平成24年2月度 ミニ講座

大光明世界の建設 最後の審判 

              (光世三号 昭和十年一月十一日)

 観音力即ち「東方の光」は、今後、月日の経つに従って、之が段々、

拡がって行くのであります。そうなりますと、人為的でなく、自然的に

世の中が、変って行くのであります。それは、あらゆる方面に渉って、

間違った事や、悪に属する事が、やれなくなって来るんであります。

 総ての混乱は打断(ウチキ)られ、あらゆる逆事が、是正され、人も物も

本当の姿に、立直るのであります、例えば、政治にしても、若し政党が

間違ってをって、有害無益の存在であれば、どうしても解消しますし、

又、間違ってをる事に、気が付いて、本来の正しい使命に還へり、社会

一般からみて、有益なる存在となれば、解消しなくとも済む事に、なる

んであります。


 茲で、一寸序ですからお話しますが、立憲政治にしても、政党政治に

しても、其形体組織は、何しろ人類が、長年の間、研究をした結果、練

りに練って出来たんでありますから、実に良く出来てゐるんでありま

す。けれども、夫を運用する人間の心が、間違ってゐるので、折角の組

織形体が、非常に不完全の様に見えるのである。であるから、私共は、

形式は次にして、先づ人間の心の改造、それが先だと思ふのであっ

て、此人間の心を改善するといふ事は、立法機関では駄目なんで、之

こそ、宗教家の受持でなくては、ならないと思ひます。

 然るに、今日の宗教家は、そういふ方面に薩張り無関心なのは、実に

遺憾であると思ひます。それも是からは、観音光に依って、革(アラタ)め

られて行くのであります。


 又今迄は、総てが乱れてをりましたから、その人、本来の資格が、地

位と合ってゐない事が、沢山あるんであります。そういふ事も是正され

るんで、例へば、局長位の資格の人が、正しくない手段で、大臣にでも

なってをれば、夫は矢張り下へ降りて、本来の局長になり、又局長でも

大臣になるべき資格があれば、蔭の運動等をやらなく共、大臣になるん

であります。

 又、宗教にしても、インチキや間違った事をしてをれば、どしどし滅

んで行くし、夫を自覚して、悪を革め、善に立還れば、再び伸び栄えて

行くんであります。

 敢(アエ)て人間が傍から、之を審判(サバ)かふとしないでも、自ら

審判かれて行くんであります。之が「観音力」の偉大なる「力の顕は

れ」であります。ですから、観音様に、お任せして置けば、今言った様

に、自然に悪いものは、解消して了ふのであります。今日迄、何百年も

何千年も、間違って来た事も、沢山ありませうが、今度は、赦されない

のであります。


 善悪の解決が、付いて了ふんであります。例へば、世界的に言へば、

英国なんかが、今日迄印度や、其他の植民地を自由にしてゐたんであり

ますが、是等も、本然に立還るとすれば、其々、独立をさせるか、又

は、其国の自由意志にさせなければ、ならない事に、なるのは、当然で

あります。否、其場合強国は、其植民地へ対して、今迄の罪を謝し、適

当の賠償金を仕払はなければ、ならない事になるでせう、印度の如き

は、今迄に少くとも百億以上といふ、富は、搾取されたのですから、何

れは、印度へ返還しなければ、許されない事になると思ふのでありま

す。

 又、日本は、「世界を統一」すべき使命があって、日本の天皇様が、

統一の御中心にお成りになる事に、なってゐるのであります。之も世界

の大平和の為であって、個々分裂してゐては、争ひが絶えないからし

て、どうしても、中心に依って、統一されなければならないのは当り前

の事であります、斯ういふ様に、一切の清算、世界的大清算が、行はる

時が来るんであります。此、清算は、本当から言ひますと、九千年間に

渉っての、あらゆる清算であります。此の九千年に就ては、いづれ別

に、詳しくお話する考へであります。そして其結果、森羅万象一切が、

時処位を得て、「本然」に立直った時が、五六七の世、大光明世界なの

