平成23年4月度 ミニ講座

我と執着     (信  昭和二十四年一月二十五日)

凡そ世の中の人を観る時、誰しも持ってゐる性格に我と執着心があるが、之は兄弟のようなもの

である。凡ゆる紛糾せる問題を観察する場合、容易に解決しないのは、此我と執着に因らぬものは

殆んどない事を発見する。例えば政治家が地位に執着する為、最も好い時期に挂冠すべき処を、時

を過して野垂死をするような事があるが、之も我と執着の為である。又実業家等が金銭に執着し、

利益に執着する為、反って取引先の嫌忌を買い、取引の円滑を欠き、一時は利益の様でも、長い間

には不利益となる事が往々ある。又男女関係に於ても、執着する方が嫌われるものであり、問題を

起すのも、我執が強過ぎるからの事はよくある例である。其他我の為に人を苦しめ、自己も苦しむ

事や、争いの原因等、誰しも既往を省みれば肯く筈である。

以上の意味に於て、信仰の主要目的は我と執着心を除る事である。私は此事を知ってか

ら、出来るだけ我執を捨てるべく心掛けてをり、其結果として第一自分の心の苦しみが緩和され、

何事も結果が良い。或教に「取越苦労と過越苦労をするな」という事があるが、良い言葉である。

そうして霊界に於る修業の最大目標は執着を除る事で、執着の除れるに従い地位が向上する事に

なってゐる。それに就て斯ういう事がある。霊界に於ては夫婦同棲する事は普通は殆んどないので

ある。それは夫と妻との霊的地位が異ってゐるからで、夫婦同棲は天国か極楽人とならなければ許

されない。然し乍ら或程度修業の出来た者は許されるが、それも一時の間である。その場合、その

界の監督神に願って許されるのであるが、許されて夫婦相逢うや、懐しさの余り相擁するような事

は決して許されない。些かの邪念を起すや、身体が硬直し、自由にならなくなる。その位執着がい

けないのである。故に霊界の修業によって全く執着心が除去されるに従って地位は向上し、向上さ

れるに従って夫婦の邂逅も容易になるので、現界と如何に異うかが想像されるであろう。そうして

曩に述べた如く、執着の権化は蛇霊となるのであるから怖るべきである。人霊は蛇霊となる際は、

足部から漸次上方へ向って、相当の年月を経て蛇霊化するもので、私は以前首が人間で身体が蛇と

いふ患者を取扱った事があるが、之は半蛇霊となったのものである。

従而信仰を勧める上に於ても、執念深く説得する事は熱心のようではあるが、結果はよくない

之は信仰の押売となり、神仏を冒涜する事となるからである。凡て信仰を勧める場合、ちょっと話

して相手が乗気になるようなれば話を続けるもよいが、先方にその気のない場合は、話を続けるの

を差控え、機の到るを待つべきである。




     『神からの人へ』 

(己れ、我欲、自己について)

己れ、我欲、自己、全て神の心を失いしときにはびこり、力を強める悪しき想念なり

ひとたびこの想念に使われなば、それから逃れるに難く、それを取り去るはさらに難し。

なれば、人は、神を想い、己れの魂を磨き高め、己れの存在と神のご存在との共にあることを喜

び、常に感謝を棒げおくことが肝要なり

神が創られしときの人間は、一人一人が個でなく、我(が)でなく、我(われ)でなかりし。

人は、神の子、神の写し絵、神の心を持たされ、神の心を映す、何にも染まらぬ透明な魂を持ちて

創られし

なれば、一人一人がそのまま、神と交信し、神の声を聞き、神と交流を楽しむことすら可能なり

し。

人が己れを持ち始めしは、全て、物質が心を越え、物質が、魂、心以上に価値を持つと人が信じ始

め、心、魂を隅に押し込め、我欲に魂を曇らせ、我欲に取り付かれしときからなり。

なれば、人は己を戒め、己の奥底に眠らされし魂を復活させ、その居場所を整えゆくことが大事

り。



(宗教とは)

