平成24年4月度 ミニ講座

浄霊の場合、

 

  命に関わるような時には特に注意する

 

             (御垂示録21号  昭和二十八年六月一日)

 

 最近名古屋の新聞に出た事で、私は題だけで本文は読んでませんが、

 

やっぱり病気で医者にかからないで死んだという、時々あるような問題

 

をデカデカと取り上げていました。

 

 これから浄化が強くなるに従って心得ておかなければいけない事は、

 

なおりが早い事と、死ぬのが早い事で、そういうようになって来ます。

 

とてもなおるまいと思うのが案外なおったり、まだ大丈夫だと思ってい

 

たのがポカッと死ぬという事が出て来ます。それで邪神の方では非常な

 

あがきを始めますから、つまらない事でも問題にしようとして狙ってま

 

す。そこでなおれば黙まってへこんでしまいますし、ちょっと命に関

 

わるような事があると、それこそ"それ見た事か"というので、大い

 

に取り上げたり、問題を起こしたりしますから、その点において特

 

に注意してもらいたいと思います。


「三重県で出ました記事ですが、私は全然浄霊した事はありませんが、

 

私がしたように書いてありまして、そこは父親と兄弟二人の三人が入信

 

しておりますが、兄が入信する事になって教会に来て居ります時に、弟

 

が船に乗っており、その船が衝突して船首に居た弟は腰を打ち、皆が医

 

者に連れて行こうとしましたが、本人が頑張って家に帰りました。兄は

 

医者に酷い目にあってこちらで救われております。教師が浄霊を続け家

 

族の者も致しましたが、果々(ハカバカ)しくないという事を聞きましたの

 

で、医者に見せるように言いました。死亡後医者を呼びましたが、すぐ

 

来てくれず、他の医者に手を廻しました処、前の医者が警察の人を連れ

 

て来たそうです」


 腰を打ったくらいで、そういう事なるのはおかしいです。


「尿が全然出なくなったそうでございます。以前に尿道炎、膀胱炎で固

 

めておりますとかでございますが」


 しかし腰を打ったくらいでそんな事があるわけがありません。浄霊を

 

した人は今日来てますか。


「教師が二人で致しておりましたが、今日は参っておりません」


 そういう事があれば、今日はなおさら来なければいけません。どうい

 

うわけで死んだかという事を質問に来なければなりません。それを来な

 

いという事は解せません。そんな人は教師を止めた方がよいです。これ

 

はどういうわけで死んだのかという事を質問に来るべきではありま

 

せんか。それが何よりも肝腎な事です。今日来ないという事はどうか

 

と思います。この間も"理窟に合わない事はいけない"と、あれほど言

 

ってあるのですから、そういう時こそ"どういう訳で死んだのか"という

 

事を聞きに来るのが理窟に合っている事ではないですか。それを来ない

 

という事になると、このくらい理窟に合わない事はありません。そうい

 

う人は当分遠慮してもらう事です。そうして大いに責任を感じてもらう

 

のです。なるほど自分が悪かったという事に気がついたら御詫びに来る

 

のです。さもなければ、私としても、そんな無責任極まるような人に教

 

師として宣伝してもらうという事は困ります。その事を知ったのは何時

 

ですか。


「二十七日でございます」


 浄霊した人にいろいろ聞きましたか。


「出て来ませんので」


 呼んで聞けばよいのです。そうして今日連れて来て、私に詳しく話を

 

すべきです。これは重大問題です。あなただって、どういう訳かを聞

 

きたいでしょう。そうするとあなたも無責任です。甚だ理窟に合いませ

 

ん。やっぱり神様は、ボヤボヤした人や、とぼけたような人はキュッと

 

やられるのです。だんだん時期が進んで来るに従って神様はやかまし

 

くなって来ます。やかましくと言ったところで、べつに無理や理窟に

 

合わない事はないのです。人間の方が理窟に合わないのです。それをチ

 

ャンと戒告されるのです。なにしろだんだん医学の方はギュウギュウと

 

