平成23年12月度 ミニ講座

11月度のミニ講座の続きです。
 

      「澁井総斎と信徒との交流」

 

     澁井先生のお墓参りを亡くなられるまで、杖に縋りながらもお参りを

 

     続けられた奉仕者の御夫人の話しの後の文章です。


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 昭和27、8年頃の宝山荘時代だった。当時宝山荘には奉仕の人々が常
に十数名から二十名前後いた。そのうちの半数以上は女性である。そ
の人々以外にも浄化のため宿泊しながら御浄霊いただいていた人もあ
った。その奉仕者の中で父のお気に入りという子がいた。性格は大変
よく真面目であるが、田舎者丸出しで、
大変失礼な言い方だが容姿が
どう見ても平均より大分劣る
のである。昔なら下働きの女性というと
ころであろうか、当然そのような子であるから
頭の方も平均以下で、
ちょいちょい失敗
する。他の先輩奉仕者から常に叱られていた。とこ
ろが
父がその子のどこがよいのか可愛いがり始めたのである。その結
果、他の人から「○○さんは先生のお気に入り」ということで先輩か
らの風当たりも以前とは違って来た。

 
 「渋井先生が気に入られているのは何にか特別にあの子にはよいと
ころがあるのではないか」ということになり、皆から一目置かれるよ
うになった。


 この奉仕の子と同様に、父に大事にされていた人がいた。浄霊を泊
まり掛けでいただいていたお婆さん
である。この人は天涯孤独の人で浄
化しても面倒を見てくれる人もいない。父も気の毒に思い泊めていた
のである。このお婆さんは若い頃から六〇過ぎまで行商人として苦労
し、女だてらに刺青まであり、顔も鬼瓦みたいな海干山千のお婆さん
であった。
このお婆さん家の中で憎まれ口を言うのである。食事の
時も、

 「こんな不味いものは食べられない、渋井先生もお気の毒に、こん
な不味いものを毎日食べさせられて」「女の子の癖して行儀が悪い」


 と言いたい放題で、若い奉仕者に悪口や意地悪するのである。当然
皆から毛虫のごとく嫌われる。父から受ける浄霊に対しても同様であ
る。

 父が時々、
 「OO婆さんを呼んでおいで、ご浄霊をして上げるから」
 と、そしてご浄霊を丁寧にして、
 「どうだ軽くなったか」
 と聞いても楽になったとは言わず、
 「こっちが痛い」「あっちが痛い」と言う。
父はそれでも怒らずに
 「ここか、ここか」と言いながら浄霊をしていた。
 
そのような様子を多くの人が見て、何ていやな婆さんだろう、そのよ
うな人をどうして先生がなぜ大切にするのか
と話題になった。そこで
専従者奉仕者が寄り、私に、

 「先生が人を好まれる条件、またどうしてあの婆さんや○○子さんを
大事にするのか聞いて欲しい」と言う。

 わたしは父の前に出るのが苦手であった。なるだけ父とは顔を合わ
せぬようにしていたが私も一度聞いてみたいと思っていたので、皆さ
んの頼みを引き受けた。そこで父の機嫌のよさそうな、夕食後一服し
ている時を狙って質問をした。父は私の顔をジツと見ながら、

 
 「△△(ご子息の名前)、私だって綺麗な可愛いい、そして頭の良い子
が好きに決まっている。あんな嫌味の婆さんより人柄のよい○○さん
みたいな人がいいことは誰でも同じだ。しかし、もしあのような子
や、婆さんを私が嫌ったらあの人たちはどうなる。皆から苛められあ
の婆さんなんかいられなくなる。××子さんも同じで、奉仕する喜びも
判らず、単なる下働きで終わる。
皆神様の奉仕に上がった人たちであ
る。可愛いい子、綺麗な人、やさしい婆さんたちは、私が大事にしな
くとも大勢の人から愛され、好かれ大事にされる。
あのように嫌わ
れ、好かれない人たちこそ大事にしなければならない
。△△、よく覚
えておきなさい。
自分の一番嫌いな人ほど大事にしなければならない
ことを
」。


