平成23年11月度 ミニ講座

今回の勉強会の資料は、掲載した「御教え」の後で多少の解説を加
えた形式にしてみました。従来どおり「御教え」を学んでその時々で
多少説明を加えるほうが、個人的には楽なんですが、時には言い忘れ
ることもあり、信仰の向上を図るためには、このような形で学びを深
めることも必要ではないかと思い、多少の時間をかけて作ってみまし
た。私自身、少し堅苦しい内容になっているように感じられる部分も
ありますが、私の言わんとするところを受け止めていただければと思
います。

 下記に沿って読み進め、さらに解説など加えながら学んでいきたい
と思いますが、ページにして15頁にもなったので、今回と来月の2回
に分けて学び、信仰を深めていきたいと思います。


  1、「御教えやお言葉は神のお言葉」という事について

 

 現在の救世教3派、とりわけ○○○○教団の専従者にメシヤ様の御
教えに対する認識がきわめて低い人が多いように見受けられますが、
御在世当時の幹部はじめ先達の先生方の中にも、
"メシヤ様の御教
えやお言葉は、そのまま主神のお言葉である"
ということの
認識が極めて浅かった方々がいた事が下記のお言葉で推察できるの
で、その確認と共に自分達の学びにしたいと思います。




 

「それから、近頃よく感じる事があるんですがね。私が一寸、簡単
に言つた事でも、非常に重要な事がある
んですよ。ですから、それを
聞いた人は――何時の間にか忘れちやつて、旨く行かないことがよく
あるんです。(中略)処が、私がチヨイチヨイと軽く言うから、そう言
う様な――何んて言うか、有難味と言いますか、強い刺戟を受けない
ですね。そう言う事がよくあるんです。
(中略)         
                  
(御教え集9号  昭和27年4月5日)

 

「それから神憑りに就いて昨日私は話したが、大変良い話だつたと
言う人がありましたがね。それと、
私は神様は拝まないんです
よ。何の宗教でも、今迄何んな教祖でも、必ず神様を拝んだもので
す。それを、私は拝まない。と言うのは、
私に憑いている神様は、一
番高級だから拝むものがない
んです。みんな下ですからね。

 

それからもう一つは、よく神様に御伺いを立てるとか、或いは神様に
御知らせを戴くとかして言うんですが――大変有難く思うんですが、

私は簡単に、普通の事の様に言うんです。うっかりして軽く見るんで
すね。
その為に忘れちゃつたり、うっかりして、何かあつた時、之は
先に明主様に御注意戴いた事がある。御言葉にある。と、気が附く

が、
誰方もあるんですがね。

 

私は神様に御伺いして、それを御取次するんでなくて、私の口から出
る事は、神様自身が言う――こういう事になる
んですね。最高の神
様です
からね。だから、私が神様に御願いするとか御伺いすると
か、そう言う事はないんですよ。(中略)」
            
                  
(御教え集9号  昭和27年4月6日)


 

「それからこう言う事を知らなければならないんですがね。それは、
昔から宗教の教祖とか言う人が、何でも一々神様に御伺いするんです
ね。そうすると御託宣が出て、神様がこう仰言つた。とか言うんです
がね。そうすると、それを聞いた人は大変有難がるんです。有難く思
うんですね。処が私はそんな事はしないですね。唯、
其場々々で簡単
に言つてのける
ので、有難味がないんですね。

 

だから、ともすればそれを軽く思つて聞き逃しちゃう訳ですね。で、
何かあると、こう言う事を以前にお聞きした。之だと言う事に気が附
くんですが、初めは中々そう思わないんです。それですから
私の言う
通りやらない人も随分ある
んですよ。それは何う言う訳だと言うと、
私は神様に聞く必要はないんです。

 

私のお腹に居られる神様は最高の神様です。自分が言う事行る事が、
その儘神様が行つている事と同じ
ですからね。つまり直接なのです
ね。処が、今迄の宗教の教祖と言うのは間接なんです。キリストにし
ろ、自分はエホバの命に依つて生まれたとか、天の父だとか、何とか
言いますが、あれはやつぱり間接的なんです。で、
私に居られる
神様は、エホバ
と同じなんですからね。

 

