平成24年3月度 ミニ講座

1、幸福の根本は善を進める
                       ---本教は自発的寄付が方針

 幸運者を作る宗教(栄二百十二号  昭和二十八年六月十日)

 本来宗教とは何かというと、不幸な人を幸福に導く為に、神の愛に

よって発生したものであって、それ以外の何物でもない。知らるる通り

この世の中に生を営んでいる誰もは、幾ら一生懸命に幸運になろうとし

ても、中々思うようにはならない。一生涯かかって幸福になる人は九牛

の一毛で、殆んどの人は幸福処か逆に後から後から不幸という奴が見舞

って来る。というように学校で学んだ学理も偉い人の修身談や伝記、そ

れに関する書籍を読み、その通り実行しても役立つ場合は稀である。成

程理屈は実によく出来ていて感心はするが、実際となると理屈通りにゆ

かないのは誰も経験する処であろう。


 早い話が正直主義でやると、お人好しやお目出度人間にみられるし、

方針を変えて変な事をすると、今度は信用を落したり、下手をすると法

律に引っ掛ったりするので、どっちにしていいか分らない事になる。そ

こで小利口な人間は正直らしく見せかけ、裏で不正直をやり、口を拭い

て知らん顔の半兵衛を決め込むに限る。というのが世渡り哲学という訳

で、今日の人は滔々としてその哲学信者になってしまい、このチャンピ

オンが出世頭となるのであるから、どうしても一般はそれを見習いたが

る。これが社会悪の減らない原因であろう。このような世の中だから、

正直者は馬鹿を見るなどと言われるのである。故に正直な人間程融通の

利かぬ時世後れとされるし、正義など唱える人間は人から煙たがられ相

手にされず、社会の落伍者となるのもよく見受ける。


 このような世の中に向って、私は常に正義感を振り翳しているのであ

るから、並大抵の努力ではない。普通人は馬鹿々々しいと思うであろう

し、宗教家の決り文句で、意気地なしで欲のない変り者位にしか見ない

であろう。そんな訳で以前は新聞雑誌などにも蔑視的興味本位に書かれ

たり、裁判沙汰などにされたりして随分虐(イジ)められたものである。


それというのも私は悪と闘うべく、思い切ってかいたりするので、それ

が祟ると共に、急激の発展に対する嫉視も手伝い、大木に風当りが強い

訳であろう。


 処がそのような圧迫に遭い乍らも、一路発展の道を辿りつつあるその

力強さに、近頃は余程見直したらしく、形勢も大分緩和されたのでやり

良くなったのは何より嬉しく思っている。それというのも神様が後楯に

なっている以上、如何なる攻撃に遭ってもビクともしないからである。

というのは本教には今までの宗教に見られない大きな武器を有って

いるからで、それをかいてみよう。


 それに就いては今日迄の凡ゆる宗教の行り方を見れば分る通り、大別

して二通りある。一は真向から正義を振り翳して進む信仰で、この代表

ともいうべきものは彼の日蓮の法華教で、アノような法難に遭ったのも

その為である。それが災いとなって宗祖一代中は余りパッとせず、数百

年かかって今日の如き隆盛を見たのである。といって法難を恐れ安全の

道を辿るとしたら、拡まるにしても大いに時を要するか、さもなければ

消えてしまうであろうから、茲に難しさがある。しかし有難い事には民

主主義となった今日、信教の自由を許されたので、終戦以前の日本と違

い大いに恵まれ、致命的法難も避け得られたのである。という訳で私の

大方針たる正義を貫くべく、一歩々々悪を排除しつつ、善の目標に進

みつつあるのである。


 次に問題である人間の幸福に就いてかいてみよう。即ち幸福を生む

根本は何かというと勿論善であるがこの善を通そうとするには悪に勝

つだけの力がなくてはならないのは言うまでもないが、既成宗教にはこ

の力が不足していた為、真の幸福は得られなかった。そこで物質は諦

め、せめて精神面なりとも安心を得たいとの民衆の要求に応えたのが、

