平成25年10月度 ミニ講座

活字の浄霊   (栄百八十四号  昭和二十七年十一月二十六日)

 此題を見たら一寸見当が附くまいが、左に説く処を読んでみれば
成程と合点がゆくであろう。それは
私のかいた文章を読む事によっ
て、目から浄霊を受ける
のである。ではどういう訳かというと凡て
文章を通じてかく人の想念が其儘映るものであるからで、此点充
分知らねばならない
のである。之を霊的にみれば、つまりかく人の
霊が活字を通して読む人の霊に通ずるので、此意味に於て私がかく
文章は神意其儘であるから、其人の霊は浄まる
のである。

 此様に読書というものは、読者の魂を善くも悪くもするものであ
るから、作家の人格が如何に大きな影響を及ぼすかは勿論である。
従って仮令小説のようなものでも、新聞記事でも同様で、此点作家
もジャーナリストも、大いに考えて貰いたいのである。といっても
固苦しい御説教が可いという訳ではない。勿論興味津々たるもので
なくては、好んで読まれないから役に立たない訳で、面白くて読ま
ずに居られないと、いうような魅力が肝腎であるのはいう迄もな
い。


 処が近頃の文学などをみても、売らん哉主義のものが殆んどで、単
なる興味本位で評判になり、本も売れ、映画にもなるというような
点のみ狙っているとしか思われないものが多く、読み終って何にも
残らないという活字の羅列にすぎないのである。斯ういう作者は小
説家ではない、小説屋だ。人間でいえば骨のないようなもので、一
時は評判になっても、いつかは消えて了うのは誰も知る通りであ
る。


 そうして現在の社会を通観する時、社会的欠陥の多い事は驚く位で
あるから、其欠陥をテーマの基本にすれば取材はいくらでもある。
私は映画が好きでよく観るが、偶々そういう映画に出遭った時、興
味津々たると共に何かしら知己を得たような気がして嬉しいので、
其作者やプロデューサーに頭を下げたくなるのである。而もそうい
う作は必ず評判になって、世間からも認められ、本屋や映画会社も
儲かるから一挙両得である。以上思いついたままかいてみたのであ
る。




   運命は自由に作られる            
              
(地四十一号  昭和二十七年十月二十五日)

 之から運命に就てかいてみるが、茲で知っておかねばならない事
は、世人はよく
宿命運命とを同一にしている事である。然し之は
全然違うのでそれをかいてみるが、
宿命とは生れ乍らに決ったもの
であるが、運命の方は人間次第でどうにでもなるもので、此点を知
らなくてはならない
のである。誰でもそうだが、いくらあゝした
い、斯うなりたいと思っても、仲々思うようにゆかないのが、前記
の如く人各々の宿命という枠で決められているからで、それから抜
け出る事は無論出来ないようになっている。従って人間は自分の有
って生れた宿命の限度をハッキリ知る事が肝腎
であるが、実は之が
仲々難しいので、寧ろ不可能といってもいゝ位である。


 此限度が分らない為、自分の力以上の計画を立てたり、身の程知
らずの望みを起したりするので失敗する
のである。処が其場合でも
早い内に気が附き、一旦陣を引いて出直せば苦しみも軽くて済む
が、
宿命の限度が分っていないから、無理に押通そうとするので失
敗を大きくする
のである。又世の中を甘く見すぎた為であった事も
勿論である。そんな訳で盛返そうとしては失敗し、出直そうとして
は腰を折られ、散々な目に遭ってやっと目が醒める人が大部分であ
る。然しまだ目が覚めればいゝが、中には不幸のドン底に陥った
まゝ死ぬまで目の醒めない人も大いにあるが可哀相なものである。
以上は信仰のない人の運命をかいたのであるが、そこへゆくと信仰
者は別である。


 それに就ては霊の方面から説かねばならないが、つまり一切の苦
しみは浄化作用
である。浄化作用といえば病気だけのように思う
かも知れないが、決してそうではない。
凡ての悩み苦しみの因は悉
く浄化作用
である。例えば人に瞞され損をする、火事で焼ける、怪
我や泥棒、家族の不幸、商売上の損や失敗、金の苦しみ、夫婦喧
嘩、親子兄弟の仲違い、親戚知人との争いなど何も彼も浄化作用

