平成22年5月度 ミニ講座

解 脱   (地二十号  昭和二十六年一月二十五日)

よく昔から、解脱という事をきくが、此言葉は簡単に善し悪しを決める事は出来ない。世間普通の解釈

による解脱とは迷いを去り、悟りをひらくとか、執着をとるとか、諦めをよくするとかいう意味であっ

て、之は無論仏教から出たのであるが、然し何となく逃避的隠遁的響きがあり、之は東洋人特有の思想で

あろう。

処で、実際からいうと、余り悟りがひらけ過ぎると、活動力が鈍るのが通例である。勿論競争意欲など

はなくなり、民族にしても、印度の如く衰亡する事になる。故に人間は迷う事によって生きる力が出る

である。と言って迷いすぎるのも之又危険がある。又諦める事も活動力が鈍るきらいがある、といって余

り諦めないと男女関係などは悲劇を生む事にもなる。だからあんまり解脱して了うのも面白くない。遂に

は世の中が馬鹿々々しくなり、孤独的になったり、生ける屍となったりして了う。

以上の諸々を考えてみると、何でも行き過ぎがいけない。ツマリ程を知る事である。全く世の中は難

しくもあり、面白くもあり、苦しくもあり、楽しくもあるというのが実相である。結局苦楽一如の文字通

りが人間のあるがままの姿である。然し之だけの話では結論がつかないから、私は結論をつけてみよう。

曰く人間は諦めるべき時には諦め、諦めない方がいい事は諦めないようにする。迷う場合は無理に決め

ようとするからで、決断がつかない内は時期が来ないのだから、時期を待てばいいのである。要は時所位

に応じ、事情によって最善の方法を見出す事である。然しそうするには叡智が要る叡智とは正しい判断

力を生む智慧であって、それは魂に曇りがない程よく出る。故に魂の曇りをなくする事が根本で、そ

れが即ちである。誠とは信仰から生れるものであって、此理を知って実行が出来れば、大悟徹底し

た人というべきである。



   私の名称に就て      『栄光』121号、昭和26(1951)年9月12日発行

 今度本郷弓二氏が、私が信者に対して、時々言う弟子の言葉について、色々心理的にかかれたが、これ

も面白いと思ったので少しかいてみるが、私は現在は光明如来の働きを主にしておるので、釈迦如来、阿

弥陀如来と同等の地位として、釈迦如来がよくいわれた十大弟子の意味と思えばいいのである、また浄霊

を専門にしてる人と、普通信者と紛れ易いので、そう言った方が判り易いからでもある。

 氏のいうごとく、以前私は大先生と呼ばれた事があったが、その時は観世音菩薩という菩薩行であった

からそれでよかったが、如来となってから明主の名にしたのである、また自観とは自分は観音の働きをし

てるという意味であり、その他和歌の名の明麿もこういう訳で付けたのである、それは皇太子殿下の御誕

生が、昭和八年十二月二十三日で、十二月二十三日は私も同じ月日に生まれたので、忘れもしない、生ま

れて始めて、右の昭和八年十二月二十三日に、信者の勧めで誕生祝をしたのである、そんな訳で殿下の御

名が明仁と発表されたのを記念したいため、その時明麿と名付けたのである、またユーモアー的のものに

は、明烏阿呆の名を用いているがこれも由緒がある、それは明治の初め頃、大阪に朝寝坊喜楽という冠付

(かんむりづけ)宗匠があって、この人は当時相当認められた宗匠で、その二代目が大本教の出口王仁三

郎師で、朝寝坊閑楽の名で、さかんに信者間に冠句を奨励されたので私もその弟子となり、好きなため大

いに努力し、その甲斐あって三代目朝寝坊暉月という名を貰ったのである、それから笑の泉でも知らるる

通り、選者となって一時は、私の弟子数十人に対し大いに冠句を奨励したものである、ところがその頃、

私は非常に朝寝坊だったので、早起きになりたいと思い、そこで改名したのが今の明烏阿呆である、する

と不思議にも、それから早起きになって、今日も続いているのであるが、言霊の妙用も馬鹿に出来ない

である。

 そうして神様は私の霊的地位や、仕事の関係などから、相応した名前を御付けになるので、今後といえ

ども名前が変るかも知れないし、変らないかも知れないと思うが、考えてみると明主の言霊は、メシヤと

五十歩、百歩だから、あるいはメシヤの名前になるかも知れないとも想っている。


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     弟子論    本郷弓二                      『栄光』118号、昭和26(1951)年8月22日発行