 当時私は人の好き嫌が激しく、嫌な人とは口も聞かず何にか言われ
ても返事もしなかった。父のこの言葉は私に対しての戒めと今でも思
っている。

そしてこの結果を皆さんに伝えた。この話を聞きながら若い奉仕の子
は目に涙を浮かべ、

 「申し訳ありません」
 と泣き出した。ちょうど側で聞いていた当時の幹部の先生が、
 「私達は到底できない」
 とポツリとつぶやくように言われたのが印象に遺っている。

 このように父は本当に人に対して好き嫌いの別け隔てはなかった
しかし心の奥底には人一倍あったのかも知れない。

 その後父はそのお婆さんを呼び、人の道をこんこんと説き人の情を
話した。婆さんは生まれ替わったようにおとなしくなり、皆は気味が
悪い位に替わった
と言っていた。そして父の浄霊により浄化も癒えて
宝山荘を去っていった。その後一生懸命ご用されたと聞く。なおこの
婆さんは父の亡くなったことを大分あとから聞き、父の墓を尋ね墓石
に取り縋って号泣した
という。その話を聞き私も当時を思い出しなが
ら涙が止まらなかった。もう一人の若い奉仕者は幸せな結婚をされた
と聞いている。

 
 ついでにもうひとつ当時の思い出を述べよう。

 わたしの家内の遠縁に当たる当時は四歳位の娘のことである。親が
毎日のように宝山荘にご浄霊に通っていた。当然この娘も一緒に連れ
てくる。娘は浄霊が嫌で親がご浄霊をいただいている間は広い宝山荘
の庭で同じような子供と一緒に遊んでいて何も問題はなかった。とこ
ろが毎年冬になるとその子供が「あかぎれ」や「霜焼」で手が真っ赤
に爛れ、余所目にも可哀相で見ていられない状態になる
。当然親もご
浄霊をお願いし、先生方も気の毒にとご浄霊をしようとするが、
その
子が浄霊を嫌いご浄霊をして下さる先生の手に噛みつく
のである。親
が手を抑えれば足で蹴るというように暴れてご浄霊をさせない。色々
と方法を考えたが駄目で、親もホトホト困り父に相談したのである。
父は、

 「連れておいで」
 と一言、そしてその子を見て、
 「○子ちゃん、小父さんと握手しましょう」
 と子供は父の顔をジーと見て首をコクッとした。父は両手で「あか
ぎれ・霜焼」に爛れた手を両手で包むようにして、

 「可哀相にすぐ治るから」
 と言って手を軽く握り、頭を撫ぜて終わった。その間十数秒であ
る。そしてその子の手は数日間位で完全に治ったのである。毎年苦し
んでいた「あかぎれ・霜焼」はその後四十数年過ぎた今日まで一切再
発しないと言うことを母親から聞かされた。同席していたその時の娘
も現在は五人の母親である。

 
 「詳しいことは覚えていないが、先生の暖かい大きな手だけはよく
覚えています」

と当時を思い浮かべながら懐かしそうに語っていた。
 このように父は多くの人を愛し、そして多くの人から慕われた。特
に女性からは何か特別に好かれたようである。

 
 「私は渋井先生から、あの人より、この人よりも可愛がっていただ
いた」

 と一人一人が思っており、わたしに自慢するのである。
 『口伝 御用の人』を出版して、色々の方から抗議があった。
 「なぜ私の話を聞いてくれなかったか」
 「私の方が○○さんより先生のことよく知っている」
 
 等々であった。

 
 当時の幼稚園児から80歳以上の方々に愛され、好かれ、死して40
年、今に到るまで父の思い出に涙する人々を見て、男冥利に尽きると
はこのような人を言うのではないかと思う
のである。




   信徒を思いやる心


 多分父の30年祭の直会の席であった。当日箱根で年祭が終わり、小
田原の鮨屋で直会をもった。その席上、出席の方々より父の思い出話
が続き、ちょうど一区切りついたところで旧光○教会会長の○○氏の
奥さんから、父の憶い出話を聞かされた。その話の内容が、父の人柄を
よく表していると思った。