彼の仏教の悟りの説である。


 又キリスト教ではキリストに習えという贖罪精神で諦めさせたのであ

る。彼の"右の頬を打たれれば左の頬を出せ"と言ったのも、無抵抗的悪

に対する敗北精神であった。以上の如く悉くの既成宗教は物質的には悪

に勝てないので、考え出したのが現当利益否定説である。曰く現当利益

本位の宗教は低級であって、精神的救いこそ高級宗教なりとの説を唱え

たのは無理はないが、それは或時期までの便法でしかなかったのであ

る。これに就いて二、三の例を挙げてみるがよく長い間病気で苦しみ乍

ら救われたといって満足しているが、これは無理に本心を抑えつけて諦

めているにすぎないので、一種の自己欺瞞である。病気が全快してこそ

本心からの満足感を得らるるのが真実である。又昔からその信仰に如何

程熱烈であっても、物質的に恵まれず、不幸の絶えない家庭もよくある

が、その結果精神的救いのみが宗教本来のあり方と錯覚したのである。


 処が我が救世教は、精神的救いと共に物質的にも救われる。寧ろ

それ以上といってもいい程である。本教が数年の間に現在見る如く、

各地に地上天国や美術館等を造営しつつあるのも悉く信者の寄附金であ

る。しかも本教は最も搾取を嫌い、自発的寄附を方針としている。

にも拘わらずこれ程の大規模の事業を経営するとしたら莫大な基金

を要するのは勿論で、それが集ってくるのは、実に奇蹟である。これ

にみても信者の懐が楽であるからである。しかも一時的ではなく、多々

益々増えるのであるから、金銭上の心配などした事はない。次に言いた

い事は時代である。昔の各宗教が出た時代は小乗信仰でよかったから、

祖師は紙衣(カミコ)の五十年式で済んだが、今日となってはそうはゆかな

い。一切万事世界的となった以上、全人類を救うとしたら驚くべき大仕

掛でなくてはならない。つまり規模が大きい程救われる人も

多数に上るからである。以上の如き本教の大計画を知ったなら、何

人と雖も本教を見直さない訳にはゆかないであろう。



   2、神様の事は総て型でゆく

            (御教え集27号  昭和二十八年十月十五日 より)

 兎に角、前にも言ったとおり箱根が霊で熱海が体ですから、この救世

会館が出来るという事は、体的に一つの始りです。箱根の方は霊ですか

ら、ちょっと目には見えないわけです。しかし熱海は体ですから、この

救世会館がだんだん出来るに従って、その影響が世界的に現われるわけ

です。一番著しいのは救世教の発展ですが、これが体的ですから目につ

いて来るわけです。


 そして神様の事は総て型でゆくのですから、例えて見れ

何処か拡がるとか出来るというと、やはり御神業の方

もそれだけ増え、拡がってゆくわけです。つまり小さい型を拡

げれば、大きいものも拡がるという事になるわけです。ですから建増

しとか地所を拡げるという事は非常によいのです。支部などもそう

で、拡げれば拡がっただけは必ず御神業の方も発展しますこれが

型です


 昔の宗教が小さな所に楯籠(タテコモ)って、ごく地味にやっているあ

あいったやり方とは全然違います。昔とても立派な堂宇(ドウウ)や伽藍

(ガラン)を作るには作ったが、それはかなり成功してからの事で、最初は

誠にそういった事にはあまり関心を持たなかったのです。


 ところが救世教の行き方はそれとは違うのです。今までは一切衆生を

救うという建前でしたが、救世教の方は地上天国を造るという建設

が主になってますから、やっぱりこっちの根本がそういったようにな

ってますから、体的にも建設をしてゆかなければならない

のです。そういうようなわけでこの救世会館が出来るに従って、日本は

固(モト)より外国の方にもドンドン拡がってゆくわけです。(後略)   



  3、御神業は順序と型で進める

            (御教え集27号  昭和二十八年十月十六日  より)

