平成22年9月度 ミニ講座

大光明世界の建設真の救ひ
                  (観運  昭和十年九月十五日)
 

 真の救ひとは、永遠に、魂を救ふ事である。又、一生を通じての抜苦与楽(バックヨラク)である。それが出来なければ、宗教としての価値はないのである。病気を治さないで、慰安をして与る事よりも、病気を治して、健康体にしてやるのが、真の救ひである。貧乏を我慢しつつ、安心立命せよと言ふよりも、金に困らないやうにしてやるのが、真の救ひである。此世は厭離穢土(オンリエド)であり、火宅(カタク) であり苦の娑婆であるから諦めよ、我慢せよ、悟れよ、と言ふよりも、斯ふいふ苦悩の娑婆をして、天国楽土たらしむべく、積極的に活動するのが、真の救である。其の救ひの効果的現はれに由って其宗教の価値が定まるのである。



然し、それ等の事は、私が言ふ迄もなく世の宗教家達は、みんな、知り抜いてゐる筈である。然し、いくら知りぬいて、努力はしてもどうにもならないから、是非なく、苦のまま諦めろと言ひ苦のまま安心立命せよと説くのは、余儀ない事である、一種の遁道である。そんな諦めの鼓吹ではいくら笛を吹いても、大衆は踊らない、イクラ太鼓を叩いても集まらない、是に於て、社会から、宗教は、無用の存在として非難を享ける、それが苦しいのだ、苦しいから何かを行らなければならない。其防弾チョッキとしての、宗団の社会事業経営なのである。寧ろ同情すべきではあるが、どうか一日も早く、宗教本来の使命に覚醒して、真の救ひに精進して貰いたいのである。



最後に言ふ、人間の智慧でやる宗教の最後は、社会事業となって了ふ神の力と、神の智慧で行く宗教は、奇蹟から奇蹟で、本当に世を救ってゆく






   大光明世界の建設  膏薬張の救ひ

 

                  (観運  昭和十年九月十五日)


病気になっても、医者にかかれない人や貧乏で食えない人、可哀相な老人、孤児等を救ふ機関は、益々、社会的に完備してゆく、救世軍は、慈善鍋で貧民を喜ばせる、夫等の事は、確に良い事だ、無

 

いよりも在った方が、どれ程いいか判らない。


 

然し、夫等不幸な人達が、後から後から手の廻らない程出来るといふ、其根元の浄化の方がヨリ重大な事ではなからふか。


其処に宗教の使命がある。警官の数は、人口の増加率よりも増えるそうだ。裁判官は迚も手が足りないので、出来る丈早期判決を下す方針にしたといふ事だ。監獄も、気狂病院(キチガイビョウイン) も、どんどん建て増してゆく。是等も社会情勢に対する、止むを得ない施設ではあるが、名誉ではない。

斯ういふ社会の事象を観る時、宗教家として、安閑としては居られない筈だ、それら社会悪の真因は、何処に在るのか一切の事は原因が在って、結果が在るのだ、而し原因よりも、其結果を救ふ事が、社会事業や、警察や裁判所の専門的仕事である。凡ゆる罪悪と不幸の原因は何か。それは人間の魂である。其魂を浄化してこそ、社会は良くなるのである。宗教としての使命も、其処にある。これこそ他の何者も企及し難い権威であり、それが宗教の貴い存在意義である。之を他所(ヨソ)にして、宗教の意義は無いのだ。



とはいふが、今日の宗教家も、相当活動はしてゐる。説教所、教会、寺院、布教師、教誨師、説教師など、幾十万か、数え切れない程ある。それだのに、社会悪が、愈々益々増えるといふ事は不思議な話だ、教化する者の、努力が足りないのか、怠けてゐるのか、否、なかなかそうではない。彼等は、教壇に、路傍に、個人に、声を嗄(カ) らして努力してゐる。それだのに、期待する結果が得られないといふ事は、其処に、何かなくてはならない。