そこで、私は神様を拝んだ事がないですね。何処の何の宗教でも、御
祭だなんて言うとやつぱり神様に、教祖が恭しく礼拝するものなんで
すがね。私はやらないんです。と言うのは、
私が拝む神様は
ない
んですよ。若し神様があるとすれば、私より皆下だからね。だ
から、
神様の方で私を拝んで良いんですよ。

 

それですから、御守を一つ書くにも、普通は斎戒沐浴して、羽織袴で
恭しく書くんですが、私は夏なんか裸でアグラかいて書く。だから知
らない人は有難味はないんですがね。私は何んでも無造作にやつての
けるんです。難しくする必要がないからですよ。ですから、反つてそ
の点を逆に考えられるんですね。逆に思われるんですね。誤解される
んですね。然しそれは、段々分つて来れば良いと思つている。だから
一時的誤解は私は何とも思わないですがね。こう言う事も余り生神様
らしく思わせることになるので、私は好かないので余り言わなかつた
んですが、その為に
私の言う事を軽く見る場合がよくあつて、その為
に間違がよくあります
から、その為に言つておいた方が良いと思つて
お話するんです。だから、その点を良く心得て居て、他の宗教や、教
祖と較べればはつきり分るんですよ。」             
                 
(御教え集9号  昭和27年4月7日)


 

以上、三日間とも、


 1、メシヤ様の「お言葉」を軽く思って聞き逃している。
 2、メシヤ様の「お言葉」の通りやらない人が多い。
 3、その為に間違いがよくある、間違いを起こす等。
 

 この事を注意しておられます。そして、さらに、


 

「私に居られる神様は、エホバと同じ」、「私が拝む神様はない」、
「神様があるとすれば、私より皆下」「神様の方で私を拝んで良い」

と、このようにはっきりおっしゃっておられます。

 

 つまり、言葉を替えると、”最高の神様の「お言葉」である”とおっ
しゃられています。


 

 この事を我々は、どのように受け止めるべきか、我々のメシヤ様観
が問われているところです。メシヤ様の神性を認識することが大切な
事であると思います。明主様でなく
メシヤ様のお言葉=主神様のお
言葉として、御教えの一つ一つをいただく
ことが救いに繋がる唯一の
であり、信仰の向上、霊籍の向上を図り、将来の地上天国の住民と
しての資格を賜る近道
だと思います。


 

 また、メシヤ様御自身が神様ぶることがお嫌いだった為、当時の教
団幹部をはじめ多くの資格者には、
「神のお言葉」として、さらには
「主神様のお言葉」としての認識が薄かった
ものと思われます。何故
ならそうした結果が、ご法難をはじめとした権力争いが現在まで続い
ている教団の歴史に現れていると思うからです。


 

 さらに、同年11月には、


 

「(前略)それからよく祈願をするのに「大光明如来様」「明主様」と
両方呼ぶ人がありますが、それは必要がありません。
「明主様」丈で
良い
のです。大光明如来様は私の代理なのです。それを逆に考えてい
る人がある。第一、字を書くのは私で、
私が生むので、元は私
ある。併し、
大光明如来様に御祈願するのは、出張所に凡てやって貰
うという事
で当り前です。それで出張所の方で、どうもうまくいかん
という場合には本元の製造元に、というそういう様に考えれば良いわ
けです。」
         
(御教え集16号  昭和27年11月16日)

 

「それからよく祈願する場合に「光明如来様」と「明主様」と両方
に御願したり御挨拶しますが、あれは
「明主様」丈で良いのですか
ら、そういった場合はそういう風にすると良いです。之は本当の事を
言ってなかったから無理はないのですが、つまり
光明如来様は私の代
をやっているのです。一々私が信者の処に行っていては大変ですか
ら、それで光明如来様を私の代理として、派遣すると言っては可笑し
いが、祀らせてある
のです。その積りで……。ですから普通は光明如
来に御願すれば良いのです。それで場合に依っては、酷い苦しみとか
危急の場合は、それは明主様に直かに御願するとそれで良いのです。

私の方はつまり製造元ですから、製造元に直接言って貰うという意味
と思えば一番分り易いです。」
  
(御教え集16号  昭和27年11月17日)


 