(前略)それで神様の事は総て型で行くのですから、型が出来ただけ

ずつは霊界でそのとおりに拡がるというわけなのです。この点が人間

の仕事と非常に違うのです。ですから順序と型です。それを見て

いると分るし、それから又私はそういうようにやっているわけです。そ

れですから別に心配する事もいろいろ迷う事もないわけです。神様の

方の設計順序がチャンとありますから、そのとおりにやっておればド

ンドンうまくゆくわけです。実に不思議な事です。それでこういう事は

人間が始まってから未だないのですが、それは今までは夜の世界ですか

ら、全部月のやり方です。今度は太陽が出たのだからまるっきり違うと

いうわけです。


 ですから反対な事が多いです。それは日と月とでは反対になりま

す。つまり月の方は右廻り、日の方は左廻りです。それでここに肝腎な

面白い点があります。日の働きというものは「引く」引寄せるという事

です。それから月のやり方というものは「突く」つまり攻撃です。


 ですから「引く」と「突く」との違いさです。それをよく知ってい

るとよいです。突進むでなくて、引寄せるのです。それで一番分り易い

のは、月は水で日は火ですから、物質はみんな月になるわけで、霊が

日になるわけです。そこで水を寄せるとかえって向うに行ってしまうの

です。それで逆にやるとこっちに来るというわけです。よく、あせった

りして突進むという事は割に結果が悪いので、落着いている方がかえっ

て引寄せられ集まって来るという事がありますが、これは真理に合って

いるからです。ですから私は割合にあせらないで落着いて悠々(ユウユウ)と

してやってますが、それで非常に仕事が果取(ハカド)って沢山できるとい

う事は、そういう意味になるわけです。ですからそのやり方でゆくと、

楽に順調に行って失敗がないわけです。



  4、建設されただけは破壊されていく

             (御教え集18号  昭和二十八年一月二日 より)

 それで今年の栄光の正月号に「⇒世界夢物語」というのを書いておき

ましたが、あれは大体の漠とした見当ぐらいのところを書いてあるので

す。それであれがいろいろに変化しますが、大体はあの線をいくので

す。あれは中途までしか書いてありませんが、あの中途までは常識で考

えてもあのくらいの事は分るわけですが、あれから先が非常に神秘なの

です。これははっきり書く事はできませんが、ただこれだけは言っても

いいと思う事は、何時も言うとおり今度の御神業は破壊と建設

です


 つまり最後の審判とか天国というのは破壊と建設が同時に行われる

いう事を、私は前から言ってます。それで「世界夢物語」は、その破壊

の順序を書いたのです。そうするとその破壊というものは建設の方と

一緒になるのです。建設されただけは破壊されていくと言ってもい

いのです。というのは建設というのは日が昇る事です。光が強くなる事

です。それで強くなるだけは闇の方がそれだけ消えていくのです。

そうすると今までの文化というのは闇の文化ですが、それが消えていく

のです。


 そうするとその建設の雛形が箱根と熱海になります。箱根は霊界の方

で熱海は現界の方になります。日は霊界、水は現界です。そうすると熱

海のメシヤ会館は建設の第一歩になるのです。ですからメシヤ会館が出

来るとそれが世界に写って、そうして世界にメシヤ会館が出来るわけ

です。それには今まであった汚たないものは取り払われて綺麗にされな

ければならない。という事になると、日本は今言う日の経綸になるから

して、それだけ日の光が強くなると、だんだん世界的に汚たないものが

消えていくのです。つまり黒の部分がだんだん薄くなって白が拡がって

いくという事になります。そうすると、その拡がり方の順序が「世界夢

物語」に書いてある順序になるわけです。(中略) そういう様な工合で

神様の事は実に深く、いろいろな型によって始まっていく

です。それは私にはよく分ります。しかし時期によって、やはり発表で

きる場合とできない事があるのです。ですからその見当がつく救世教信

者のおかげというものは、そういう点にも大いにあります。



  5、献金にも小乗と大乗がある
    ---はやく地上天国を造って救わなければならない

            (御教え集11号  昭和二十七年六月七日 より)

