平成24年12月度ミニ講座

今月は、今年の最後でもあるので、「最後の審判」をテーマに選び、同じ題名でお書きになった御論文を年代順に学びました。このようにして拝読することにより、メシヤ様の御神意を明確に知る事が出来ると思います。また、それぞれ皆さんの、来年の方向性も見えてくるのではないかと思います。

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 これは、昭和25年の御論文です。

  最後の審判    (地十二号  昭和二十五年一月二十日)

キリストの曰った最後の審判とは、何時如何なる形によって現はれるものであらうかは之は基督者は固より一般人も知らんとする処であらう。愈よ時期切迫の折柄、その片鱗を茲に発表するのである。然し之は私個人の見解ではない。全く霊感によるのであるから、一の参考とし学説として読まれん事である。

 一体、最後の審判なるものは事実あるであらうかを、先づ決めるべきである。そうして仮にも世界をリードしてゐる文化国民を中心に、数億の尊信者が絶対帰依してゐる、キリストともいはるる大聖者があり得ざる事をあるといって予言する筈はない。もし本当にないとしたら、単なる嘘つきといふ事になる。随而、基督者ならぬ吾等と雖も一点の疑なく確信してゐるのである。又私が之だけは信じてゐる。彼の大本教祖のお筆先に曰く「神の申した事は、毛筋の横幅も違はんぞよ。」といふ言葉はそのまゝ審判の予言に当嵌めても間違いないと思ふのである。

 又善悪に就て斯ういふお筆先がある。「悪は根絶やしに致して善の世に致すぞよ。」「悪の世は済みたぞよ。」「悪の世は九分九厘で厘止りに致し、一厘の仕組で善の世に振替えるぞよ。」「いよいよ世の切替時が来るぞよ。」とあるのは何れも最後の審判の意味でなくて何であらう。吾等が常にいふ之が所謂夜昼転換の事である。又お筆先に、「此世の大峠が来るから身魂を磨いておいて下されよ。」といふ処もある。之は夜昼の転換期を言ったもので、それを越す為には濁った身魂では駄目だといふ意味である。

 以上によって聖書の審判を基礎としお筆先の意味を検討する時、斯ういふ結論にならう。即ち大危機が迫ってをり、それを乗越すには心が浄くなければならない悪人は転落して、永遠に滅びるといふ意味である。とすれば、どうしても正しい信仰によって魂を浄め無事に乗越さなければならないのである。

 然し乍ら、世の中にはそんな馬鹿な事があって堪るものか。神も仏も人間が造ったもので、現実にそんなものはある筈がないといふ。唯物主義者は仲々信じられまいが、其時になって如何に周章てふためき神に縋ると雖も最早手遅れで、どうにもならない事になるのは、火を睹るよりも明かである。勿論神の大愛は一人でも多くを救はせ給ふのであるから、神意を体する吾等としては、繰返し繰返し筆に口に警告を与えてゐるのである。

 此事をお筆先には、「神は助けようと思って、筆先でなんぼ知らしてやれども、いつも鳴く烏の声と油断を致してゐると、今に栃麺棒をふるって、逆さになってお詫びをせんならん時が来るが、その時になっては、神はそんな者にかまうてはおれんから、身から出た錆とあきらめて往生致そうより仕様がないぞよ。」とあるのは、それをよく言ひ表はしてゐると思うのである。之に就て、ノアの洪水の事を概略かいてみよう。

 之は数千年か、或は数万年以前の出来事であらうが、無論古代ヨーロッパの或国に、ノアといふ名の兄弟があった。その兄が今日でいふ神憑りになって斯ういふ事を示された。それは近く大洪水があるから、世人に向って、大いに警告せよ。といふので兄弟は頗る熱心に民衆に向って警告を与えたが、誰も信じやうとはしない。数年かかって漸く六人の信ずるものが出来た。神は又方舟を造れと命じた。方舟というのは銀杏の実の形をした舟で、即ち蓋があるのである。処が暫くして果せるかな、長雨が続いた。

 此雨を百日降ったといふ説と、四十日といふ説があるが、兎に角長期間の豪雨には違いなかった。漸次水量は増し、人家は悉く水中に没し、僅かに山の頂(イタダキ)のみが残った。人々は争ふて舟を行り、又は高山の上に登ったが、意外にも猛獣毒蛇も人間と同様助からんとして、高山に、或は舟に登って来た。空腹の為残らずの人間を喰殺したのであるが、方舟には蓋があるから、登る事が出来ず、八人だけは助かったのである。その八人の子孫が今日の白人の祖といふ事になってゐる。