 明主様はつねづね『弟子たち』という御言葉を仰せになる。御面会の折などに、しばしば、私たちが聞

いたところであるが、明主様がお仰せになる弟子とは、誰を指しての御言葉であろうか

 この場合、明生様御直筆のお守りを懸けた入信者で、救いの業に携わっている者全部を指したものと解

釈して差支えないであろうか、とすると、私のごとき信徒の末席を汚しているに過ぎない者も、また、弟

子と称して誤ちないであろうか、私の頭に去来する弟子とは、そして師とは、現在の明主様に対する信徒

とは、懸け離れた概念なのである。

 教える人が師であり、先生であり、教えを受ける者は弟子であり、生徒であることは現代の師弟のあり

方を、簡易に説明して剰(あま)すところがない、しかし、この場合の師弟の関係は、直接、学問、技術

を授受する相互関係を指しているのであるが、教えを受ける側からすれば直接、手や口を通じての教えで

なくとも、それ以上の教えを受けている場合が、沢山あるのである。

 例えば、文学はその著述によって影響され、人生に対する見方、社会を観る眼を養われ、そして、その

文章のスタイルにさえ、抜き難い影響を及ぼされる場合が、往々にしてある、美術に至っては、師は弟子

に基礎的なものを与え、その天分を伸ばす助力者でしかないことがある、弟子は一定の時期に達すると、

直接の師以上に、過去の数々の傑作から学び、自己の血肉に摂取して、自己の才能を伸ばすのである、こ

うした事例から見れば、現在に残された、先人の偉業、傑作が師である事も、否定出来ない事実であろ

う。

 言語が著しく乱れている現在、先生という言葉の意味は、師と同義に用いられているが、師とは、学

問、技術を教えるのみならず、弟子の精神に、自己の魂を吹込み、意志をも鍛錬する厳しさを持ち、先生

以上に弟子の心奥に接して、弟子の全人格を陶冶するものであらねばならない、人は、志を立てて、それ

ぞれの道を歩むにしても、良き師に導かれるか、平凡な師に就くかによって、事の成否が分れる、まし

て、一生の大事たる宗教においては、良き導師に結ばれることが、深く正しい信仰に完結される必須の條

件である、しからば良き師とは、どのような人であろうか、今、ここではその問題に深く立入らずに現在

の、社会通念に従う場合だけを論じて見たい。

 師とは、常に弟子の前を走っている選手である、弟子は、己れの前を走っている、師たる選手を目標に

して、そのタイムを向上させよう、と努力する、このうち、素質に恵まれ、天分のある後進は、絶えざる

努力を積み重ねる事によって、師を超えた、新しい記録を打ち建てる、いわゆる、出藍の誉れ、と呼ばれ

るゆえんであるが、これは、広く人類社会の進歩が、先人の努力、智識を集積して出来上ったものと、全

く等しい、師は自己のベースを抜いた弟子の成長に満足の眼を向け、弟子は師の業蹟の上に新たなものを

付け加えた喜びを感じ、師に対して感恩の情を新たにする、原始蒙昧の古代から、現代に至る学問、技術

の発達は、総てこの様なプロセスを繰返す事によって生れた、そしてこれは、永遠の未来にまで通ずる、

発展の道程であり、師弟の関係もまた、かわる事のない輪廻でもあるであろう。

 私は入信後、明主様が、疑う事なき神の代行者であられる御人格を知ったとき、当時、大先生と申上げ

ていた御尊称に、やや不満を感じていた、教世教と教団の改名が発表され、従来、大先生と申し上げてい

た信徒に、今後、明主様と申上げるように、と云われたとき、言い知れぬ満足を覚えたのである、それ

は、師とお呼びするには、余りに大きく、如何なる天才児が、不断の研鑽を以ってしても、とうてい追い

付く事の出来ない大目標であり、出藍の誉れ、と云う字句は、明主様の前には存在しないからである、大

