平成24年8月度 ミニ講座

今回は「御教え集16号  昭和27年11月25日」の学びです。
 以下掲載。
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 これは信者の人は分っている事ですが、ただ説き方を出来るだけ分り

易く書こうと思って書いたのです。

御論文 「医療とは」 (栄百八十五号  昭和二十七年十二月三日)
  


 之に就いて私は、筆に口に常に知らしているので、一応は言い

尽したように思われるが、実はまだまだ足りない気もするので茲

にかくのである。何しろ一般の人は医学迷信に陥っている

果、病に苦しんでいる人が余りに多く、到底見ておれないからで

ある。といっても長い年月のコチコチに固まった迷信であるか

ら、之を溶かすとしても容易ではない。そこで私は之でもか之で

もかという様に、凡ゆる面から説いて来たが之なら分らない訳は

ないと思う程に、本文は徹底したつもりであるから、其の気持で

読んで貰いたいのである。


 
 信者の中には標題だけでも直ぐ判る人もあろうが、併し一般の

人に分らせようとする場合、説き方の参考ともなるから、充分玩

味されたいのである。  先ず人間何かの病気に罹るや、早速御医

者さんに診て貰う。すると御医者さんは二三の服み薬を呉れると

共に、近頃は大抵注射をするからそれで一寸よくなるので、之で

治るものと思って毎日通うか、御医者さんの方から来て貰うかす

るが、実際は十人中八、九人は思うように治らないもので運よく

一時治っても暫くすると必ず再発するのは誰も知る通りである。



 勿論薬という毒で一時抑えをするだけで、本当に治ったのでは

ない事はいつもいう通りである。  右のように一時的で完全に治

らないのは、御医者さんも充分知り抜いている筈であるが、併し

分っても現代医学ではどうにもならないから、斯ういうものだと

諦めているだけであろう。そこで先ずお医者さんの肚の中を想像

してみると斯んな処であろう。病気というものは実に分らないも

のだ。だが今日迄の学者、先輩が解剖や分析、機械などで、研究

に研究を尽して作り上げた医学であるから、之を信ずるより外は

勿論ない之程進歩した医学でも治らないのだから、先ず気長に

世界の学者達が協力して、仮え僅かずつでも進歩するとすれば、

いつかは完璧な医学が出来るに違いあるまいと、只漫然と時を待

っているにすぎないのが実状であろうから、洵に心細い話であ

る。だがそれだけなら我慢出来るとしても、それ迄の間如何に多

くの病人が出来、其の苦しみは固より、生命の犠牲までを考えれ

ば考える程恐ろしい気がするのである。



 処で現在の病理であるが、病原は最初黴菌が口からか、鼻から

か、皮膚等から侵入し、繁殖する為とされているが、之は洵に単

純な考え方である。では御質ねしたいが黴菌が侵入しても病が発

生する人と、しない人とが出来るのはどういう訳であろうかであ

る。するとお医者さんは言うであろう。黴菌に負ける弱い身体だ

から発病するのだとの定り文句であろうが、事実は其の反対であ

る事が近来分って来た。それは結核は腺病質の子供は余り罹らな

いで、健康な子供の方が罹るという事実である。之だけでも医学

は丸っきり判っていないのである。右は小さい例だが、大きい例

といえば医学が益々進歩する程、病気の種類も増え何処も彼処

も病人だらけである。何よりも薬の新聞広告をみても分る通り、

デカデカな広告を出しても、割に合う程病人が多い訳である。従

って真に薬が効くものなら段段病人が減ってゆき、遂には薬の広

告主もなくなり、お医者さんは飯が食えず、病院は閉鎖する事に

ならなければならない



 処が事実は其の反対ではないか、としたら大いに考えざるを

得ないであろう。それに就いて私は長い間随分医学の盲点や、

薬害の恐ろしさをかいて来たが、若し之が間違っているとした

ら、其の道の人は大いに憤慨し凹ませに来なければならない筈だ

が、今日迄一向そんな人はないのをみると、御説御尤もとしてい

るのであろう。私と雖も宗教家であり、人類愛をモットーとして

いる以上、悪口や失業者を作るような説は言いたくないが、何と

しても記かざるを得ない程悲惨な現状と、神から命ぜられた私の

役目を思うからである。



 それから宗教で病気が治るという事は精神的に影響して治るのだ、と

いう様に今のインテリなどが考えているのですが、これが大変な間違い

で、どうしてもこの迷盲を打破しなければしようがないですからそ

れに対して分らせる様にしようと思ってます。


 外の信仰は確かにそういう事はあるかも知れないが、メシヤ教だけは

全然そういう事はないのですから、その点を大いに強調して分らせる様

にしなければいけないと思ってます。昨日かの日日新聞の宗教欄に出て

ましたが、これからは、宗教は精神的に治すし、医学は肉体的に治す、

という様に平行していくのが理想的だ、と書いてありましたが、我々か

らみると驚いてしまうのです。しかし普通常識的にみるとそう思うのも

無理はありません。


 医学は病気を肉体的に治すものだし、宗教は病気を精神的に治すもの

だ。だから肉体と精神と両方でやれば一番良いと思うのは、尤も当り前

で、誰もそう思うに違いないのですが、それが大変な間違いである

いう事はメシヤ教でなくては分らないのですが、その点を書いてみたの

です。

御論文「医学療法と信仰療法」
                (栄百八十六号  昭和二十七年十二月十日)
  