夫等の難問を、悉く解いて了ふ、力の宗教が、我観音会で観音運動である
 



   観音運動は一切の病気治しなり


      併而世の既成宗教家に斯文を呈す
                 (東光九号 昭和十一年一月一日)
 宗教の真の使命は、病気治しである。否、宗教の全使命が病気治しであり、それ以外には何物もないのである。故に病気治しを行はない宗教は宗教としては無価値であると謂へるのである。然し乍ら唯病気と言へば、人間の肉体的のみに解釈し易いのであるが、実はそれ以外、凡ゆるものに病気はあるのである。茲に其真相を説いてみやふ。

然らば、人間の肉体以外の病気とは、何ぞやと云へば、それは人間の思想にも病気がある。即ち不純な思想の持主は思想の病人であり。社会的不安の真因たる諸々の不正堕落は、此病的思想から胚胎(ハイタイ)された症状に外ならないのである。即ち個人の集合による社会は、個人の病的思想によって、病的社会、不健康な社会相を現出するのは、当然な話である。立憲政治の運用が国家の進運に伴はないのは、病的思想の保持者である政治家に、因るからであるのは言を俟たない。又不景気は、経済界が病体であるからであって、資金の偏重は血液の不循環である。富が上層へのみ集注し、下層が欠乏するのは。血液が脳にのみ上騰して脚部が冷ゆる。逆上的病状である。又青年が、赤化の如き不健全思想に感染する原因は、美濃部博士の如く、学問至上主義に捉はれて、尊厳なる国体を無視したる学説を真理の如く信じて、それを講説するからである。



而して是等の思想は不治な肺結核の如きもので而も此結核思想病者はインテリ層に、割合多数あるらしいのであるから現代青年が、之に感染するのは洵(マコト)に困ったものである。故に之を私は思想結核病といふのである。其他国際間宗教界等、凡ゆる方面に於てそれぞれ大中小の難病に罹り、それに悩まされて居らぬは無いといふ現状が、今日の世界及び社会である。



右に述べたる如く、今日凡ゆる人間苦の根本原因は凡ゆる方面が病体であるからである。されば其病患を治すべく、宗教家も為政者も、学者も教育家も智嚢(チノウ)を搾(シボ)ってはゐるが、悲しい哉、未(イマ)だ其疾患の治療法を発見し得ないのみか其疾患の原因すら、認識把握し得ないといふ実状である。のみならず其病患は益々重症に陥りつゝあるのである。既成宗教に在る当事者と其支持者達は、口を開けば、宗教は病気治しじゃないと誇らかに曰ふのである。又曰く、病気に超越して安心立命を得させるのが真の宗教であると言ふのである。吾々は此人達の頭脳を疑はざるを得ない-何故かといへば病気を治し得ないで何処に救ひがあるか人間の病気を治し得ないで如何にして世を救ひ得べきや。病苦に悩みつゝ死の不安に晒され乍ら、安心立命の出来得る人が若し在りとすれば、それは世界中卿等(ケイラ)のみである。随而、病気を治し得ない宗教は止むなく理論で人を救はふとしてゐる。理論で安心立命を得らるゝならば飯の説明丈で腹が満(ク)ちくなる筈である。予算丈で金持に成らなければならない。



本来宗教は、形而上のものであるから、神力仏力の活現でなくてはならない。古来-仏陀はじめ各聖者も、各々それを如実に表はした。即ち、霊を以て霊を救はれた空海も親鸞も日蓮も決して物質的救済は行はなかった。又そうしろとも言はなかった。飽迄霊的で精神的で能く偉大なる崇高なる人格を以て、大衆を教化し死しての後、今も猶無言の感化を与へてゐるといふ事実は、既成宗教に携はる程の人は充分知り抜いてゐる筈である。



社会事業は、決して悪い事ではない、多々益々発展させなければならない事は勿論である。然し乍ら、社会事業其物は形而下のものである、形而上のものである宗教が社会事業に専念するといふ事は適切ではない。本来の使命を没却してゐると謂はれても、一言の辞は無いであらふ、唯、宗教の一部門として、社会事業を援助する位が、適当であらふ。故に、吾人をして、忌憚なく言はしむれば、既成宗教家諸君が病気治しも、霊的教化も行なわないとすれば、其宗教は最早生命を失って居るので、宗教としての本質は無いのであるから、宜しく宗教家の衣を脱却し、専門的に社会事業家に成るのが至当ではなからうか、そうして殿堂も伽藍も、社会事業の為に利用した方がどの位-国家社会にとって効果的であるかは、考える余地は無いであらふ。