 (前略)それからもう一つは、人から色んな事を聞きますが、それを正

面(マトモ)に信ずるという事が、之が又危ぶないですね。だから色んな事

を聞いても、成程良い、然し之は神様の御趣旨に合っているか何うかと

いう事を先ず考えてみて、どうも神様の御趣旨に合わない点もある様だ

という場合には、御神書を見るんです――読むんです。そうすると

大抵な事は何処かにありますから、それで判断をするという事にしな

ければならない。そういう事で間違える事がよくありますからね。


 最近斯ういう事があつたですね。或信者で、メシヤ教は天国を造るん

で、家庭も天国にしなければならない。そうするとお金は、つまり余

つてからあげる。あげても経済的に差障りがない丈の金をあげる

そうすれば金の苦しみがないから、それが本当のやり方だ苦しんで金

をあげるという事は矢張り一つの苦しみを作るのだから、それは神様の

御趣旨に合わない。昔からいう「信心は徳の余り」という訳ですね。そ

れを聞いて、或る信者は感心したんですよ。それが段々広がって――苦

しんで金をあげるからだから家庭が天国にならないんだという事に迄な

つた。


 そうすると又一方神様は今非常にお金が御入用だ人間は少しは苦

労をしても神様の方にあげなければならない。という両方の説が対立し

た。然しどうも後の説が負けるんですよ。最初の方が勝っていくんです

ね。どうもゴタゴタしているので、私が呼んでよく話してやつた。私の

話は斯ういう訳です。最初の、家庭が困らない様にするという事も合っ

ている。確かにそれに違いない。


それから、神様はお金は沢山必要だから――はやく地上天国を造って

救わなければならないので、どんなことをしても金をあげなければな

らない――どんなに苦しんでもあげなければならない、という事も合っ

ている。両方とも合っているんだ。只大乗と小乗だ。最初の方は小乗

的考え方ですね。後の方は大乗的考え方ですね。じや、後の方

は金をあげて苦しむかというと、決して苦しまない。


 金をあげてそんな苦しむ様な神様だつたら拝むのを止めたらい

。だから試しにあげて御覧なさい。苦しむ様にあげて御覧なさい。十

倍になって返って来ます。苦しむどころじゃない。大変な金にだぶつい

て来る。そう言つてやつたので、両方共――小乗的の方はよく解って、

つい此間謝りに来ましたがね。そういう事があるんですよ。ですから

ういう事も心得て置かなければならないという事を今話したんですが

ね。



  6、信仰の根本は愛
     --- 一人でも多くの人を救うには・・・

             (御垂示録19号  昭和二十八年四月一日より)

