平成23年2月度 ミニ講座

 文明の創造  総篇  序文(文創  昭和二十七年)

此著は歴史肇って以来、未だ嘗てない大著述であり、一言にしていへば新文明世界の設計書とも

いふべきもので、天国の福音でもあり、二十世紀のバイブルでもある。といふのは現在の文明は真

の文明ではないので、新文明が生れる迄の仮の文明であるからである。聖書にある世の終りとは、

此仮相文明世界の終りを言ったものである。

又今一つの"洽(アマネ)く天国の福音を宣べ伝へられるべし。然る後末期到る"との予言も、此著の頒布

である事は言う迄もない。そうしてバイブルはキリストの教へを綴ったものであるが、此著はキリ

ストが繰返し曰はれた処の、彼の天の父であるエホバ直接の啓示でもある。又キリストは斯うも言

はれた。『天国は近づけり、爾等悔改めよ』と。之によってみれば、キリスト自身が天国を造るの

ではない。後世誰かが造るといふ訳である。

処が私は天国は近づけりとは言はない。何となれば最早天国実現の時が来たからである。それは

目下私によって天国樹立の基礎的準備に取り掛ってをり、今は甚だ小規模ではあるが、非常なスピ

ードを以て進捗しつつあって凡てが驚異的である。それというのも一切が奇蹟に次ぐ奇蹟の顕はれ

で、人々は驚嘆してゐる。そうして之を仔細に検討して見る時、神は何万年前から細大漏す処な

く、慎重綿密なる準備をされてゐた事である。之は明瞭に看取出来るが、其根本は旧文明の清算と

新文明の構想にあるのであって、私はそれに対し実際を裏付とした理論を、徹底的に此著を以て説

くのである。

そうして先づ知らねばならない肝腎な事は、旧文明は悪の力が支配的であって、善の力は甚だ微弱

であった事である。処が愈々時期来って今度は逆となり、茲に世界は地上天国実現の段階に入る

である。然し之に就ては重大問題がある。といふのは旧文明は当然清算されなければならないが、

何しろ世界は長い間の悪の堆積による罪穢の解消こそ問題で、之が世界的大浄化作用である。従っ

て之による犠牲者の数は如何に大量に上るかは、到底想像もつかない程であらう。勿論之こそ最

後の審判であって、亦止む事を得ないが、神の大愛は一人でも多くの人間を救はんとして私とい

ふ者を選び給ひ、其大業を行はせられるのであって、其序曲といふべきものが本著であるから、

事を充分肝に銘じて読まれたいのである。

そうして右の如く最後の審判が終るや、愈々新世界建設の運びになるのであるが、其転換期に於

ける凡ゆる文化の切換へこそ、空前絶後の大事変であって、到底人間の想像だも不可能である。勿

論旧文明中の誤謬の是非を第一とし、新文明構想の指針を与へるものである。それを之から詳しく

説くのであるが、勿論之を読む人々こそ救ひの綱を目の前に下げられたと同様で、直に之を掴めば

救はれるが、そうでない人は後に到って悔を残すのは勿論で、時已に遅しである。以上の如く罪深

き者は亡び、罪浅き者は救はれて、将来に於ける地上天国の住民となり得るのである。そうして来

るべき地上天国たるや其構想の素晴しさ、スケールの雄大さは到底筆舌に尽せないのである。其時

に到って現在迄の文明が如何に野蛮極まる低劣なものであったかがハッキリ判ると共に、人類は歓

喜に咽ぶであらう事を断言するのである。



     九、 自然療法(医講  昭和十年)