先生に替えるに大師を以ってした人もあり、機関紙にも散見したが、通俗的な概念からすれば、この大師

の称呼は、宮中から贈られた、高僧への追号であって、明主様への御尊称には、ふさわしくなく、空海、

最澄の両大師を始めとする、それ等の高僧と、明主様の御人格とは、根本的に違っているからである、

主様は、釈迦、基督の二大聖者の遥か上に位する御方であり、大師は、天才に加えるに、勝れた機根を持

つ努力家ならば、追い越し得ない目標ではないからである。

 法然上人の御弟子にして文字通りの出藍の誉れであった親鸞は、法然を指して師の御坊と呼んでいた、

何と親の愛情の籠った呼名である事か、釈迦は、自分を仏陀と云ったが、後年、この仏陀は釈迦を指して

の称呼ばかりではなく、証覚を成就した者をも呼ぶことに変換させられている。

 今、仏教の経文を見ると当時の弟子が、その師、釈迦を前にして、教えを乞うとき、世尊、と呼びかけ

ている、善言讃詞に使われていて、救世教の信徒には馴染の深い文字である、「世尊」この文字に含まれ

た尊崇の念、そして、慈父を慕うが如き深い愛情が、実に美事に表現され、結実された偉大な二字であ

る、と私は思う、イエスは弟子に、ラビ(師)と呼ばしている、イエス対弟子にしても、ラビでは適当で

ない、と思うのであるが、二千年以前の、しかも日本語ほど語彙に富んだ国ではないので、これは致し方

ない、呼名であったであろう、これもイエスが神の子である証しが立てられてから、キリストと崇めら

れ、キリストと云えば、イエス御一人を指す言葉となっている。

 現在、我々は慣習に従って、明主様と申上げているが、私の妻は、いくら云いなおさせても、メシヤ

としか申上げない不具になった身を起たせて戴いた感動が、いつ迄もそうさせるのであろうが、実は

私自身も、メシヤ様と申上げたいのである、明主様御自身が明主とお仰せになるのは当然としても、弟

子、信徒からは、イエスがキリストと崇められているが如く、メシヤ様と申上げることこそ千古不滅の

大人格者、明主様をおよびするにふさわしい称呼であると信じる、この私の提案は、後年、一般社会の

人々が、明主様を指す御名になるであろう事は、疑う余地がないのである、大先生にも非ず、大師でもあ

らぬ、高峰に日輪を仰ぐが如き神格を帯びさせ給うメシヤ様が弟子とお呼びになられるのは社会通念に

よられた事と拝察する、現在のメシヤ教以前の浄化療法時代には、あるいはこの弟子に相当する人もあ

り、その呼名も相応したであろう、私の知る、狭い限られた範囲で、これらの人を挙げるならば、渋井先

生、故人中島一斎先生、井上茂登吉先生なぞの方々こそ、明主様の御弟子と、自他共に許す人々ではなか

ろうか。

 今、弟子を広義に解釈して、携わっている人々全部を指すならば、師一代にしてこれ程大多数の弟子を

有った人は、古来絶無の一大偉業であり、明主様ならではの大偉観である、しかも今後この弟子は、幾百

万にもなるであろう事を想像するとやはり弟子ではなく信徒である、と思わざるを得ない。

 メシヤ様の弟子と呼ばれ弟子と自認し得る人は、信徒のうちより、使徒とまで成長した、人格、識見、

救治の力、共に兼ね備えた人とならなければならぬ、如何ほど勝れた良師よりも、真実の師は神である、

この神を師と仰ぐことの出来る救世教の信徒は、神の使徒となって万人に敬われるメシヤ様の御弟子

となりたいものである。


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【側近奉仕者の話】

     勝俣芳太郎 庭職人

 昭和22年の5月でした。観山亭の上の流れの工事をやっていた時、「おひかり」の紐が切れてしまった

ので、「おひかり」を掛けずにおりました。そんなある日、畑に陽が当たらないので、自宅の庭の大木の