 
 私の叔母の○崎○子の話ですけれどと断られて話された。

 (○崎○子さんは昭和19年の入信、鉄道診療所の婦長をされてい
た。当時は戦争末期で若手の優秀な医師、看護婦は戦地に、遺された
看護婦も医師の替わりを勤める時代であった。そのような時局がら、
○崎さんは診療所では中心的な人であったが、彼女はご神業の重大性
に気づき、周囲の止めるのも聞かず定年を目の前にして退職し、ご神
業専一の生活に入った。)

 
 父は戦後全国を布教に出向する場合、必ず数人をともなって活動を
していたが、○崎さんも大抵その随行の一員であった。特に当時は医
療の専門家は少なく、彼女の専門知識は貴重な存在であった。父はそ
の○崎さんの誠実な人柄を愛しつねに側に置き、地方に出向する時は
必ず連れていた。また○崎さんは父に対して、すべてを捧げつくすよ
うに心酔していた。


 京都内浜時代、昭和21年頃から23年頃まで京都駅付近の七條内浜に
家を借り、その家を五六七会の関西方面の布教活動拠点として毎月父
が出向き、住居のように宿泊し、他の幹部ならびに関係者も一緒に宿
泊所として使用していた。


 この内浜でのある日、渋井先生から呼ばれ、

 「○崎さん、大変申し訳ないけれど、私の大事な人にお礼をしたい。
どんなものがよいか、相手は女の人で齢の頃はあなたと同じぐらいだ
が」

 と仰言られた。私は、
 「ハヽヽ先生も隅におけない、いい方がいらしゃるなー」
 と思ったが、そんなことを言うわけにゆかず、
 「着るものがよいのではないですか」
と申し上げた所、
 
 「それでは反物を探して来て欲しい、人に差し上げるものなのであな
たがこれならば是非着てみたい、是非欲しい、というものを探して下
さい。お金のことは気にせずに」

 
 ということでした。

 ご存じのように京都は呉服の町、戦後といっても京都にはまだまだ
よい品が沢山ありましたが、渋井先生が人に贈られて恥ずかしくない
品物となるとやはり中々ありません。あちらこちらを見て歩き、数日
後、やっとこれなら先生に見ていただいて満足していただけるのでは
ないかと思い、お値段は少々張りましたがお預かりしていた中から支
払い、もし気に入られなかった時を考え、呉服屋に取り替えていただ
けるようにお願いして持ち帰りました。早速先生に報告し、品物を見
ていただきました。まず、

 
 「御苦労様、大変よいものをありがとう、しかしあなたならこの反物
はどう思いますか」

 
と聞かれましたので、

 「出来ることなら私も是非欲しいがこんな高い品物は手が出ません」
 と申し上げたところ、先生は、
 
 「人に差し上げるものを選ぶ時は、自分が是非にも欲しいというもの
を選ばなければならない、また自分のものを差し上げる場合もいらな
いからとか、不用だからという事は大変失礼である」

 
 というような意味の事をおっしゃられ、重ねて

  「ありがとう」
  とおっしゃって品物を納められました。数日後いつものように内浜
へお伺しておりましたところ、奉仕の○○さんが、

 「○崎さん、先生がお呼びですよ」
 と言われ、何の用なのか……と思いつつ、
 「お呼びでしょうか」
 とお部屋にお伺いしたところ、先生から、
 「中にお入りなさい」
 と言われ、何となく不安に思いながら先生の前に座りました。
 
 「いろいろと長い間ご苦労様、いつも何かお礼をしようと思っていた
が何がよいのか判らなかったが着るものがよいと思ったので、私の気
持ちだから受け取って欲しい」

 
 と出されたものを見て、これは……この間から一生懸命探したも
の、なんでこれを私に
……と思った時、

 
 「先生が私の大事な人に」

 
 と仰言り、私にこの反物を探させた意味が判った途端、先生の温か
いお気持ちが全身に流れ、目の前が霞んでしまいました。お礼の言葉
より涙が先で、手をついている手の甲の上にポタポタと涙が落ちてき
ました。先生から、