宗教なるは、神が、ご自分のご存在を現界の人間に知らしめるために、作らせしものなり。

神はそれをもちて、先ずはご自分のお力をお示しになり、信仰を持たせ、人間の理解を超えし力の

存在、人間の知恵を越えて及ばぬ英知の存在をお示しになられる

それをもちて、人が神を見付けることを、己れの中に眠らされし魂、魂の奥に隠されし神のご存在

に気付かせることを図られた

なれど、現行の宗教、教団の多くは、初めの元の神のご意志を映すものは少なし。

時を経るに従い、人の思惑が先に立ち、神のご意志をそのまま映すものは残り少なし。

信仰と宗教は別なり。

信仰持ちても、宗教持たぬ者有り。宗教持ちても信仰持たぬ者有り。いずれも神は認められよう。

なぜなら、己れの意志、意図に関わらず、神のお役に立つ行いなさば、自ずと魂も変わりゆくな

り。なれど、信仰持ちても何もなさずば、神はその魂を昇華させることはおできにならぬ

同じく、宗教持ちても、自ら何もことをなさずば、やはり、神は、真にその魂をお救いになること

はできぬなり。

心、魂、肉体、一つなり。一つのものなり。

それ故、宗教も信仰も、己れの全てをもって行うべきものなり。心のみの信仰、宗教に、何の価値

もなし。肉体のみの真似事(まねごと)の行い、これも価値なし。

なれど、神の御心に適う行いなさば、心・魂は、気付かぬうちにも変わりゆく。

なれど、行い何も致さずば、いくら心高く、口に清きことば述べても、神の御心に適うことはな



なれば、宗教に入りし者は、救われ易く、宗教に入らぬ者は救われるに難きも、それがためなり。

よいな。しかと覚えおけ。

行い、行動、働き、行、これら全て、肉体を伴う。

肉体なからば、行はなし。肉体なからば、現界の行なし。現界の行、即ち全て肉体もちて行うこと

なり。

よいな。想念のみにては、魂は向上せぬ。心は浄まらぬ。肉体は浄まらぬ。

行いもちて人は、昇華しゆく。これを可能にす。

しかと命じておかれよ。そなたの胸、肚(はら)、魂に。



     一九九九年九月二十四日

神は、人と、人と共にある様々なこと、もの、現象、天命、人一人一人の行うべきみ役、全てを仕

組まれ、ご計画に沿って、神仕組み、神経綸をお進めになられてこし。

今、最後のお仕組みとして残りしは、この世の立て替え、立て直しのみなり。その神仕組みがよう

やく成就を迎えつつある。そは、神がこの世を創られ、この世に、神の御心を映す地上の神の国を

創らんがために、この世の初めから定められしことなり。

この世が、次第に汚れ、崩れ、神のご意図から離れゆくも、神はこの世の初めから、予測もされ、

そのようなご計画でありしといえよう。人が一度は汚れ、曇り、我の奴隷となり、神を忘るる。そ

のことすら、神は、初めからご存知のことにありし。

人には、この世が神のご意図から外れゆくことを、憂うる者もあろう。行く末を案じて、己れのも

ちて、この世を作り直そう、作り変えよう、そう意図する者もあろう。なれど、神のお仕組みが働

く以上、それら人間の業、人間の知恵、人間の技術、能力、全て限界あり。できることの範囲は極

めて狭く、ものの数にも入らぬ行いなり。

今、人に求めらるるは、神のご存在を知り、神に全てを委(ゆだ)ねる心、神に全てをお任せする

心、神に一途に帰依(きえ)せんとする、真白き魂への、浄化なり

なぜといえば、神は一切を、ことの始まりから、一切を仕組まれ、企図され、何もかもを、お決め

になっておられし故なり。今、人が恐れ、慌(あわ)てふためきてことをなすも、その多くは小手先

の、ただただ些末(さまつ)な、取るにも足らぬ行いに過ぎぬ。


今、神に降ろされし魂、即ち、最後の時に臨みて、最後の仕上げを、神仕組みの最後の仕上げをす

るに当たり、神のお役に立つために降ろされし魂神のお仕組みの手伝いをせんと命ぜられし魂