押しつめられるから、先方でも何とかしなければならないというので、

 

こっちの欠点とか問題になりそうな事をいろいろ狙いつめてますから、

 

なかなかウッカリしては居られないのです。どんな事があってもチャン

 

と理窟が立つように心掛けて居なければならないのです。そこは家族で

 

反対する者はなかったですか。


「ございませんでした」


 警察には誰が行ったのですか。


「医者が連れて参りました」


 それは医者にかからないで死んだら検死をしなければならないから、

 

それが当り前です。そういう規則になってます。医者が警察に知らせる

 

という事は当り前です。死ぬという事は、その前に余程重態になってま

 

したか。


「尿を全然排泄しなかったそうでございます」


 それなら直ぐに医者を呼ばないという事はないではないですか。それ

 

は甚だ間違ってます。それは問題にされるのは仕方がありません。そう

 

いう問題を起こした不注意を、問題を起こした浄霊の担任者は、一刻も

 

早く御詫びに来るのが本当です。今日はこういう会合があるのに全然出

 

て来ないという事は問題になりません。そういうのは教師を止めなさ

 

い。それが新聞に出たためにどのくらい影響するか分りませんから、自

 

分が過ちを犯して、どのくらい神様に御迷惑をかけたか分りません。そ

 

の責任を感じて一刻も早く御詫びをせずには居られないはずですが、そ

 

れを来ないという事は、それだけで全然信仰も何もありません。贋せ信

 

仰です


 又、それに対して、あなたが大いに言わなければならないが、それに

 

気がついたかどうか知らないが、まあ気がつかなかったのでしょうが、

 

気がつかないで家を出て来るという事も感心しません。この頃いろん

 

な注意を時々していますが、やっぱり御神書の読み方が足りなかっ

 

たり、私の言う事を気に止めなかったりするからです。救世教とい

 

うものがだんだん発展するに従って、世間から注目されます。大本教の

 

お筆先に"抜身の中に居るような気持でなければならんぞよ"というのが

 

ありますが、よく政治家などが"ガラス張りの中に居るような"と言いま

 

すが、ガラス張りの中に居るというよりかもう一層強めたものです。

 

身の中に居て、スキがあったら切りつけられるというくらいの気持でな

 

ければならないのです。


 やはり一つの戒告ですから、やはり神様はその人だけの注意でなく

 

て、やはりそういう見本を作って他の全部の人に知らせるという事で

 

す。ついこの間も"合理的でなくてはならない、理窟に合わなくてはい

 

けない"という事を言いましたが、それほど危ぶなくて重態であるにか

 

かわらず医者を呼ばないという事は、とんでもない事で、理窟に合わな

 

い事です。チャンと理窟に合う事をして居れば何でもなかったのです。

 

そういう事が問題になって新聞に出たりすると非常に悪影響をします。

 

神様の御神業に対するどれほどのお邪魔になるか分りません。百のよい

 

事を一朝にして覆えしてしまいます。又あれに出た事が非常に響きます。


 そういう事が入信者が増えるに対して悪影響するのが数字の上に実に

 

よく現われてます。だからそれこそ、べつに命に関わらないような病人

 

はよいですが、少し危ぶない病人は腫れ物に触るような気持で、神経過

 

敏になってやらなければならないです。いくら一生懸命にやっても、そ

 

ういう問題を起こしたら、今までの功名を抹殺して、まだもう一層余り

 

あるというくらいのものです。それで"自分はとんでもない間違いをし

 

た、一刻も早く御詫びしなければならない"というような気持があるよ

 

うな人なら、そういう問題は起こりません。そういう問題が起こるとい

 

うのも、今日も来ないというトボけた心の状態だから、そういう問題を

 

起こすという事になります。それから又渡辺さんが、こうして私が注意

 

を与えなければならないという事は、あなたが平常から下の人にチャン

 

と、そういう浄霊と医者関係に対しても注意を与え、教えるという事が

 

疎そかだったのです。それに対しての神様の戒告です。それと共に、他

 

の人の中にもそういう人があるから、これを一つの注意の資料として、

 