であります。

 それからが、永遠の平和であり、万民和楽の地上天国に、成るのであ

ります。

 私は大胆に、未来の事をお話致しましたが、之は人間が考へたり、私

の出来心等で、言ふのではないのであって、遠き神代の時代に、主神

が既に定められてある事が、愈々出て来るのであって、どうする事も

出来ない、時期になったのであります。ですから、一日も早く、悪を

捨て、善に立還るより、仕様がないのであります。


 観音力に就て、大きい方面の事は、別にお話を致しますが、小さい例

へを一寸お話すれば、茲にある此大黒様でありますが、昨年の十二月卅

一日に、此所へ来るといふ事は、定ってゐた事なんであるから、祀って

をった、山田さんが、いくら手離すまいとしても、仮令、大富豪が、何

十万の金を出さうとも、どうする事も出来ないのであります。


 そういふ絶対力で、行られるのでありますから、人間の力では、どう

し様もないのであります。でありますから、一日も早く、光明世界の

団体の一員となって、此、栄誉ある「大光明世界建設」の大事業

に、加はる事程、生甲斐のある仕事は、何千年来ない事でありま

す。でありますから、悪魔の方では、之は堪らないと、極力妨害しやう

と、してゐるんであります。


 マッソンの陰謀等も、ナカナカ油断が出来ないのでありますが、

いづれ最後には、斯マッソンも改心して、此光明世界建設に力を協(アワ)

す事になるといふ事を、私は知らされてをるのであります。斯うなるの

を一日も早く望んでゐる次第であります。



   下座の行    (信  昭和二十四年一月二十五日)

 下座の行という詞(コトバ)は昔からあるが、之は人間処世上案外重

要事である。しかも信仰者に於て殊に然りである。信仰団体などに、教

義を宣伝する先生に、どうも下座の行が足りないように見える事が屡々

ある。昔からの諺に「能ある鷹は爪隠す」とか、「稔る程頭を下げる稲

穂かな」などという句があるが、何れも下座の行をいうたものである。


 威張りたがる、偉く見せたがる、物識ぶりたがる、自慢したがるとい

うように、たがる事は反って逆効果を来すものである。少し許り人から

何とかいわれるようになると振りたがるのは人間の弱点であって、今迄

世間一般の業務に従事し、一般人と同様な生活をしてゐた者や、社会の

下積みになってゐた者が、急に先生といわれるようになると「俺はそん

なに偉く見えるのか」というように、最初は嬉しく有難く思ってゐたの

が、段々日を経るに従い、より偉く見られたいという欲望が、大抵の人

は起るものである。それ迄は良かったが、それからがどうも面白くな

い。人に不快を与えるようになるが、御本人はなかなか気が付かない

のである。


 神様は慢心を非常に嫌うようである。謙譲の徳といゝ、下座の行と

いう事は実に貴いもので、文化生活に於て殊にそうである。多人数集

合の場所や、汽車電車等に乗る場合、人を押し除けたり、良い座席に傲

然と座したがる行動は、一種の独占心理であって面白くない。

 円滑に気持よい社会を作る事こそ民主的思想の表われであって、此事

は昔も今も些かも変りはないのである。



   話上手より聞上手

                (光世二号  昭和十年三月四日)

 教理の宣伝をする場合話上手より聞上手が肝要である。相手の

話を能(ヨ) く聞く、能く聞けば先方は満足して快よく対する。其所を狙

って宣伝をするのである。少しでも議論めいた話を避け何処までも和

気藹々裡に話を交換しなければならない。其間でもコチラの話が一

寸でも先方に不快を与へずやと絶えず注意し、若し先方の顔に暗い

影が射せば直に話を転換するといふ風にしなければならない。次に相

対する場合何処までも先方を上座にコチラは下座にゆかなければ駄目

だ。処が往々先生と言はれるようになるとブリたがるもので此の点大い

に注意すべきである。



 (浄化者についてお伺いに対する御垂示)   