「美術品などを拝見させていただき、非常に結構だという気持が霊ではいります

が、あれは欲しくてしようがないという場合にはいる霊とは違いがございましょ

うか」

 やっぱり同じものです。芸術の最高になるから、やはりそれだけの、

人を引き付けて楽しませるだけの一つの要素と言いますか……。だから

そういった良い物を作るというのは霊が高いのです。私は二、三日前

に、私が画いた十年前の古い観音様の表装が出来てきたので見ると、公

平に見て、まずこのくらいうまい絵はありません。観音様も随分ありま

すが断然違います。これは誰が見てもそう言いますが、それはつまり

ベルがそこに行っておれば、何をかいても何をやっても、それだけの値

打のある物が出来るわけです。結局人間により人間の霊の高さです

だから磨いて霊を高くするという事が一番です。


 これは支部長なら支部長という人の霊の高さによって人が集まってく

るという事です。その人の徳というが、結局そういう訳です。これ

信仰の根本は愛です。その人を助けたい、幸福にしたいとい

う想念が強くて、そういう様な、要するに良いものが沢山ある人ほ

ど発展する、そういう人ほど光が強いから、その人の側に行くと気持

が良いのです。それもやっぱり大乗的に考えなければいけないので

す。


 だからつまり救世教なら救世教は金が非常に集まるというのは、何か

金儲けの様に誤解する人がありますが……美術館が出来てから余程違い

ましたが……けれども、一人でも多くの人を救うには、やっぱりそ

れだけの設備機関が大きくなくては、それだけの人は救えないか

ら、そういう意味において金はいくらでも要ります大いに欲張る

というので、それでいいわけです。


 それで金というものを非常に軽蔑するのは……特に日本人はそうです

が……それは悪い所に使うからです。金そのものが穢れているからで

す。しかし良い事に使えば、これほど便利な力のあるものはありませ

ん。ですから私は鉱山もやっているし、金儲けにはなかなか抜目はあり

ません。しかしその金は、多くの人を救うという意味において、その方

が一人でも多く救えます。たとえてみれば誰が見ても、立派な殿堂があ

り、立派な庭園がある、それでは立派なものに違いない、値打があるも

のに違いない、と思ってはいって来れば、その人は救われます


 ですから昔の様に乞食坊主の様では、その人が死んでから何年もた

ってからなら良いでしょうが、人類を早く救うにはそれではいけない

のです。それが小乗的考えと大乗的考えの違いです。今まで

は小乗的考えが多かったのです。今まで日本は経ですから、非常に階級

があって小乗的だったのです。その点アメリカは大乗的ですから、何で

も金を儲ければ良いというので、ああいう様に発展したのです。だから

その調和はどっちも必要なのです。経も必要なら緯も必要なのです。そ

れをうまく調和させるのが本当です。その調和させるのが救世教です。



  7、信仰的献金は自由意志で
       ---気持よく献納する事こそ真の浄財になる

  悪銭身に着かず (光十四号  昭和二十四年六月二十五日)

 昔から悪銭身に着かずという言葉があるが全くその通りである、それ

に就て私は霊的に解釈してみよう。

 投機といえば、株式相場を初め、商品の上り下り、競馬の賭等々種々

あるが、その中の代表的のものとして株式相場に就て解釈してみるが、

私も無信仰者時代には株相場に手を出し、数年間売ったり買ったりした

が、終に大失敗をした、それが信仰生活に入る一の動機となった事も勿

論であると共に、霊的方面を知るに及んで決して為すべきものではない

という事を知ったのであるから、此一文を相場に関心を持つ人に対し、

是非読まれん事を望むのである。


 相場なるものは、先ず百人損をして一人儲かるという事をよく謂われ

るがその通りである、一時は一攫千金の儲けによって成金となっても、

それが長く続く者は先づ一人もあるまい、而も大儲けをする者程大損を

するものであって、儲かれば儲かる程その人の前途は断崖が口を開けて

待っているようなものである、先づ霊的にみれば斯うである、損を蒙っ

た大多数者は、口惜しい残念だどうかして損を取返したいと思うのは人

情である、従而その怨みの想念がどこへ行くかというと、自分の金を吸

いとった人間に行かうとするが、それは何処の誰だか判らないので、自

然取引所を目がけて集注するばかりか、それが紙幣に集まるという事に

なるのである、此際霊眼によって見れば取引所にある紙幣の面には怨み

の人間の顔が何千何万となく印画されており、その一つ一つの顔と、そ

の本人とは霊線で繋っているから、取返そうとする想念がそれを常に引

張っているという訳で、その紙幣は所有主の金庫には決して永く安定し

てはいない、何時かは引張られるから大損をし一文なしになってし

まうのである。


 右は投機ばかりではない、金銭上の凡ゆる事に共通するので

ある、謂はば不正によって得た富や与へるべき金銭を与へなかったり、

故意に減らしたり、借金を返さなかったりする場合、先方は怨むから矢

張り前述の如く吐き出さざるを得ない事になるのである。


 今一つ知らなければならない事は、昔から宗教上の建物が、火災の為

よく灰燼に帰する事がある、浄財を集めて建築された清き社寺や殿堂、

伽藍等が焼失するといふ事は不可解に思はれるが実は理由がある、とい

ふのは、その基金を集める場合無理をする、例へば信徒又は末寺に対し

一定の額を定め強要する事があるが、之は自然ではない信仰的献金

としては本人の自由意志によって任意の額を決めるのが本当であ

る、気持よく献納する事こそ真の浄財になるのである、今一つはその

建造物を利用する上に於ても神仏の御心に叶うやうにすべきで、間違っ

た事をしたり、汚したりするような事があってはならないに関はらず、

そうでない場合火の洗霊を受ける事になるのである。


 但し、相場をとる目的でなく、金利即ち配当をとる目的で買ふのは結

構であって、之は何等怨みを買ふような事にはならないのみならず、寧

ろ産業発展の為有要な事であって大に奨励すべきものである。



  8、教導所なども立派な程いい
           ---神の格が高くなる

            (御光話録4号  昭和二十四年二月十八日 より)