今渡辺さんがその道具になったという意味にもなるのです。だからそれ

 

によって渡辺さんの今の罪が、一つのよい働きをしますから、それで渡

 

辺さんは罪を消されるというわけです。だから凡てが相応の理によっ

 

て、理窟に合うという事になるのです。だから今後は、誰でも問題を起

 

こさないようにという考えで居るには違いないが、一層問題を起こさな

 

いようにする事です。


 それについて、今の話はそうでないようですが、一軒の中に反対者

 

がある場合には余程注意しなければならないのです。今まで問題を

 

起こしたのは、ほとんどそれが多かったです。医者にかかれと大いに言

 

うにもかかわらず、かからないで死んだりすると、それ見た事かと、そ

 

れを土地の新聞に投書するとか警察に投書するとかして問題が起こる事

 

が非常に多いのです。ですから一家の中に反対者があつた場合には医

 

者にかける事です。そうしておけば、間違った時にも問題が起こりま

 

せんから、是非医者にかけなければなりません。今の弟の話なども、家

 

の者は信仰にはいって居たからそうでもないが、周囲の者が言ったに違

 

いありません。


「同船して居た者が非常に騒ぎました」


 だから、やっぱりその通りにやればよいのです。腰を打ってから死ぬ

 

まではどの位でしたか。


「五日くらいでございます」


 それでは充分に医者にかける時間はあったのです。それは腰を打って

 

内出血をして、それが下に溢れて固まった所が、膀胱から尿道に行く道

 

に固まったのです。そうして浄霊する人は腰ばかりやっていたのでしょ

 

う。だから見当違いをやっていたのです。


「腰と後頭部を致したそうでございます」


それが見当違いです。


「腰が曲ったままで、見当をつけてするよりなく、横からも後からも浄

 

霊ができなかったそうでございます」


 そうすると、痛んで腰を曲げられなかったのですか。横にも寝られな

 

かったのですか。


「帯で身体をつっておりました」


 それほどなら、無論医者に行かなければならなかったのです。


「医者に見せるようにとは言いましたが」


言っただけでは駄目です。実際にかけなければ駄目です。そういうの

 

は本人の承諾もヘチマもないのです。医者を呼べばよいのです。それで

 

後本人が嫌がるのは構いません。だから何としても間違っていたので

 

す。それは医者を拒絶する場合と、拒絶してはいけない場合との区

 

別がありますそれを一緒にしてしまってはしようがないです。浄霊

 

を担当していた人は何という人ですか。


桑名支部の泰と申します」


 そこの支部長は誰ですか。


「水谷光映でございます」


 水谷という人は来てますか。


「参つて居りません」


 駄目ですね。問題が起こったのは何時からですか。


「二十七日からでございます」(中略)


 もう一つ問題があったのではありませんか。(中略)

 

 これからますます浄化が強くなりますから衰弱なども非常に早い

 

のです。そうしてまだと思うような者がポカッと死んでしまう事がだん

 

だん増えます。その代り、一方なおるのも早いです。だから大いに警戒

 

しなければいけません。三つも問題を起こすという事は大変なもので

 

す。これが一番悪いです。これが御神業に対して非常なお邪魔になりま

 

す。

 

 つまりみんな邪神に負けるのです。負けるという事は、それだ

 

けタガがゆるんでいるのです。こっちがチャンと知って居れば、邪神の

 

つけ込むスキがないのです。やっぱりこっちにスキがあるから先が打ち

 

込むのですから、抜身の中に居るつもりで居なければ、何時抜身でやら

 

れるか分りません。しかしこれは薬になります。少しタガを締めてもら

 

わなければいけません。


 どっちに転んでも間違いないというやり方で

 

 それでなにしろ御神業というものは千変万化ですから、これからはで

 

きるだけ医者にかけさせる方針にするのです。それより他にしようがあ

 

りません。医者にかかる事と問題を起こす事はどっちが悪いかという

 

と、問題を起こす方がずっと悪いので、医者にかからせた方がずっとよ

 

