平成22年4月度 ミニ講座

邪神の没落            『地上天国』10号、昭和24(1949)年11月20日発行
 

 キリストにサタン、釈迦に提婆(だいば)は誰も知っているところであるが、吾々といえどもサタンや


 

提婆が常に根気よく狙っている。面白い事には、時期の切迫につれ、彼ら邪神はいよいよ躍起となって、


 

昨今は獅子奮迅(ししふんじん)の勢で活躍している事で、本紙にも近頃目立って掲載されているから知


 

らるるであろう。これらによってみても、邪神の運命の最早目睫(もくしょう)に迫っている事が想察さ


 

るるのである。という事はキリストの言った最後の世の前夜ともいうべき今である。



 一口に邪神というが、邪神にも大中小種々あって、その頭目は兇党界の支配者で、曇りの多い人間程邪


 

気の霊線によって自由自在に操られ、神に対し知らず知らず妨害手段をとるのである。ところが邪神は今


 

日まで何千年間思うままに振舞って来たので、霊界の転換を知らず今まで通りと思って悪を続けている


 

である。しかるにいよいよ霊界の転換が寸前に迫ったので、彼らは眼が醒めぬまま周章(あわ)て出した


 

のも無理はないのである。



 という事は、邪神の最も恐れるのはであって、霊界が昼となるに従って光が強烈となるのである。す


 

なわち邪神の恐怖時代が来つつあるのである。それは邪神は光に遭うや萎縮し活動する力が弱るのであ


 

る。この例として心霊研究会等において、電気を消し真暗にしなければ霊の活動が出来ないという事は、


 

それがためである。この場合よほど神格を得ている霊でないと、光の中では活動が出来ないからである。


 

 以上の理によって、本教に向かって妨害するものは、観音力から発する光を恐れるので、彼ら邪神界は


 

何とかしてこの光を防止しようとしてあらゆる妨害を行っているので、それが昨今の彼らのあわて方であ


 

る。しかるに昼の光とは太陽の光線であるから、いかに死物狂いで防ごうとしても徒労以外の何物でもな


 

い。ところがここに何人も警戒しなければならない一大問題がある。それは邪神に加担したものは、


 

最後の審判の場合、永遠に滅ぶる運命者となるのである。ゆえにいよいよとなるや、何程後悔し


 

ても先に立たずで、滅亡するのは必定である。したがって何よりも今の中(うち)悔悟遷善(かいごせん


 

ぜん)し、神の大愛に抱かれ、悪から脱却し、善人の仲間に入り、歓喜の生活者となって永遠の生命を得


 

なくてはならないが、それを吾らは奨めてやまないゆえんである。


 



   転向者の悩みに応う    自観  『地上天国』11号、昭和24(1949)年12月20日発行


 

 ある宗教信者から他の宗教に転向する場合人により大小それぞれの悩みのあるのは致し方ないとして


 

も、ここに発表する左記の投書のごときは、偽らざる心境の変化と転向の悩みをつぶさに書き連ねてお


 

り、切々として真に胸に迫るものがある。今後転向者がたどるであろうこの悩みの解決も、重要なる救い


 

の一面であるからかいたのである。そうして仔細に検討する時、その焦点は左記のごときものである。



 その人はキリスト教プロテスタント派の有力な信者との事であるが、もちろんこのような人の場合はひ


 

とりキリスト教徒に限らず、他の宗教信者にも相当ある例である。もちろん他宗に触るるべからずという


 

厳重な戒律の枠によるためであるが、これは何が原因であるかを説いてみよう。



 そもそもいかなる宗教にも大乗門と小乗門とあり、常に吾らの説くごとく小乗とは火であり経であるに


 

対し、大乗とは水であり緯(よこ)である。従って小乗は戒律を旨とし大乗は自由無碍を本義とする


 

この理によって転向の悩みは小乗的戒律のためで、大乗的においては転向の悩みなど全然ないのである。


 

という事はいかなる宗教といえども、その本源は主神すなわちエホバ、ゴッド、天帝、仏陀等からであっ


 

、全世界あらゆる民族、地域、時代によって、神の代行者としてキリスト、釈迦、マホメット等を初め


 

その他の聖者、賢哲を輩出され給うたのであるから、もちろん大小の優劣はあるにはあるが、その本源は


 

同根である。また人間にあっても上根中根下根の差別があるから、その魂相応に受入れらるべき宗教を必


 

要とするのである。例えば深遠なる教理でなければ満足出来ない者もあり、鉦(かね)、大鼓や種々の楽


 