 と話されております。ここで「御神体」と「メシヤ様」の関係が理
解できると思います。
「主神様」以外の「御神体」なら全て、「メシ
ヤ様」が上であり、上座に位置しなくては「順序」「礼節」は成り立
ちません。
中心に「御神体」、向かって右に「メシヤ様御尊影」で
は、「メシヤ様」が下座になります。
中心を避けて、向かって左に
「御神体」、向かって右に「メシヤ様御尊影」なら、理屈は通ります
が・・・。


 

 特に、昭和29年6月15日の「メシヤ降誕仮祝典」をされた1週間
後、
『日光殿のメシヤ観音のご神体を私の写真(御尊影)に換えよ』
仰せられ、6月24日、「大光明如来」の御神体は「御尊影」にお取替
えとなり、前の御簾を下まで下げられ、翌25日から3日間に亘り、
「天津祝詞」を奏上し、「天照皇大御神守り給え幸倍賜え」と奉唱さ
れた御事跡からも明らかであります。こういう事も、教団幹部の
メシ
ヤ様の「お言葉」や「御神格」の認識不足
ではないでしょうか?


 

 2、 「お言葉」を軽く見ると間違いを犯す事について

 

 ここでさらに「メシヤ様」の「御神格」や「お言葉」の重要性につ
いて、理解を深めていただきたいと思いますので、「御講話」の中か
ら数例を引用します。

 

  〔例1、御神体に疵を附けた話〕


 

質問者:「二才になる子供が、御神前の玩具を取ろうとして、棒で御
神体の『如』(又は「明」)の御文字を疵附けましたので、早速御取替
をと思つておりますが、主人と息子が解らない為に御神体の御礼が出
来ませんので――」


 

メシヤ様:それはいけませんね。疵になつた儘ではいけませんね。早
速巻いて時期を待つ方が良いですね。そういうのは、時期が未だ早過
ぎるんですよ。
一家中全部が御祀りすると言う気になつてからする
です。未だ時期が早過ぎるので、そういう事があるんです。だから、
お巻きして
良くお詫びして、時期を待ちなさい。そうすると反対者―
主人公も、信仰に入つて、それから御祀りするというのが本当で
す。

 

質問者:「床の間が不相応ではないかと思われます」


 

メシヤ様:それもあるでしよう。が、矢張り主人公が入らなければな
らない
んです。奥さんの反対は、そう大した事はないが、主人公の反
対はいけない
。主人公は中心なんだからね。
神様を御祀りしても、神
様は来られない
です。


 

質問者:「反対は致しませんが、入信を致しませんので――」


 

メシヤ様:それはやっぱり駄目ですね。入信しなければね。


               (御垂示録8号  昭和27年4月1日)
 

  〔例2、魚の目を「メス」で疵をつけた話〕


 

(お 伺)昭和25年3月入信致しました者で御座います。長男(12
才)が9月15日頃左足踵の魚の目を「メス」にて疵をつけました。そ
の為20日より急に発熱し、左足の大腿部が大分腫れ、非常な激痛を感
じ、脊柱はそりぎみになり、身体は硬直し痛みが強く、御浄霊後は小
量の排尿が御座いました。脊柱のそりは1週間位にして治りました
が、熱は40度位約2週間続き、食欲も皆無の状態にて非常に衰弱致し
ましたが、御蔭様にて、最近10日程食欲は大分旺盛となりましたが、
その割に体力がつきません。 (中略)


 

〔御 垂 示〕  魚の目をメスにて疵をつけたと言うのは、切ろうとし
た。それで膿でも出そうとした。この為です。
私は、針一本でも疵つ
けてはいけないと書いてある
でしよう。だから神様のお咎めです。
詫びが一番
良い。他には何もないんです。それを覚る様に正守護神が
ひどく叱つたんです。お詫びすれば治ります。つまり、
神様の言う事
を守らなかつたから
です。それを心から悔い改めて、お詫びして、そ
れで治つていきます
。そうして、あとは悪い処ですね。熱の高い処と
か、悪い処から、出るんだから、固まりを――つまり之だけの毒があ
るんだから、魚の目を浄霊していれば――気長にやつていれば、苦痛
なく治るんです。
(中略)


 

神様は身体に疵をつけると言う事は非常に厳しい一寸悪い時に切
るとか、突くとか言うのは、霊を信じない事になる。体的を信ずる事
になる。喰い違つて来る。御守護していたのが、パツと切れちやう