ある。此様に普通
浄化作用といえば苦しみで曇りを除るより方法は
ないから、曇りがあるだけは免れる事は出来ない
ので、曇りを減ら
すのが開運の絶対的条件
である。つまり或程度魂が浄まれば、浄化
の必要がないから不幸が幸福に変る
事になる。之が真理であるか
ら、運は寝て待てではなく、
運は浄めて待てというのが本当であ
る。


 処が前記のように苦しまないで魂が浄まる其方法が信仰であるか
ら、無信仰者に幸福は絶対ない訳である。併し信仰にも色色あるか
ら、立派な力のある信仰でなくては、真の幸福は得られない。そこ
へゆくと我メシヤ教こそ右の条件に叶う宗教である事を知らねばな
らない。




   行詰り       (栄百八十号  昭和二十七年十月二十九日)

 世の中の人ばかりじゃない、信者でもそうだが、よく行詰りとい
う言葉を発するが、之は物の真相を弁えないからで、何事も行詰り
があるから発展する
ので、つまり行詰りじゃない訳で、恰度駈出し
すぎては息が続かないから一休みするのと同じ訳で謂わば
であ
る。之は竹を見ても分る通り、伸びては節が出来、伸びては節が出
来るから丈夫に育つ
ので、伸びるばかりで節がなければ、アノ強靭
な竹とはならないのである。従って節の少ない竹程弱く、節の多い
程強いのはそういう訳である。此様に凡ては自然が教えているか
ら、何事も大自然をよく見つめれば物事は大抵判る筈である。


 右は自然の行詰りに就てかいたのだが、困る事には人為的に、行
詰らせる人も、少なくないので、之こそ叡智が足りない為で斯うす
れば斯うなるという先の見通しがつかないからである。斯ういう人
こそ壁に突当って二進も三進もゆかなくなるのであるから、之を読
んだらよく心の奥に蔵っておき、行詰った際、振向いてよく考えて
みれば分る
筈である。それによって何処かしら間違っている点に気
がつけばいゝので、
人間は普段から精々智慧を磨いておくべきでそ
れには出来るだけ御神書を拝読すべき
である。



   之も慢心     (栄百二十一号  昭和二十六年九月十二日)

 よく信仰に熱中の余り自分の属している教会の会長始め、役員等
の行り方が面白くないとか何とか非難して、それを改革しようと忠
告したりしても、それが容れられない場合、非常に気を揉む人も
時々あるようだから、之に就いてかいてみよう。


 右のような考え方は、全く誠から出たのであるから、悪いとはい
わないが、大いに考慮を要する点がある、というのは其考え方は小
乗信仰であるからである、
本教はいつもいう通り大乗信仰であるか
ら、世間並の考えとは大変違っている。
其点が認識出来ないと、神
様の思召に適わない
事になる、何よりも彼の人は善人だとか、悪だ
とかいうのは、已に慢心である
、何となれば人間の善悪は神様でな
くては判らない筈で、以前もかいた事があったが、大いに慎まなく
てはならない。


 若し間違ったり、悪人であれば、神様がチャンとお裁きになられ
るから少しも心配はない
のである、だから
人間が心配や取越苦労な
どするのは、神様の御力を信じていないからという事になる
ではな
いか、其證拠には今迄間違った信仰の為に、神様から裁かれ、人に
よっては命迄失った事実は沢山あり、古い信者は幾度も経験してい
るであろう、だから
人の善悪を批判する前に、先ず自分の腹の中の
善悪を見る事
である。