             御教え集3号  昭和二十六年十月十一日

(お  伺) 妻チエ子(35歳)昨年七月肺浸潤と診断され、弟栄(32

歳)も昨年11月肺門淋巴腺及び肋膜と診断され、色々と療養致しました

が、思う様に快復の見込みもなく、本年1月7日大本教に入信、大本教の

御神体も祖霊神もお祀り致しましたが、病状は日に日に悪化して行く許

りで、迷つている処に救世教のお話をお伺い致し入信。妻と弟を浄霊さ

せて戴き、一週間位で御守護を戴き、絶対安静を宣告された妻も弟も起

上り、散歩するようになり、弟は好きな魚釣りに行ける様な元気にな

り、5月に妻と弟が入信。6月には弟の妻も入信させて戴きました。5月

中旬頃より、弟が浄化を戴き左右全体が浮腫し、激痛が伴い、浄霊を戴

くと少しは楽にさせて頂いて居りますが、最近腹部が腹膜状態に浮腫

し、呼吸も苦しく、右側を下にして寝ると楽ですが、上向きや左側を下

にして寝ると苦しみます。7月20日に御神体並に御屏風観音様も御祀り

させて戴いて居ります。尚大本教の御神体は大光明如来様の右前に安置

させて戴き、大本教で祀つた祖霊神は新しく位牌を作つて、仏壇にお祀

りさせて戴いて居ります。尚先祖に、祖父が43年前水溜りに身体に石を

括り附け自殺致し、姉も18歳より癲癇にて15年前、31歳にて死亡、妹

(36歳)は18歳より精神病に罹つて居ります。右弟の御浄化は霊的なも

のと存じますが、御浄霊の重点に就き御教え御願い申し上げます。


〔御 垂 示〕 之は霊的ではありませんよ。やっぱり薬毒ですよ。薬

が溶けて下って来たのと、先に下がって足に固まっていたのが溶けて来

たのと――両方ですね。之は浄霊すれば、段々良くなります。腹膜状態

――之も薬毒ですよ。右側を下にする――と言うのは、右側の方に溜っ

ているからです。それで左側を下にすると、肺を圧迫するからですね。

之は肺から胸の方にかけて溶けている。それから、上向き――と言うの

は、胸の方に毒がある為、上向きになると圧迫するから苦しい。之は気

長に、段々溶かしていけば治りますがね。


 色々と大分罪穢れがある家ですね。処が、腹膜の為――に病気で苦し

むんじゃないんですよ。之は面白いのです。病気で早死にするのは、医

者にやられるんですからね。医者にやられて命を無くする――と言う

処に罪がある、と言うのは、御守護がないんですね。医者の思うが儘

にやられる。それに気がつく様な何かが起らないと言うのは、神仏

の守護がない守護があると、教えて貰える。守護があると、知ら

されて喫驚りして医者を離れて助かる。間接でなくて、結果に於て罪

が禍すると言う訳ですね。この例として――良い例がある。私が、今か

ら三十六年前に、歯で悩んだと書いてありますが、凡る東京中の有名な

医者に行って――何しろ四本痛むんですからね。それは薬毒の為だった

んです。


 それに気がつかないが、益々方々の歯医者に行って薬をつけた。終い

に、有名なアメリカ帰りの歯医者ですが、私の知っているだけの薬は皆

んなつけたが駄目だ。私の友達が来月アメリカから帰つて来るから、何

か新薬を持って来るかも知れないから――と言うんです。それで、頭が

段々変になつて来て、発狂するか、自殺するか、どっちかの運命だ。と

言うどん詰りになつた。処が時々来る人で、日蓮宗の行者で素晴らしい

人で、どんな病気でも治る。と言うので、一ぺん行った。すると、一週

間やって御覧なさい。その間は歯医者に行つてはいけない。と言うの

で、歯医者を止して、東京から毎日横浜に通った。そうすると、四日目

かに、汽車に乗っていると、今迄幾月にもこんな事はない。良いんで

す。行者の行が効いたんではない。その時ふつと思つたのは、歯医者で

薬をつけた。その為ではないかと思った。行者で治つたと言う形跡はな

いんですが、兎に角薬が原因と言う事が分った。それで、薬を止(ヤ)