そこに持つていつて正守護神が怒りますからね。之は良い教えです。

                (御教え集3号  昭和26年10月15日)


 

  〔例3、出産後、御教え通りしなかった話〕


 

(お 伺)(三年前入信の婦人)昨年十二月四人目の出産を致し、御
守護により安産でありましたのと、従来の習慣にて、其日より便所に
通いました。翌日の御教えに産後の御注意を戴きましたので早速お伝
え致しましたが、大して気にも止めない様子で御座いました。四日目
に頭部に激痛を覚え、頭が割れる様で十日間続き軽くなりました。産
後にも関わらず腹部が膨脹し尿量も少なく、遂に全身に浮腫みを生
じ、血痰を激しく吐き呼吸困難を起す様になりました。


 

二回目の呼吸困難があり、御浄霊戴き楽になりましたが、全身的浮腫
は取れません。三回目に及び、全身浮腫は以前より甚だしく、特に腹
部はパンパンに膨れ下りました。一月末大光明如来様を御奉斎させて
戴きました。三カ月に及びますが、変化が御座いませんのは御浄霊の
急所が違つているので御座いましようか。又霊的に関係が御座いまし
ようか。(後略)


 

〔御 垂 示〕  之はいけないな。こんな習慣なんてありやしないです
よ。之は、この人の習慣ですよ。尤も、人の道の信者はやりますが、
之は嘘ですよ。
こう言う事は以前から言つてありますがね。書いてあ
ります
がね。一週間は絶対便所に行つてはいけませんよ。頭が割れる
様――言う事を聞かないからだ。(中略)之は霊的じやない。大して気
に止めない――之は、その通りやらなかつたんですか。


 

質問者:「致して居りません様で御座います。前三回が非常に楽なお
産を致しております為に――」


 

その為です。そのお詫びですよ。それを本人が心からお詫びすれ
ば、それで治ります
よ。浄霊は結構だけれども、そのお咎ですよ。
者になった以上――じゃない、メシヤ教の浄霊で救って貰った以上―
―つまり
私のやり方を言って、その通りやらなかったら救
われっこない
ですね。だから、そのお詫びをするんです。頭に激痛
――之は、祖霊さんが戒告したんです。それでも気がつかないんでお
腹が膨張したりしたんです。それで治る訳ですがね。本人が心からお
詫びしなければ駄目ですね。
    
(御教え集7号  昭和27年2月27日)


 

〔例1〕について、メシヤ様は「一家中入信しなければ御神体をお祀
りしてはいけない」、「主人公が心からお迎えする気持ちで」
という
事をお話になっておられます。そうでないと「神様を御祀りしても、
神様は来られない」
とこの文中でも御教えいただいています。そうい
「お言葉」を軽く考え守らなかった為に、"お気付けをいただいた"
と、言葉を変えれば"御神体を汚す"という大変な不祥事を起こしてし
まった、ということ
ではないでしょうか。

 

また、指導する立場にある専従者がこのような家庭環境にもかかわら
ず、御神体をいただくような指導をしたものと拝察されます。そうで
なければ、一信者から御神体の申し込みをされても、御教えに精通し
た専従者なら御教えや家庭事情を説明して、時期を待つことを伝える
ことが出来た
のではないかと。そしてこれは、専従者の罪になるので
はないかと思います。このような指導は、一元化以後、特に酷くなっ
たように思われます。


 

 さらに別の御教えとして、御光話録3号(昭和24年1月8日)には、

 

質問者の「或会員、未だよく御道が判らず、不動様の先達の言葉を信
じて不動の御軸を床の間の光明如来の御軸と並べて御祀りして居りま
すが如何致すべきでせうか。」という問いに対して、


 

〔御 垂 示〕 之はいけません。光明如来様はかけない方がいゝで
す。勿体ないから判って来るまで祀らせない方がいゝです。決して外
のと一緒にしてはいけません。――それから
一家の人が皆揃って光明
如来様に御縋りする気持ちならいゝが、反対が一人、二人でもある場
合は祀ってはいけません
光明如来様が汚れますから

 

  と御垂示いただいていることからも分かるように、「御神体」に
対する我々信者の理解度がかなり上がらないとお迎えすることは出来
ません。


 現在の救世教系教団といわれる団体の「御神体」の御下付のあり方
や、「御神体」をいただいている信者さんの家庭環境は、いかがでし
ょうか?

