命がないとかいって脅かし、離反を喰止めようとする所謂脅迫信仰である、斯ういふ点が些かでもあれば、それは邪神と断定して間違いないのである。


 




(寄稿文)  俺 様       百地超生
            『地上天国』35号、昭和27(1952)年4月25日発行
 これは大本信者時代の話だが、
「お筆先なんか 百も承知の俺様だ ただ実行が出来ないだけさ」
 これは昔の笑冠句である。他にも「お筆先の実行者素裸である。但し夏だけハックショイ」というのもあったが、以前、明主様が御かきになった事のある大本時代の奇行の士カンカン先生の例の如く、凡俗がお筆先を直訳的に実行するには現代生活と遊離した異様な生活様式をせねばならなかった。この句はお筆先なるものが、厳正に過ぎて万人の行い難きをヒューマニティに皮肉られたものでもあろうし、何事も知り尽したつもりで得々たる人間性の浅薄薄弱な自我的心理の盲点を笑化されたものであろう。

 私はよく右の最初の句を想い出し、「お筆先」を現在の「御神書」なり「御教」なりに置替えては、自分に実にピッタリしていると切実に思うのである。これ程長い間信仰して御教は百も承知のつもりの俺様も、肝腎の実行力においては殆んど零で、ただ御教の智識者にすぎぬ事を発見する時、つくづく情なくなり、全くイヤになってしまう

 そういう際に、明主様はよく御言葉を賜う。

『自分がイヤになったという事は、新しいより良い自分が生れ、古い自分に対する批判力が出たのだから大変結構な事だ。人間は誰しも第二の自分を作らねばならぬ』と。大いに勇気づけ退嬰をお戒め下さる。それは失意すべき事ではなかったのだ。全くお蔭である。有難い事である。

 人間は、血気旺んな頃は大いに俺様的自意識を発揮する。それで案外調子よく成功すると、世の中を甘く見誤り、俺様の価値を実質以上に過信して、遂には無理をしたり、宿命の枠を越そうとしたりしては大失敗をする。ここで大いに自分の無力を知り、誤りに気づけばいいが、執着と情勢に押されて、大いに挽回を焦って益々失敗の溝を深め、遂には滅ぶ者も少くない。これは古来人間運命の一定型であり、定石である。

 そうして数々の失敗や苦しみによって流石の俺様もモミクチャにされ、最も小さくなった時初めて自己の真価を知るのであるから、本当の自分を知るのは、なかなか大変な事である。そして自分の真価こそ結局は馬鹿の二字に帰するを知って初めて真実を見るのである。以前明主様がお褒めになった。
「馬鹿野郎よく考えりや俺の事」という句は実にこの悟りの哲理を歌われた不朽の名句である。

 このようにして自己を知り、新しい自己を作りつつ信仰も人間も向上して行くのであって、俺様的臭気の強い程未成品の人格といえるであろう。たしかに頭の悪い人程、自我の匂いが強いようであるが、やはり毒素多量の為、自己を見る脳力を塞がれているのであろう。

 俺様意識は失敗の因をなすとはいえ、一面なかなか大きい働きもするので、あまり悟って無くしてしまったんでは活動力を失う。やはりなくてはならぬものなのだ。ただそれはどこまでも強い善で、出来るだけ大きくし、恰(あた)かも全く無くなったかの如く見える程溶け込めばいいのである。

 人間社会を最も不快に騒々しくしていたものに俺様と俺様の衝突がある。これも一つの進歩の過程として止むを得ぬ事ともいえようが、人間が大いに自負し、必死にこだわりたがる俺様なるものは幸福の道を阻害している、案外つまらぬものである。少くとも黴菌にビクビクしたり、糞尿を有難がっているだけでも、大きい顔は出来ぬ訳である。

 厄介なのは今の社会の大部分を占むる唯物主義の俺様達だ。これは一切が霊と体で成り霊が主であるという平凡な真理を知らず、あえて形体だけしかないとし、しかもそのような非真理を真理に見せかけるべく、貴重な生涯をかけて迷信養成に努力して地獄への道を造っている頑迷な迷信家で、たとえ浄霊の偉力を実際にみせても判らぬ哀れ変質的頭脳である。勿論、神は目に見えぬから無いと豪語しているが、善の根本は神であり、悪の根本は悪魔である以上、神を否定するのは善を否定する事になるのだから、彼等は悪人という事になり悪魔的心の持主でないとはいえぬ訳である。