 今日医師諸君は勿論の事、インテリ階級の人達は例外なく、

仰で病気が治る事実に対し、決って左の如き解釈をする。



 大体病気というものは、病は気からといって精神作用が案外大

きいものであるから、信仰で病気を治そうとする場合、その宗教

の教師などから神仏の利益を過大に言われ、言葉巧みに必ず治る

ように思わせられるので、何しろそれ迄医療でも何の療法でも治

らないで困り抜いている際とて、まともに信じて了い、先ずそれ

だけで精神的に快方に向うので、別段神仏の利益でない事は勿論

であるという観方である。



 そんな訳だから本教の治病奇蹟がどんなに素晴しいと聞かされ

ても右のような解釈で片附けて了うのであるからやり切れない。

その度毎に吾々は憤慨を通り越して呆れるばかりである。尤もそ

う思うのも無理はないかも知れない。何故なれば今日までの信仰

療法の多くがそれであるからである。



 処が本教の病気治しは、それらとは根本的に異っている

それをこれから詳しくかいてみるが、先ず本教へ治療を乞いに来

る限りの人々は、勿論最初から疑っている。何しろ新聞雑誌は固

より、大部分の社会人殊に智識人などは、必ずと言いたい程病気

は医薬で治すものと決めているからで、今日の如く素晴しい進歩

した医学と信じ切っており、これ以外病を治すものはないと思っ

ている。しかも最近アメリカで発見の新薬もそうだが、その他

巧な機械、手術の巧緻等々によって、安心して委せている現在、

そんな新宗教の病気治しなどは問題にならないではないか、そん

なものを信用したが最後、飛んでもないことになるかも知れな

い。それこそ迷信以外の何物でもないと、色々の人から云われる

ので、それもそうだと思い、宗教治病の機会があっても逃して了

のである。処が病気の方は遠慮なく益々悪化し、遂には死の一

歩手前にまで追い詰められる結果、自分から医療に愛想をつかし

た人々は本教に縋ることになるが、そういう人は極く運のいい人

で大部分の人は医療に嵌ったまま御国替となるので、実に気の毒

なものである。



 という訳で病気は治らず、金は掛かり放題、苦痛は増すばかり

なので、煩悶、懊悩の際、たまたま本教の話を聞くが、これ程科

学が進歩した今日、そんな不思議なことがあって堪るものかとテ

ンデ話にならないが、外にどうしようもないので、では瞞される

つもりで、一度試してみよう位の肚でやって来る人が大部分で、

初めから信ずる人など殆どないといってもいい。としたら精神

作用など微塵もない。処で来てみると医学の素養など全然ない甚

だ風采あがらない先生らしい御仁が、薬も機械も使わず、身体に

も触れず、只空間に手を翳すだけなので、唖然として了い、大病

院や博士でも治らないこれ程の大病が、あんな他愛ない行り方で

治るなどとはどうしても思えない、だが折角来たので帰る訳にも

ゆかないから、マァー一度だけ試してみようとやって貰うとこれ

は又何たる不思議、忽ち病気以来嘗てない程のいい気持になり、

苦痛も軽くなるので愈々分らなくなる。しかし分っても分らない

でも、快くなりさえすりゃいいという訳で、どんな頑固な人でも

無神論者でも、一遍に頭を下げ、百八十度の転換となる。これが

殆どの人の経路である。



 以上の事実を仔細にみても、本教治療法の何処に精神的狙いが

あるであろうかである。処がそれに引替え医学の方はどうであろ

うか、寧ろ精神面からいって比べものにならないではないか。先

当局はじめ言論機関、学校教育等々、医学の進歩を旺んに強調

し、これ以上のものはないとして、病気になったら手遅れになら

ない内、一刻も早く医師に診て貰い、指示通りにせよ、それが正