いのです。問題を起こさないという事が第一です。

 

 ちょっと危ぶないと思ったり思うように行かなかったら、医者にかけ

 

るか、さもなければ手を引いてしまうのです。病気がスラスラとなおっ

 

てしまうのはよいですが、どうもうまく行かないとか、スラスラと行か

 

ないのは、手を放すか医者にかけるかどっちかです。ですから和戦両様

 

の準備をしなければいけません。死んでも問題は起こらない、助かれば

 

結構だ、というどっちに行っても問題は起こらないというやり方にする

 

のです。これはあらゆる事がそうです。アメリカの立場にしても、平和

 

になっても戦争になってもどっちでもよい、というやり方をアイゼンハ

 

ウアーはやっているのです。ところがイギリスのチャーチルのようなの

 

は和平になるという考え方が非常に濃いですが、これは国が弱っている

 

から仕方がない事ではあります。どっちに転んでも間違いないという

 

やり方が一番よいのです。そういうずるいやり方が一番よいのです。

 

正直なやり方が馬鹿なのです。これからはそういうずるいやり方でやる

 

事です。ちょっと変だと思ったら、まず医者に見せるのです。注射の一

 

本や二本うっても別に大した事はないので、差し支えありません。注射

 

が悪いと言っても一時的ですから、そうしておいて後は適当に考えれば

 

それでよいのです。本人が又かかりたいと言うのなら仕方がないので、

 

そうなったら手を放すとよいです。何時も言うとおり、あせりと無理

 

がいけないのです。この病人を早くなおすと、宣伝にもなるし早く

 

開けるという考えはいけないのです。それはその人がやるのならそう

 

行きますが、そうではないので神様がやられるのですから、そういう考

 

えでうまく行く事はありません。


 神様の考えは、人間の考えとまるで違う

 

 よく"この人をなおすと、この人は交際の広い人だから早く開ける"と

 

いう事は人間の考えです。ところがそういう事で開けるという事はまず

 

ありません。かえってこの人がなおっても何になるかというような人が

 

なおって案外開けるものです。そういうようで人間の考えを抜くという

 

のはそこの所です。神様の考えは人間の考えとはまるっきり違う

 

ですから、大抵人間の考えとは逆に行くものです。ですからつまりぶつ

 

かって来たという事は、神様は"助けよ"という思召しだと考える

 

です。こんなつまらない人をなおしてもしようがないではないかという

 

ような事がありますが、それが将来案外な働きをするものです。"この

 

人はこの地方の有力者だから、是非なおそう"とするが案外駄目です。

 

そういう事が多いです。

 

 これを霊的に見ると、神様から見ると名誉のある人というのはつまら

 

ない人で、つまらないと思う人が案外よい霊です。むしろそういう人の

 

方が多いです。だからぶつかって来た人は、なおせという思召しで、フ

 

ラフラになるのは放ったらかしておけという思召しです。だから病気が

 

スラスラとなおる、又言うとおりの事をする、というのは時節が来

 

て引き寄せられたのです。それから側の人が医者にかかれかかれと言

 

うのは、医者にかかった方がよいのです。そういうのは神様が未信者を

 

使って医者にかからせるのです。神様は信者ばかりを使うのではなく

 

て、未信者も使うのです。


 左向けと言われれば

 

    左を向けるような人こそ信仰の極致

 

 今の場合に、皆が医者にかかれかかれと言うのは、神様がかからせる

 

のだと解釈するのが本当です。"あれは神様を知らないから医者にかか

 

れと言うのだ、なにくそ"と頑張るのはとんでもない事です。そしてこ

 

ういう分らず屋で、頑張っているから、目に物見せてくれようとやるの

 

ですが、そこが神様と人間の考えの違う所です。そこが大乗と小乗と

 

の違いです。だから人間、信仰の極致というのは、右向け

 

と言えば右、左向けと言われれば左を向けるような人

 

こそ信仰の極致です。それを"あいつはああいう事を言う"と頑張

 

っているのは、これはまだ本当に信仰の醍醐味まで行っていないので

 