元来、人間なる物は、神が造り給ふた、森羅万象の中に於て、他に比ぶべき物なき最高の芸術品

とも謂ふべきものである。神に似せて造ったといふ聖書の言葉は、確かに真理である。故に、その

霊妙不可思議なる構造たるや、到底科学などに依って解明せらるべきものではない、唯極表面又は

一部分のみが漸く科学に依って知り得た位のものであるから、科学に依って解決するには、今後、

幾千年を要するか、又は結局解決出来得ないかは断言出来ないのである。少し落着いて考えてみる

がいい、人間の四肢五体の働きは勿論の事であるが、微妙なる意志想念の動き、喜怒哀楽等の心の

表現、蚤の歯で喰ってさへ痒くって堪らない程の神経の敏感、舌一枚で、凡ゆる意志を伝え、その

舌が又凡ゆる飲食を味はひ、又世界の人類十八億をみても、一尺に足らない顔が尽く違ふといふ不

思議さ、それ等諸々の事を考えた丈でも、造物主の創作力に対し、讃嘆せずにはをられない。特

に、生殖作用に到っては、一個の人間を創造さるる過程の神秘さは、言葉に絶するものがある。故

に、ロボットの如く、科学で造った人間でない限り、生命の神秘は、科学では解決付かない事は当

り前の事である。人或は曰はん、恐るべき天然痘が種痘に依って解決出来たではないかと。然し、

其事に就て、観世音よりの霊告に依れば、実は、何千年以前は、天然痘はなかったのである。

それが人間の罪穢に依って出来たものであって、癩病、梅毒等と同じ様なもので、彼の癩病が一名

天刑病と言はるるに見ても判るのである。その罪穢の清算たる天然痘の、その清算を免れんが為の

種痘であるから、本当から言へば決して良くないのである。之が為に、人間の健康を弱らせ、寿命

を如何に縮めつつあるかは、天然痘に罹るよりも、其損失は甚大なのである。然し、今日と雖も、

行を正しくなし、天則に反せざる人であったならば、種痘をしなくても決して、天然痘に罹るべき

筈がないのである。とは言ふものの、そういふ立派な人間は、未だ寥々たるものであるから、大光

明世界実現迄は、種痘も又止むを得ないであらふ。大光明世界になった暁は、今日の伝染病や重病

は全く跡を絶つのであって、風邪とか下痢位が、病気として遺る丈なのである。

次に、人間が一度病気に罹るや、それを駆逐解消すべき、人間自体の大活動が起るのである。そ

れは、自家製造の薬が出来るのである。人間の肉体は、元々大薬局と医学博士を兼ねた様なもの

で、病気といふ不純物が侵入するや否や、肉体内に病院を建ててる自家医学博士が即時診断、即時

薬剤師に調剤させて病気治療を始めるのである。それは素晴しい薬や器械であって、実によく治す

のである。毒な物を食へば、早速、体内薬局から下剤をかけて下痢をさせ排出するのである。悪い

黴菌が飛込めば、熱といふ大殺菌作用の治療法が行はれ、又、物に中毒をすれば、内臓へ入れまい

と外部へ押出して、皮膚に赤く斑点を現はし、痒みと熱を以て消失せしめ、又中毒によっては、腎

臓の大活動となり、水分で洗ひ、小便に依って排泄せしめ、塵埃を多量に吸へば、痰にして吐き出

す等、実に巧妙を極めたものである。であるから、凡ゆる病気は、自然に放置してをけば大抵は治

のである。それを知らないから、科学で研究された薬や療法を用ゆるので、それが自然治療作用

へ対して、大いに妨害になり、病気を長延かせるのである。之を実證するには、諸君、儻し病気に

罹ったら極めて自然に放置せられよ。その全快の神速なる意外の感に打たるべし。

但し、其場合、徹頭徹尾自然を尊ぶので、寝たければ寝、起き度ければ起き、歩き度ければ歩

き、食べ度ければ喰べ、喰べ度なければ食欲の起る迄は、二日でも三日でも喰べないでいい。熱が

高ければ水枕位はいいとして、出来る丈、手当をしないのがいいのである。

斯うすれば、如何なる病気も、実によく治るのである。

自然療法を推奨すると、医学は全然、必要がないかといふと、そうばかりでもない。医学の中に

も、全然、無益でないものもある。

それは、細菌学、衛生学の一部、戦争の際の外科、歯科医学、接骨等である。



     十、 恐怖心鼓吹の衛生学と黴菌の必要(医講  昭和十年)