器、読経、舞踊等によらなければ、納得しない大衆的信仰もある事によってみても明らかである。


 

 また別の例をいえば世界各民族間にもその伝統、慣習、趣味、文化の高下等の差別が自らあるにみても


 

よく判るのである。



 これによってこれをみれば、小乗信仰は人間が限界を作り、それに捉われて苦しむので、これは非常な


 

誤りである。神の大愛とはそんな極限された小さなものではないにかかわらず、現在あるところの宗教の


 

ほとんどは、小乗的で、大乗的完全無欠なものは、ほとんどないといっていい程である。もしありとすれ


 

ば、今日のごとき苦悩の世界は既に消滅し、地上天国は生れていなければならないはずである。従って、


 

既成宗教は、多かれ少なかれ欠陥をもっている。その欠陥の一つが、前述のごとき小乗的見解であって、


 

それがために主神の大愛に帰一する能わず、宗教同士の醜い争いも絶えないのである。一宗一派の中にさ


 

え派を立て、鎬(しのぎ)を削り軋轢(あつれき)の絶間ないという事もそれであり、古き時代ヨーロッ


 

パにおける宗教争いが終りには大戦争さえ起したにみても、小乗信仰のいかに恐るべきかを知るのであ


 

る。



 右の点に鑑(かんが)み、本教においては大乗を主とし小乗を従とする以上、厳しい戒律は


 

なく実に自由解〔開〕放的である。一言にしていえば全人類を抱擁し世界主義的構想である。


 

 従って、本教においては他信仰に触れる事はいささかもとがめない。絶対自由である。例えば本教信者


 

であって他の宗教を研究しても何ら差支えないのみならず、万一本教よりも優れたる宗教があれ


 

ば、それに転向する事も自由である。と共に、一旦他宗教に転向した者が、再び本教に戻る事ある


 

も、これまた差支えないのである。



 元来信仰というものは、人間の魂の底から自ら湧き出で、止むに止まれず信仰する態度


 

こそ本当のものである。しかるに転向そのものを罪悪のごとく教えられ、それに従わねばならぬ事は、


 

全く一種の脅迫によって信仰を持続させようとするのであるから、自由意識を圧迫し、自己欺瞞である


 

このような信仰こそ神の御旨に適うはずはないのである。真の信仰とは飽くまで自湧的で、何ら


 

拘束のない事を忘れてはならないので本教が大乗を主とするゆえんもここにあるのである。


 



   信仰は信用なり             (光十三号  昭和二十四年六月十八日)


 

抑々宗教信仰者は世間無数にあるが、真の信仰者は洵に寥々たるものである、然らば私は真の信仰者と


 

は如何なるものであるかを書いてみよう。



如何程立派な信仰者のつもりで自分は思っていても主観だけでは何等の意味もない、どうしても客観的に


 

みてのそれでなくては本物ではないのである、そのような信仰者たるにはどうすればいいかという事を先


 

づ第一に知らねばならない、そうなるには理屈は簡単である、それは人から信用される事である、例え


 

彼の人の言う事なら間違いない、あの人と交際をしていれば悪い事は決してない、あの人は立派な人で


 

ある-というように信用される事である。



それでは右のような信用を受けるにはどうすればいいかといふと之も訳はない、何よりも嘘を言はない


 

自分の利益を後にして人の利益を先にする事である、いはばあの人のお蔭で助かった、あの


 

人につき合ってゐれば損はない、実に親切な人だ、あの人と遇ふといつも気持がよい-といふようであれ


 

ば、何人と雖も愛好し尊敬する事は請合ひである、何となれば自分自身を考えてみれば直ぐ判る、右のよ


 

うな人と識り合ふとすればその人と親しく交際したくなり、安心して何でも相談し、いつしか肝胆相照し


 

合ふ仲になるのは当然である、今一つ言ひたい事は、どんなによくしても一時的ではいけない、恰度米の


 

飯と同じようで一寸は味がないようだが長く噛みしめれば噛みしめる程味が出てくる、人間は米の飯とは


 

一日も離れる事は出来ないと同じやうに私は常にいふのであるが、人間は米の飯人間にならなければいけ


 

ないと--



処が世間を見ると、右とは反対な人が余りに多い事である、それは態々信用を落すような事を平気です


 

る、何よりもヂキに尻からばれるような嘘をつく、一度嘘をついたら最後外の事はどんなに良くても一遍


 