 
 「どうした」

 
 とお声をかけていただき、「ハッ」として泣き声でお礼を申し上げ、
お部屋を出ました。涙に濡れた顔を他の方に見せぬように、いただい
た反物を胸に抱きしめて帰りました。

 
 今このお話を聞かれた方は、

 「なんだ、そんなことか」
 とお思いでしょうが、その"温かさ"は先生を知られる方なら私の申
し上げたことはよく判ると思います。叔母はその先生の温かい何とも
言えぬ雰囲気を何度も何度も私に語ってくれました
。その後、
その着
物は叔母の生涯の宝物に
なりました。それはそれは大事にしていまし
た。長く着ているうち生地が痛んで来たので、羽織に仕立て直し大切
にしていました。亡くなる少し前、病床にある叔母から形見としてこ
の羽織をいただきました。私も渋井先生には色々と叔母に負けぬぐら
いにお世話になり、先生の温情をいただいたものです。でも叔母のよ
うなことはありせんでした。


今日は先程お話申し上げたものを、羽織が痛んだので、袖なしのちゃ
んちゃんこ風にして着ております。この着物を着ているだけで、先生
の温もりを感じます
叔母はどんなに苦しい時も、この着物に籠もる
先生の温もりにささえられ、生き抜いて来たと思います
。と言われ、
田○さんはハンカチで顔を覆った。同席されていた人々も、往時の父
の温かさを偲び、目に涙を浮かべてながら語られた○○さんの言葉に
涙して諾いていた。その時の情景は昨日のように思いだされる。

 
 ○崎さんが京都で亡くなる少し前、私は京都西陣のお宅にお見舞い
に伺った。病床の○崎さんは、30年前を思い出しながら、懐かしそう
に当時の思い出、父の暖かさを涙で語り、語りながら思い出してまた
泣き、というようにしながら、

 
 「あのような先生はもう二度と出ない。その先生に可愛がられた私は
幸せだった。それだけでも幸福です」

 
 と私の手を取って、繰り返し述べておられた姿が忘れられない思い
出である。

 

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 これを聞いてどう思われますか?言葉にならないですね。私はこれ
を読む度毎にいつも目頭が熱くなり、なんともいえない気持ちで自然
と涙が出てきます。自分の信仰姿勢もかくありたいと思います。

 
 澁井先生もすばらしいが、当時の信者のレベルも高いですね。今の
信者さんは、自分のことを棚にあげて他人のことを言い過ぎる。本当
の信仰が身についてない。この事についてもメシヤ様のお言葉があり
ますが、紹介して解説すれば長くなりますのでここでは省略します
が、
身の回りに起きてくる全てのことは、自分に原因があると思って
対応することが信者である以上、一番大切なこと
です。この事をしっ
かり自分の腹に落としておいて下さい。

 
 澁井先生が、メシヤ様のご神格を一番分かっておられた結果の言葉
や行動、御浄霊力であると思いますね。そうであれば、我々の姿勢は
如何にあれば良いかということですが、今直接にメシヤ様からお言葉
をいただくことは出来ないですので、それに変るものが「御教え」で
あり、メシヤ様の「お言葉」であるわけですね。


 ですから、本当の信者とか資格者であれば、岡田茂吉という人の論
文という認識や一宗教の教祖の教えという浅い認識で拝読していて
は、本当の御守護はいただけないと思います。
「御神書」とまで言わ
れている「御教え」の一言一句を「神の言葉」、「主神様のお言葉」
としていただいて、お言葉通り真摯に実践してこそ、真の御守護がい
ただける
のではないかと思います。

 
 お言葉通りの実践は、簡単なのですが、簡単なようで簡単ではあり
ません。簡単なのか難しいのかどっちなのかと尋ねられそうですが、

簡単で難しいというのが本当ではないかと思います。メシヤ様が生涯
に亘って実践されたことの中には、「挨拶をする」とか、「嘘をつか
ない」とか「時間を守る」などを含め九つほどありますが、そのよう
な簡単なことのように思えることでさえ中々出来るものではありませ
ん。


