平成25年11月度 ミニ講座

順序を過る勿れ (信  昭和二十四年一月二十五日)

 昔から「神は順序なり」という言葉があるが、之は凡てに渉って
重要事であり、心得おくべき事
である。先づ森羅万象の動きを観れ
ば分るが、総て順序正しく運行されてゐる。四季にしても、冬から
春となり、夏となり、秋となるといふように、梅が咲き、桜が咲
き、藤が咲き、菖蒲が咲くというように、年々歳々不順序(クルイ)なく
生成化育が営まれる、斯様に大自然は順序を教えてゐる。もし人間
が順序の何たるを知らず、順序に無関心である結果は、物事が円滑
にゆかない、故障が起り勝ちで混乱に陥り易い
のである。処が今日
迄殆んどの人間は順序を重要視しないが、之を教えるものもないか
ら無理もなかった。私は一般が知っておかねばならない順序の概略
をかいてみる。


 先づ順序に就て知りおくべき事は、現界の凡ゆる事象は霊界から
の移写
であると共に、現界の事象も亦霊界へ反映するのである。そ
うして
順序とは道であり、法であるから、順序を紊すといふ事は道
に外れ、法に悖(モト)り、礼節に叶わない事になる
。仏語に道法礼節と
いう言葉があるが、此事を謂うたものであろう。


 先づ人間が日常生活を営む上にも、守るべき順序があって、家族
の行動に就ても自ら差別がある。例へば部屋に座る場合、部屋の上
位は床の間であり、床のない部屋は入口から最も離れたる所が上座

である。上座に近き所に父が座し、次に母が、次に長男が、長女
が、次男が、次女がというように座るのが法であって、斯うすれば
談話も円満にゆくのである。如何に民主々義でも法に外れてはうま
くゆく筈がない。


例えば、茲に一人づゝしか渡れない橋があるとする。それを数人が
一度に渡ろうとすれば混乱が起り、川へ転落する。どうしても一人
宛(ヅツ)、順々に渡らなければならない、そこに順序の必要が生れ
る。又客が来るとする。客と主人との間柄が初対面の場合と、友
人、知人の場合と、上役や部下の場合、座るべき椅子も座席も自ら
順序がある。挨拶等も其の場に適切であり、相手によって差別があ
るから、それに注意すれば凡て円満にゆき、不快を与えるやうな事
はない。又女性、老人、小児等にしても、態度談話にそれぞれ差別
がある。
要は出来るだけ相手に好感を与える事を本位とすべきであ
る。


 次に、子女や使用人を二階三階に寝かせ、主人夫婦は階下に寝る
という家庭
があるが、之等も誤ってをり、斯ういう家庭は子女や使
用人は言う事を聞かなくなる
ものである。又妻女が上座に寝、主人
が下座に寝る時は、妻女が柔順でなくなる
。其他神仏を祭る場合、
階下に祭り、人間が二階に寝る時は、神仏の地位が人間以下になる
から、神仏は加護の力の発揮が出来ないばかりか、反って神仏に御
無礼になるから、祭らない方が可い
位である。仏壇の如きもそうで
ある。祖先より子孫が上になる事は非常な無礼になる。何となれば
之等は現界の事象が霊界に映り、霊界と現界との調和が破れるから

である。

 此の理は国家社会にも当嵌るが、最も重大な事は産業界に於て資
本家と勤労者の闘争である。特に最も不可である事は生産管理の一
事で、これ程順序を紊す行動はあるまい。茲に一個の産業がある。
それを運営し、発展させるとすれば、総てに渉って順序が正しく行
われなければならない。


即ち社長は一切を支配し、重役は経営の枢機に参画し、技術家は専
門的技術に専念し、勤労者は自分の分野に努力を払う等、全体がピ
ラミッド型に一致団結すれば、事業は必ず繁栄するのである。然る
に生産管理はピラミッドを逆さにするのであるから、倒れるに決っ
てゐる。此の理によって資本家と勤労者と闘争するに於ては、其結
果として勤労者も倒れ、資本家も倒れるといふ事になるから実に愚
かな話である。