 メシヤ様の「お言葉」の一言一言を大切に受け止めていただきたい
と思います。
 

〔例2〕について、御教えに「針一本でも疵つけてはいけない」と書
かれてあるにも拘(かか)わらず、軽い気持ちでしたことだと思われま
すが、その「お咎め」としていただいた浄化です。そのことについて
御垂示されています。

 

 メシヤ様の「お言葉」=「御教え」を軽く受け止めたために起こし
た"間違い"です
。このことについても、"御教えに背いたこと"を"神
様に心からお詫びして悔い改めれば"、御守護いただける
とおっしゃ
られています。


 

 〔例3〕についても、メシヤ様の「御教え」を「大して気にも留め
ない様子で・・・」とあるように、〔例2〕と同じ過ちを犯していま
す。ここではさらに厳しく、


 

『信者になった以上――じゃない、メシヤ教の浄霊で救って貰った以
上――つまり
私のやり方を言つて、その通りやらなかったら救われっ
こない
ですね。だから、そのお詫びをするんです。頭に激痛――之
は、祖霊さんが戒告したんです。』


 

 とお話になっており、さらに『本人が心からお詫びしなければ駄目
です』
と言われています。という事は、昭和26年頃には、まだ「心か
らお詫びすれば御守護いただける」という時期でもあったわけです。


  間違いに気付けば、即座に「心からお詫びすれば御守護いただけ
る」
神の人間に対する大慈悲心の表れということが言えます。

 しかし、御晩年、メシヤ様の「御神格」の高まりに伴う29年4月24
日の「お言葉」に、


 

『今まではお詫びをすれば許され、ご守護をいただいたが、これから
は、お詫びだけでは駄目
である。先に悔い改め、そして心よりお詫び
しなければ許されない
。また、お詫び申し上げてもお許しがあるのは
それだけの理由がなくてはならない


 

 と仰せられています。信者である以上、より一層、御教えを軽く考
えず「神のお言葉」として受け止め、身につけられるよう実践しなく
てはいけない
ものと思います。専従者は尚更です。

 

 メシヤ様の「御神格」の高まりと共に、資格者、信者にも"神の御
心に適う自分作り"を厳しく求めていた
ことが拝察されます。

 

 そうした視点で現在の我々の「御教え」に対する姿勢を見てみる
と、
"御教え拝読の不徹底"と共に外に目を向けがちで"神の御
心に適う自分作り”
の部分が全然出来ておらず、「知らず知らずメ
シヤ様の御心とかけ離れた信仰をしている」のではないか
と思います
し、活動中心の団体においてはなおさらです。


 

   3、「メシヤ様の御神格」について


 

 教団幹部、資格者、専従者はそうしたメシヤ様の「御教え」をより
厳密に守り、信者に教えることが使命でなくてはなりません。これが
出来ない専従者は資格者でなく、失格者と言われてもしかたがないと
思います。


 

 何かある度毎に『おまえは御教えを読んでいるか』と言われた"メ
シヤ様の御心"
をもっと考える必要があると思います。そしてある時
期からは、さらにお言葉を足して
『浄化がきつくなってきたから、一
日30分以上読め』
とおっしゃられています。「一日30分以上読んだ
ほうがいいですよ」とは仰っておられないですね。命令口調で
『一日
30分以上読め』
と、大変厳しくおっしゃられていますこのお言葉
を我々信者は、どのように受け止めなくてはいけないのか?というこ
とを改めて考えて欲しいと思います。このお言葉を私は、変な言い方
かもしれませんが"神の大愛"であり、"信者としての義務"ではないか
と受け止めています。
御教えをよく拝読して、御教えを厳しく守りつ
つ信仰を深めることをどれほど信者、資格者に厳しく求められていた
かが伺えるお言葉
であると思います。

 

 もう一度言いますが、メシヤ様の御神格を深く認識し、メシヤ様の
「お言葉」は、そのまま「神様のお言葉、さらには主神様のお言葉」であ
ると受け止めることが大変重要
だと思います。

 

 それでは、メシヤ様の御神格を深く認識するとは、どういうことな
のでしょうか?