す。ですから私は女中などが"こうした方がよい"とかいろんな事を言う

 

が、私はそのとおりに言う事をきくのです。決して人によって区別した

 

りしません。神様はつまらない者の口をかりて、その人に知らせたりす

 

る事がよくあるのです。それから又邪神が偉い人にかかって迷わせると

 

いう事もありますからそこに言うに言われないところがあります。


 自分の肚を大きく

 

     ---相手の嘘を咎めている間は駄目

 

 よく神憑りになって、狐なら狐が憑って来ますが、そうすると狐に瞞

 

まされてたまるものかと思うでしょうが、それが違うのです。狐に瞞ま

 

された方がよいのです。いろんな事を言いますから、"そうかなるほど"

 

と言っているのです。それでこれはどういうわけですかと聞くと、先は

 

ペラペラと返事をします。そうしてやっているうちに今度は狐自身がボ

 

ロを出して来ます。それで狐は謝まるのです。私はそういう事が随分あ

 

りました。瞞まされるものかと思っている時は、かえって瞞まされたり

 

怒ったりするのです。狐が全然嘘の事を言っていても、"そうですか"と

 

感心して聞いているのです。そうすると狐の方で間違ってしまうので

 

す。これは実に味わうべき事です。そうしていたら何でもありません。

 

凡てに結果がよくて円満に行きます。そこが大乗でなければならないの

 

です。ですから先が嘘をついても、それを咎める間は駄目です。なる

 

ほど、そうですか、と感心しているのです。しかし肚の中では分ってい

 

なければなりません。そこまで人間は横着と言うか、そうならなければ

 

ならないのです。


    人によって話を区別しない

 

 道具屋が来て私を甘く見て、"これはこういう物だ、これは贋せ物だ"

 

と言うから、"そう言えば全くですね"と言うが、肚の中では何を言って

 

やがるのだと思ってます。これは馬鹿野郎だな、オレがそんな事を知ら

 

ないと思って言っているがと、うわべは感心して聞いているのです。そ

 

うしているうちに、"うまい事を言う、なるほどそうだな"と教えられる

 

事があります。支那の何とか言う人は"人によって話を区別するな"と

 

いう事を言ってます。つまらない人足か、それこそ百姓などが言う事で

 

非常に教えられる事があるのです。ですから人によって区別をしないよ

 

うにする事です。何でも自分の耳にはいった事は一応気に止める

 

要はあるのです。又子供に教えられる事があります。これは経験がある

 

でしょうが、子供がとてもうまい事を言います。

 

 丁度ベルグソンの直観の哲学と同じようで、子供は本当の直観ですか

 

ら、素晴らしい事を言います。母親と子供が喧嘩をしてますが、子供の

 

言う事が本当の場合がよくあります。ですからそういうようにして凡て

 

をやっていれば、決して問題は起こらないのです。


 薬は毒だと教えられているが、

 

    医者にかかり薬をのむのは自業自得

 

 病気の場合にも家の人が反対したりする場合には、"それは結構だ、

 

全くそのとおりだ"と言って、感心していれば、その反対した人は、あ

 

の先生はなかなか分ると思います。"私の方ではお医者にかかるな薬

 

をのむなとは決して言いません。それはあなたの御随意です。しか

 

し道理はこうです。それから私は神様からこういうように教えられ

 

ている、薬は毒だと教えられている。それをあなたの方で採用する

 

しないはあなたの御随意だ"というように言うのです。それでそれに

 

感心して医者にかからないで薬をのまないとそれで結構です。しかしそ

 

れに感心しないで、医者にかかり薬をのむというのは自業自得です。

 

それを何とか説得させようと一生懸命にやるというこれが、まだごく青

 

いのです。


 心の底に誠があれば、あとは臨機応変に

 

 要するに人間、心の底に誠があればよいのです。あとはできるだけ横

 

着でよいのです。心の中心にさえ誠があって、助けてやろうという気持

 

があったら、あとはそれこそ臨機応変でよいです。それが千変万化で

 