凡そ、此世に在りとあらゆる物は、人類生活に対し、無益な物は一つもないのである。人間が今

日迄の経験や学問により解釈して以て、有害だとか無益だとか決める丈であって、人類生活を向上

させ、進歩発展を宰(ツカサド)り給ふ、神の御心に依らなければ、真実の意義は決して解らないのであ

る。此神の御意志を、私は宣べ伝へるのであるから、今日の人間より見て頗る意外な事や、

反対な説が多々あるであらふが、之が真理であるから、意を潜めて、熟読玩味すれば、豁然(カツゼン)

と蒙を啓き能ふのである。

人間が、最も忌み嫌ふ、彼の蠅といふ虫は、実は、人類生活に最も有用なる役目を遂行してゐる

のであって、設し、此蠅なる虫がないとすれば、人類は軈て滅亡するやも料(ハカ)られないのであ

る。何故なれば、此貴重なる蠅は、黴菌を伝播する役目をしてゐるからである。而も、それが最も

恐るべき伝染病の黴菌に於てをやである。

現在の人間が、諸々の罪穢を犯す為に、それが精霊に曇りを生ぜしめる、その曇にも当然種類が

あるのである。それは、犯す罪穢に種類があるが故である。故に、其罪穢相応が曇となり、その曇

の相応が血液の濁りとなるのである。その血液の濁りが一定の程度を越ゆれば、其人自身が死を招

くのみならず、その子孫にまで、虚弱者を生ずべき怖れあるなれば、此場合その人間の生命と、そ

の子孫の健康をして完全なるものたらしめざるべからず。それが、種々の黴菌をして、その濁りの

血即ち、毒血排除の工作をさすのである。其工作者こそ、実に、各種の黴菌其物である。

故に神は、凡ゆる種類の黴菌を作られ、その黴菌が絶えず伝播されて、人間の肉体の凡ゆる箇所

から、侵入する様に出来てゐるのである。侵入した黴菌が、己の掃除すべき毒血がなければ、その

黴菌は力が弱り、而も、血液の活力によって殺されて了ふのである。それが謂はば純な血液の殺菌

力なのである。然るに、一度、黴菌が侵入するや、その黴菌に適合すべき毒血がありたる際は、非

常なる黴菌の生活力を増し、どしどし繁殖してゆくのである。毒血の有丈繁殖して、そうして、そ

の毒血を体外へ排泄し、又は消滅せしむるのである。その活動が熱となり、下痢となり、嘔吐とな

り、痛み等となるのである。それでその毒血が減るに従而、病気は治癒されてゆくのである。設

し、其人が、黴菌の侵入を受けなかったとすれば、それは十が十仆(タオ)れるべき運命に在ったので

あるが、幸ひにも黴菌の侵入に依って浄血法が行はれたる為、万に一つの生命を恵まれるのである

から、その病気を起して呉れた黴菌及び、それを運搬して呉れた蠅虫に、大いに感謝していいので

ある。唯然し、余り毒血過多なる者は、其浄血工作中、仆れるのは止むを得ないのである。故に

浄血工作は、大自然が人類を永続せしむる為の優生運動とも言ふべきである。

今述べた如くである以上、黴菌を恐れる事は、頗る誤りである事を識るであらふ。故に、此真実

を知った人は、黴菌に対する恐怖心は全然無くなるを以て、その安心を得た幸福感も少くはないで

あらふ。然るに、此理を知らない現代人は、黴菌を恐るる事、鉄砲弾の如く、知識階級又は上流社

会程、この不安が多いのであって、稀には、黴菌恐怖病なる一種の新しい疾患さへ現はれてゐるの

である。夫等の患者は、黴菌恐怖の余り、外出も碌々出来得ないのであって、それは、汽車や電車

へ乗る事が恐ろしいからである。そうして絶えず、家に在っては消毒薬で手を洗ひ、衣服住居を消

毒させ、甚しいのになると、其為の看護人を傭ひ入れて、而も、其看護婦の外出を禁じ、事毎に極

端なる干渉をなすを以て、大抵は驚いて逃げ出すのである。是等は悉く謬れる黴菌恐怖から起った

ものである。之程でなくとも、大なり小なりの恐怖病者は随分多いのである。

是等の恐怖病者も、此真実を識ったなら、如何に救はるるであらふか。然し、茲に一言断ってを

き度い事は、黴菌恐るるに足らずと雖も、不潔は、最も不可(イケナ)いのである。光明世界は、真善美

の世界であるが故に、飽迄、醜を避け、美であり、清潔でなければならないのであって、形が麗は

しく、心が美はしく、生活が、社会が美はしくならなければならない。詰り、美はしい処に、病と

貧は無いからである。

今一つ、重大なる事がある。それは、伝染病の黴菌の如く、不純なる黴菌は、観音の霊光に遇へ

ば忽ちに死滅するといふ事である。霊的に言へば不純黴菌は、暗黒界に属する生物であるから、光

明に照らされれば、生命は保てないのである。故に、観音の光に触れる人は、先づ、伝染病には罹

らないと言ってもいいのであって、偶々罹るとするも、頗る軽微で、速かに治癒するのである。之

は、実験上、永年、私が体験してゐる所である。光明世界完成の暁は、伝染病が絶滅するといふ事

は、之を以ても判る筈である。


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   参考文献   御言霊    瓢箪  『地上天国』57号、昭和29(1954)年2月25日発行