 これについては昭和29年2月、先達である中○先生が、メシヤ様に
質問をされた時の「お言葉」を確認してみましょう。

 

質問者:「人間の罪は薬を服んで霊が曇ることに発するのでしょうか、
神を押し込めたことに発するのでしょうか。」


 

御垂示:『もちろん、神を押し込めたことが罪の根本です。みんな神を
押し込めた罪がある。教団も幹部ほどその罪は重い。
私を世に出しで
その罪は消える
。要するに私というものが分かればよい。(しかし私
は化けているからな。)』


 

質問者:「ということは明主様の御神格をわからせていただくことで
しょうか。」


 

御垂示:『そうではない。一人でも多<信者を作ることだ。』 


 

 このようなやり取りがあったということです。メシヤ様の御神格を
深く認識する
ということは、とりもなおさず、
「私というものを分か
ること」
だと。そして、「私というものを分かること」とは、「一人
でも多く信者を作ること」
だと言われています。ということは、メシ
ヤ様の御神格を認識できただけずつ幽魂の向上と共に霊的力をいただ
け、それが多くの人を救うエネルギーになると共に、多くの人を導け
る秘訣
であると思います。そうであれば一層、「御教え」を拝読する
我々一人一人の想念が如何に大切であるかが、問われていると思いま
す。

 

  4、救われる条件は・・・「誠」が判断基準に、

 

 ある時、「観音教団に入らぬ人でも大浄化を越す事は出来ましょう
か。」との問いに、


 

誠の人なら誰でも救はれますよ。教団に入ってても間違ってゐれ
ば救はれない。宗教はいろいろあるがその
宗教の形式によらず魂に
依る
のです。』           (御光話録  昭和23年9月28日)


 

 と答えられています。「誠の人」なら救われると。教団に関係ない
と。どの教団が救われ、どの教団が救われないということではなく、
「宗教の形式によらず魂に依るんだ」ということです。ここが大変
重要なところです。


 昼の時代に住することが出来る資格とは「魂」によるんだという事
です。ここで間違わないでいただきたいのは、では"どの教団にいて
もいいのではないか"と思われがちですが、「霊線」というものがあ
ります。間違っていることをしている教団からは、知らず知らずその
「霊線」を通って「邪」なる「霊気」が送られて来ているということ
を自覚していただきたいと思います。今、某教団で信者が次々辞めて
いるのは祖霊が導いているのではないかと思われます。現界と違い、
霊界では良くわかるから。

 

 そのためにも、教団から出されることを全て妄信するのではなく、
「メシヤ様の御教え」に求め、「正しいか、否か」を整理して自分自
身の信仰を明確にして進む時代に入っている
と思われます。
我々信者
を教団が守ってくれるわけではない
訳ですから。御守護してくださる
のは『メシヤ様』
ですから、教団の信者なら、教団の言うことを聞い
ていればいいですが、『メシヤ様』の信者であるならば、先ほど読ん
だ通り
『私のやり方を言つて、その通りやらなかったら救われっこな
いですね』
というお言葉であり、我々は「御教え=お言葉」を守る必
要があります


 

 また、この「誠」ということや、先ほどの「多くの信者を作る」と
いうことでは、亡き澁井総斎先生を抜きには語れません。


 

 信者としての「信仰姿勢」「誠の奉仕」さらに、上記の「多くの
信者を作った」
ということでは、「五六七会」の澁井先生が一番でし
た。他にも多くのすばらしい先達の先生方がいらっしゃいますが、メ
シヤ様の本当のお弟子といえば澁井先生だけだったかもしれません
ね。そこで、澁井先生のことを書かれた「澁井総斎伝 御用の人」

繰り返し拝読してほしいと思います。澁井先生が管長のままずっと在
職していたなら、どれほどすばらしい教団になっていたか、創造もつ
かないくらいです。おそらくもっと発展して、現在のような邪神の巣
窟の様な体たらくな教団には成り下がらなかったと思われます。しか
し、残念ながら権力を狙う「○○会」の密告者により、「法難」が起
き、全ての責任を負わされ第一線から引き落とされたことは大変残念
なことでした。


 