に信用は剥げてしまふ、全く愚の骨頂である、如何程一生懸命に働き苦心努力をしても一向運がよくなら


 

ない人があるが、その原因を探れば必ず嘘をついて信用をなくす為で、之は例外がないのである、全く


 

用は財産である、信用さえあれば金銭の不自由などは絶対にない、誰でも快く貸してくれるからであ


 

る。


 

以上は、人間に対しての話であるが今一歩進んで神様に信用されるという事、之が最も尊いので


 

ある、神様から信用されれば何事もうまくゆき歓喜に浸る生活となり得るからである。






  ------------------------------------


【側近奉仕者の話】


 

     山本二郎 宝山教会長


 

 私は昭和18年、第366号潜水鑑の水雷長として従軍中、パガン作戦の際、敵飛行機の爆撃を受け、当直


 

中であった司令塔から爆風のため吹き飛ばされ、背骨をきつく打ったため歩行困難となり、横須賀帰投


 

後、種々いたしましたが、はかばかしくなく、やがて熱海の療養所へ送られて加療していた間にご神縁に


 

恵まれ中島先生のご浄霊をいただく事になり奇蹟的に快復して、漸く歩行も可能となりました。けれど


 

も、今一歩のところで全快せず、傷めた背骨も硬直したきりで、曲らずに困っておりました。そこまで癒


 

され歩けるようになったありがたさが分からず、また口第58号潜水艦長にも任命されましたので、―日も


 

早く軍勢に帰りたさの一念から、やがて感謝はまだ治らぬか、まだ治らぬかのあせりと不平となった毎日


 

でありました。



 そんなうちに、昭和19年ごろの春、初めて私は中島先生のお供をして、箱根で明主様の御面会をいただ


 

きました。明主様は、私をご覧になるなり、『あなたは、生命がないぞ』と非常に厳しくおっしゃいまし


 

た。私は、自分はここまでよくなって、やがて全快をと待っているのに何という事をと、当時まだ明主様


 

のことが、わからぬままに、それが素直に受けとれず、またその意味も分からず、また命に関係したこと


 

だけに、明主様の外のお言葉は今全然覚えておらないほど大いに悩みました。



その夜、中島先生から、「あなたはここまでよくしていただいた感謝よ、不平不満だらけだから、明主様


 

はひと目でそれを見抜かれ、お叱りいただいたのだ」と、ひと晩中お説教されました.それからの毎日


 

は、信仰は感謝であるということをはじめ、いろいろと厳しく信仰のあり方について勉強させていただ


 

き、実践にも努めましたが、私の身体はそのままよくならず、ついに軍務に帰れぬまま、昭和20年8月15


 

日の終戦を迎えたのです。ところが、平和を迎えてから、私の身体はみるみるよくなって、ついに健康体


 

に復し、それ以来御神業にお使いいただいているわけです。その時初めて、明主様の『命がない』とのお


 

言葉の奥に潜むものをわからせていただきました。あの時、すぐ癒っていれば、おそらく沖縄作戦で私の


 

生命はなく、それを生かして御神業にお使い下さるために、また、私の信仰向上と修行をさせるために、


 

終戦まで待たれたのだと、いまさらに当時の苦しかった病の記憶を越えて、感謝の念が一杯であります。






     大村益代 生和教会


 

 昭和十九年から二十年は、全ての物質が極度に不足していた時代です。


 

それで明主様は、不足なものがあると、高頭先生に頼まれたようでした。それをお届けするのが、私の御


 

用でした。当時はまだ男手が無く、私がお届けにあがっていました。神山荘にお届けに上がると、到着は


 

午後になりましたが、明主様はたいていお庭で花切り鋏みを持って剪定されていました。明主様はお庭で


 

献上品をご覧になり『うん、これ気に入った』とおっしゃると、奉仕者が受け取りにきました。ほとんど


 

『結構だ』といって受け取られました。



 ある日、神山荘のお邸に直接お届けした時、明主様がいらっしゃって、だんだんと明主様の御神格が分


 

かってきていた時でしたので、恐れ多く少し後ろに下がりぎみに献上品を差し上げた事がありました。そ


 

の時『届くように一段上がってくれ』とおっしゃり、献上させていただきましたが、近づくとブワーッと


 

ものすごく熱くなった事を覚えています。



 また、取手の実家で卵を献上品に用意してもらった時、実家では家族、親戚で協力してもらいました


 

が、折り箱に米を詰め、その中に丁寧に紙にくるんだ卵を一個ずつ入れていきました。その当時は卵は貴


 