めて嗽をしたりしていると治って来た。今日でも、未だですが、今では

慣れたんです。今でも、話がはつきりいかないと言うのは、痛むんで加

減してやっているからです。日蓮宗の行者にめぐり会つたと言う事が

御守護です。無論、神様がやられたんですがね。


 将来、私に重大使命があるので、助けて下さったんですがね。その時

はじめて、薬と言うのは恐ろしいものだ。薬毒と言う事も知らなかつ

た。そうすると、今日人を助ける事が出来なかつたかも知れない。神様

の御仕組と言えば、御仕組ですね。それからと言うものは、風邪引こう

が、扁桃腺の持病がありましたが、薬をつけないで、医者にもかゝらな

いで、段々丈夫になって来た。そうすると、西洋医学は間違っている

と言うので、医学衛生のあべこべにやったんです。そうすると、どんど

ん丈夫になつた自分の体で、医学の間違っている事が判った。で

すから――腹を冷やしてはいけないと、昔から言うが、それで、温めず

に冷やした方が良いと思った。私の子供なんかは、昔から一人も腹巻を

させません。そうすると、以前はよく下痢なんかしていたのが、温めな

い様になってからは、下痢なんかしなくなつた。だから、今でも言うん

ですが、丈夫になりたいと思つたら、医学の反対をすると言うんで

すね。




 明主様に神習う 霊主体従の在り方 

        (山根幸一先生の御講話録より) 昭和43年12月15日

 少しお話をさせて頂きたいと思います。是非、私達の毎日の生活・活

動の中に、これからお話しする考え方、行い方というものを、身につけ

て頂き、私達の心に、身体の中に育てていって欲しいと思います。

 それは、霊主体従のあり方という事です。明主様は、神様

を中心に生活させて頂く上で、ものの考え方、決め方、運び方に対し

て、霊主体従のあり方が大事であるということをお説きになっておいで

になります

 それは、私達人間の力より、神様の力の方が大切であるということで

す。


 霊界を認め、神様の実在を認めて、神霊のご加護の

下に活動していかない限り、私達が倖せになるという事は、有り

得ないという事をおっしゃっておられます。自分の知識とか、力とか、

体的な自分を中心にした考え方、行い方をしていきますと、これは結局

行き詰まってくるわけです。人の力よりも神様の力、それから物質の価

値よりも心の価値が大切なのです。確かに、たくさんの物を知って

いるという事も大切なことなんですけれども、それより大切なものが、

私たちの良心です。良識とか良心という方が大切である。それか

ら、目先の結果より、長い目で見た本当の結果というものが大事なので

す。


 そういう具合に、目に見えるものよりも、目に見えないものの方

を大切にしていく。そういう霊主体従のあり方、その事に努めてい

くということが非常に大事な事であります。常々、お話させて頂いて

おりますが、同じ有難いということでも、人に親切にされたり、お世話

されて有難いというよりも、人に親切にし、お世話させて頂いて有難い

と感謝されることが大事なんです。また、自分が御蔭を頂きたいという

事も、これは信仰させて頂く人にとっては大事なことなんですけれど、

人が倖せになり、御蔭が頂けるようにというお祈りをさせて頂く、そう

いう祈りの方が、大事なんです。


 人から親切にしてもらったり、物を貰ったりして喜ぶということより

も、人に親切にし、人に物を施して喜べるような人にならせて頂く

という事が、霊主体従のあり方として、非常に大事なことであるわけ

なんです。それに加えて、そういう心を養い培う、信仰心を養う

と。感じの悪い人より、感じのよい人になること。冷たい人より暖かい

人にならせて頂くこと。そういう身魂を養っていく、培っていく事が

大事です。


 神様に近づかせて頂く、明主様を見習わせて頂く

主様のようにならせて頂こうと努力していくことが、

私たちの信仰の眼目であるわけです。神様に近づく修行、

明主様に近づく修行をさせて頂くということは、救世教

に入信させて頂いている者の課題であります。


 このような修行を積重ね、上積みしていくことが大きな徳積みになる

わけです。最初から徳のある方はないわけです。救世教に入信させて

頂いて、明主様のお考え、やり方を見習って、身に付けていって、

そして徳の積み重ねをし、その分量を増やしていくことが大事なの

です。あの人ならいろんな事が相談できるとか、あの人とつき合ってい

ると感じがいいとか、あの人とは何時までもおつき合いしたいというよ