 そうして本教信者となる位の人には、先ず悪い心の人などありよ
う訳がない、みんな誠の人ばかりである事はよく判っている。只

に誠といっても大きい小さいがあるから、気をつけなくてはいけな
、私が常にいう小乗の善は、大乗の悪であるという意味である、
如何に善でも誠でも、小乗の考え方では、結果は悪になるのであ
る、本教は世界全人類を救うという此世創って以来の大きな仕事で
あるから、本教内部の事などは神様に御委せしておけばよい、何よ
りも社会否世界を相手として、考えるべきである、早くいえば眼を
内へ向けないで、外へ向ける事
である。


 今一つ曰いたい事は、神様の御経綸は、実に深いもので、到底人
間の眼や頭脳で、判りよう筈がない
のである、大本教の御筆先に斯
ういう文字がある『
神の奥には奥がある、その又奥の奥の仕組であ
るから、人民には分りよう筈がないぞよ、神界の事は分らんと思う
人民は、判ったのであるぞよ
』とか、『そんな人民に判るようなチ
ョロコイ仕組で、三千世界の立替が出来ると思うかと申すのである
ぞよ
』此御言葉は実に簡単にして、よく言い表わしていると思う。



   御任せする   (栄百三十二号  昭和二十六年十一月二十八日)

 私はいつも御任せせよと言う事を教えているがつまり神様にお任
せし切って、何事があってもクヨクヨ心配しない事
である。という
と実に雑作もない訳なく出来そうな話だが、ドッコイ仲々そうはゆ
かないものである。私でさえ其境地になった時、随分御任せすべく
骨を折るが、兎もすれば心配という奴、ニョキニョキ頭を擡(モタ)げて
くる
。というような訳で而も今日のような悪い世の中では、殆んど
不可能といってもいい位である。併し乍ら神様を知っている人は大
いに異う。というのは先ず心配事があった時、それに早く気が付く
以上、ズット楽になるからいいようなものの、茲に誰も気が付かな
い処に重要な点があるから、それをかいてみよう。


 というのは之を霊の面から解釈してみると、それは心配するとい
う想念そのものが、一種の執着
である。つまり心配執着である。処
此心配執着なるものが曲者であって何事にも悪影響を与えるもの
である。だが普通執着とさえいえば、出世をしたい、金が欲しい、
贅沢がしたい、何でも思うようになりたいという希望的執着と、そ
の半面彼奴は怪しからん太い奴だ実に憎い、酷い目に遭わしてやり
たい、などという質の悪い執着等であるが、私の言いたいのはそん
な分り切った執着ではなく、殆んど誰も気が付かない処のそれであ
る。では一体それはどんなものかというと、現在の
心配や取越苦
労、過越苦労等の執着
である。それらに対し信者の場合、神様の方
で御守護下されようとしても、右の執着観念が霊的に邪魔する事に
なり、強ければ強い程御守護が薄くなるので、其為思うようにゆか
ない
という訳である。此例としても人間が斯ういうものが欲しいと
荐りに望む時には決して手には入らないものであって、もう駄目だ
と諦めて了った頃、ヒョッコリ入ってくるのは誰も経験する処であ
ろう。又斯うなりたいとか、アアしたいとか思う時は、実現しそう
で実現しないが、忘れ果てた頃突如として思い通りになるものであ
る。浄霊の場合もそうであって、此病人は是非治してやりたいと思
う程治りが悪いが、そんな事は念頭にをかず、只漫然と浄霊する場
合や、治るか治らないか分らないが、マァー行ってみようと思うよ
うな病人は、案外容易に治るものである。


 又重病人などで家族や近しい人達が、みんな揃って治してやりた
いと一心になっているのに、反って治りそうで治らず、遂に死ぬ事
が往々ある。そうかと思うと、其反対に本人は生死など眼中にをか
ず、近親者も余り心配しない様な病人は、案外スラスラ治るもので
ある。処で斯ういう事もある。本人も助かりたいと強く思い、近親
者も是非助けたいと思っているのに、病状益々悪化し、もう駄目だ
と諦めて了うとそれからズンズン快くなって助かるという事もよく
ある。面白いのは俺は之しきの病気で死んで堪るものか、俺の精神
力でも治してみせると頑張っているような人は大抵死ぬもので、之
等も生の執着が大いに原因しているのである。