す。ですから、よくやりますが、こういう方針、こういうやり方という

 

ように立てたらもう駄目です。つまり円転滑脱と言うか、それです。だ

 

から人間は、難かしい事ですが、アクが抜けなければいけないです。何

 

時も言うとおり、大抵な事は負けるのです。議論とか、そういういろん

 

な事は負けるという事です。これが一つの修業です先方の嘘も本

 

当に聞いてやるという、一つのつらい所ですが、そこを平気で我慢でき

 

るようになる修業です。これが本当の生きた修業です


 それで一時誤解されたり、一時は負けても、決して長く続くものでは

 

ありません。いずれは必ず先方が悔悟なり分るなりして謝まるとか、或

 

いはそれが若しか分る事になると、今度はこっちを非常に尊敬します。

 

あの人は偉い、オレが前にあんな下らない事を言ったが、それを真面目

 

に聞いてくれた。余程腹ができているに違いないと、それからは信用す

 

る事になります。

 

 今の問題を動機としてこういう話が出ましたが、私はこういう話をし

 

ようと思ったのではないので、自然に出て来たのです。しかしこういう

 

事によって大いに教えられるわけです。そこでこの失敗がよい働きをし

 

た事になり、そこでその失敗を神様の方でよい事にしてくれるわけで

 

す。そうすればその働きによって、その罪が消されるという事になりま

 

す。


 だから、信仰も、とに角大乗的に考えて行けば凡てにうまく行き

 

ます。うまく行くから発展もするというわけです。それに神様の方はな

 

かなか深いのです。それは神様の方ばかりでなく、世の中の事一切が実

 

に何とも言えない面白いものがあります。人間はそこまで分らないから

 

迷ったり苦しんだり怒ったり、見当違いな事をよいと思ってやる事にな

 

ります。大本教のお筆先に"あんな者がこんな者になり、こんな者があ

 

んな者になる仕組であるぞよ"というのがありますが、実に簡単で何と

 

も言えない味わいがある言葉です。


  神様にお任せし、一生懸命努力する

 

 ですから何時も言う事ですが、医者のために苦しんでいる人を見る

 

と、医者に対しての憤激も随分起こります。しかし医者がそういうよう

 

に病気をなおす事が下手であればあるだけ、こっちの値打があるので

 

す。だから若し医者がスラスラと病気をなおしてしまったら、それで済

 

んでしまうから宗教になど来る者はありません。そうしたらこっちの人

 

の活躍する所はありません。だからお医者の下手なのに対して大いに感

 

謝してよいです。ところがお医者に聞いてみると、医学の目的は人類か

 

ら病気を無くする事だと言ってますが、人類から病気が無くなったら、

 

お医者さんはメシが食えない事になります。そこで考えが、大乗と小乗

 

と違ってくるのです。何でも神様にお任せすればよいという事も真理な

 

のですが、やはり人間はできるだけ努力しなければなりません。神様に

 

お任せきりで努力も何もしなかったら、これもやっぱりいけません。だ

 

からそこで大局において神様にお任せし、方針はどこまでも努力し

 

一生懸命にやるという事も必要なのです。とに角そこの使い分けで

 

す。そこで経と緯の両方、大乗と小乗を使い分けるわけです。


   常に大乗の方が主で、小乗が従に

 

 大乗がよいからと言っても、小乗がなくてはならないが、ただ小乗の

 

方が主になってはいけないので、大乗の方が主になって、小乗の方が

 

従にならなければなりません。その使い分けに難かしい所があり、言

 

うに言われない面白味があります。何時も言うが、今でも時々暑いと思

 

うと寒い、寒いと思うと暑いので、一日のうちに二、三度着替える事が

 

ありますが、私はそれが一番よい陽気だと言うのです。どっちかに決め

 

たら悪い陽気だというのです。そういうようなもので、人間というもの

 

は、何でも不平に持って来るのです。それでは何事も満足するとよいか

 

というと、満足したら進歩がなくなります。そこで不平も必要になりま

 