「各地に御祀りしてある同一神仏の御分霊の御力には差がありませう
か」



 えゝ、差がありますね。そこの所の人間次第で差がつきます同じ

神でも例へば御宮が立派か粗末かによってもその御力が違って来ま

し、拝む人が多い少いでも違ひます。又、心から拝む人が多い程神の

威光は強くなるのです。御宮の作りも立派な程神の格が高くなります


「教導所などもやはり立派な方が宜しいでせうか?」


 勿論ですね、立派な程いゝです


「御仏壇は如何でせうか?」


 仏壇も同様ですが、然し之は「相応の理」によって、その家や身分と

相応しなければいけないのです。大本教の御筆先に「今の人民神の住居

を粗末にし、己が住居ばかり立派にして、神の家をないがしろにしてゐ

るが――」とありますが、実際今の人はそうですね。然し之は大変な間

違ひです。やはり家や身分に相応するのがいゝんです。又反対に、チッ

ポケな家に住んでゐるくせに仏壇を余り不相応に立派にしすぎるのもよ

くない事で、そんな事をすると何か御知らせがあります。以前平塚の方

の人が、大光明如来を御祀りしたんですが、間もなく雨が漏って台無し

にしてしまった事がありました。之はその家に不相応なので、祀れない

様になって了ったのです。で、私は他の小さいのと変へてやった事があ

りました。(中略)



  9、どうしても発展しよう、大きくならうっ
て強く思う事
---天国は真、善、美の世界

               (御光話録8号  昭和二十四年三月  より)