 これは世界○○教の闇の部分であり、現在まで続く教団内の権力争
いの元
になっているわけです。その後から現在までの教団の管長、総
長、理事長といわれる方の出身会派を見れば一目瞭然です。メシヤ様
はこの意味を「散花結実」としてその時話されておりますが、これが
また非常に深い御経綸ですが、この事はまたの機会にして、澁井先生
のお人柄というか、人格、人間性を学び、皆さんの信仰の向上に役立
ててもらいたいので、当時の実話をもとに澁井先生のご子息が書かれ
た文書の一部から抜粋して紹介してみたいと思います。

 

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   澁井総斎と信徒との交流

 

 東京四谷にある澁井家の菩提寺・笹寺に父の墓ができた当時は毎日
多くの信徒の方々にお参りをいただいていた。お参りをされた方には
我が家としてできる限りご挨拶を申し上げ、お礼状を差し上げるよう
にしていた。長い間多くの方々にお参りをいただいていたが、歳月と
共に段々少なくなっていった。家族でも亡くなった当初は毎月お参り
に行っていたが、月日の経過と共にお参りも遠ざかる、ところがここ
数年間毎日のようにお参りをされ、その都度墓の掃除を続けられた方
がいた
のである。


 

 菩提寺には墓守りの寺男がいた。そのお爺さんにお願いして毎日誰
がお参りに来られたか、ノートに記帳していただくようにお願いして
いたが、その中に毎日のようにお参りに来られ、お墓のお掃除をされ
ている方がいた。記帳をお願いしても断わるそうである。そのことを
墓参りの折に寺の爺さんから聞かされた。お爺さんが名前を聞いても、
「結構です」とおっしゃられてお名前を聞けないとのことであった。そ
こでその方の姿格好、齢頃を聞き関係ありそうな方々を調べたところ
判ったのである。ある教会の方であった。しかも立派な家庭の奥様で
ある。ご主人には私も面識があった。早速連絡してお礼に伺ったとこ
ろお礼は断られたのである。そして次のように言われた。


 

 「わたしは先生のご生前、他の皆様のように先生のお側に行くこと
が中々出来ませんでした。先生から幾度かやさしいお声を掛けられま
した
が、気後れして皆様のような度胸がありません。そのうちに是非
先生のお側に伺うことができることを楽しみにしておりましたが叶え
られませんでした。先生が亡くなられた今は誰に遠慮することなく先
生のお側に伺い、お参りしながらこうしてお話申し上げることができ
ます。そのような訳ですから、どうぞおかまいなく静かにしておいて
下さい。お礼はむしろ私の方から申し上げなければなりません」

 

 と涙ながらに、そして明るくおっしゃられた。私は何の言葉も言う
ことが出来ずその気持ちをありがたく思いながら静かに失礼した。そ
のことは忘られない思い出であった。このようなことは普通では少し
異常な感じを受けられるかも知れないが、この方のお参りにご主人も
感動され協力されていた
。お参りが日課となり出かけるのが遅くなる
とご主人が、


 

 「先生がお待ちですよ」


 

 と言って奥さんを送り出したという。この方は後に浄化され、お参
りの回数は少なくなったが亡くなられるまで、杖に縋りながらもお参
りを続けられた
と聞いている。


 

 このように父は多くの人々から慕われた。もちろんこれは父がそれ
以上に多くの人を愛したからと思う
のである。


 

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 次の文を読む前に、このご婦人の信仰にもすばらしいものがありま
すね。

 お歌に
   人の身の 尊き訳は諸の恩 心に刻みて忘れねばなり

 とありますが、このような姿勢も大恩ある澁井先生に対する感謝報
恩を表す一つの方法だと思いますね。普通では出来るものではありま
せん。当時の五六七会、さらにはメシヤ教の
メシヤ様の御教えに沿っ
た信仰姿勢
信仰者としてあるべき姿を強く感じます。現在ではこの
ような信仰を持っている人は皆無とまでは言いませんが、本当に少な
いと思います。
『信仰とは誠なり』と言いますが、こういう話を
聞くと、そうした信仰が持てるように接して指導されておられた澁井
先生のご人格、お人柄
が偲ばれますね。我々の信仰もこのようにあり
たい
と強く思わされます。


 さらに続きの文を読んで見ましょう。
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       (続く)


              (続きは、12月度ミニ講座へ)