重品でしたが、何回かお届けさせていただくと、明主様は『いま陛下だって卵を食べられないんだよ。陛


 

下のほうにもお届けしたよ』とのありがたいお言葉をいただき、私は涙がボロボロ出ました。


 

 私の家は都内の下十条でしたが、そこから箱根までも大変なのです。でもその切符も私はほとんど並ば


 

ずに買えたのです。「神様の御用に役立つなら」と実家の方で種々の品物を揃えてくれました。それで明


 

主様ヘの献上はもとより、駅の方々に特別に配慮することができたのです。本当に有り難いと思いまし


 

た。当時は、汽車に乗るのも証明書を書いて、そして切符を買わなければなりませんでした。一度、東京


 

駅で困っていると、一人の青年が現れ、「どこまでですか」と尋ねるのです。そこで駅を話すと、「じや


 

あ、僕が買ってきてあげましょう」というのです。そして箱根までの往復切符を買ってきてくれたので


 

す。お礼を言おうと思って見ると、もうその青年の姿はどこにもないのです。



 箱根に着くと、明主様が『どう、今日はちゃんと買えたか』とおっしゃるのです。どうして今日に限っ


 

てそんなことをお尋ねになるのだろうと思いましたが、ウソをついてもすぐわかるのです。いやもう、と


 

うに知っていらっしゃるのです。そこで「実はこういう駅で……」と正直に申し上げると、『それはよか


 

った、それはきっと神様のお計らいだよ』とおっしゃるのです。明主様には、どんな遠くの出来事もお見


 

えだったのです。また、献上品をお届けした時には必ず『お風呂に入っていきなさい』とおっしゃり、そ


 

の度に入らせていただきました。温泉もありましたが、硫黄分が強かったので温泉は薬だから、真水を


 

焚いた風呂のほうに入っていきなさい』と言われました。まったく家族同様に思って扱ってくださってお


 

られたのです。


 



     高頭信正 教会長


 

 こうしてほのぼのと暖かい、おやさしい御人柄に魅せられ、他所では聞かれない明主様の御話しにひき


 

つけられて、御面会日には、戦時下の諸々の悪条件にもひるまず、乗物がなければ歩いてでも色々の物質


 

を背負いながらら箱根へ箱根へと参集しないではいられなかった


 



     高頭信正 教会長


 

 はじめ鳥の家とは、何の意味かわからなかったが、観山亭が造営されてみてなるほどと思った。 神仙


 

郷の中心は観山亭で、明主様は、ここでご神業をお進めになり住まわれていた。この明主様のお住居の上


 

で信徒が休んで景色を眺めている。明主様は、あれは鳥の家にいる鳥だよ、といって信徒を鳥に見立てら


 

れたのである。鳥は空を飛ぶものなので、お宮の屋根に止まって糞をしてもご無礼にはならないという意


 

味になる。この鳥の家も、昭和二十四年、日光殿が参拝所となってからは使われることがなかった。


 

 当時の先生方が、布教で行き詰まった時等、明主様の所へご指導を頂きによく上がられていたんです。


 

明主様はその先生方の話しをジーッとお聞きになられて、それは、『うまくいかないという事は、頭が浄


 

化しているんです。神様のお光が不足しているんだ。』と仰言られ,先ず浄霊をして下さったそうです。


 

それから、ご指導下さったということです。又,『浄霊と言うのは,単に病気を治すだけでなく、自分と


 

いうものを改造してゆくもんだ。』とも仰言っておられます。明主様から浄霊を頂き、御教えも頂いて、


 

勇気づけられた当時の先生方は、布教の第一線に出発する。そして又、現場で起きた問題を持って、明主


 

様のところへ力を戴きに帰ってくる。この繰り返しの中から本教の教線は伸びていった訳であります。


 

又、『魂が浄化されて浄まってくると、人を救いたいという気持ちになってくるんだ。だからだから行き


 

詰まった時は、私を思いなさい』と仰言って、浄霊こそは全てを解決する根本だと、こういう事を明主様


 

は、身を以て教えて下さった訳です。


 



     万年 裕 宝塚支部長 名誉職参事


 

 初めて明主様の御面会を許されたのは昭和21年の事でした。生後20日ほどの子供を連れて、中村先生の


 

奥様とご一緒に箱根に上がりました。その後毎月、ただただ待ち遠しく御面会に参りました。


 

 御面会の折に、田舎のおじいさんが「娘が毎日生米だけを食べて顔が蒼白く、生気がなくなっているの


 