敢て世の既成宗教家諸君に-斯文を呈する所以である。

従而、吾人の最後の目的は健康な肉体、健康なる思想、健康な国家社会、健康な世界たらしむる事である。それが真の宗教の使命でなければならない。故に重ねて言ふ、宗教の使命とは人間の霊肉の病気治しを基調として森羅万象-一切の病気治しである事である。


 



     観音運動とは何か


               (光世五号  昭和十一年一月二十五日)
 

一、観音運動に、二大目標あり、一は、宗教の是正と、一は、医学の革正なり。


 

一、観音運動は、人間の完成を目的とす、人間の完成とは、健全なる精神と、健康なる肉体保持者を造るに在り。


 

一、真の宗教は、人間の精神を健全に、真の医術は、人間の肉体を健康にす。


 

一、迷信と狂信は、不幸者と、精神変質者を造り、誤れる医術は、不健康者たらしむ。


一、現在の宗教に、二種あり、一は、宗教理論と、社会事業に没頭して、宗教的無力を暴露し、一は、奇嬌なる言説や、不透明なる宗教行為に依って、迷信を助長す。


 

一、現代医術は、外観頗(スコブ)る、進歩せる如くなるも、其実績に於て、如何に無力なるかは病者と弱体者の、激増にみて瞭らかなり。


 

一、之を要するに、国難の克服と、社会苦の解決は、健全人間を造るにあり。


 

一、健全人間を造る、根本義は、真実にして、力ある宗教と、力ある医術の創建にあり、


 

一、躍進日本よ、楽観する勿れ、何となれば白色の台風は、極東の喬木を打ち倒すべく、今や、吹き出でんとすなり。


 

一、同胞よ、健全なる精神と、健康なる肉体を保有して、必然に吹く、白色台風に抗すべき準備をせよ。


 

一、我等は、健全人間を造る、要諦は、観音力の発揮によってのみ、可能なる事を信ず。


 



       観音心と観音行


                 (観十号  昭和十一年四月十一日)
観音心とは観世音の御心の具現であり、観音行とは其具現の実行である。
然らば観音心とは如何なるものであるか、之を出来るだけ判り易く説いて見やう。序に言ふが此の観音心は、思想として未だ甞(カ)つて人類の経験にも、哲学にも無いのであって、端的に言へば現在の思想が清算されての後に来るもの、即ち明日の思想である

此の観音心とは一言にして言へば、応変自在融通無碍の心的活動である。今日までの凡ゆる思想宗教哲学等は、一定の法則主義主張又は戒律を造りそれを実践せんとして飽まで固着する結果、限られたる一定期の成果は在るが、時所位に依る変化物象の流転に応化する能はずして、終に其生命力を失墜して了ふのは、余りにも瞭かな事実である。例へて言へば、国と国とは国是国策を遂行せんとする固執によって一歩も枉(マ)げず終に戦をも起し、又政治団体は主義に依って党派を生じ、階級は其利益の固執に由って軋轢し、宗教は解釈意識の相違に由って、派を立てゝ相争ふ結果を生ずるのである。是が実に人類社会闘争の根源であって、優勝劣敗も、弱肉強食も悉くがこの産物と云っても可いのである。



此の根本に気が附かなければならない。仏陀は慈悲を説き諭した、因果の法則を示した、基督は愛と犠牲を、孔子は人倫の道を、モーゼは戒律をそれぞれ人類の為めに説いたことは尠からず役立って居るのは否定す可くもない。しかし是等各々が持つ特殊性は、人類向上の為めの一分野であったに過ぎなかった。何となれば其孰れもが、教理を立て戒律を造って居る。それはそれ自身が既に限度を示して居る。此の故に完全ではない、教の無い教、戒律の無い戒律、主義の無い主義でなければならない。即ち応対変通であるそれこそ宇宙の運行と倶(とも)なる真理の具現である。


之を卑近な例にとって見やう。人間の不正を矯めるに法律がある。此の法律は斯くす可からずの項目が何百何千もあるが、如何に努力するとも所期の目的を達し得ないのである。それは法規の文字によって範囲と限度とを示して居るからである。不正な人間は此の限られたる法文以外に不正な手段を発見しやうとするのが、何よりの実證である。法網粗であった時代より、法網益々密になって、犯罪は減少しなければならない筈であるのに、事実は其反対の結果をさへ示すと云ふ皮肉は、私の説を裏書して居る。