 次に、新約聖書に、ヨハネは水の洗霊をなし、キリストは火の洗霊をするといふ事が出てゐるが、ノアの洪水がヨハネの水の洗霊であるとすれば、キリストの火の洗霊は、いよいよ来らんとする最後の審判でなくてならない事になる。

 然し乍ら水とは体的であり、火とは霊であるから、吾等が今行ってゐる、霊を以て霊を浄める方法こそ、全く火の洗霊である。すると霊から体に移写するのであるから、火の洗霊が体的に如何に影響するか、之こそ空前の変異でなくてはならない。といっても危機は悪に対してのみ表はれ、善には危機はない事を知らねばならない。
此文を無信仰者に提供するのである。



これは、昭和26年の御論文です。

  最後の審判とは  (栄百十号  昭和二十六年六月二十七日)

 最後の審判とは、キリストによって発せられた言葉であるが、それは如何なる時期に、如何なる形によって表われるかという事で、キリストはそれに就て全然言われなかったから、今以て謎とされているのである。特に基督者は長い間此謎を解こうとしていたのは勿論だが、今以て誰も解き得ないようである。何となれば、若し解き得る者が出たとしたら、其人はキリストと同じレベルの人か、又はそれ以上の人でなければならないからである。

 処が今私によって、此真諦を解明する事を得たのであるから、之を知った何人と雖も驚異の眼を瞠らない訳にはゆかないであろう。というのは、最後の審判に際し、其衝に当るべき使命を神から与えられた私であるから、それは当然であろう。そうして審判という文字だけをみると裁きという意味で、神様が裁判されるように想像されたり、閻魔様が出現されるように思うであろうが、決してそうではない。ではどういう訳かというと、一言にしていえば、世界的大浄化作用の事である。

 私は以前から霊界に於ては、今迄夜の世界であったのが、愈々昼の世界に転換する時になったという事を説いて来たが、それが如実に現れるのが最後の審判であって、而も目捷の間に迫って来ているのである。之も予て知らしてある通り、霊界に於ては一九三一年六月十五日を境に、徐々として昼に転換しつつあり、最後に到って、決定的大浄化作用が行われるのである。

 勿論其順序としては神界、幽界、現界というように、三段階になって進みつつあるが、本当の昼間になった時こそ、即ち光明世界である。之に就てつい先頃、私は今年の六月十五日から、右の最後の段階である現界が、昼間になる最後の時に愈々一歩入るのである。そうして今年から十年間に、光明世界即ち地上天国の基礎が成立つ仕組になっている事を知るべきである。

 以上は大体をかいたのであるが、黎明から昼間になる迄には、勿論漸進的ではあるが、確実に一歩々々変化しつつある事は、信者諸君はよく知っているであろう。何となれば霊界が昼間になるにつれて、浄化がドンドン強くなってゆくと共に、浄霊の効果も著しくなり、現に日に月に治り方が早くなる事や、奇蹟の多くなる等である。信者諸君が一年前二年前の治り方と、現在と比べてみるとよく分るであろう。

 此様に浄化が段々強くなるにつれて、人類社会もそれに伴い、変化も激しくなるのである。一切が光明に晒される以上、相応の理によって、汚れたる者は段々衰えてゆき、清き者は段々栄えてゆくというように、霊界の浄化の程度と同化される訳であるが、実は之が重大問題である。という訳は愈々という時になると、いくら人間が頑張ってみても、大自然の力には抗する事が出来なくなるからで、善悪は判然と区別され悪は滅び、善は生き残る事となろう。

 右の理によって、罪穢の沢山ある人程、大浄化に耐える事が出来ず、永久に此世をおさらばとなるより致し方ないが、それに引換え、善は易々と生き残り得るのであるから、どんな浄化が来ても、耐えられる程の状態に置かれていなければ安心出来ないのである。

 従って最後の審判とは、罪穢の多い人は怖るべきであるが、少ない人は寧ろ有難いのである。何となれば最後の審判の後に来るもの、それは此世の天国であって、歓喜の生活者となり得るからである。

 それに就て、本教の出現であるが、以上説いた如く、審判を無事に切り抜け得る人間を、一人でも多く作るのが目的で、之が神の大愛であり、私に課せられた大使命でもある。其唯一の方法としての浄霊であるから、浄霊とは独り病気を治すのみではない。来るべき審判を無事に切り抜け得る資格者を作るのであるから、此仕事を知ったなら本教が如何に大きな救世的ノアの筥舟(ハコブネ)であるかを認識されるであろう、本教の名が救世教と言うのも、右の理由に外ならないのである。以上最後の審判の意味は、大体理解されたであろう。