枝切りをしていました。鋸を腰に差して、登って行ったのです。ところが、手でつかまっていた枝が折れ

て、私は10何メートルも下に落ちたのです。そして腰を強く、下の根っこにぶっつけて、動けなくなりま

した。助けを呼ぼうにも声が出ません。数回呼んで、やっと家内が飛んで来ました。すぐに信者の接骨医

が来て治療してくれたけど、鋸の柄が、腰にめリ込んでしまったくらい強く腰を打ったので、動く事が出

来ません。咳をしても痛くてたまらず、毎日、金太郎飴ばかりしゃぶって寝ていました。

 その時、明主様からお見舞金をいただきましたが、治っても仕事は到底出来ないと思い、辞職する考え

でいました。15日目に、ようやく座れるようになり、16日目に、杖にすがってお礼に伺いました。17日

目に、神山荘の橋の所で明主様をお待ちしていて、ちょうど、そこへ出て来られ、明主様に浄霊をお願い

したのです。明主様は『よし、おまえの腰が曲がるようにしてやろう』とおっしゃり、浄霊は2メートル

ぐらい離れて1分ぐらいでした。そして、『どうだ曲がるだろう。曲げてみなさい』と言われるのです。

私はこわごわ曲げてみました。不思議に曲がるんです。明主様は『まだ曲がる』とおっしゃいます。私は

もう少し曲げてみます。よく曲がるじゃありませんか。その日、私は家に帰って、"これは何かの術にちが

いない″と思いました。"術が切れればまた腰は曲がらなくなるだろう″と思いました。夜、目があきまし

た。便所に行きたくなって、ふとんの上に立ってみました。腰を曲げてみました。まだ曲がります。"おか

しいな、バカによく続いているな"そう思いました。ところが、翌日、顔を洗うのに、腰を曲げて洗うこと

が出来るのです。ちゃんと両手で、顔を洗えました。その時、つくづく「これは術なんてもんじゃない、

明主様のお力だ」と悟りました。初めて、えらい方だと心から頭が下がりました。明主様は『信仰はむ

やみに信用するだけでは駄目だ。浄霊で治って、初めてなるほどと悟る。その体験がお

まえに信仰を教えてくれるのだ』と言われました。



     川合尚行 教会長

 恩師中島先生が帰幽され、ご夫人が大教会の首席に就任されて間もない頃の事であった。本部では、脱

税の嫌疑をかけられ、新聞やラジオが騒ぎ立てた。地方活動を主としていた私は、中央の空気はよく分か

らなかったが、情勢は日一日と悪化していくように見えた。その時の事、中島先生が、何かお役に立つ事

があれば、お申しつけいただきたい旨をお願いされた所、明主様は、事件に関係のないもので、信用でき

るものがあれば寄越してほしいと仰せられた。私がその資格を備えていたか、どうかは別として、ホンの

短い期間ではあったが、清水町の別院の、執事の代役を仰せつかったのである。

 私は初めての事とて何か責任の重大さを考えると身の引き締まる思いであった。初めてお側でお仕えす

る日、心構えについて、御教えいただきたいと申し上げた所、明主様は、大きな声でお笑いになって『心

構えなどというものは、私の所にはない、あれは、地獄に必要なんだよここは天国なんだからそんなもの

はいらない』とおっしゃられた。私はハッと思った。暗い事件の渦巻く最中にあられながら些かもご日常

とお変りなく、ここは天国だから、と仰せられたお言葉で、私の歪んだ緊張感は忽ちホグされて、雲上に

軽々と、抱き上げられた思いがした。やっとの思いで、では「誠をもってご用をさせていただきます」

申し上げると、明主様は『ああそれでよい、その時その時に必要なことは神様が教えるから』「それじゃ

苦労がございませんですね」『そうなんだよ、強いて言えば天国的修業だよ』とおっしゃられた。かとい

って大事な留守番なんだから、いい気持にばかりはなっていられないと思い、信仰上のことは分らせてい