しい方法で、決して外の療法などに迷ってはいけないと極力注意

する。しかも立派な大病院、有名な博士、完備せる施設、精巧な

機械、新薬等々、実に至れり尽せりで、これを見ただけでもどん

な病気でも治ると思うのは当然で、安心してお委せするのが今日

の常識である。このような訳で医学を信ずる人はあっても、疑

う人など一人もないのである。



 以上によってみても、医学に対する信頼は百パーセントである

に反し、吾々の方の信用は零よりもマイナスな位である。にも拘

わらずその結果は散々医療で治らない病人が、我方へ来るや忽ち

治って了うのであるから、その治病力の差は月とスッポンといえ

るのである。この事実を公平に言えば、現代医学こそ迷信であ

り、我医学こそ正信であると断言出来るのである。つまり医学

を信じて生命を失うか、信じないで助かるかのどちらかであ

ろうと曰ったら、恐らくこれを読んで愕然としない人はあるま

い。これは歴史的に見ても分る通り、時代の変遷は昨日の真理

も、今日の逆理となる事さえ往々あるのであるから、敢て不思議

ともいえまい。このような明らかな道理が今日まで分らなかった

のは、全く過去の亡霊に取憑かれていたからであり、それを発見

する人も出なかった為でもある。又世間こういう人がよくある。

若しそんな事で病気が治るとしたら、医者も薬も要らないではな

いかと言うのである。全くその通りで医者や薬が無くなったら、

世の中に病人はなくなると答えざるを得ないのである。以上の如

現代医学こそ、世界的迷信の最大なるものであっ

て、人類から病を無くすとしたら、何よりもこの迷信を打破する

ことこそ先決問題である。



 この頃ラジオ、雑誌、新聞などでお医者さんの意見を聞きますが、余

程我々の方に近い説を唱える人が時々あります。薬はあんまり飲むなと

か、注射は一時的であんまりやっていると反って結果に悪い影響がある

という様な事を時々聞きますが、ああいうお医者さんは、こっそりとこ

ちらの本を見ているのではないかと思います。尤もこれだけ始終言って

いれば、見る人もあるでしょうし、話を聞く人もあるでしょう。一つの

空気が出来つつある様なのです。それでやっぱり本当のものは一時誤解

されても、結局時の推移に従ってどうしても分らないわけにはいかない

のです。



 これはお医者さんの方ですが、もう一つはっきりして来たのは、近頃

新宗教というものの社会の見方が余程違って来たのです。これは新聞な

どの書き方を見ても、新聞が中々新宗教を取り上げて来たのです。新宗

教に対する色々の批判的の記事などもありますが、前とはまるっきり違

って来ました。前は大体軽蔑的な目をもって見てましたが、近頃は新宗

教というものも相当存在の意味がある。だから大いに認めなければなら

ないという様な傾向が非常にはっきりして来ました。これは大いに喜ぶ

べき事だと思ってます。それでそういった見方はやっぱりメシヤ教を中

心にしている様に思われます。そこで病気治しなども、新宗教の病気治

しとか奇蹟というものも満更良い加減なものではない。相当根拠がある

という様に見てますが、これも本当のものはどうしても埋(ウズモ)れてい

る筈はないです。そこで医学の方もジリジリと分って来るに違いないと

思ってます。



 それに対して今度の"⇒アメリカを救う"は来月あたり出来ますが、そ

うしたら新聞広告を思いきって継続的に出そうと思ってます。そうして

社会の問題にしたいと思ってます。問題にするという事は、医者

とか薬屋とかの方面が、けしからん、とんでもない事をやりやがったと

言って、憤慨したり怒ったりすればしめたものなのです。そうして問題