各々のみ役を実行に移し始めし。神に授けられしみ役を果たし始めし。神のお仕組みにより

て、ある者は書を、ある者は光を、ある者は声を、己れの能力・才能・天分に応じて、人に広め、

知らしめ、気付きを与え、悟りを得させ、心・魂の浄化を手伝いつつあるなり。

神のご経綸、神のお仕組みは、そのためであらば、いくらもその者に力・光・能力・機会・人脈・

金脈・物質・金銭、いくらでもお与えになる

なれど、それら全て、み役のためなり。み役を果たし、世の立て替え立て直しに活かすためなり。

もしその中に、神の御心に適わぬものが多少なりとも混じりおらば、神仕組みは容易に働かず、そ

不純なるものが取り払われるまでは、お仕組みを賜ることはなし

もし、神のために、利他愛のために、み役のために、その者自身は汚れなく、純粋に、無垢に、み

役を果たさんとしても、そに関わるもの・こと・人、いずれかのどこかに、その行を行うに相応し

からぬ思いを持ちしもの・こと・人あらば、神は先ずそのことを戒むるなり。

それ故、人は、謙虚に、素直に、己れの心、行い、魂、肉体の行、日々の行、人との交わり、人へ

の思い、改め見直す必要あり

神は、現象をもってお伝えになられる。神は罰をお与えになることはなし。

全て、必然の結果なれば、起こりし不幸は、己れの行いのいずれかどこかに、必ず誤りあり。

その必然の結果を、現象によりてお示しになるのである。

それ故、よいな、一二三よ、この世で起こる一切は、己れの行・行いの必然の結果なれば、よきこ

とはよき心の、よき行いの、よき魂の結果なり。また、悪しきことは、悪しき心、悪しき行い、悪

しき魂の結果なることを思い、常に己れを省みることを忘るなかれよ。

なれど、一二三よ、神は喜んでおられるよ。そなたの行い、思い、行、日々によき方向に向かうな

れば。

そなたの内の魂が、ようやくに目覚め、自らの行に、日々素直に従い、神のお役に立たんとして、

行に励んでおること、神はご存知なり。よいな、これからも、一途な思いを忘れず、神経綸のため

の己れのみ役、果たされよ。

そして我等の声を、そなたの励みとし、心緩めることなく、日々、気持ち新たに、気持ち引き締

め、行を積めよ。今日は、そなたへの伝え終わらん。



    一九九九年九月二十五日

神が、この世に創られし、この地球、自然、大地の恵み、太陽の恵み、海山の産物、植物、動物、

昆虫、その他の諸々の生物、そして万物の霊長たる人類、こうした一切の創造物は、みな神の み

力、ご意志、ご意図によりて創られ、生を与えられ、魂を与えられ、そして、多くの能力、知力、

体力、それぞれに見合いし、全てのものを必要に応じ、程良く備わせられた。

それ故、一つ一つの調和、意識せずとも、自ずと生じている全体の協力、団結が、各々は意識せず

とも、自然に図られ、また、働くように創られていた。

なれば、人のみが、己れを持ち、己れのみを大事にしようと望み、行動する。この世にある生命の

中で、最も魂を汚した生き物なり

なれど、それにても、神は、人をお見捨てにならず、数々の、啓示、現象、事象によりて、人に気

付きを与えん、悟りを与えんと、骨折られた。

気付きを得る者は少なく、逆に神を 呪い、恨み、憎みて、やがて神から、急速に離れてしまう者

が多かりし。神は、いつか気付くことを信じつつ、多くの奇跡も行われた


人を使い、自然を使い、動植物を使い、地球・宇宙・この世にありとある森羅万象に秘められし、

神の神秘、神の 奇跡、神のご意志、ご意図を、人に分からせんと工夫された。

なれど、気付かぬ者多く、今ついに、み役を持たせし多くの魂を、この世に順次送られ、人の改

心、悔悟、改悛、そして神への下座と、我の浄め、魂の昇華を、人一人一人が、これまで以上に 

容易に進められる環境・条件を整えられた