ただいているつもりですが、外部から来る、ユスリ、タカリの類は未だ経験がありませんので、御教えい

ただきたいと重ねて申し上げた。『ウン、今やって来るお客さんというのはネ、皆、私が悪いことでもし

て大変金を持っているぐらいに思い込んでいるからネ、誰が来ても今は金がないと先に言うんだよ』と仰

って席をたたれた。

 このような次第で私は毎日朝七時から、夕刻六時頃まで、ご奉仕するとになった。何人かのお客さんの

応待をさせられたが、結局お金がないという理由で撃退したのは二人だけだった。成程、明主様のお言葉

どおり、ひと通りの挨拶が終ってこれから本論に入ろうとする直前、実は今金がないんです、と言うと、

実にタイミングよく相手は息を呑んだ。後は話を打ち切る時期と方法だけである。後年よく急所を狙えと

か、頭が悪いとかいってお叱りいただいたが、その度にこの事を思い出しながら伺ったものである。当時

弱冠25才で世の中の事は何も分らなかった私が、そのお言葉をいただいたお蔭で応待のテクニックもさる

ことながら、どんな相手からオドされても恐いと思わなかった事である。神様に守られているというか、

明主様の御言霊の偉力というか、当時の感激は、少少面の皮が厚くなった今も尚鮮かである。その後、事

件も漸く峠を越し、地方信者の状況についてご報告に上った時の事である。『今後の事は神様からお知ら

せがあったし、私の苦労は神様がさせているんだから何でもないが、地方の信者は事情が分らない為、苦

しんでいないか、動揺はないか、それが一番気がかりだよ』と、私共の想像もつかない程のご苦労を遊ば

されている明主様がおっしゃったのである。私はこのお言葉を伺って、只熱いものがこみ上げてくるばか

りで、整理していた報告も、申し上げる必要を感じなかった。どんな事があっても信者に動揺のないよ

う、一層結束して明主様にお仕え申し上げますとお答え申し上げた。

 事件も落着したある日の事である。ご浄霊とご指導を仰ぐ為に、お邸に参上した。今日はお邸が静かで

すね、と申し上げた所、『ああ、家の者が休みをほしいと言うもんだからね、今日は休ませたよ』と静か

な笑いを湛えておっしゃった。私がケゲンな顔をしているので、更に言葉をおつぎになって、『神様は、

私があまりにも忙しいので、休むようにされたんだ』と至極あっさりとお話しになった。私は何か申訳な

い思いで、私達がもっともっとしっかりしなければならないのに、思うように教線が伸びませんで、と申

し上げると、『今の人達は、朝はおろか昼になっているのに、まだ雨戸を締めた部屋の中が一番いいと思

っているんだから仕方がないよ。かといって一度に雨戸を開けると目がクランでしまうからね』とおっし

ゃった後『私だって弾圧を受けたり、色々の障害にブッかるとたまらない気持になるがアセリを殺すのが

今の私の修業だよ。長い目でみると、その方が遅いようで早いんだよ。私のやる事には失敗と後戻りはな

いからな。世間の人のやる事は早いようでも失敗があるから、差引すると幾らも進んでいない事になる。

しかし私だって、今にみろ、箱根や熱海が完成すれば、アッと言わせてやるからという意地はもっている

よ』と唇を固く結ばれた。まことに淡々としたお言葉であったが、奉仕者に快く休日を与えられ、御自ら

も、神様が休ませて下さったとおっしゃって、あのお忙がしい明主様が、平然となさっているお姿を拝見

して、焦りを殺す修業という意味も、この時一層分らせていただいたような気がした。



   明日では遅すぎる          『栄光』160号、昭和27(1952)年6月11日発行
                                南光中教会 尾崎和三郎
 私は最近、身のひきしまるような、異様な体験を致しました。その事を、御報告して、一般信徒の方