そんな事は信仰以前の話と言われるかもしれませんが、人としての
道、いわゆる道法礼節を守り、神を認め人間らしい人間になる事が実
は"信仰"と呼ばれるもの
ではないかと思いますし、自分に足らないもの
や出来ない事を努力して完全人間を目指す、ということは無理なこと
かもしれませんが、
「人間は努力しだいで神にもなれる」とメシヤ様
が仰っておられるのですから、下記の御教えにもある如く、
一歩一歩
完全に近づかんとする努力が人間としての価値を決めるもの
だと思い
ます。そう言う意味では、そういった信者なり会員を一人一人増やし
ていきたいと思います。そういう人達が集まり、集う世界が"地上天国"
ではないかと思います。


 長くなったので最後に"信仰"について下記の御教えを確認して終わ
りたいと思います。

 
『次に信仰とは文字の通りで一言にして曰へば、私は信用と信頼が、
時日を経るに従って漸次強度となり、それが畢に極点に達するに及ん
で崇敬の念を生じ、信仰といふ観念にまで育成さるる
と思ふのであ
る。故に此の意味によって考ふる時、信仰とは神仏に限らず、凡ゆる
ものに通暁するのである。』
                  
             
(「宗教と信仰」(明医二)昭和18年10月5日)




『抑々、真の信仰とは言語行動が常識に外れない事を主眼としなけれ
ばならない。世間よくある神憑式や、奇怪な言説、奇矯なる行動等を
標榜する信仰は先づ警戒を要すべきである。処が多くの人はそういう
信仰を反って有難く思う傾向があるが、之等は霊的知識の無い為で無
理もないが、心すべきである。又
自己の団体以外の人々と親しめない
というような独善的信仰も不可
である。

 
 真の信仰とは世界人類を救うのが宗教の使命と信じ、自己の集団の
みにこだわらず、排他的行動をとらないようにするのが本当
である。
(中略)

 
 私は信仰の究極の目的は、完全なる人間を作る事であるとも思う。
勿論世の中に完全という事は望み得べくもないが、
少くとも完全に一
歩々々近づかんとする修養--之が正しい信仰的態度
である。故に信
仰に徹すれば徹する程平々凡々たる普通人の如くに見えなくてはなら
ない
。そうなるのは信仰を咀嚼し、消化して了ったからである。その
人の言動が如何にも常識的であり、万人に好感を与え、何を信仰して
ゐるか判らない位にならなければ本当ではない
人に接するや軟かき
春風に吹かれる如くで、謙譲に富み親切であり、他人の幸福と社会福
祉の増進を冀(ネガ)う
ようでなくてはならない。


私は常に言う事であるが、先づ自己が幸福者たらんとするには他人を
幸福にする事
で、それによって与えらるる神の賜が真の幸福である。
然るに自己のみの幸福を欲し他人を犠牲にするというが如きは全く逆
効果以外の何物でもない事を知るべきである。』         
                  
(「常識」昭和24年1月25日)

 


『真の信仰とは、飽迄自湧的で、何等拘束のない事を忘れてはならな
いので本教が大乗を主とする所以もここにあるのである。』

         (「転向者の悩みに応ふ」地11号  昭和24年12月20日)
 


『茲で注意すべきは、そういふ宗教の教祖とか生神様とかいうものの
態度を厳正なる眼を以てみればよく判る、その著るしい点は、
愛の薄
い事
と、信仰は小乗的戒律的で厳しいと共に、自分のいう事を聞かな
いと罰が当るとか、自分のグループ又は信仰から抜ければ滅びると
か、生命がないとかいって脅かし、離反を喰止めようとする所謂脅迫
信仰
である、斯ういふ点が些かでもあれば、それは邪神と断定して間
違いないのである。

 
 私が常にいふ通り、正しい信仰とは大乗的で、自由主義的であるか
ら、信仰の持続も離脱も自由であると共に、天国的で明朗快活であ
る、処が反対に秋霜烈日の如き酷(キビ)しい戒律信仰は邪教であり、信
仰地獄である、特に注意すべきは、之は人に言ってはいけないなどと
いうような、
聊かでも秘密があれば邪信と思っていい、正しい信仰は
何等秘密がなく明朗そのものである。』             
             