なれば、今の世の人は、これまでの長い歴史の中で最も神に近づき易く、神の光を受け入れやす

い、ありがたい環境といえよう。

なぜなら、昔まだ、これほどまでに、地球・自然・環境・生命の体系、お互いの連鎖が今ほど狂っ

ておらず、神もそれを見守っておられた時代には、神はこれほどご自分のご存在を示す必要もな

く、人の中に幾人かの魂を送り込み、その者に、奇跡を起こさせ、光を示させ、声や文字をもちて

 人に伝えれば、それでことは済み治まりおりし故に。

人は、今、最も危険な時を、なれど最もありがたき時を、迎えんとしている。

神の奇跡は、ご自分のご存在をお示しになるだけでなく、人をして、いやがうえにも心を入れ替え

させ、心に染まずとも、魂を浄化させることとならん。

この時に当たりて、最後まで神を信じず、我を張り、己れに囚われしままなれば、それは魂の永遠

の消滅となるのみ

積み来たりし、多くの罪、汚れ、魂の曇り、濁り、それら全て、一度に浄化させよ。

遅れし者は、今、この時にも、まだ間に合うべし。

最後に伝えられる神のご意志、ご意図、それは今、初めて人に伝えられることではなく、何千年も

前から、人々に伝えられしことなり。

宗教者はみな、知っておりし。

いかなる宗教であろうと、この世の終わりに神が現れ、この世を一度は壊滅させ、そして残されし

者を使いてこの世を再び神の国に復活させるであろうことを

宗教、流派、信条、信念、細かい違いはあろうとも、皆、同じ内容を伝えしものなり。

なれば、人は、宗教の違いによらず、全て同じことを知り、目指し、己れを磨くことを、魂を浄

め、高めることを、図らずも、行わせられしものなり。


神のみ力、神のお仕組み、神のご意志、ご意図、神経綸、これら全て、今の世にては、人の意識・

知識・概念・能力・常識、良識を越えしものなり。

どのように学問を積みし者でも、神を知らぬ者は不幸なり。

逆に、何ら学なく、教養なく、知識・学問・特技なく、文字を読むことすらできずとも、神の偉大

さ、崇高さを、素直に感じ、信じらるるは幸いなり

なれど、学問も大事なり。教養も大事なり。文字が読め、ことばが話せ、神の伝えんとすることを

素直に聞け、そのことを人に、文字・声・ことば・書・光・音楽・絵画、その他のものを用いて、

人に伝えること可なる者は、さらに幸いなり

そなたの思う幸せとは、いかなるものか。答えられしか。

我等の思う答えなるものは、今伝えしことなり。

人としての行が、神の子としての行と直結し、心素直に、目の前の学問・知識に曇らされることな

く、踊らされることなく、己れに課せられし行に取り組み、最善を目指すことができること、そし

て、神の御心に適うか否かのみが心の基準であり、心の働きが神と一体化し、己れなく、我

(が)なく、人なく、自分なく、あるのは神の、ご意志、ご意図のみであるような、そうした心組み

になれることなり

さならば、人は、一切の束縛から放たれ、自由無碍(むげ)に、行い、楽しみ、無限の喜びに満たさ

れ、無限の光に照らされ、神への感謝、歓喜、感動に満ち溢れん。

人の幸せとは、現世のみに関わるものではなし。永遠の時の流れの中で、各々の魂に応じて決まり

ゆくものなり。

今、富に満たされ、金銭・物質に囲まれ、何不自由なく贅(ぜい)を満喫しようとも、あの世に戻ら

ば、何も持ちてゆけぬなり。あの世に持ちて帰らるるものは、魂一つなり。

汚れし魂 残りし者は、あの世にて、その汚れを取るための、苦しく、辛く、長き行あり。

汚れ、曇り、濁りし魂の垢を取ることは、この世以上の苦しみなり。

磨き磨きて、磨き続け、神の御心に適うまでには、この世の倍も、数倍もの労苦を伴うものなり。

それ故、人は、できる限り、この世での行を積み、魂を磨き、浄め、高めねばならぬなり。