 明主様の何物にもこだわれぬ和やかな御態度から極めておうまかな御方であられようとは衆目の

一致する印象であるが、一面何事でも正確な推理によって動かす事の出来ぬ真実性をお認めになら

ぬ限りは、信じられぬほど緻密な用心深い御方でもあられたので、最初御神霊から五十万年前より

の人類史や、御自らの御因縁、御使命等の御啓示を御受けになった時も一応邪神の策謀によるもの

ではあるまいかとの懐疑的態度を以てひそかに綿密な検討を続けられたが、その御神示の正しさを

裏付ける種々の出来事が毎日のようにあって、ついにいかなる面から推理しても絶対に誤りない確

信を得られた御由である。

 これもその御検討中の期間における事であるが、ある時亀岡へ出口先生をお訪ねになった。そし

て高天閣で先生と御二人きりになられた時、先生はコップの水を示されながら、「明主様の御言霊

は絶対の権威をお持ちになっており、あらゆる物がお言葉通りになる。例えばこのコップの水に向

い薬になれと命ぜられれば薬にもなる、又山動けと仰せられれば山も動き、山枯れよと仰せられれ

ば忽ちにして枯れるのである」と言われ、流石に明主様も一驚せられたが、勿論それは御確信に当

ることではあった。「ミカエル起てば山河も動く」ということがあるが、先生は、明主様がミカエ

ルに在すことを証示されたものであり、それは神から知らされたままを明主様にお取次されたもの

でもあろう。

 パイブルの冒頭にも「太初(はじめ)に道(ことば)あり、万物これによって造らる」とある

が、これは、造物主の言霊の権威を称えられたものでもあろう。このイエスの教示と出口先生の示

された例証にみても、明主様の御言霊は、少くとも造物主の造られた万物を自由自在にお変えにな

り得る程の神権をおもちになっていることになる。勿論それは神を念じ天に祈って発揮されるよう

な他力的なものではないことを意味している。とすれば明主様は肉体をもたれた絶対の神様という

ことになり、その位の御力がなかったら第二の天地創造ともいうべき新文明世界建設の大業など実

現の可能性は覚束ないことになろう。

 明主様は元来、御救いの業に最も多く文字をお使いになっている。文字は神様がお造りになった

ものであると承わるが、文字もまた明主様の御仕事を主なる目的として用意されたものかと思われ

る。文字とは言霊を形象化されたものであり、言霊活動を代行し得るものであると言えよう。本教

における御神体、お守、御書体等は悉く明主様のお書きになった言霊文字であり、その文字の意味

通り活動する神秘な生命体である。それは言わば文字そのものが、光明如来となれ、光となれ、と

御命じになる言霊通りの活物になったものであるという解釈も成立つであろう。即ち、科学的にい

う無機物であるべき墨蹟は、瞬時に人間や科学力にも勝る神力を発揮する有機物に変化されるから

でもある。かくのごとく、文字を以て絶対力を発揮される事実にみれば、言霊によって万物を自由

にお変えになり得る事もまた当然である。又言霊は想念と行、幽と物との中間である故に、言霊に

よって絶対力を揮われ得るとすれば、想念によってもあらゆる物を意のごとく遊ばし得る訳で、こ

れをしも自由無碍如意の御力と申し上げるのであろう。

 吾等は、大御業も世界も今日まで御言葉通り現実となり来った事実、そして物象となる速度の日

に月に速かなる今の実際によってもかかる大御力をおもちになって、大愛と神智の御神意によって

行使せられつつあることを信じて疑わぬ。

 かくのごとく明主様の御言霊はいかに尊い権威をもたせ給うのであるかが拝察される。毎月総本

部において、時には中京、関西で御話給わることは、想念界言霊界をゆるがしていかに重大な意義

あるかは諸神霊の願言などによっても窺い知らるる。吾々が御参拝の都度、明主様を眼前に仰ぎ奉

り、直接の御話を賜わる仕合せと光栄は過去の世紀に例しなく、今世にも遇い難い御恵みといわね

ばならぬ。将来、御神業の進展につれて、直接の御言葉も容易に戴けぬようになることも予想され

る故に、今の内御参拝を怠らぬよう、私はいつも信徒諸士に話している。



    祖霊の警告の一例            『地上天国』3号、昭和24(1949)年4月20日発行
                       京都市左京区浄土寺西田町四二三 日本観音教天国会 三橋勇太郎