 こういう連中の内には、新宗教を目の仇のように思っているものがあり、迷信打破に偉力を揮っている本教さえ迷信邪教とし、極力パリサイ的迫害の先鋒を勤めたのもこの種族である。そしてこのような神を無視した俺様種族が、医学、農業、逆理等の迷信を育成し、収拾もつかぬ悲惨な結果を生んだが、いよいよ始まった文化革命の前駆的爆弾投下即ち、かような危機も易々として一挙に解決出来る、超高度の農学医学の真理の開明と、これを裏付ける破天荒なる実験記録をみたら、如何にコチコチの唯物思想も窒息昏倒し、流石の俺様も一ぺんに影が薄くなるであろう。何と物凄い言霊の力である。

 これでもまだ目が醒めぬ連中は、今夏出現する世界最高の美術館を見たら何と言うであろう。これこそ紛れもなくすぐ目に見える形ある神業の驚異であるから、まさかこれでも迷信邪教の所産という程の盲目者はないであろう。しかもこれが内外讃仰の的となり、海外からも参観者跡を絶たすとなれば、イヤでも応でも眼が醒めて、人間以上の力の主を認めざるを得なくなるであろう。そしてこれらはホンの三番叟(さんばそう)で、未だまだ膨大な経綸が次々と形となって表われてくるのだから、その時になって顎を外したり、腰を抜かしたり、フンノビたりする事のないよう、今から用意あってしかるべきである。

 今迄多年、本教に浴せられた悪評をお聞きになると、明主様はいつも大笑いせられていたが、形に表われねば判らぬ俺様どもの盲目さをお笑いになられたのであろう。吾々とても入信して神の御光に照されてみると、今迄相当なもののつもりだった俺様も、実は恐るべき迷信家だったり、人間の形をした毒の塊りだったり、四つ足のサック様だった事が段々ハッキリ判ってくる。全く高度の文明人、万物の霊長と誇る人間様なるものも神様から御覧になれば、虫ケラかアミーバに等しい情ないものなんである。この下等生物の境涯から脱せしめ、人間並に高め生を楽しましめて下さる為のメシヤの出現であり、文化の革命である。人間はただ素直になってこのメシヤの大慈悲にお縋りして、一日も早く幸福人間になるべきだと思う。

 明主様のお仕事の悉くは、人為の限界を越えた実証を以てこの世に神が在すか在さぬかをはっきり示さるる大神業でもある。そして今後この神業が加速度を以て進展し、神の御光が日に月に強く放たれ給うにつれて、絶対の力もてすべての物の狂いは釐(ただ)されていくと共に、誤った俺様観念はいよいよ青息吐息、畏縮していくのみで、遂には滅消せざるを得ぬであろう。そうして新しい人間として生れ代る時、初めて病も貧も争もなくなり、歓喜悦楽の新文明世界は生れるであろう。吾等は今こそ御教の声に目ざめ、滅すべき迷信に固まった俺様とは別の神の子として更生し得る魂の種子を培わねばならない

 病気を滅せねばならぬ事も、
 農業を発展させ、借金をなくし、金詰りを解消せねばならぬ事も、
 平和を実現せねばならぬ事も、
 思想を善化し、社会悪や犯罪をなくさねばならぬ事も、
 百も承知の俺様だ。

「ただ実現が出来ないばかりか、益々悪化するばかりで、どうにもならぬだけだ」という外すべない俺様達に、メシヤ教信徒は言うであろう。
「そんな事は、朝飯前のメシヤ様だ。
 ただ、君達がまだ麻酔からさめないだけだ。
 しかし、醒めるか滅ぶかという時は、刻々動いているのだ」と。



(お陰話) 「霊界通信」の体験 
            『地上天国』13号、昭和25(1950)年2月20日発行
                   世界救世教光宝中教会 高村正已(38)

 時  昭和二十四年七月十六日     
 場所 福岡県三瀦郡大川町大川教導所
 霊  私の弟幸男(昭和二十年七月七日ビルマ戦線で戦死)
 霊媒 大川教導所 宮部末子