 「教導所の発展しない理由を御伺ひ申し上げます。」


 どっか脱線してるからですよ。要するに軌道が外れてるんです。

番の原因は、なにが多いですね、あの小乗的信仰の場合が。こういふ

のは発展しないですよ。どうしても大乗でなくちゃいけないですね。

展ってのは大きくなる活動ですからね、大乗がどうしてもいゝんです

よ。小乗のは窮屈でね、あれはいけない、これはいけないといろいろ咎

めるのはいけないんです。それでは観音行ぢゃないですよ。観音様って

のは大乗であり、善悪無差別ですからね。それに対して、人間が善悪を

決めるのは間違ってゐるんです。まあ、或程度は常識で善悪の判る事も

ありますが、徹底して判る事はないんですよ。之は悪い之は悪いと言ひ

乍ら、その人自身悪い事がよくありますからね。一寸思った事を簡単に

言ふ位ならいゝですがね、どこまでも自分の思った通りを人にさせよう

とするのは決してよくありません。何でも、こう、気持のいゝ様にせね

ばいけない。まあ、根本的原因は一口に言ふと、教導所に来て気持が

いゝ、愉快だ、といふ風にさせてないからですね。


 それから、あの「くどい」のはいけません。一事を繰り返し繰り返し

言ふ人がありますが、あれはごくいけませんよ。神様ってのはあっさり

したもんですよ。いろんな宗教でもしつっこいのがありますがね、

そんなのは本当は邪教ですよ一言話して先方が言ふ事を聞かなかっ

たら時期を待つ様にするんです。


 それから、御浄霊で病気が治るから、御利益があるから人が来るんで

す。そして病気の治るってのは急所にふれるから治るんです。だから

導師は急所を掴まなくちゃ駄目ですよ。話でもさうで、急所を外れて唯

ベラベラ喋ったって駄目ですよ。一言でも二言でも先方の魂に触れる事

をポンといふと、それで相手は感じるんですよ。――そんな風に、話で

浄霊でも急所ですよ。その急所を衝くのは智慧、叡智ですね。こっ

ちがボンクラだと判らないんですよ。終ひには、全体をやればどこか当

るだらうって訳でね。(笑声)まるで機関銃式ですよ。(笑声)百発百

中ぢゃなくて、百発一中ですね。(笑声)さうかと言って、最初からさ

ういふ訳にはゆきませんからね。一生懸命やって、しかも広くやってれ

ば、だんだん急所が判って来る様になりますよ。


 まあ、いろんな事がありますがね。気の附いた事を言ってみたんです

が、一番肝心な事がたった一つあるんです。それはね、どうして

も発展しよう、大きくならうって強く思ふ事ですね。それが根本

です


 俺は駄目だ、なんて思ふ事が一番悪い。俺も人間だ、人がやれるなら

俺にだって出来るっていふ気構へでね、失敗しても、笑はれても諦めな

いで、どうしてもやり遂げるっていふ、さういふ人が発展しますね。私

自身がさうなんですよ。それを、一度転んだらもうしようとしないなん

ていふんぢゃ駄目です。「諦めが肝心」と言ひますがね、物によっては

さうですが、物によっては「諦めないが肝心」ですよ。だから、悪い事

は「諦めが肝心」、いゝ事は「諦めないが肝心」ですよ。私に人を紹

介する時、よく紹介者が「いや、この人は立派な人物ですよ、第一慾が

ないから」なんて言ひますが、之は可笑しいんです。私は慾のないの

はいかんてよく言ふんですよ。慾にもいゝ慾がありますからね。慾張

りって言へば神様が一番慾張りですよ、全世界を救はうっていふんです

からね、これ程の慾望はありませんよ。だから、慾だって決して悪くあ

りませんよ。


 よく「観音教には金がある、金儲けがうまい」なんて言ひますがね、

今、多くの人を救ふにはどうしても金が必要ですよ。いくら素晴ら

しい力があり、教へがよくても、機関がなくては駄目だし、地上天国を

築くのにも天国の模型が要りますしね、――今、私はその模型を作って

ゐるんですがね。何をやるにしたって金が必要ですよ。その為に金を

集めるんなら結構ぢゃないですか大きな救ひには沢山の金が要る

ですよ。――


 昔みたいに「祖師は紙衣(カミコ)の五十年」なんて、あれは親鸞でした

かね。五十年はしなかったかも知れませんが、まあ、それ位質素にした

って訳ですね。日蓮だって乞食坊主みたいになって法を説いたんです

が、今日は時代が違ふんです。今はそんな事をしても、世の人が相手に

しませんよ。草鞋ばきで行脚したり籠を使ったりした時代と、自動車や

飛行機がある時代とは違ふんです。昔の様に草鞋ばきで歩き廻るんでは

全世界を救ふ事は出来ませんよ。所が、今迄の観念があって、質素倹約

して乞食坊主みたいにしてなければ有難がらない人がありますがね、あ

れも困ったもんですよ。


 つまり、信仰の根本が違ふんですよ。昔の信仰、今迄の信仰って

いふのはね、禁欲的な、まづい物を食って、ボロボロの着物を着て、粗

末な家に住んで、それがいゝ事としてゐたんです。所があれは間違っ

てゐるんですよ。一体、綺麗な花が咲き、いゝ景色があるっていふの

は、神様が之を無駄に作ったのではない、人間を楽しませる為に作られ

たんです。美味しいものだってさうです。人間を楽しませる為に作られ

たんです。それを、態々まづいものを食ひ、粗末な着物を着るっての

は、神様の御気持に対する一つの叛逆ですよ。天国を作る、その天国

ってのは、真、善、美の世界です。その美っていふのは一体何です

か?  綺麗な家に住み、美しい着物を纒ひ美味しい物を喰べるっていふ

のは美ぢゃないですか。何よりの証拠はね、邪神はとても花を嫌ふんで

す。そこの床の間にも花が生けてあるでせう。だから、必ず部屋には花

を飾らねばいけないって、之は私が前から言ってる事ですがね。仏様に

花を上げるっていふのもそれなんです。花は霊界に非常にいゝ影響を

与へるんですよ。私の所ではどの場所でも大抵花をおいてあり、花の

ない部屋はない位です。花についての論文も近い中発表しますよ。


 教導所の発展しない原因も、今言った様な事を考へてみれば判るでせ

う。