ですが、どうしたらいいのでしょうか」とお伺いした時がありました。明主様がかみくだくように御教示


 

されるのですが、何度お話になられても、そのおじいさんは中々合点がいかないようで何度もお尋ねする


 

のです。傍でみている私などは"もういい加減にお礼を申し上げればいいのに"と思ったのですが、明主様


 

はそれでも繰り返しお話しされていました。そして、やっと、そのおじいさんが分かって「ありがとうご


 

ざいました」と申し上げた時、明主様は『ああ、よかった』と明るく笑われました。私はその時、これほ


 

どまでに悩み苦しんでいる人を救うためにお心を砕かれる明主様のお心をありがたく思いました。


 

 また御面会の折に、明主様にお茶を運んできた女の子が、テーブルに置く時にお茶をこぼした事があり


 

ました。慌ててテーブルを拭いたものの元気をなくして退室し、やがて代わりのお茶をソロリソロリと運


 

んできました。明主様はすぐにお茶の蓋を取られて、グッーと一息に飲まれ下手に座っていた私にも聞こ


 

える程のお声で『ああ、うまかった。もう一杯』と言われました。娘さんは顔を輝かして、もう一杯のお


 

茶を運んできましたが、明主様は二杯目のお茶にはちょっとお口をつけられただけでした。その折の明主


 

様の一奉仕者といえども悲しみ、苦しむ事のないようにと、温かいお心をかけて下さるお姿をお見受けし


 

て、"この方についていこう"との信念は益々強いものとなりました。明主様の御面会をいただく度に、事


 

に当たって"明主様はどのようにお考えになるだろうか、どのように仰るだろうか、どのようになさるだろ


 

うか"と明主様に求める心、信仰は強くなってきたように思います。


 



    側近奉仕者


 

 箱根観山亭が出来てまのない頃の事です。ある日、ある教会長さんが、明主様のところへ、何か相談な


 

のか、お伺いに来られました。そのとき私は、明主様のお側でお原稿の整理をさせていただいておりまし


 

た。明主様は書きものをなさりながら、その教会長さんの話を聞いておられましたが、明主様が最後に、


 

『ああ、そうすればいい』とおっしゃった。そのお言葉だけが、私の耳に入りました。教会長さんは、


 

「では、そういたします」と言っで帰られました。そのあと、明主様は私に、『さっき、私が言っていた


 

事、おまえにわかったか』と聞かれます。私は何も聞いていなかったので、「わかりません」と申し上げ


 

ました。 すると、明主様は、『そうだろう。私にもよくわからなかった。だが、あの人は、すっかり自


 

分で計画をたてて、それを私に話しに来たに過ぎないのだ。形は相談のようたが、実は承諾させに来たよ


 

うなものだ。だから、"そうすればいい"と言ったのだ。そうしたいと言うから、そうしたらいいと言った


 

だ』と笑っておっしゃいました。






 一家断絶寸前の境地より救われし喜び  


                        『栄光』133号、昭和26(1951)年12月5日発行
                            北海道中川郡幕別町  旭光中教会 椛本登志ゑ(26)

 拙き文筆に託しまして今日この天国の世界に救って戴きました喜びを御報告させて戴きます。私達は農


 

家にて、明けても暮れても明るい生活を致しておりましたが、可愛いい妹が胃腸病を致し二歳にてこの世


 

を去りました。妹が亡くなってからも幸福な日々を過しておりましたが昭和四年九月光子三女が二歳にし


 

て又もこの世から去って行き、一家悲しい一週間を過ごし、妹の事もどうやら思いが消えたのも束の間、


 

次は長男喜作がカン虫にて同年十月二日に死亡致しました。両親もどうして次から次へと我が子が死んで


 

行くのだろうと心配致し、一時は仕事も手につかず、毎日何も致す事なく日々を暗い思いで送っておりま


 

した。一年に二度葬式を出すそれも二カ月間に二人死す家も珍しい事でしょう。そうこうしている間に一


 

年は過ぎ去り、昭和六年になり正月も無事に過し、二月を迎えましたところ、次に稚子が病魔に取つか


 

れ、二十一日を最期とし又々世を去って行きました。両親は我が子のいたましさに身をさかれる思いに


 

て、昼間は仕事に追われておりますが、夜ともなれば仏の前に座し泣を流す。それが日課のごとくくり返


 

されました。それ迄は虻田郡の京極におりましたがある人に見てもらいましたら家が悪いとの事、早速私


 