故にどうしても両者妥協し、順序を乱さず、和を本位として運営す
べき
で、それを外にして両者の幸福は得られる訳がないのである。
私は産業界から闘争という不快なる文字を抹殺するのが、繁栄の第
一歩であると思う。然し乍ら以前の如く資本家が勤労階級を搾取
し、利己的本位の運営が行過ぎる結果は、共産主義発生の原因とな
ったのであるが、今日は反動の反動として共産主義の方が行き過ぎ
となり、産業が萎靡し、生産が弱体化したのであるから、一日も早
く之に目覚めて、飽く迄も相互扶助の精神を発揮し新日本建設に努
力されん事を望むのである。之が私のいふ「順序を正しくせよ」と
いふ意味である。


 戦時中東条内閣の時、東条首相は社長の陣頭指揮といふ事を唱
え、又自分も先頭へ立って活躍したが、これ程の間違いはない。何
となれば、昔から事業を行う事を経綸を行うというが、
経綸とは車
を廻す事
である。即ち首脳者は車の心棒に当るので、車が良く廻る
程心棒は動かない
。又車は心棒に近い程小さく廻り、外側になる程
大きく廻り、心棒が躍る程、車の廻転の悪いのは勿論である。


 右の理によって考える時、斯ういう事になる。即ち心棒に近い処
程少数者が担当し漸次遠心的に多数者となり、最外側のタイヤに至
っては道路に接触する為過激の労働となる
事によってみても、順序
の何たるかを悟り得らるるであろう。故に、凡て主脳者たる者は、
奥の方に引込み、頭脳だけを働かせ采配を振っておれば事業は発展
するのである。




      順 序(自叢五  昭和二十四年八月三十日)

 "神は順序なり"といふ事が昔から謂はれてゐるが之は全くそうで
あると思ふ。
何事に於てもそれが滑らかに運ばないといふ原因は、
全く順序が紊れているから
で、特に人事に於てそうである。支那の
諺に「夫婦別あり、老幼序あり」といふが全く至言である。近来社
会全般の順序の乱れは甚だしい。又
順序と礼儀には切っても切れな
い関係にあるもので此点特に注意すべき
と思ふ。大自然を観ても判
るやうに、春夏秋冬も其日々々の明暗も、草木の生育等一として順
序に添はぬものはない。梅の花より桜の花の方が先に咲くといふ事
は決してない。之に就て種々の例を挙げてみよう。


 先づ神仏等に参詣に行く場合、他で用達をしてから参詣するのは
何にもならない
のである。それは用が主になり、神仏が従となるか
である。故に病気浄霊を受けに行く時などもそうである。先づ教
導所へ先に行き、他の用は後にすべきである。そうする事によって
効果の著しい
事はいふ迄もない。又よく見受ける事であるが、家を
建てる場合、子供の部屋を二階に親の居間を下に作る事がよくある
が、此様にすると子供の方が上位になるから子供は親の言ふ事を聞
かなくなる
。主人と奉公人の場合も同じであるから大いに注意すべ
きである。


 又小さい事のやうだが、部屋に座る場合も同様である。家長は上
座に座り妻は次に、長男次男次女といふやうな順序になすべきであ
る。順序よく座る事によって円満裡に和合の空気が漂ふのである。
従而反対である場合争や不快な事が起り勝ちなのは当然である。私
が幾多の経験上、集会などに列席した場合、部屋に入るや何となく
不快な空気が漂ふてゐる事がある。そうした時よく見ると、大方座
席の順序が間違ってゐる事が判る。そうして凡ての場合、上座下座
はどういふ標準で決めるかといふと、部屋の入口に近い所を下座と
なし、入口から離れてゐる程上座とみればいい。尤も床の間の前を
上座にする事は誰も知る所であるから、床の間と入口の位置をよく
見て、常識的に判断すればいいであらう。

 又左右は左が霊で上位であり、右は体であるから下位である。人
間が右手を多く使用するのは体であるからである。




    現代文化とは   (医革  昭和二十八年)

 之迄説いた事によって略々分ったであらうが、要するに医学誤謬
の根本は、自然を無視した処にある
。といふのは病気といふもの
は、曩にかいた如く
体内機能の邪魔物である毒素を、病気といふ形
によって排除する自然作用であって、そのやうに神が造られた
もの
である以上、
人間はそれに従ふのが本当である。此例としては、彼
の風雨や雷火である。之は空気界及び霊気界に汚穢が溜り、之が濃
厚となると、毒素が発生し、人蓄其他に害を及ぼすので、浄化作用
が発生する。即ち風で吹き払ひ、雨水で洗ひ、天日で乾かし、特殊
なものは雷火で焼尽する。之を小さくしたものが人間の病気である
から、此理を知ったなら
病気を止める事が、如何に反自然であるか
が分る
であらう。