 右の如く種々の例によってみても、執着の如何に恐ろしいかが分
るであろう。従ってもう迚も助からないというような病人には、先
ず見込がない事を暗示し、其代り霊界へ往って必ず救われるように
お願いするからと、納得のゆくようよく言い聞かせてやり、家族の
者にも其意味を告げ浄霊をすると、それから好調に向うものであ
る。又之は別の話だが、男女関係もそういう事がよくある。一方が
余り熱烈になると相手の方は嫌気がさすというように、寔に皮肉極
まるが、之も執着が相手の心を冷すからである。此様に世の中の事
の多くは、寔に皮肉に出来ている
もので、実に厄介な様でもあり、
面白くもあるものである。右によっても分る如く、
物事が巧くゆか
ない原因には、執着が大部分を占めている
事を知らねばならない。
私がよくいう逆効果を狙えというのもその意味で、つまり皮肉の皮
肉であって之が実は真理である。




   毒素とは何か       (医革  昭和二十八年)

 病気の原因は体内に溜った薬毒の固結が、溶解排除される苦痛
ある事と、医学は其苦痛を逆解し、溶けやうとする毒素を固める
であるが、それには毒を体内に入れて弱らす事である。といふのは

毒素排除即ち浄化作用なるものは、人間が健康であればある程旺盛
なものであるからである。そこで浄化作用を停止する事で、それに
は健康を弱らす事である。その理を知らない人間は、昔からその毒
を探し求め飲ませた処、躰が弱り、浄化が弱り、苦痛が軽減したの
でそれで治ると思ひ、有難いものとして薬と名付け、病気の場合之
を唯一のものとして用ひたのである。之に就いて有名な漢方の名医
杉田玄白の曰った事は、"薬は毒である。治病に薬を飲ませるのは、
毒を以て毒を制するのだ
"との言葉は至言である。只些か徹底しない
点は、毒を以て毒を出さないやうにするといった方が尚ハッキリす
る。此理によって毒の排除を止めるに毒を以てする以上、古い毒素
の上に新しい毒素を追加するので、古い毒の固りの外に新しい毒の
固りが増えるから、最初より浄化が悪性となる
。それに対し又新し
い毒を入れるから、段々毒が増えてゆき、躰は弱る上に弱るので、
浄化の力も弱くなる。斯うなった人は顔色悪く、風邪引き易く、元
気なく、常に医者と薬に浸りきりになり、生ける屍の如くなって、
年が年中苦しみ通しであって、一人前の仕事など到底出来ない哀れ
な者である。而もそうなってもその原因が分らないから、相変らず
次から次へ医師を取換へ、新薬を探し求め、灸や禁厭、民間療法、
信仰等に遍歴してゐるが、それでも根本が分らない為、散々金を使
った揚句、苦しみ乍ら彼の世行となるので、
此因はといえば医学の
誤りであるから、此罪悪こそ驚くべく恐るべきもの
で、結果からい
へば
医学は悲劇の製造元であるといってもいい。

 此様に私は思ひ切って赤裸々にかいたが、之を読んだ医学関係者
は何と思うであらう。中には憤慨する者もあるであらうが、全人類
救済上止む事を得ないので、
小の虫を殺して大の虫を助ける訳であ
って、之こそ神の大愛
によるのであるから、寧ろその恩恵に感謝す
べきである。その結果
病なき人間が増へるとしたら、此世界はどう
なるであらうか。今迄の地獄世界は一転して、
地上天国、極楽世界
となる
のは必然で、想像するだに歓喜幸福の希望が湧くであらう。



 (お陰話)
  一家死滅の肺結核より〔危うく〕    
            救われし喜び


             『結核の革命的療法』昭和26(1951)年8月15日発行
             『結核信仰療法』昭和27(1952)年12月1日発行
       大分県北海郡大在村字下志村  南光中教会 房前圭正(22)

 一家三人肺結核に冒され、筆舌に尽せぬ病苦と貧苦に悲観の極に
喘いで居ましたが、尊き御霊徳に依りまして死滅を救われ、輝く光
明一家に更生致しました喜びを、御礼かたがた御報告させて頂きま
す。