 今回不思議なる御守護を頂きまして謹しんで御礼申上げます。

 拙宅には男子が三人出来ましたが、二人共不思議に三才になると御医者様に罹りお薬を飲み、注

射致しても効がなく衰弱して死んで行きました。病気は薬や注射に頼っているのでは助からぬ、何

とか他に良い方法はないかと日夜思案に暮れておりましたところ、またまた三男一史(二才)が本

年四月頃より(生後七ケ月にて体重が四ケ月位に逆戻りして)元気がなく、またこの子も死ぬので

はないだろうかという不安に日夜心配しておりましたところ、この有難いお観音様のお話を聞かせ

て頂きまして(最初は物は試しという失礼な考えでおりました)早速山本先生の御来訪に接して御

浄霊して頂き、三日目になりますと、子供も幾分か元気になって参りましたが、それ以上にあらた

かなる御利益を戴いた事は、かねて乳不足に悩んでおりました母親が、御浄霊の最中にポタポタと

乳がこぼれるようになって来ました。それ以来、回を重ねるに従って子供は元気になり、その上人

工哺乳は不要となりました。この御利益に感泣した妻は、何はさて置き七月に教修を受けさせて頂

きました。それ以来何となく家の中が明朗となり子供を中心に笑う機会も多くなりました。八月の

ある日外で遊んでおりました一史が三輪車のペタルに左足の指をはさまれ、血が流れ爪は浮き上っ

ておりましたが医者にも罹らず、薬もつけず、ただ包帯で巻き、妻が一心に御浄霊致し、私が帰宅

した時は子供はそのような怪我をしたとは思えぬ元気さ普通では信じられぬ事です。そして三日の

後には知らぬ間に包帯と共に爪は取れて、今日では新しいのに生え変りました。これも妻が進んで

お守を受けさせていただきましたお蔭と御守護によるもので御座います。誰もが何の苦もせずにこ

のような偉大なお力をお受けする事が出来るという事は実に有難い事で御座います。その後十一才

と八才の女の子供が気分の悪い時また怪我をした時など「お浄霊をして下さい」と申すようになり

ました。これこそ正直な子供が身を以て体験したる御守護によって要求する偽りのない自然の姿で

御座います。

 今回特に奇蹟的御守護を戴きました事は、十一月十三日(父の命日)の朝、一史が突然に乳を吐

き出し、それ以来何となく気分が勝れず十四日も再三お乳を吐き出し、私達が御浄霊を致しました

が思わしからず、長島先生に御来訪を求めまして数時間に渉る御浄霊をして戴きました。お帰り時

「皆様のお受けになられたお力も変りありませんから神様を信じて一心に御浄霊をして上げて下さ

い」とのお言葉でございました。しかし不思議な事にはいくら御浄霊をさせて頂いても一向に良く

ならず十五日、十六日と段々衰弱して行く許りです。如何に信じても、もう不安の心に仕事は手に