 茲で病気と科学の関係に就ての誤りに就いて詳しくかかねばなら
ないが、元来科学の役目は人間生存上人間の意欲を満たすべく、よ
り便利に、より美しく智能を豊富にし、幸福を増進する為の学問

あって、その分野は自ら定められてゐる。それは形而下的学問であ
るに対し、
人間の生命は形而上的の存在であって、科学の分野には
属してゐない
のである。即ち科学は唯物的分野であり、人間生命は
唯心的分野であるのが真理
である。然るに近代に至って科学の驚く
べき発達によって、人間はそれに幻惑され、科学を以てすれば如何
なるものでも解決出来るとする科学過信に陥って了った
のである。

それが為己れの分野を逸脱し、唯心分野の領域に侵入したので、そ
の結果人間生命をも自由にして了った。此下剋上的考え方が医学を
生んだ
のであるから、根本的に誤ってゐるのは今更言う迄もないの
である。


 以上の如く人間生命は、唯心分野にあり、唯心分野を握ってゐる
のが神
であるから、私が行う治病の素晴しい力も神から発現する以
上、如何なる病気も治るのは当然であって、敢て不思議はない
ので
ある。処が現代人は之を見て不思議と思ひ、奇蹟としてゐるのは実
は嗤ふべき
であって、逆さになって見れば真直なものが逆さになっ
てゐるのと同様である。という訳で私が行ふ神霊治病方法は、見た
事も聞いた事もない破天荒的であるから、容易に受け入れる事は出
来ないので、一時は戸惑ひするが、併し根本から判るに従ひ俄然と
して、長夜の夢が醒め、医学の迷蒙も分り、茲に安心立命者となる
のである。従って
此著を読んでも、尚躊躇逡巡目覚めないとした
ら、その人は滅びの淵に臨んでゐる危険極まる人と言ってもいい

あらう。




   信仰の自由   (『栄光』121号、昭和26(1951)年9月12日)

 宗教が異う為に、救われる機会に恵まれ乍ら救われなかったりす
る例がよくある
。というのは宗教によっては、他宗に触れるのを非
常に嫌いそれが大きい罪悪のようになっている
からである。之は全
く其宗教に力のない事を表白している證拠
で、言い換えれば信仰の
自由を拘束する一種の信仰封建
である。というのは本当に立派な宗
教ならば、他の如何なる宗教へ触れても、迷いの生ずる懸念などあ
り得ないから、安心な訳である。だから
私はどんな宗教でも触れて
いいばかりか、寧ろ大いに研究される事を希望する
のである。その
結果若し本教以上立派なものがあったら結構だから、其信仰へ自由
に転向してもよい
。何となればより良い宗教程救われる可能性が多
いからであって、
其行為は正しい訳で、正神ならば決して御尤めな
どある筈はない
のである。

 処が世の中には他宗に転向すると、罰が当って病気や災難が来る
とか、酷いのになると一家没落するなどと言って嚇かす
が、斯うい
う宗教こそ邪教
である。元来
正神の御心は公平であり人間には選択
の自由を与えられておるので、
正しい意味による改宗なれば、神様
は御喜びにこそなれ、御尤めなど決してない
のである。例えば茲に
一人の妻女があり、其婦人は才色兼備にして申分なく、自分も自分
以上の女性は天下にないという自信があるから、仮令夫が何処へ行
っても、どんな女に接近しても、一向心配はない筈である。世間に
女は大勢あっても、自分程の者は二人とないと安心している、とい
うのと同様の意味である。


 処がそういう宗教は、恐らく世界に一つもないといってよかろ
う。としたらそれだけでも本教の価値は分るであろう。では何故本
教がそれ程の確信があるかというと、実は
キリストや釈尊はじめ多
くの聖者達は、最後に本教が出て万人を救うという事が判っている

からで、その事を予言迄された位である。としたら今迄その信者達
も、それに気がつきそうなものだが、未だ時期が来ないとみえて、
そうはならないのは遺憾である。処がまだ始末の悪い事がある。そ
れはキリスト教で言う本当の救世主が現われる前に、偽救世主が出
るから注意せよとしている。それが為仮令本当の救世主が出たとし
ても、無批判的に偽者と断定して了う其危険さである。成程今迄に
世界中偽救世主は幾人も出た例はあるにはあるので仕方があるまい
が、困った話である。