 昭和二十一年四月それまで元気で働いておりました母が、何か体
の具合が悪いからと医者に診断を受けますと、気管支炎と診断され
種々手当ても致しましたが、八月に肋膜炎を併発し、一旦は入院も
致しましたが病勢は募るばかりで、何らの効果もなく最早取返しの
付かない病気になって仕舞いました。私は母に変って家業に従事致
しておりましたが、二十三年四月体がだるく疲れるので、医師の診
断を受けましたところ、肺浸潤との事で病床に伏さねばならぬ身と
なって仕舞いました。かくする内ただ一人の働手の姉が発病、これ
も肺が悪いとの診断です。学校に通っていました妹と弟の二人を除
きまして母子三人、枕を並べて病床に伏し、一人の働手も無く、頭
痛、倦怠、咳嗽、不眠症あらゆる病苦に昼夜を分たず悩まされまし
て、日々募る病苦と貧苦に一家は悲みの極に達して仕舞いました

その間他人から聞いた良いと言う療法は何もかも致しました。薬、
注射、灸等遂に薬に見切りを付けまして、信仰も致して見ました
が、何も救ってくれるものは有りませんでした。最早この世に頼る
ものは何一つないと諦めて、ただ死を待つのみとなったのでありま
した。


 ところが忘れも致しません。昭和二十三年三月十三日母の知人が
来まして母に種々救世教の御話を聞かせて下さいました。又話だけ
では分らないからと御浄霊もして下さいました。母は大変気持が良
いから
と姉や私に勧めました。姉の方は浄霊を受けて不思議に体が
軽くなったと喜んでおりましたが、私はそんな事で病気が治るもの
かと笑っておりました。母は今まで種々迷って来たんだから、つい
でにもう一度迷ってみようと言う気持で、妹を入信させる事になり
ました。


三月十五日入信、その後母や姉を浄霊致しておりましたが、私はつ
まらない迷信に迷ってと腹が立って仕方がありませんので、毎日悪
口を言っておりました
。ところがどうした事でしょう、二日三日と
たつにつれて、何だか元気になる
ではありませんか。一週間目には
今まで病床より一歩も出た事の無かった母が散歩出来るようになり
ますし、自分の身の廻りの事も出来かねておりました姉が、炊事が
出来だしたのです。
嗚呼何と言う不思議な事でしょう。このような
奇蹟が他にありましょうか、さしも頑固に反対致しておりました私
も、この現実の御利益の前に頭を下げざるを得なくなり、その後

国の福音を拝読
致しまして、今日までの療法の誤りを知り、一生懸
命治らないように努力していた自分の愚さを、つくづく悟らせて頂
きました


その後は御浄霊に依り日に日に快復、今まで何十貫もの重荷を背負
っていたような重みが、一遍一遍の御浄霊に依りましてぐんぐん軽
くなり、散歩どころではなく起きて用事する事さえ辛かった私が、
仕事が出来るようになったのでございます。この時の喜びは何物に
も例えようがありません。知らなかったとは言いながら反対し続け
た私まで、短時日の中に御救い下さいました。大慈大悲の神様の前
にひれ伏すのみでありました。その後一年目二十四年四月、長年に
渡る薬毒の浄化で母はこの世を去りましたが、その時の死顔の良さ
何もかも安心し切って、あの世で光明如来様に救われるんだと眠る
がごとく死んで行きましたが、死の直前までもがき苦しみ、安心の
ない無信仰者に比して何と言う幸でありましょう。ここにも御霊徳
の有難さを深く深く感じさせて頂きました。


 私と姉とは御浄化の度に健康を増して参ります。もしこの御救を
頂かなかったら妹や弟達まで次々に発病致し、一家死滅の運命をた
どったでありましょう。結核一家も、御恵に依りまして輝く光明一
家に救われ、地上天国の御聖業の一端にでも御奉仕させて頂けます
事を、厚く御礼申上げます。