人はこうして、この世の行を積むなれど、苦しいだけが行にあらず。楽しく、嬉しく、喜びに満

ち、心豊かに行えるが本物なり

苦痛、快楽、どちらも人間には大切な感覚なれど、どちらも魂に曇りを作らん。どちらに囚われて

も、魂は曇り、汚れてゆかん。望ましきは、程良く、どちらも経験し、心を常に中庸に保ち、安定

を心がけ、自然に落ち着く境地にあること。

難しけれど、魂を鍛え、心を鍛え、己れを強く律する鍛錬を行いゆかば、自ずと到達せん

今日、そなたは大切な教えを賜りしよ。そは、人の幸せについてなり。

そなたが望む幸せは、そなたの思いがどれほど、神の御心に適うものか否かで決まりゆかん。

神の御心に添い、神の御心に近づかんと努力することで、そなたの魂が、神の御心と調和し、連動

し始め、共振し始むれば、ことは一切がうまく運びゆかん。それまでは、己れの鍛錬を繰り返し、

魂を浄め高めてゆくことが第一なり。

この世での栄耀栄華(えいようえいが)、その空しさ、はかなさは、古来、人も語り続けしことな

り。

この世が全てではなく、あの世にても魂は続き、幸せが、単に肉体のみに与えられ、感じられるも

のでなきことを知らば、幸せなるものの本質も自ずと悟られよう。

本日も、よく心を浄め、高める行を積まれよ。そして、神に感謝の気持ちを捧げて過ごせよ。

道遠く、険しく、困難に見えようとも、人間心を捨ててかからば、そは決して遠く険しき道にあら

ず。神のみ光に照らされ進みゆかば、長き道も、明るく楽しく、喜びに溢れん。

神の偉大な御心に、少しでも己れの卑小な心を近づけ、我なく、欲なく、執着なく、自由なまま

に、神と共にあることを感じ、信じ、神と一体化して歩むとき、神は、多くの恵み・仕組みを授け

られん。光照らし、光明世界を実現されん。


神仕組み、神経綸、一人一人のためにありし。そして、人全体、地球全体、宇宙全体、一切のため

に働くなり。

神人一体、人皆、神の子、宇宙の一部。なれば、一人の我欲に囚われ生きることほど、つまらぬも

のなし

大局に立ち、神の心でこの世を見れば、いかに一人の人間が矮小(わいしょう)なるか、見えてくる

らん。

人、神、その間に何もなし。神は、そのまま人なり。人と共にあるなり。

人は神なり。人、行を積まば、神の御心そのものになりゆくなり

行は、行なり。なれど、己れの魂が、奥底にて求める行いなるべし。神に課せられしといえども、

己れの魂が必要とし、自ずと求めているものなり。

なれば、その魂の要求に素直に従わば、行は進み、何の労苦、困難、苦痛がありようか。素直に行

じ、素直に進む、それが第一なり。

苦しみ、迷い、戸惑い、悩む、それはその行に誤りあるなり。かような行は、かえって魂を曇らす

るものなれば、むしろやらぬがよき行なり。

人一人一人、行を見付け、行を見いだし、素直に行ずる。一途に行ずる。それが神の望まれるあり

方なり。

よく求め、よく聞く者は、よき導きを得ん。

よく望み、よく働く者は、よき実りを得ん。

よき心、よき魂、よき働き、いずれが先か分からねど、人の全てをもちて、行を積まば、全体がよ

く動き、巡り始めん。考え過ぎず、悩み過ぎず、目の前に囚われず、大局から眺め、考えてゆかれ

んことを。

大局から考え、行うことは、神の御心に適うことなり。

必要あって、仕組まれしことも、さすれば見えてこよう。

己の中に閉じこもりしは、己の目をそらすことなり。

今日も、そなたの行の成就を祈らん。

これにて今日の問答は終わらん。



  打続く奇蹟に一家光明を見出す         『地上天国』22号、昭和26(1951)年3月25日発行
                                                  大分県南海部郡重岡村大平  帰一中教会 竹尾八千代(33)