今之等に就て、次に載せる報告はよくそれを物語っているから、誰
でも今後斯ういう事に出ッ喰わした場合、よく説明すれば分ると思
うが、事実本教に救われて有難いから、直に転向しようとしても、
躊躇するが、霊界に於ては大宗教の教祖なら大いに満足なさるに違
いないから、それを知らせるのが肝要である。
何れは世界の凡ゆる
宗教の信者は、ドシドシ本教へ転向して来る時節が来る
であろう。
というのは各宗教々祖は霊界に於て、自分の信者を救って貰いたい
為に、本教へ入信さすべく、大努力を振うからである。




     キリスト教徒なるが故に         
            
『栄光』121号、昭和26(1951)年9月12日発行
         長崎県西彼杵郡長與村  光宝大教会 田中フヂエ(42)
 この御報告を書かせて戴くにつきましては非常な勇気が必要でご
ざいました、幾度か躊躇致しました、それもただ拙文乱筆の故で御
座いました、しかし身に余る神様の御守護の深さに思い致します
と、そのおかげの一端でも是非御報告申し上げさせて戴かねばと、
焦る心をおさえつつ、もし御無礼申し上げるような事があってはと
おそるおそる筆をとらせて戴きましたが、繁雑になり、乱れ勝なる
筆先を深くおわび申し上げさせて戴きます。


 話は核心を外れておかげ話とは、およそ縁が遠いかもしれませ
ん、まず私の生い立ちから申しますと、私はある寒村の掟厳しいカ
トリック旧教の上流の家庭の五女として生を享けました、ところが
父は、私が七歳の時、五島航路の船が沈没した折水死致しました
為、母の手一つで成長した訳で御座います、ところが生来無信仰な
は、長ずるに従って増々その度を深める親不幸な子でございまし
た、それ故に頑迷固随なる母を如何程なやました事でございましょ
う、今となってみれば、思い出しただけでも胸をかきむしられるよ
うな苦しさを感じます。老母の顔に深く刻まれた発条かの皺は、恐
らく私が付けたに相違ありません、一体にキリスト教の家庭では仮
に一人の異端者を出した場合には、その責任によって両親の霊は救
われないと固く信じている様子
でございました、イエス・キリスト
がそのような事を言われたのではない事は確実でございますが、い
つの頃からか誰かが言い出した事と存じます。これを頭から信じこ
んでいる母は、これは一大事、是が非でもキリスト教に入信させな
くてはならぬと、遥々やって来ては、キリスト教信仰に入るよう
に、執拗に奨めました、勿論キリスト教以外の宗教は皆迷信邪教と
信じていた位頑固な母
でございました、私はその都度、捕え所のな
い「ウナギ」のように、ぬるぬると逃口上を見付けては話を外し
て、成るべく触れないようにつとめました、しかし、私がすねれば
すねる程、繁しくやって来ては、同じ話を繰り返えされるので、本
当に親ながら有難迷惑と思う位でした。


 それに母性愛という、いかめしい伝統の絆をもっておしつけられ
ますのでほとほと困りました、さあ又始まったと思う瞬間にたくみ
に話の方向を変えたり、話題を外すのがせい一杯
で、弁解も何もあ
ったものではありませんでした、そのように
無神論にかけては頑固
一徹の私も、病弱で十六年間の心臓脚気で背柱注射五本打ち、治ら
ぬ内胃潰瘍となり血を吐き、二回迄遺言するという状態を、光明如
来様にお救い戴き
、自分ながらあっ気ないと思う位するすると、お
道に入れて戴きました、ただ神様が、憐れと思召されて、救い上げ
て下さったと思う外ございません、とにかく
よく分って見れば、じ
っとしていられません
、遂に母も霊肉一体の御救いに御縁あらしめ
たい一念から『栄光』新聞、『地上天国』、等々を読ませて戴き、
頑固な母に向って、まず
新しい正しい宗教観から話しをさせて戴き
ました
、母は、キリスト教信者だけに、話も意外に分りが早いよう
に見えましたが、色々と理屈っぽく反問され、しかもそれが、明ら
かに反対の為の反対に汲々として、何とかして、自己の宗教を弁護
する事にほうほうの態
でございました、私も可哀相な母の為に、あ
かずたゆまず、おもむろに明主様の御教理を説かせて戴きました。