これは、昭和27年の御論文です。

  最後の審判   (地四十二号  昭和二十七年十一月二十五日)

 キリストの曰はれた最後の審判というのは何か恐ろしい事が突如として起り、それによって信仰なき者は亡び、信仰ある者は助かるというように、至極簡単に割切ってゐるが、そういう事はないとも言えるが、有るとも言えるのである。というと甚だ不得要領であるが、之には訳がある。それは今後の神様の活動によって悔改める人間が多くなれば、其様な極端な方法は必要がないからそれでいゝが、そうでないとすれば止むを得ず徹底的に裁かれる事になるのであるから、此結論は人間次第という事になる。

 其様な訳だから神様は出来るだけ苦しまないで、穏かな方法によって改心を促がされるので、茲に愛と慈悲の深さが窺われるのである。そうして今日迄の人類が犯した罪穢の内、最大なものとしては何と言っても医学の誤りである。

 従って此事を充分肚の底から分らせ、悔改めさせる事こそ救世上最も根本であるから、私は何よりも此事に対して、最大級の努力を続けているのである。いつもいう通り人間の罪悪という罪悪は、霊肉共に病気が原因であるから、病気を治すと共に再び冒されないような健康人間にする事で、之によってのみ人類社会から、全く罪穢を追放されるのである。

 本教のモットーである病貧争絶無の世界というのも此事以外にはないのであるから、此事に就ては一層広範囲に詳しくかいてみよう。先ず現在の世界は独り人間のみか、何から何まで病気に罹っている。即ち家庭も社会も、国家も世界も同様で、悉く病体である。

 ヤレ第三次戦争が起ったら大変だといって心配するのも、其原因は世界的大浄化作用が起るからで、其他社会不安、犯罪激増、不幸な人々が増えるのも浄化作用であり、各国共思想問題や経済難、ストライキ等何だ彼んだと碌でもない事の続出するのも、社会的浄化作用であり、家庭内のゴタゴタ、夫婦喧嘩なども個人的浄化作用である。

 というように浄化作用のない処は、地球上何処にもないといっていゝのである。従って今日の世の中を浄化作用のない幸福な世界にするとしたら、先ず人間一人一人の病気を治す事であって、此理が分れば本教こそ世界を救う宗教、即ち救世(メシヤ)教という名も成程と思うであろう。



これも、上記と同じ、昭和27年の御論文です。

  宗教篇  最後の審判  (文創  昭和二十七年)

 私は之迄、現代医学の誤謬と、真の医学の在り方とを、微に入り細に亘って、徹底的にかいて来たので、大体分ったであらうが、然し之だけでは全部ではない。といふのは今迄説いて来たものは、体的即ち唯物面の方を主としたのであるから、謂はば半分である。従って残りの半分の面が、根本的に分らなければ、真の医学としての全部は分らないのである。

 尤も今迄説いた中にも、霊の実在と霊の本質と、霊の作用影響等は、相当かいたつもりであるが、それは病気そのものに就ての直接的解説であって、之から説く処のものは人体の内面である霊に関する一切である。従って宗教とは離れられない霊に関する以上、結局は宗教に迄発展し、神霊の本体に迄及ぶのである。

 然し此所説が最後に到って、宗教とはなるが、既成宗教のそれの如き、信仰一点張りの独善的のものではない。言う迄もなく経文、聖書、御筆先の如き、神秘幽幻な説き方ではない。飽く迄論理的、実證的であって、寧ろ科学的、哲学的といってもいい程のものであるから、現代人と雖も之を精読すれば、理解し共鳴しない訳はあるまい。

 換言すれば今日迄何人も説き得なかった処の、高遠にして人間が触るる事を恐れてゐた、深い微妙なる謎の本体とも言ふべきものであって、之を徹底的に開明するのである。といふのは現在迄の世界は宗教的、形而上的の殆んどは神秘の幕に閉され、其実体が明かにされなかったからで、それが為神といふものの本質は分り得ない為、神の実在なども一部の人を除いては、信ずる者が殆んどなかったのである。

 其結果唯物科学が絶対的信仰の的となり、遂に真理ならざるものを真理と錯覚して了ひ、物の正邪の区別さへ分らなくなり、折角苦心して成し遂げた人類の幸福に役立つ処の、発見発明と雖も邪神に利用され、本来の目的とは反対に不幸を生むべき道具にされて了ったのである。

 其結果病気の氾濫となり、経済的苦悩を生み、戦争の原因を作ったのであるから、斯うみてくると、此苦難に充ちた世界人類を救はうとするには、何よりも先づ可笑しな言ひ方だが本当の真理を開明し、世界人類特に文化民族の智識人に、自覚させなければならないのである。之が真文明を生むべき根本要素であって、之以外決してない事を私は断言するのである。