 四年前に母の喘息を全快させたいの一念で、私は復員早々に木原先生の御導きにより、教修を頂き、その後現在まで数々の御蔭を戴いて、世間で迷信邪教とかの悪罵も私は馬耳東風として受け流し、一生懸命に誠の神の道を決めて参りました。それと共に母の喘息も非常に楽になりその結果、母も私の妻も共々に教修を頂き、御神体もお迎えさせて頂きました。私二人が母と妻と共に三人となって専心御道のために御奉仕させて頂いています。

 弟幸男の戦死は母にとって最大の歎きで御座いました。母は私の第二の母で戦死した弟は母の第一の子で私の異母弟なので御座います。こんな関係で母には第一の宝を喪ったことになるものですから、その歎きも無理はありませんでしょう。その毎月の命日には色々の供物を仏壇に供えて弟の供養に力めて幾分の心慰めとしていました。

 母は義理の子の私にもよい母ですが、小乗的善人とでも申しますか、弟の戦死後は年を経る程に忘れきれずに、私の妻には何かとつらく当たる事がつのって来ました。私もこれは何かの罪亡ぼし、御浄化であろうと思い、神を念じ、子としての勤めを実行して、御浄霊に依って浄化させて頂くよう外に道はないので観音様を念じお願いさして頂いていました。何時かは私の心も通じよう。御道の事もよく判るであろうと待ち読けました。

 有難いもので御座います、その時が遂に来ました。否その時に御導き頂きました。去る七月十六日、母は喘息の発作が起り、余りハッキリ致しませんので、教修所へ行ってお願いしてはと勧めまして二三日通っていました。ちょうど十六日の午後四時半頃、御浄霊を頂いている最中にその隣席で御浄霊さして頂いていた宮部夫人が祝詞を奏上していた時に、突然、私の母の方に向き直って「お母さんお母さん」と幾度もいって「お母さん今ここにいたでしょう」と云い、母の膝に顔を伏せて、「私です幸男です」といいました。今まで不思議な現象に驚いていた母も、これでようやく判り、戦死した幸男を思い出したのでありました。私の弟の幸男の霊が憑いて出て来たのでありました。

 幸男の霊は引続き、次の通り述べて色々と頼みました。
「お母さん、アナタは何故解って下さらないですか、お母さんは私の戦死した事を歎いていますが、私は戦死しても決して悲しくは思っていません。お母さんは私の命日には供物を仏壇に供えて頂きますが、チットモ嬉しくありません。却って苦しいばかりです、私ばかりではありません。お父さんもそのために苦しんでおられます、私はそのために天国に行けずに苦しんでいます。

 兄さん(私の事)が云われる事。伯母さんの云われる事も本当の事です。私はそれを頼もうと思って末子伯母さん(宮部夫人)によくお頼みしていたが、兄さんにだけ話して、お母さんはこの教導所には余り寄り付かないので、今日は最早待ちきれずに出て来ました」と申します。母も涙を流して判った様子でした。宮部さんは早速側から善言讃詞を上げて下さいました。決して心配はいりません、お母さんも今度は判られましたからとまた、観音様の御話をなされましたので、「ほんとに有難い有難い善言讃詞をあげて頂けば天国に行けます、本当に有難い。これで私は嬉しい嬉しい。」
 と何度も繰り返えしました。

 母もこれで救われました。云うに云えない私の家の悩みが、観音様の御力によって光明がさし初めました。私共の永い間の曇りがサット晴れて、先祖も家族の者も皆、天国に地上天国に日々近づかして頂いた事を、今更のように大先生様の御恵みにただただ涙するのみであります。この上は今までの私以上に苦しんでいる世の人を一人でも多く救わせて頂き、地上天国建設に御奉仕さして頂く事を日々新らたに誓っている次第で御ざいます。

 因みに弟の言葉で私は次の事をハッキリと教えられました。
1、霊界では実に順序が正しいこと。
2、執着の想念で供物をしても、決して気持よく届かないで却って苦しめること。
3、霊界の祖先の苦しみが、現界の子孫の私共に苦しみとなって現われること。
4、現界も霊界も連続していること。