彼の釈尊の八万四千もある経文は、法網の密なる理と、全く等しいと、思ふのである。


此故に人間悪を絶対に匡正(キョウセイ)する方法それは人間内面に在る魂の工作でなくては根本的ではないその魂さへ浄化清澄であったなら、例へば法律の無い世界に住して居ても不正をやらないのは自明の理であるが、此状態の魂こそは、法規や道徳や戒律に何等束縛をされて居ないところの、実に自由無礙自主的活現であるからである。天地と共なる真理其儘の姿であるからである。是れ即ち観音心である。

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木原理事長による「奉仕隊に対するお導き」より(二)

 

             『栄光』266号、昭和29(1954)年7月21日


 前回に引続き、木原理事長の奉仕隊へのお導き中より掲載させていただきます。


 なお、今回よりは、箱根・熱海の別なく集録掲載させていただきますので、右お断り申し上げます。 (木原記者)
 

  ○家族の反対をいかにして分らせるか


 家族の反対に対していかにすべきかということですが、これはいつも聞かれる事で、その人の時所位によって種々と事情も違うでしょう。しかし第一に言える事は、御自分が分っていないという事です。御自分が分ってないで、他の人を分らせるということは、できないのが当り前なのです。ですからまず御自分が分るにはどうすればよいかという事が先決問題です。それには一番大事な事は御神書の拝読なのです。私なんかも毎日欠かさず拝読さしていただいています。繰返し繰返し戴いて御覧なさい、その度毎に必ず自分の魂に色々と感ずる度合が上ってきます。上らしていただいただけ心眼の視野がそれだけ開けて来るものです。そうすれば相手を分らせることができるようになるものです。とくに大事な事は、家族の者はあなた達の日常の言行をよく知っていますから口で言うだけでは中々分らないものです。つまりあなた達自身が、メシヤ教の信仰によって、以前よりこのように変って、善くなったとか、あるいはこのように変らしていただきつつあるという事実を示さなくてはいけないわけです。そうすれば必ず分ってきますよ。


よく、どうもメシヤ教に反対云々と聞くことがありますが、これ位納得のゆかぬ話はないですよ。メシヤ教はこの世から不幸の根本である病貧争の三つをなくするというのに、それに反対する者があるはずはないではありませんか。もし反対するとすれば、その人は不幸が御好きであるという事になるでしょう。不幸が好きだなんていう事は、悪魔以外にあるはずがないのです。それではなぜ反対されるかといえは、口ばかりで行いの裏付けがないからです。メシヤ教は行動宗教ですから、総てにおいて事実の裏付けの上に立っていなくては本当ではないのです。そこでこういう事が言えます。今まで家族の者が分らない分らないと思ってきた事はあやまりで、実はわからないのは自分自身だったという事になるでしょう。



 「馬鹿野郎よく考えりゃ俺の事」という句が味わえます。

 大体神様は絶対力を御持ちですから、家族の者を分らせる分らせない位の事はなんでもない事です。それではなぜ分らないようにしてあるかというと、あなた方を本当に誠の道に御導き下さる大慈悲心の現われなのです。ここへ気がついたとすれば、又一つこういう事が言えます。家族の者を分らなくしていたのは自分だったという事です。この事がハッキリしてきたら、現在まで家族が分らないなどと思い続けてきた事は、神の大御心に対して不平をならし続けてきた事になり、全く申訳なかったという事になります。だから"不平どころか、御詫び申し上げ、感謝申し上げねばならなかった事だった"と覚れるでしょう。