 此意味に於て、私は先づ医学の誤謬から明白にすべく、真理の鏡に照して、鏡面に映るままの真実をかくのであるから、絶対誤りはないのであって、私としても別段医学に対し、怨恨などある訳はないが、人類救済の必要上、止む事を得ないのである。従ってよしんば私が之を行はないとしても、誰かが神命によって行ふのは当然である。といふのは再三言う通り、時期の到来と共に、主神(エホバ)の神意の発動は、之以上の遷延(センエン)は許されないからであり、最後の審判は目捷に迫りつつあるからである。

 そこで神は先づ第一番に医学に対し、審判を開始されたのであって、此事が先づ私に命ぜられた使命である。といふのは曩に述べた如く人間生命の解決こそ、文明の根本条件であるからである。従って此問題を解らせる為には、今日の人間に解し得らるべく、時代即応の説き方でなければならないのである。

 而も前人未開の真理であってみれば、猶更そうでなければならないので、之を以てみても此著は、有史以来の偉大なる文献であって、此大任を負はされた私としても、責任の重大なる到底筆舌に表はす事は出来ないのである。


これは、昭和28年の御論文です。

  最後の審判とは何か 
              (栄二百十三号  昭和二十八年六月十七日)

 最後の審判に就いてこれからかいてみるが、その根本としては言うまでもなく世界的大清算であって、長い間溜りに溜った処の罪穢の浄化作用である。従って余りに穢くどうにもならないものは、地上から永遠に抹殺される外はないから、恐ろしいのである。という訳で将来役立つものは勿論残されると共に、役立たないものは処理されてしまうのは致し方ないのである。それは口で言えば甚だ簡単だが、これが人間にとっての脅威は、前古味曽有の大異変であるから、到底筆や言葉では表わせないのである。

 つまり根本は、善と悪との立別けであって、善人は無罪となり、悪人は有罪者となる訳で、決定的審判が行われるのである。従って現在地上にある人間悉くは、裁きの前の動物に等しき運命に置かれているのだから大問題である。然も悲しい哉、赦される者は極く少数で、救われない者の方が大多数である事で、その割合は数字では表わせないが、大体右と思えば差支えないのである。

 勿論日本人も同様であるから、助かりたい人はこの際至急頭の切替えをする事である。この事は昔から各聖者が神の代弁者としてハッキリ予言されている通りで、言わばその時が来たのである。それも人類全部が救われるとは言わなかった。ただ神の大愛によって一人でも多くを救えと曰われただけであって、その使命を以て生まれたのが我救世教であるから、先ずこの認識が何より肝腎である。
 右の如く救われる人よりも救われない人の方が多いとしたら、この事を信者はよく心得て置かなければならない。というのは病気を治し救おうとする場合その見別けが必要である。成程誰も彼も一人残らず救ってやりたいのは山々だが、右の如くであり時の進むに従い、救われる人と救われない人とは自ら判るようになるからで、これは神意である以上、如何共し難いのである。

 従って浄霊を嫌ったり、話に耳を傾けなかったり、逆にとったりする人は、已に救われない側に運命づけられたからで、そういう人を何程分らせようとしても無駄であり、反って救わるべき人が疎かになるから注意すべきである。

 又折角御蔭を頂いても大病が治り一時は感激しても、時の経つに従い忘れたり、迷ったりする人もあるが斯ういう人は已に縁が切れ、滅びの方へ廻ったのだから、手放した方がいいのである。

 以上によっても分る如く、これからは入信させようとする場合、素直に受入れる人はいいが、そうでない人は縁なき衆生として諦めるより仕方がないので、この意味に従い最後に近づくにつれて信者諸君は先ず善悪を判別する事である。



 こう読んでくると、段々とお言葉も厳しくなり、段々はっきりと仰っているのがよく分からせていただけると思います。メシヤ様とお呼びさせていただくという事は、「神厳しくなれば、人民穏やかになるぞよ」という大本教のお筆先にあるように、時の進むに連れて、今まであいまいにしていた事はそれでは許されなくなるという事です。
 ですから、メシヤ様の信者であると思っておられる方々は、御教えを行動の規範として日々生活に活かし、自らの魂の覚醒と向上に努める姿勢が大切であります。
 最後の審判は、魂の問題だから・・・。やるべき事、進むべき道は決まっていると思うのですが・・・。

 つづいて、お陰話を学んでみてください。

 
〈お陰話〉    霊界の真相 
             『地上天国』19号、昭和25(1950)年12月25日発行
    愛知県額田郡岩津町真福寺村 五六七大教会愛光中教会 小島好雄(30)