 私方一家は、日通へ働く主人を中心に私と子供二人の四人住いの非農家であります。私の弱い体

は腎臓、脚気、肺ジンマシンと併発、頭痛に不眠と当時やっと家事に追われて暮れる状態でした。

四年前二男隆則が出生してより病状は益々悪化し遂には主人から炊事までして戴く有様、医者に薬

に民間療法と出来る限りの養生を致しました。それから四年目の昨年の御盆でした、重苦しい足を

引ずりながらお墓参りをすませ帰宅致しますと平素の苦痛に加え全身物凄い激痛が起りました。寝

ても坐ってもたまらなくどうして良いかわかりませんでした。その時でした、苦しい時の神頼み主

人が歯痛の時、近くの植村さくさんから奇蹟に治して戴いた事を思い出し、もしかしてこの苦痛が

治ったらと植村さんへ御浄霊を御願いする事に致しました。三日目にはあれ程の苦痛がすっかり楽

になり、これは不思議とそれからは毎日御浄霊を頂き日増しに元気にさして頂きました。

 九月末には横川分教会の小鱗先生臨時祭にお参りさせて頂きその時は教会下の橋が悪く頭の浄化

と足のフラツキで渡る事が出来ず、ハダシになり皆様から渡して頂きましたが、帰りには会長先生

の懇な御浄霊に平気で下駄ばきのまま渡る事が出来絶対なる御力をはっきり掴ませて頂き十一月教

修及び屏風観音様を御迎えさせて戴きました。それから二週間目の十一月十六日にはまた忘れられ

ない御守護を頂きました。早朝延岡市へ用件があり汽単に乗るべく駅へ参りますと四〇分延着の知

せ、今まででしたら一日に一度しか食事がいただけなかったのに御浄霊を戴きましてからは毎日三

度の食事が美味となり早朝の事とて食事をしていなかったので食事を済まそうと思って家に帰りま

したところ、子供が起きていて是非私も一処に連れて行ってと泣きすがるものですから仕方なく連

れて行く事に致しました。行く途中何ら変った事もなかったのに延岡の叔母の家へ着くと急に腹が

痛いと言います。

 忙しい用件と疲れで休んでいる主人の事が心配で帰る事ばかり考えていた矢先、そんなに悪いの

にと叔母が心配して御霊紙を切って一服のませましたところ、一まず落ちつきましたので帰途につ

きましたが何だか不安な気持が致していました。市棚駅まで来ますと子供がしきりに睡むい睡むい

と申しますので気をつけて見ると急に様子悪く、あっと言う間にひきつけ全身冷たくなって参りま

す。「隆則、隆則」と呼びますけれども声はすでになく、かすかな呼吸の間に口からは泡が出、遂

には唇、爪から全身と紫色になってしまいました。どうしてよいのか不安は高まるばかりです。そ

の時車掌さんが私達を見つけ、どうしたのですと列車の中は急に騒然として参りました、不気味な

内に一人の医師が乗り合せている事がわかり早速診察して戴きましたが、医師は食い合せだから浣

腸したらよいでしょうけれどあいにく何ももってないので困りましたとの言葉、私は考えました、

近頃は食事もせず何も食べた訳でなし、今朝買ってやった落花生も二粒食べただけなのにと不審な

診断に不安は益々高まり神も仏もないものと胸を撫でますとお守が手に触れる、大光明如来様と口

ずさむと同時、狂気状態と成って子供を抱きしめては泣き狂い絶望のため茫然としていた自分に気

付きました。大光明如来様、明主様申訳ございません御守護御願い致します。今度だけ救われるも

のならと、無我夢中腹部に向って浄霊さして戴きました。すると浄霊を始め五分間位たちますと頭

から蒸気のような湯気が上り始めました。どんどん浄霊を続けていますと湯気がどんどん上り唇か

ら手足顔と血色が出て参ります。ああ有難いと元気を出し浄霊を続けていますと奇蹟、物凄いどろ

どろの濃緑色の便がズボンから滲み出て参ります。よくもこれ程身体の中に有ったものだと思う程

どんどん出ます。乗客の方も驚異の眼を見はりながらよかったよかったとの連呼でございました。

列車は間もなく重岡駅にすべり込む、生か死の三十分間やっと眼があき呼吸をとりもどして参りま

した。おそるおそる抱き下し一まず駅長室へ休ませて戴きましたところ、また物凄い緑色の便が出

て参りました。一休みしてやや安心の胸を撫でながら我家へ帰りました。午後になりますと「母ち

ゃん御飯が喰べたい」と初めて口をきき、どうかと案じましたが御飯の代りリンゴをやりますと五

ケ御美味しそうに喰べました。ああ大丈夫、救われる事等思いもよらなかったのにと感涙に咽び、

厚く厚く御礼申上げました。その翌日主人に子供をたのみ私が裏で仕事をしていますと主人が「隆

則が」!!!「隆則が死ぬ」と言う悲壮な声、びっくりして見ると列車内と同様の状態、今度は植

村さんにお願いして私と二人して浄霊さして戴きますと一時間位で楽になり翌日も一回大浄化致し

ましたが、絶対力の前にはどうする事もなく病魔は屈服四日目には寒い冬空の下「コマ」回しで元

気よく遊びました。

 当時主人は本教浄霊により歯痛を治して戴きながらもデマ新聞の逆宣伝に神様とは金銭喰いだと

言って散々くさして何を言っても絶対反対でしたところ、今度の子供の浄化で少しはよくなりまし

たが、まだまだ頭でも素直に下げる主人ではございませんでした。ある日の事ちょっとした事から

指先が痛み化膿して仲々治らず仕事に不自由さえ感じ毎日顔をしかめていました。ある朝の事余り

に見かね朝食の時主人の気が進まないのに何でもよいからと五分間程浄霊しました、するとその昼

頃にはすっかり排膿し痛みもなくなりよくならして戴きました。次々と連発の奇蹟に主人も神の実

在を認識させて戴き近く入信さして戴くべく努力しております。明るく楽しくなった我が家、絶対

なる御力によって私達はすべてを救われる事を種々の奇蹟によって知らされ暗黒より光明を見出さ

して戴きました。本当に有難うございました。