す。要するに満足と不平が、これは相反するものだから調和はしません

 

が、しかしうまく塩梅(アンバイ)し、使い分けて進んで行くのが本当で

 

す。自動車の運転と同じようなもので、ちょっとでも一方が勝てば、そ

 

の方に行ってしまいます。不満の事も起こるのだから、不満の事もよい

 

です。それから又一方満足もあるから、それもよいのです。


  「程々」という事が伊都能売になる

 

 それから病気で苦しんでいる時に、命が危ぶない、このままではどう

 

しても死ぬよりないという時に、これは幾ら金がかかっても、財産を全

 

部捨ててもよいから助かりたいと思うでしょう。そうしているうちに、

 

なおって、だんだんよくなって来て命の心配がなくなると、今度は慾が

 

力をつけて来て、どうしても金をこうしなければいけない、ああしなけ

 

ればいけないという慾が出て来るのです。そうしているうちに何時の間

 

にか、助かりさえすればよいという時の事を忘れて、慾を出すという事

 

は、誰でもある事で、私なども経験があります。それは最初の病気の時

 

に考えた事も本当なのです。それからそういった慾が出るのもやむを得

 

ないのです。ただそこのところをうまく程のよいという事です。人によ

 

ると、助かってしまってから今度はばかによくなったと、最初思ってい

 

る半分も三分の一も御礼をしないという事もあるので、そこでこの間再

 

浄化という事を話したり書いたりしたのです。


 そこで結局「程」です一方に片寄るから、そこに問題が起こった

 

り無理があったりするのです。そこで「程々」という事が伊都

 

能売になるのです。私は以前読んだ事があるが、山岡鉄舟の書で、

 

大きく「程」と書いて、小さく「人間万事この一字にあり」と書いてあ

 

りましたが、私は実によい言葉だと思いました。実に簡単に言い現わし

 

てあります。「程」という字は大したものです。伊都能売という事の

 

働きは、一字で言えば「程」という字でしょう


 それで「程」という事は、やはり春秋の気候と同じで、暑さ寒さの

 

「程」です。「程」というのはどっちにも片寄らない、丁度よい所に収

 

めるというそれをよく現わしてあります。あの人は程がよいと言うと、

 

その人は非常に好ましいという事になります。ところがその程がよいと

 

いう人は寔に少ないので、大抵はどっちかに片寄ってます。だからそ

 

れで失敗したりうまく行かなかったりするのです。今日は珍らしくお

 

説教になりましたが、よく世間でのいろんな信仰や道徳といったもので

 

は、こういう話が多いのです。しかし救世教ではこういう話をあんまり

 

やりませんが、やっぱりこういう話もしないと片寄るでしょうから、そ

 

ういう意味において偶にはよいと思って話をしました。では質問をどう

 

ぞ。



 御奉仕金の有難さを祖霊より知らさる

 

             『栄光』199号、昭和28(1953)年3月11日

 

           岡山県阿哲郡上市町金谷 十全中教会 塩飽とも(58)

 

 明主様、入信この方身に余る御守護の数々を賜わりまして誠に有難う

 

ございます。又この度祖霊から御奉仕金がどんなに大切であるかを知ら

 

され、家族一同有難さにむせびました。拙い文ながら御報告させて戴き

 

ます。


 二月十日新見支部の月並祭にお参りさせて頂き、数々の御教えのお取

 

次頂き又、再教修御礼につきまして色々とお話を承りました。その夜家

 

の者に月並祭の様子を色々と話しておりましたところ、姪塩飽恵美子

 

(二十五才)が参りまして「少し身体がだるい」と申しますので、御浄

 

霊させて頂きましたところ、主人(作太郎)の弟友一という三十年前二

 

十五才で亡くなりました霊が憑りました。

 

 この姪にはよくお祖母さんの霊が憑ることがありましたが、「又嘘か

 

と思われてはいけないので自分が来た」と申して次のごとき話を致しま

 