 ところが母は、私の言う事が真実とわかればわかる程、頑になっ
て、自己の宗教の殻にたてこもり、心の動きを、表情にすら表わさ
ない為に、努力致しておりました
、恐らくキリスト教徒の母にして
みれば、私の話には一向耳を傾けず、頭から邪教に迷う娘の私を救
わんものと、逆の努力をしていたよう
で御座居ます、何しろ背信の
罪の絆にしばられ、身動きならぬ母の立場に、却って可哀相にも思
えて参りました、殊に年老いた母を正しい事ではありながら余り無
理に入信を勧めるべきでもないと考え、ただ私に対して信仰の自由
を赦して貰いたい、安心して貰いたいと願うのみで御座居ました、
遂にその時は来ました、ある日の事、母は遂に私に御浄霊をたのみ
ました、あの頑固一徹の母が、嗚呼! 明主様有難うございまし
た、有難うございました、
今日迄母の来る度に、何卒母の頑な気持
が折れますようにと神様におすがり致しておりました
、その願が叶
えられたのでございます、自分の病が癒されたよろこびにまして嬉
しゅうございました
、それより間もなく、長崎の妹の夫が、「母か
ら行ってお願いすれば、どんな病気でも治るから」と勧められたと
申して、自分の神経痛を治して戴きに参りました、勿論おかげ戴
き、工合よくならせて戴きました。


 母はメシヤ教に、心から感謝しておりました、しかしいかに讃美
しようとも、絶対に入信する勇気はありませんでした、一つには、

キリスト信者同士の世間体を思い、厳しき宗門の掟にしばられ、身
動きならず、正しい事、良い事――正しい宗教――霊肉共に救われ
る宗教とわかっていながら、それを蹴って起ち上る勇気のない母で
した
、ある時は、救世教を認めたその事だけでも背神の罪に日夜戦
いているような潜在意識に苦しんでいたように見えました、私は再
び悶着致しました、この御道が救われる唯一のお道でありながら、
年老いたる母をこれ以上心苦しさを抱かせるには忍びないという、
人間的な気持も手伝って、遂に私は母に申しました、「お母様に是
非入信せよとは申しません、ただメシヤ教は正しい宗教だと分って
もらえばよいのです、私がお道の為にすすませて戴くのを安心して
見守ってもらえばよいのです」
と、それから静かな幾月か流れまし
た、心からメシヤ教を礼讃してくれる母は、私に「救霊の御神業に
しっかりお手伝いなさい」
と時折り励ましてくれていましたその母
の足が、しばらく遠くなったようだと気がかりになっていた矢先
「ハハキトク」の報に接し取るものも取りあえず母の許に馳けつけ
ました。


 枕許に坐れば、未だ幾分心残りがあると見え、かぼそき声で、
「お前の事は心配いらないねー」と本当におまかせしきった嬉しい
言葉を残してくれました、ただクリスチャンなるが故に、母は一抹
の心苦しさを胸に秘めていたのではないでしょぅか、私はそれを思
うと胸が一ぱいになりました、しかしわざと元気に、「ああ心配い
りませんとも、母と子と、たとえ登る道は違うとも山の頂上にあえ
ぎあえぎ登り着いた時は一緒じゃないの、安心して、心安らかに天
国にいらっしゃいませ」
となぐさめ、慰めの言葉をかければ、いと
もおだやかに微笑を浮べつつ、眠るがごとく最後の息を引取りまし
た、私は悲しみの涙にもまして嬉し涙のこみ上げて来るのを禁じ得
ませんでした、私は母が籍は異教徒にありながら、神様の自由無碍
の御力によって、天国へ救われたのをありありと見せて戴きまし
、明主様まことに有難うございました。


 キリスト教信者なるが故に厳しい宗門の掟にしばられ、自己を偽
瞞せねばならなかった母の心境――これはただ私の母一人の問題で
はない
と存じます、法滅尽の世、世の終りに、既成宗教の信徒の
方々が必ず一度はぶつかる大問題
であり、又そのような方々を母に
もつ、姉にもつ方々の経験せねばならない事だろうと存じます。

 明主様、何卒信ずる事うすき母の霊を御救い賜りますよう御願い
申し上げます。