(「神は正なり」救54号  昭和25年3月18日)

 


『いつも言う通り、信仰の目的は魂を磨き、心を清める事であるが、
その方法としては三つある、一は、難行苦行や災害による苦しみと、

二は善徳を積む事と、三は高い芸術によって魂を向上させる事とであ
る、以上の中、最も簡単で、捷径なのは高い芸術による感化である、
而も楽しみながら知らず知らずに磨けるのだから、之程結構な事はあ
るまい。

 
 此意味に於て、山と水の和歌を暇ある毎によむ事である、それによ
って
不知不識魂は向上する魂が向上すれば智慧證覚が磨かれるから
頭脳が明晰となり、信仰も楽に徹底する
、それというのも山と水の
歌悉くに真善美が盛り込まれている
からである。


 以上の如く、私の目的は、言霊の力によっても信仰を、進めんとす
のである。』   (「歌集「山と水」に就て」救61号  昭和25年5月6日)

 


 この中に、『自己が幸福者たらんとするには他人を幸福にする事
で、それによって与えらるる神の賜が真の幸福である。』
とありま
す。人間は自分の事や家族、身内の事に囚われがちですが、それでは
逆効果だと。
信者であるなら、まず自己の栄達を捨て、他人を幸福に
しようと思う信者になるように努めること
だとおっしゃっておられま
す。そういう人が増えれば増えるほど、地上天国に近づく訳ですか
ら、こういう思いを出来るだけ多くの人と共有できるよう日々、努力
精進したいものですね。本当にかくありたいと思います。

 
 また、高い芸術による感化については、お茶やお花の活動を主軸の
ように捉えている団体もあるようですが、この上記の御教えからする
と甚だ疑問が湧くところです。なぜなら、
「高い芸術による感化」
ついて、
「山と水」の和歌を例えに出しておっしゃられているからで
す。そして、
「言霊の力によっても信仰を進めんとする」と結ばれて
おり、
「言霊(ことたま)」の重要性に触れておられるからです。です
から、さらに言えば、外に向かって活動を進める前に、まず信者にな
った者の資質の向上、あるいは信仰の徹底を図ることなどを含め、
になすべき大事なこと
があるのではないかと思いますが・・・いかが
でしょうか?。

 
 この度は、「御教え」の拝読とその実践について、またそれと共に
「信仰」について話しました。それから後は「浄霊」です。「御教
え」と「浄霊」の関係について、メシヤ様は、次のようにおっしゃっ
ています。

 
浄霊は外からで、御神書読むと、つまり魂ですね。魂は何でもない
んだが、曇らせると、魂に影響するんです。これは魂が眠つていると
か、曇つているとか――外形の影響によって、これだけがこれ(縮
小)だけになる。
 

 御神書読むと、アッと目覚める。だから中心から曇りが取れてい
。魂と言うものは、心(シン)の心(シン)は絶対に清いんです。』

               (御垂示録2号・昭和26年9月8日)
 


 ここでは「御教え」を"御神書"と表現されていますが、「御教えを拝
読すると中心から、内部から曇りが取れる」
と。一方「浄霊」は、外
からだと、「外から曇りを取るんだ」と、おっしゃられています。で
すから当然両方必要なのです。
「御教え」は拝読するほど、霊的に浄
まって正しい智慧証覚をいただける
ので、「浄霊」をお取次ぎさせて
いただいた時に急所の発見もしやすくなり、
"奇蹟"もいただき易くな
りますので、「御教え」の拝読を徹底しつつ、「浄霊」の実践を積み
上げていただきたいと思います。また、「浄霊」についての詳しいこ
とは、「祈り」という事とも関係があり話が長くなりますので別の機
会に話したいと思います。

 
この度のこの資料が皆さんの信仰の向上の一助となり、魂の夜から昼
への転換の一助ともなれば、幸甚です。