した。


「霊界は今大変なものです。それは皆が今話していたような、今日教会で
聞いた位の事ではない。
霊界は日増しに神様の御言葉がきびしくなって来
ました
。あなた方は早く最後の審判の日が来ればいいなどと思っているけ
れども、とんでもないことです。その日が来たら
皆が神様の御許しを戴い
て残される身魂かどうか考えてみなさい
。今のような事では救われようと
も思えない。
もっともっと信仰を厚くしなければ駄目だ。自分は死んで三
十年になるけれど未だに病気で苦しんでいる。お守を戴いた人々が本当に
うらやましい。自分達の方から話しかけることすら出来ないようなずっと
上に住んでいられる


 と言って帰りました。しっかり信仰をさせて頂こうと、色々と話して

 

おりましたところ、今度は姪が「腰が痛い」と申しますので御浄霊させ

 

て頂きましたところ、先の霊が又出まして


「霊界へ帰ってよし子(私の娘で昭和二十五年に病気で死亡、入信致して
おりました)
に逢って頼まれたから」


 と言い、十分間の猶予をいただいたからと息せききって話し出しまし

 

た。


「家のものの想念が切り替ったようだからこのことを伝えて戴きたい。
はお光を頂き
死ぬまで薬を入れなかったため、これまでの罪は総て
許され今は楽しい日を送っている
(こんなにきれいになったのは薬を入
れなかったからだと言い)
今、家の人達の想念が切り替ったのでお願いし
たい。今日教会で話された再教修の御礼五名で六千五百円をはやく教会の
方に納めて戴きたい。そのお金によって自分は布教師になれる。
現界では
三人の子供をかかえ、到底御神業のお手伝いが出来ぬ立場にあったのに本
当に自分は死んでよかった。

 

 死んではじめて幸福になった。今、霊界は日増しに神様のお言葉がきつ
くなっている。
お守を頂いていない人々の顔は気の毒で見ていることが出
来ない
。自分の主人(病気で突然亡くなった)も見る事はあるけれども、
どんなにしても自分と同じ位置になるまでには千年かかるでしょう。この
再教修御礼を一日も早く納めて頂き、布教師の資格を頂いて、霊界の人々
を救わせて戴きたい」


 と申して帰りました。内心主人がすなおにこのお金を出してくれるか

 

と心配もし、お念じもしてました折、このような祖霊よりのお知らせが

 

あり主人も翌朝早く六千五百円を三宝に載せ、御神前にお供えした後

 

「早く教会に持って行くように」と申してくれました。


 私のその時のよろこびはいかばかりでございましたでしょうか。主人

 

はよろこんで気持よくお金を出してくれ、その上自分の娘は霊界で布教

 

師になり、神様の御用をさせて頂く事が出来又、私達も御建設の幾分の

 

お役に立たせて戴けることを思い、ただ有難く早速教会に持って参りま

 

した。

 

 それから二、三日たった十四日の夜、又、姪が参りましたので浄霊さ

 

せて頂きましたところ、娘のよし子が憑りました。


「再教修御礼はもう中教会まで行き、明日から布教に出ることが出来ま
す。神様よりお許しを戴いて御礼に参りました」


 と言って一時間半、頭を少しもあげず涙を流してよろこびました。


「今日こうして私が出て来ますにつきましては先祖が列をつくって送って
下さいました
。本当に有難うございました」


 と言って帰って行きました。日頃、順序と言うことを教えられていま

 

すが、神様に私のようなもののところへでもきちんと御礼に来させられ

 

るのかと非常に感激しました。

 

 私達の御奉仕するお金が、このような大きな意味をもつことを思いま

 

す時、あくまでも深い神様の御仕組を考えまして、ただ有難く、ますま

 

す信仰をかたくすることを心に誓いました。本当に今では近所の人もう

 

らやむような家庭天国となり、日々楽しい生活をさせて戴いておりま

 

す。このような限りなき明主様の御高恩を感謝し、厚く厚く御礼申し上

 

げます。そして一人でも多くの人々をお救いする御用に立たせて頂く覚

 

悟でございます。

 

 明主様、誠に有難うございました。