うな、いつまでも飽きない「米の飯(めし)的な人間」にならせて頂くこ

とが、信仰に入って大切な事であります。そういう心を養って行く為に

は、基本的に、この世の中が、どういう様な移り変わりをしているかと

いうことを知っていただかなければいけないわけです。


 この現実の世界に現れてくる一切の事象・物事が、悉(ことごと)く霊

界から現れて来ているということを分かって欲しいと思います。この世

の中のことを、明主様は「映し世」とおっしゃっておられます。つま

り、霊界にある事は、まるで映写機のように現界に映されてくるという

事をおっしゃっています。現界の全てのことは悉く、霊界にその端緒を

発しているこれが霊主体従の基本原理であります。


 ですから、私たちの毎日の生活の上に現れてくることは、私たちがし

ているのではなくて、所謂(いわゆる)、霊界で既に起こってきるので

す。

 ですから、私達のする事一切が霊界よりさせられている事が多いわけ

なんです。

 こういう基本的な仕組みを分からせて頂く事は、これからの新しい世

界、これから倖せになれるか、不倖せになるかという事に於いて、非常

に大事なことであるわけです。ですから例え悪い事が起きても、神様

にお縋(すが)りして、神様の御心を知って、神様に繋がって、明主

様のおやりになっているような考え方・やり方・生活のあり方をし

ていく事によって、だんだんと良くならせて頂くことができるわけ

なんです。

 これは私個人の事にしましても、以前は、病気とか貧乏とか争いと

か、いろんな苦しみがあったわけです。しかし、明主様のお話を聞いて

明主様の教えに従って生活しているうちに、だんだんと病気がなくな

り、貧乏がなくなり、争いがなくなり、倖せという味を味あわせて頂く

ようになれました。そして、人から羨ましがられて、ああいう人になり

たいと思われる様になれるまで、変わらせて頂くことができたわけで

す。


 ですから、明主様のお説きになっていらっしゃる事

は、大変な大きな倖せの道であるわけです。それを守りなが

ら歩かせて頂くという事が、私達信者にとって非常に大事な事です。

手(じょうず)に拝(おが)むことより、明主様の心を実行させて頂く事

が大事なんです。その事によって、「一粒万倍(いちりゅうまんばい)の

御恵み」を頂くことができるわけです。


 現在、私達はどのようにさせて頂いたら良いかということは、

一番に、大神様・明主様に対して、病貧争がなくなり、平和で皆が倖せ

な世界になるように、このご神前でお祈りをさせて頂くことです。

 今申し上げているように、私達のお祈りは、必ず大神様、明主様がお

聞き届け下さり、私達個人の上にも家族の中にも、また地域社会へもだ

んだん顕現されて、具体化されてくるのです。

 次に、大神様のご神格のご内流を頂くということです。ご神格のご

内流というと、何か難しい特別なことのように思われますが、決して難

しいことではありません。明主様のお考えとか、物の運び方とか、日常

生活のあり方とか、明主様のお働きを見習わせて頂くという事です。そ

のような心をしっから持って日常生活に努めることです。

 明主様の御論文にありますように、人に優しくすること、奥

床しくすること、自分の往んでいるところを清潔にす

ること、これらのことが全てご神格のご内流であるわけです。

 つまり、明主様と同じ考え方、やり方で生活することです。神様

の御心と同じになることはそうたいして難しい事ではないわけです。学

問がなければいけないとか、難しい話が分からなければいけないとか、

たくさん本を読まなければいけないとか、字が読めないからできないと

かといったものではないんです。


 人間、誰でも生活の中でそういう心掛けや行いはできるわけで

す。神様の、明主様の御心を心の中に頂いて、その光を強く、大きくさ

せて頂くことです。神様の御光を自分の心に灯(とも)して、この世の中

を善くする為に積極的に、真なるものの為に努力させて頂くことです。

身のまわりをきれいにし、人が倖せになるように勉強し工夫しなが

ら、実践を積み上げていけば、そこに自ずとご守護は頂けるはず

で、そうした生活をすることがご神格のご内流を頂くということになる

わけです。


 ですから、今お話ししている事を、各自が具体的に身につけ、習わせ

て頂くことによって、初めて良い習慣がついてくるわけです。

めるとか、精進することが、心や信仰心を養い、霊的な飢餓(きが)状態

を充満させることになるわけです。この事に対しては、常々、明主様や