や、未入信の人々に訴えたいと思うのです。

 その人が中津の出張所に来たのは、たしか去年の暮だったと思うのです。心臓が悪いと言っておりまし

た。確かに尿で全身がはれ上ったような、色の黒く、黄色い五十を幾つか越えた年頃の婦人でした。階段

をあがって来た時は息が止ってしまって、苦しそうでした。

 翌日、その人が、子宮癌で医者の見離した病人を連れて見えました。昨日、御浄霊を戴いてから、ずっ

と呼吸も楽に成り、結果が良いのだそうです。

 それから四、五日か、一週間も続けたでしょうか、人の話では、心臓も楽に成ったので山に出て働いて

いるとの事で、出張所には来なく成ったのです。私も余り気にも止めず、それから一カ月半程、子宮癌の

人に力をとられて、去った人を追いかける事もしませんでした。その間に、子宮癌の方は、多量の下りも

のがあり、結果が良くて二カ月もたった頃には起きあがって庭の掃除等も出来るように成りました。まだ

下りものがしていた頃、御守りも戴いて、必死に御縋り致されたのです。子宮癌の全快を喜びながら、私

もあちこちと布教に、とび歩いておりました。中津周辺の農村にも、ぼつぼつ信者さんが出来て参りまし

た。

 今年に入って、四月のある日、私が二、三の信徒さんと一緒に、耶馬渓沿線に行っております後に、心

臓病の人が、再び教会に見えたのだそうです。

 翌日私は、その人を待ちかまえておりました。私にも気に成るところがあったからです。

 まるで地獄から這い上って来たようにしおれて、その人はやって来ました。

 「心臓が再発して暫く医者に通って見ましたが、どうにも成らない」との事でした。

 その人が話し出したのはこうです。

 「自分には子供がなく、他人の子を貰って、今ではその子に養われているが、月に二百円の煙草代しか

くれない。私はどうしても神様に縋らねばならないのです。御守りも、是非戴きたい。私は煙草を止めた

のでした。そして高い敷居でしたが、先生に御願いに上ったのです。私は御守りが戴きたいのです」とま

るでつかれたように口走るのです。

 それから毎日、浄霊を戴きに来ました。しかし、以前よりも病気は悪化し、それにひどく衰弱もしてお

りました。私もその人の一心に負けて、出来る事なら今一度元気に成れるようにと、御願いしておりまし

た。

 四月二十五日、とうとう二千五百円だけの献金を作って来ました。その頃はずっと寝たっきりで、こち

らから毎日出向いてあげたのです。「これだけのお金が出来ましたから、これで先生に御願いだけして置

いて下さい。後は又どうにか致しますから」と、まるで血の出るような苦労だったに違い有りません。私

は何も言わず、中教会へ参り、その旨話して御願い致しました。

 二十八日、中教会の御用も済ませて中津へ帰って来ましたところ、どうもあの家の様子が変だった、も

しかしたら、死んだのではと留守を頼んだ信者の人が言うのです。すぐ行って貰ったところ、矢張り亡く

なっておりました。もう、どうしようも有りません。

 その人の一生は、不幸のまま最後に御守りを戴く事だけを念願にしておりましたのに、それもとうとう

間に合いませんでした。

 私はその人の為に、その人への餞(はなむけ)としてこの一文を綴ったのです。

 人の死なんとするや……それではもう遅すぎるのです。明日ですら遅すぎるかも知れません。

 元気なうちに、感ずるところがあったらすぐ、御守りも戴きましょう。神様へも御縋りする事です。そ

の事が出来なかったばっかりに不幸に打ちひしがれたまま、最後の願いも達せない間に死んで行った人

が、ここにあるのです。良く考えてあげて下さい。