達は十勝の現在の所へ移り変りました。あまり心配と無理を致したせいか、母親が腹膜病にて床につく身


 

となりました。父親もこうなれば必死になり、医者よ薬よと到る所へと通わせましたが一向に治らず、神


 

におすがりする身となり、天理教に母親が昭和七年に入信致す事となり、神の御守護にて母親も無事全治


 

致しました。



 天理教に入信させて戴いてこの方迄は無事に明るき生活が出来るようになりました。


 

 月日の流れるのは矢のごとくとやら、昭和二十三年に入り楽しい正月を迎えました。


 

 至って母親は身体弱いので農業もあまりせず天理教教会にいつも通い、お詣りさせて戴いておりました


 

が、ついに今度は母親が同年五月坐骨神経痛にて死亡致し天理教にて御葬式をして戴き、それからは父、


 

私二人の生活となり、一生懸命神におすがり致していました。母親が亡くなってから一週間目に今度私が


 

脳膜炎の状態となり、早速医者に行き手あてをして戴きました。御蔭をもって脳膜炎も無事に良くなりま


 

したが心臓、痔、脚気と次から次へと病み、私もこれでこの世とお別れ致さなければならない身となり、


 

毎月の十五日より二十五日の十日間はきまって頭痛が致し、病のどん底におとされて毎日父にお世話にな


 

り、天井とにらめっこを致しているのが日々の仕事でした。父は仕事も出来ず今日はこの医者へ、昨日は


 

あの医者へ、明日は祈祷屋へと毎日四里の道を我が子可愛いさの為に通って下さいましたが、一向に私の


 

体は良くなりませんでした。私も九分九厘あきらめておりました。それからが私達一家に光明が差込んで


 

来たのです。



 忘れも致しません、昭和二十六年一月十三日、豊頃より来られた助川先生が、私が床についているのを


 

見て神のお話をされ、又神の力にて病を治して戴ける事もお話し下さいましたので、早速御浄霊をして戴


 

く事に致しました(天理教に入信致しておりましたので何のうたがいもありませんでした)。一日一日と


 

体が良くなって来ます。助川先生も遠い道(六里)を通い、あるいは泊られ、一生懸命に御浄霊をして下


 

さいました。お蔭にて今迄の病魔はすっかり私の家より離れてしまいました。三月三十日帯広へ行き、御


 

守様を戴いて来ましょうと言われました時、まだ帯広迄汽車に乗って行くには無理だと思いましたが、助


 

川先生の言われるままに帯広教会へと行きました。何と喜しい事、行合う人々は十人中十人共びっくりし


 

た顔を致しております。私が今頃生きて道を歩くとは一人も思っていないからです。一歩一歩歩く嬉しさ


 

何にたとえようありません。帯広教会へ着いたのは十一時半でした。色々と宗宮先生よりお話を聞き御守


 

を戴き、神に堅く誓い、喜び勇み吾が家へ帰りました。その翌日からは救いの御用に御手伝いさせて戴く


 

身となり、今では毎日十五名位の方は御浄霊させて戴いております。



 去る六月の十一日に光明如来様を迎える事となり、宗宮先生に来て戴き、御霊祭をして戴きました。ち


 

ょうど祝詞をお唱え致している時(私はその後解りません)全身にふるえが来て手は合掌致し、口を開き


 

始めました。



 「私は先祖の何々である」と一人一人名を言い今日光明如来様をお祭りして戴いたので私達はこのよ


 

うに苦しい所より救われて皆今は喜びの世界に行ける事となった」「しかし一ツだけお願いしたい事があ


 

る。それは今迄私達は天理教に祭って戴いていたが今日より昔の禅宗に切替えてほしい。これだけ御願い


 

致す」と言って先祖は帰りました。天理教をお祭りする前は私の家は禅宗でしたが母親が入信致してから


 

天理教に切替え神を祭っていたのです。天理教に入ってから七名の方々が天理教に祭っていたのです。早


 

速霊の言うがままに切替えをさせて戴き、今は淋しいながらも天国の生活を致し、私が苦しい病床につい


 

ていた頃の事も夢と消え今は人々を救わさせて戴く身となりました。



 どの社会にこのような偉大な力があるでしょうか、私達信者は今後神示のままに人類救済に奮闘致さな


 

ければならぬ時が近づいて来ております。互に協力し合い、一日も早く地上天国を作り上げましよう。明


 

主様始め諸先生方誠に有難う御座いました。読みづらい文を御許し下さい。有難う御座いました。謹んで


 

御礼申し上げます。