になれば本は売れるに決ってます。一寸違うけれども、チャタレー夫人

みたいにああなる。そうすると、この岡田という奴の説が本当とすれば

大問題だ、医学は何とかしなければならない。しかしこれが若し医学の

方の説が本当で、岡田の説が間違っているとしたら、これはけしからん

という事になりますが、処がそうなると結構なのです。そうなるとどう

医学の方は間違ってますから、こっちの方に旗が上るに決ってます。

そうすると医学の間違っているという事が早く分りますから、大変に大

きな救いの現われになります。だから出来るだけ問題になる様にしたい

のです。これは各大臣から国会議員、新聞社、病院、著名なお医者と、

そういう方面にみんな配る積りです。喧嘩と言っては変ですが、喧嘩を

吹掛ける様なやり方ですが、戦端を開くというわけです。そんな事はし

たくないが、どうしてもそうしなければ医学迷信を打破する事が出

来ないのです。



 なにしろ一口に言えば医学迷信打破運動です。今読んだ通りで

す。そうすると一番困るのは、お医者も困りますが、薬屋が困ります。

この反対運動が出るでしょう。全然商売は上ったりになるのですから。

今日でも薬の事業というものは中々大きなものです。この間一寸見まし

たが、現在日本の薬の売高は一年間に七十億とか出てました。実際はそ

れではきかないでしょう。公のがそれだけで、まだ公でない風邪の薬と

か富山の薬売りとかあります。富山の薬売りだけでも大変です。一年間

に十億とか七億とか書いてありました。紺絣の着物を着て脚絆を巻いて

黄色い声を出してやってますが、それがあんななのです。日本における

薬剤の売高というのは大変なものです。処がこっちの説を若し信ずる人

が増えるとしたら、段々薬屋の方が上ったりになりますから、この方の

反対も中々大変です。しかしそういう様な事がなかったら、こっちの目

的は達せられないのです。その点は神様がうまい工合にやられると思っ

てます。



 兎に角結局において、どうしても問題になると思います。そうすると

政府も何うしたら良いかという事になる。医学の方に旗を上げるか、そ

れともメシヤ教の方に旗を上げるか、というドン詰りまでどうしても来

なければならないのです。そうなると面白いのです。又そうならなけれ

ばいけないのです。こっちの方は実際に病気が治る処を見せるのです

が、医学の方は実際において駄目なのですから、こっちが勝つに決って

ます。そこにおいて初めて医学迷信という事が分って多くの人が救われ

という事になります。そこまでいくという事は覚悟して置かなければ

なりませんおそらく世界始って以来ない仕事です。兎に角最初

の出発点は医学の革命ですから、今迄色んな革命はありましたが、こ

れほど大きな革命はないと思います。無血革命と言いますが、無血革命

でなく無病革命です。ですから随分変った革命です。お医者や薬屋はそ

の革命の犠牲になるわけです。



 けれども大の虫を助けて小の虫を殺すので、これはどうもやむを得な

いのです。そういう点も考えて、中々大きな仕事です。しかし又一方大

の虫の方は助けられたら、これは大変な喜びですから良いのですが、な

にしろ段々そういった仕事が大きくなり、色んなそういった問題にさ

れますから、私らもその覚悟でやりますが、最初の"アメリカを救う"

という本、それから"⇒結核信仰療法"も来年の春あたりに出るでしょう

が、今度は本当に腰を据えて乗り出して戦うというわけです。その積

りで大いにやって貰いたいと思います。



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 (父の)憶 い 出 (浄 霊 )  (渋井文書より)