つかず、ついに堪り兼ねて、十八日に長島先生にこの次第を御相談申しましたところ、早速に御来

訪下さいまして、子供の姿を御覧になられ「これは先祖の霊が憑っているから御先祖様をお祀りな

さらぬといけません。御浄霊だけでは御利益がありません。御先祖は相続者である貴殿がお祀りに

ならぬといけません。一刻も早く弟様の宅にある御仏壇を貰ってお祀りしなければ子供の命は危い

とのお教で御座いましたが、私の帰りが遅かったのと同夜は大雨降りでしたから止むを得ずお観音

様に御守護をお願い申上げて死相を帯びた子供の寝姿を不安気に見守りつつ長い夜を明かしまし

た。翌朝仏壇を取りにゆくために家を出た時の子供の姿こそ、帰るまで生きているであろうかと思

いました。そして焦る心で仏壇を持って帰って来たのが正午過ぎでありました。帰宅するや、子供

の安否を気づかい家にとび込みましたが、幸い生きておりましたが朝と変らぬ弱々しい姿でありま

した。それから仏壇を安置しました時、子供が目を覚して泣き出しましたから、妻が抱き起して仏

壇の前に来ますと、今まで一言もいわなかったのが仏壇を指さして「ああ」と声を出しました。そ

の瞬間「ああ有難い御守護だ」これが観音力でなくて何でありましょう。余りの有難さに今更なが

ら御観音様の御恵みに一同感泣致しました。この時丁度山本先生がお越しになられました。まず仏

壇に向って善言讃詞を奏上致され、御浄霊をして頂きました。二時間程の後には両頬に、少し血色

らしいものが認められるようになり、死相は薄らぎ言葉も云えるようになりました。この間の有様

や変化の情景は筆舌にては到底表現の出来ぬ神秘的な出来事で御座居ました。この日は丁度長男の

命日(十九日)でありました。そして二十日には「はいはい」をするようになり二十一日には二三

歩、歩けるようになりました。そして二十五日にはすっかり元気を回復して食欲も以前より盛んに

なりました。そして嬉しそうに遊んでおります。観音様の無量の大御恵に家内一同感謝で一杯でご

ざいます。この偉大なる御守護に対し謹んで厚く御礼申上ます。


附記

これは祖霊の戒告を気付き救って頂いた好適例である。本来先祖の霊は我子孫に対し幸福であり、

家系が栄える事を熱望している結果、その目的に叶わざる行為がある時はそれを戒告するためと、

既に犯した罪穢の払拭とを兼ね行うが、その手段として種々の災厄、病気等を与える、これは全く

右のような祖霊の戒告であって、祖霊が正統である兄の家から離れる結果は家系が紊れ、家系が紊

るれば家が断絶する憂があったので、可愛い児を次々に犠牲にして気付かせようとしていたものと

思われる。