 私がこの有難き御業に参加させて頂きましたのは、一昨年十一月でございました。
 八十歳になる祖母の奨めで妻がお守を受け当時はまだ朧気ではありましたが、本教の偉業に感動致し、一家挙って教修を頂きました。毎月の教会の例祭に、また箱根や熱海へ、御参拝する度に偉大なる御霊力を知り、この道に御導き頂けましたことに喜びを感じ、日常生活の上にも数々の御守護を頂いて参りました

 なお昨年四月には長男が出生致しましたが、代々子宝が少く、男子の出生は五十余年目のこととて、一家を挙げて歓喜しこの上ない感謝の日々を過しております。また、今日は霊の実在を体験させて頂き、今までは先生から霊の話を承りましても、半信半疑でおりましたが、今度は目のあたりまざまざと祖霊の憑依するのを見せて頂き、なお一層信仰の念を固めると共に、世の多数の唯物思想に固っている人々の一人でも多く理解して頂きたく、拙筆ながらこの事実を報告申し上げる次第でございます。

 昨年十月、大光明如来様を奉斎致し平良先生並びに小芦先生の御光来を願い、御祭りさして頂きました際、家内中御浄霊をして頂きました。家族の者が済み御詣りに来合せていた藤原ふみ子さん(二十歳)の御浄霊にかかられますと、咽喉に何か詰ったようにしきりに咳ばらいを始め、胸の鼓動も激しく、冥目して両手を胸の上に合掌して組み上下に振り出しました。この人は浄霊をするとこのような状態になられたことが二三回ありましたが、未熟な私共には霊の憑依ということを知らなかったのです。

先生「どなたですか、先祖ですか」
霊 「吉陸(ふみ子さんの父)五十三歳の時に死んだがまだ行くところへ行かれない」

先生「地獄におられますか」
霊 「地獄と天国の間にいる」

先生「では八衢ですね」
霊 「はい」

先生「八衢では何をしておられますか」
霊 「胃癌がまだ癒っていないから、身体が弱くて何も出来ないので、じっとしている」

先生「何故胃癌になったのですか、原因に判りませんか」
霊 「私は若い時に我がままの仕放題をしたからその罪によってだ、私の親は天国にいるが私は行かれない」

先生「何かお願いしたいことがあるのですか」
霊 「早く大光明如来様を御迎えして、信仰に一生懸命になるように、そうすればこの娘の身体も丈夫になり幸福になれる。早く……早く……一刻も早く、世裁きを受けない中に、大掃除の始らない中に大光明如来様をお迎えしなければ……」

先生「霊界ではもう大掃除が始っておりますか」
霊 「始ってます。大掃除はとてもきびしいです」

先生「大光明如来様をお祭りすれば、貴方の望みは叶うのですか」
霊 「そうです。早く大光明如来様をお祭りして信仰に一生懸命になるように他に望みはありません」

先生「ではよくそのことをお伝えしますから、安心してお帰り下さい」

と申されて祝詞と善言讃詞を唱えて浄霊されると、組んでいた手を振らなくなり、静かに眠るようになりましたが、再び前より大きく激しく身体を動かせました。

先生「まだ何かお話がありますか」
霊 「無言」

先生「どなたです」
霊 「為吉、吉陸の親、私は天国にいるが、お前等の今住んでいる家は日の出向きの家だから、大光明如来様をお祭りして信仰に一生懸命になれば必ず出世をする。七転びして八起きと言うが、七転びして非常に苦労して来たが、今は八起き目だから必ず必ず栄える」

先生「大光明如来をお迎えすればよいのですね」
霊 「早く大光明如来様をお迎えして毎朝祖先を祭りお母さんの言われるように何事もお母さんに逆らわず、仕事にも一生懸命励むように」

先生「では大光明如来様をお祭りするように申しますから、安心してお帰り下さい」

 前のように祝詞と善言讃詞をあげたら静かに冥目したまま、五分程してフト我に帰り目を覚まして、皆が意味あり気な笑顔を向けているので、何か訳の判らぬままに微笑しておりましたが、今のことを話すと大いに驚き、自身には何の記憶もないと申しました。以上に見ましても、光明如来様の御救いの絶大なるを、今更のように胸に深く刻みつけられ、微力ながら出来得る限りの力を発揮して、救いの業に参加させて頂くよう覚悟致しております。

 なお藤原さんのお家へ大光明如来様を奉斎させて差上げました。また私方女工さん一同にもお守りを頂きまして、一家明るく、揃って信仰に励んでおります。