 近頃のご浄霊は創業当時からみると形式化し、単なる宗教行事の一環

としか思えないように感じられ、ご浄霊の原点が見失われているのでは

ないかと思われることが多々ある。



 実際に教会や布教所などで信徒の方々がご浄霊を取り次がれている場

合、お喋りに夢中になり、一体何をご浄霊しているのか判からない情景

を屡々みかける。ご浄霊を頂いて、又すぐ別な人にお願いする。丁度

ご浄霊の梯子をしている方もいる。又ご浄霊に対する言葉も、ご浄霊の

交換と言っているが、ご浄霊はお取り次ぎするので、交換するものでは

ない。又ご浄霊はその時の状況で多少の違いはあるがあくまで、ご浄霊

はお願いするもので、押付けて行うものでない



 昔この様な事があった。義母が父に「○○さんが浄化して苦しそうで

すから、ご浄霊をして差上げて下さい。」と、

 父は「本人がお願いしているのか」、「いいえ、つらそうだから」

本人からお願いする様に言いなさい」と言っていたのを憶えている。



 勿論この様な事ばかりでなく父が黙ってご浄霊をして上げている姿も

知っているが、その様な時は、大抵「なぜもっと早くお願いしないか」

と叱る割合が多かった。要は基本的なご浄霊に対するマナーを専従者が

十分に心得ていれば、その状況に応じて取り次げばよいのである。

 しかし現在は専従者も十分な浄霊マナーの指導を受けている人も少な

い。また指導出来る先生方も少なくなった。教団の上層部も若い方々が

多く、浄霊に関するマナーの認識も少ないのではないか。

 本稿はそのマナーについて述べるのではなく、父の浄霊の取次ぎの中

で珍しい出来事の一端を述べてみたい。



 この話は父の晩年、宝山莊の日常の中での出来事であった。只その状

況が、前稿「父の憶い出」(大西氏の話)と共通しているが、少し状況

が変わっているので書いてみた。

 さてその日一日の浄霊も夕方には終わり、父は居間に戻りひと休みを

していた。いつもの通り奉仕の子が義母に「お風呂が沸きました。」と

告げに来た。義母は父に風呂に入られる様に言い、父は「そうか。」と

居間で早速裸になり風呂場に向かった。

 父は風呂に行く時、部屋で裸になり越中褌一本で風呂場に行く。宝山

莊の居間から風呂場までは約20m以上ある。夏は兎角、冬の寒さの厳し

い時は廊下は寒風の吹きさらしである、それでも部屋から裸で風呂場に

行くのである。義母は「みっともないからせめて浴衣でも着て欲しい」

と言うのだが、父は「別に内輪の人達だけだから」と言って暑さ寒さに

関係なく褌一本で風呂場に行くのである。そして後から義母が下着と浴

衣を持って風呂場に行く。これが宝山莊にいる時の夕方の日課であっ

た。



 丁度この時も父は風呂場に行き、浴槽にはいったばっかりの時であ
る。


 ご神前では今日一日の浄霊も終わり、大方の信徒の方は帰られ、最後

の数名の方が帰り支度をしていた。その内の一人の女の方が突然心臓発

作を起こし倒れたのである。心筋梗塞か狭心症かはっきり覚えてない

が、意識を失い顔面蒼白になった。もちろん側にいた人はすぐ浄霊を始

めたが、既に意識を失っている。慌てて顔をたたき名を呼ぶが返事も意

識も戻らない。脈も細かくなり危険な状態となった。

「先生にお知らせして!」その声に周囲でおろおろしていた人も我にか

えり、廊下を走り、「先生は何処に居られますか」と大きな声で叫びな

がら奥に向かった。

 誰かが「先生はお風呂場です。」と答えた。
 
 しかしこの時に返事をした奉仕の子も、また奥に居る人々も何が起き

たか判らない。

 その返事に、風呂場に走って行く。

「先生大変です。○○さんが倒れて意識がありません。死にそうで

す。」

と叫んだのである。告げに来た人は一刻も早く父に浄霊を頂かなければ

死ぬのではないかと思いこみ、その切迫した声に父は吃驚して

「何、何処で倒れた!」

「ご神前です。」

 そうかと言った時は、父は既に浴槽を飛出し脱衣室にはいったが、今