二代様そして現在の教主様が私達に手本を見せて下さっていらっしゃる

のです。私達信徒が、心にしなければならないことを、教えとして、ま

た毎月にお話の中でお説き下さっておられるのです。

 
 心を養うという事は、非常に難しい様に思いますけれども、決して難

しいことはありません。今、早速にできることなんです。

 私なども最初は、想念を切り換えるとか、心を改めるという事は、何

か大事業の様に考えて、苦難が伴う様に考えた事もありましたが、一つ

のことに取り組んで、その事が分かると何でもないんです。また、その

ことに気付き、覚れた時の喜びは大変な喜びなんです。それと共に、

常生活において、私達の心の奥底に潜んでいる、自分さえ良かった

ら良いという我(われ)よしというものを無くしてしまわないといけ

ないわけです。人も良いし自分も良いという利他愛そういう

ものを、明主様に見習わせて頂く。明主様の心を頂かせて頂く事によっ

て、洗って頂かなければいけない。一つ一つ折りにふれ、時にふれ、改

めて、それを大きくして行く。人も良いし自分も良いという心を向上

させて頂く事が、私達にとって最も必要な事である訳です。

 よく、自分さえよかったら良いという人が、自分も良い人も良いとい

う利他愛の人を見ると、何となく、へんちくりんな可笑(おか)しいもの

に見える訳です。また我(われ)良しの心によって、利他愛の人の心を押

し計るという事は、非常に難しい事である訳なんです。利己主義の世の

中に於いて、利他愛の考え方・やり方をしていくという事は、非常に困

難である訳です。


 しかし、神様の御心・行いに基づいて、善い行いをさせて頂くと

いうことは、例え僅かな事であっても、些細な事であっても、自分

の身の上を考えるように人の身の上を考えて上げる。出来るだけ周

囲に施し、そして他人の心も押し計る。そういう信仰心を養う・培

う・行うという事。そういうおおらかな心を養う努力というもの

は、信仰させて頂いている者にとって、大切な努めである訳です。


 今月は特に、明主様の御生誕祭に当たる訳です。

 明主様が、どういう様な生活をなさったかという事は、「景仰(けいぎ

ょう)」の中にわかり易く、大勢の方々が記録に残しておいて下さってい

らっしゃる訳です。

 私も親しく、明主様にお伺いをして、世間話をさせて頂き、又、親し

く御浄霊を頂いた事がございまずけれども、この方の何処(どこ)が偉い

んだろうかと思う様な平易な考え、お話をなさっていらっしゃる訳で

す。難しいお話なんか、ちっともない訳です。それで偉そうになさって

いるかというと、そんなに偉そうにもなさっていらっしゃらない。お側

で御用なさっている女の方が、私の事を一番聞いて下さるのは、明主様

であるという事をいっておられました。


 明主様は朝起きられて、顔をお洗いになって、食事をなさって、普週

の人と同じ様に仕事をなさって、忙しい毎日の生活をなさっておられ

て、自分達の家庭のおじいさん・おばあさん・お父さん・お母さんと、ち

っとも変わらない生活をなさっていらっしゃる訳なんです。

 特別に何か、神懸かりの様な術を使われるとか、そういう様なことは

何もない訳です。静かな平几な、それでいて一寸スピードがありまし

て、物事の運びが非常に速いですから、それには驚いた訳です。

 私がお伺いして、お話をしている限り、そう驚く様な方とは違う訳で

す。ですけど、その結果に於いて、大変な大きな違いがある訳なんで

す。

 例えば、大きな事業をなさる場合でも、人が三十年掛かる事が、十年

位で簡単に出来てくる訳なんです。


 ですから、明主様は神様の御心を私達にお伝え下さると共に、日々の

御生活の中で、人としての誠の御手本を、ちゃんとお示し下さっていら

っしゃる訳です。ですから、明主様にあやからせて頂いて、少しでも

私達の生活の中に、心と口と行い。この三つ揃った誠。それを、明主

様に見習わせて頂く、生活させて頂く。その事を心掛けて、世の中が如

何に悪くなっても、そんなことは問題ではない訳です。


 自分の心と口と行いということが、神様から御覧になって変わら

なければ、霊的に高いもの、大きいもの、立派なもの、輝くもの

を、神様が下さる訳です。そういう宝を頂く。所謂、神様に繋がって

いるという事をハッキリ銘記して頂きたい。又、今年もそういう事に

明け暮れて、努力をさせて頂いた訳ですけれども、新しい年を迎えさせ

て頂いても、尚且(か)つ、その事に始まって、その事に終わって頂きた

い。そういう事を結びとして終わらせて頂きたいと思います。