 つまり「不平は悪魔に通じ感謝は神に通ず」――これをいつも忘れないで実行したいものです。


   ○常に神様に波長を合わせている事


 周囲に反対者がいる場合、それから来る霊的な障害を受けるものかという事ですが、こういう事は余り気にしない方がよいです。全然ないという事ではないのですが、メシヤ教の大スジで行けば自然消滅する事なのです。これはラジオに例えてみるとよく分る事です。ちょうどNHKとラジオ東京と同時に入って来るようなもので、受信器の良し悪し、調節の良し悪しが問題です。だから自分の心に怨み妬みの気持を持っていれば先方からの怨み妬みが通じてきますが、怨み妬みがなくなっているならこっちの波長と合わないから、来ても入れないから大丈夫という訳です。ちょうどスキマ風とスキマと同じで、スキマがあれば風は入って来るのが当り前です。スキマを防がずになぜ風が来るだろうなんて無理を言ってはいけないのです。


 要するに根本は自分の方にあるのですから、自分の想念を常に神様の波長に合わさせていただく事です。神様に御縋りして、人の良かれという気持で進まして戴けば、一時はちょっと位変だなあと思う事があっても、それは時間の問題で必ずなくなってしまうものです。正しさの前には、悪は必ず消え去る運命にあるものです。だからこそ、地上天国もミロクの世もできるわけです。


 

   ○良い言霊を出す事


 

 言葉について、これはちょっとした事ではありますが、大事な事があります。

 

 よく"御守様を下げる"とか"掛ける"という事を言いますが"掛ける"というと、それは物になります。"御守様をいただいている"という言葉を使うようにする事です。また"下げる"というと、物を下げるということになります。これは悪い意味で使っているとは思いませんが、しかし言葉というものは、物質不滅の法則で、一度出ると消えないのです。そうして良い言葉は良い働きをし、悪い言葉は悪い働きをするのです。ですから、私達は常に善き「想念」と「言葉」と「行」との三位一体になっているべきで、そうしてこそ、本当の御蔭をいただけるのです。これらのことも私達の幸福に大いに関係して来ることです。ですから、言葉というものは、なるべく注意して、良い言葉を出すようにする事です。



 又"御神体を御掛けしている"という言葉もいけないので"御奉斎している"とか"御祀りしている"という言葉を使うようにする事です。


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   疑った私がお光に浴して 


              『結核の革命的療法』昭和26(1951)年8月15日発行
             岡山県和気郡日生町 専信中教会 松原絹子(25)
 私は十八歳の春より肺門淋巴腺、肋膜の相当重いのに三年間苦しみました。あれこれと手を尽しやっと元気になって来た所、一昨年八月に再発致し、微熱と胸の痛みにぶらついており、その時丁度母が腹痛のため床についていました。祖先の御引合せとも申しましょうか、お盆の十五日に姉より救世教の事を聞き、早速母はお詣りし御浄霊を受けましたところ、とても気持がよいとの事、私も翌日より当時大垣よりお越し下さっておられた林先生に二、三回御浄霊をして頂いていますと、十八日浅野先生の御講話がありましてお話を承わっていると、急にお守をお受けしたい気持になり、早速母と私二人頂きました。その後いつの間にか病気を忘れてしまいました。

 それから間もなく光明如来様、大光明如来様をお祭さして頂きました。このように家内一同すっかり救世教の道へ入れて頂き、勿体ない御利益に日々を包まれながらも、邪神にややもすれば引込まれそうになり、納得の出来ない事が次々に出てくるのです。でも諸先生の御話を伺っては、思いなおし思いなおししていました。本当に自分ながら強情な心に日夜なやみました。すると先月突然激しい全身浄化を頂き、二月間というものは頭は破れそうな激痛を覚え、背は痛み一足歩くにも響き、腰は抜けるように痛み、本当に筆舌に尽し難い浄化でございました。でも御浄霊を絶えずして戴き三日目より少しずつ良くなり、一週間目頃にはすっかりよくなりました。

 この浄化を頂きましてより、とても頭が軽く顔の色もよくなり、体が楽で一里の山道を登るにも本当に嘘のように軽くなりました。今迄心から信じられなかった疑いもいつしか解け、お光が差込んでまいりました。人々の恐れている病気が信仰の道に入れて頂く事によって有難き浄化に変り、浄化は御浄霊によって楽にして頂く事は、どの位の罪穢の体を浄めて頂けるかということをはっきりと悟らしていただきました。この大きな喜び、大安心なそして嬉々として生活の出来る境地に、悶え苦しむ人々を一人でも多くお導きさして頂こうと思い、及ばずながらお手伝いさして頂いています。