風呂にはいったばかりなので、湯上がりタオルも、下着も浴衣もまだ脱

衣室に来てない。父は空の篭を一蔑して、そのまま濡れた身体をタオル

一枚横に巻き、生まれたままの姿で廊下を走ってご神前に飛び込んだ

である。その場に居た人々は一瞬吃驚して目の遣り場に困ったらしい。

 しかし父は周囲の目も気にかけず兎に角倒れている女性の体を抱きか

かえ、浄霊を始めたのである。目の遣り場に困りながらも人の生命であ

る。皆真剣に見守っていた。



 その頃になって、義母もまた宝山莊に居た人々も何かが起きたらしい

と騒然となった。すぐその事情が判り一番吃驚したのは奥の居間で風呂

の支度をしていた義母である。「裸のまま」で飛び出していったときい

て、慌てて浴衣をもって風呂場にいったが、既にご神前に飛び出してい

ったあとである。廊下は濡れた足跡が点々とついていた。義母はご神前

に向かい、真剣にご浄霊をしている父の後ろから浴衣を掛けた。そして

父がお光りをしてない姿に気付き、また部屋に戻りお光りを持ってご神

前に来たが、あまりにも真剣な姿に声をかける事も憚かられ、お光りを

持ったまま立ち竦んでいた。



 そしてすぐに浄化者の意識も戻り「楽になりました。」の声に義母は

我に返り父にお光りを差し出したが、父は気が付かずに「もう大丈夫、

少し休んでからお帰りなさい。」と言って浴衣の前を手で押さえながら

部屋に戻った。結局義母はお光りを持ったまま、父のあとから部屋には

いり部屋でお光りを手渡した。

「もう一度お風呂にはいられますか。」と聞いていたが、父は

「もういい、食事にする。」といっていた。

 そうして食事中に先程の浄化者がお礼の挨拶に来た。

「誰か一緒に家まで付いていってもらいなさい。」と言い、責任者を呼

び、同行する様に伝えた。

 そしてこの事はこれで一件落着したのである。



 これに似た様な事は幾度かあった。子供が浄化して倒れ、たまたま今

回と同様に父が風呂にはいっていたので子供を風呂場まで連れて来て、

脱衣室で父が裸のまま浄霊している姿を見た事がある。



 父は浄化者に対し、一刻も早く楽にしてあげたいその為には自分の

姿など一切気に留めてなかった。しかし、日常のご浄霊の時は、かなら

ず着物に袴を付け、真剣な姿で、しかも柔和な態度で多くの人々と接し

ていた。ただ少しでも浄化の厳しいと思う人の浄霊を取り次ぐ時は、着

物の袖が邪魔になると思うと片肌を脱ぎ浄霊を始める時もあり、その様

な場合は、姿、形、周囲を一切気にしてないのである。そうして早く

浄化者が楽になる様にと、ご浄霊をしていた。この様な態度こそが

ご浄霊の本来の姿ではなかろうか。



 またご浄霊する時間も新宿時代の様な一日、二百名近い時は一人、

2、3分が限度であったが、その後は大抵一人10分から20分位であった。

特に浄化の激しい方には一時間位の人もあったが、その様な方は別室で

取り次いでいた。当時ご浄霊を頂いていた人から次の様な話を聞いた。

「先生、私のご浄霊の時間は10分位なのに、他の方は倍の2、30分頂い

ている。不公平ではないですか」と、

「貴女はあの人と同じ様な悪い身体になりたいのか」と言われて、あや

まったという。要はその人々の身体の状態によって浄霊の時間は違って

いた。中には生死の境にある様な方には徹夜で朝まで続けていた事も知

っている。担がれ、死んでいるのかと思う様な人も時々いて、その場合

でも浄霊が終わればかならず一人で歩いて帰ってゆく様になる。その様

な状況に初めて会われた方は吃驚していたが、それが幾度も続けば当前

になり、今なら奇蹟、奇蹟と騒がれるであろうが、当時は当然のことで

あったのである。

 勿論ご浄霊は、病気治しだけではないしかし浄化で苦しんでい

る人を楽にする事も出来なくて、何で霊性を向上させ、更に因縁ま

でを解消させられる様なご浄霊が出来る筈はないと思うのである。


(注 お光りなしのご浄霊は非常の場合は許される、と聞いていた。)