平成22年3月度 ミニ講座

〔メシヤ様の御日常と側近奉仕者の言葉〕

   昭和22年夏頃  小野田松造 教会長

※足が痛くて御用ができるか、昭和二十二年ごろ、私は足にネン毒が出で困っていました。秋田の鉱山の

御用をしていたのですが、その鉱山から帰って来て、箱根に伺い、明主様にご浄霊をお願いしました。ち

ょうどその日は御面会日で、同じようにネン毒に悩んでいる信者が三人ほど、明主様からご浄霊をいただ

いていました。それが済んで私の番になる訳ですが、私のご浄霊までなさると、午前11時からの御面会の

時間が過ぎてしまう、そう思ったので、「私はたいした事はありませんから、ご遠慮申し上げます」とご

辞退して下がって来ました。明主様は、それから御面会にお出ましになりました、その翌日の事です。私

はまた秋田へ行かなければならないので、お居間に伺って、「これから行ってまいります」とご挨拶を申

しましたが、明主様は返事をなさいません。私はもう一度、「行ってまいります」と申し上げました。す

ると、明主様は『そのまま行くのか』とおっしゃるのです。「はい」と言いますと、『どうして、そう我

を張るのか』とのお言葉です。我?私にはその意味がわかりません。黙っていますと、『わからないか、

じゃ教えてやる。おまえは誰の用で秋田へ行くのか』ときびしいお顔です。「明主様の御用でまいりま

」『足が痛くて、わたしの用が十分出来るか。私の用が大事なら、痛みを我慢していて、その仕事が出

来るか。早く痛みをなくして、十分に御用をしたいというのが本当ではないか。私が"足"というのは、おま

えの"我"なのだ』私はハツと気づき、それまで痛いので横座りしていた体を正して、頭を下げました。  
            


   昭和27年秋 尾西 昭生 美術館職員

※大森氏が、萩の家で、前夜明主様がお書きになった御書を、下敷きにした古新聞から一枚一枚はがす作

業をしていた。明主様が、そこへお通りかかられ、案内されていたお客様に、『チョッと失礼』と、萩の

家が開いているのを見て、入って来られ、トイレを使われた。大森氏は、お客様に目をやると顔見知りだ

ったので、出て行って、お相手をしていたが、明主様には用を済まされ、玄関に出て来られて、『下駄が

なおっていない』と仰った。大森氏は、それを聞いて、飛んで入って来て、お下駄の向きを直した。明主

様は改めてお客様を連れて行かれたが、大森氏が続けて作業していると外からガラス障子をトントンと叩

く音がして顔を上げると、外に明主様が立っておられるのである。立って行ってガラス障子を開けると、

明主様には『さっきはあんた、神様の試験に落第したんだよ』と仰った。あっけにとられている大森氏を

尻目に、明主様にはさっさと帰っていかれたというのである。明主様には、『私に焦点を当てなさい』と

常々仰っていた。明主様に焦点が当たっていなかった証拠として、先ずお下駄を直す事が出来なかった事

を、神様のお試めしとされている。



   萩の家にて   昭和27年秋  大森 栄夫 側近奉仕者

※これは、ある日、明主様がご揮毫をお始めになる時の事である。ご揮毫の場合、その日お願いする「お

ひかり」なり、「御神体」の数を、お書き戴く直前に必ずご報告申し上げ、お願いさせて戴く事になって

いた。ご報告申し上げる人は決っていました。丁度この日は、明主様が部屋に入られ、皆々一緒にご挨拶

を済ませた時、突然ラジオに雑音が入ってきたので、ご報告する人が調節にいき、ご報告が後廻しになっ

てしまった。明主様は墨の鉢に筆を入れられ、お書き始めれる態度をおとりになったが、報告がないの

で、そのまましばらくお待ちになっておられた。それでもご報告がなかったので、『どうしたんだ。私は

何を書くんだ』とご注意があった。大森氏は「はい、申し分ございません。ラジオの雑音がとれないもの

ですから……」と、言い終らないうちに、明主様には、『私は何を書くのかと言っているんだ。肝心な事

をほったらかしにして、私を待たせるとは何事か。そんな了見では私の仕事を手伝ってもらう訳にはいか

ん。お前は明日からこの仕事は一切やっちゃならん』と厳しくお叱りになった。お側にいた他の二人に

も、『お前達、黙って見ているとはどういう事だ。誰の前でもいざとなって、ちゃんと発言できるようで

ないといかん。それでないと近代人とはいえない。結局、喋れない人間は活動がないし、発展もしない

何についても一応常識として知っていて、自分の意見をもっていなくちゃいかん』『報告を怠る事は、

御用をおろそかにする事だ』『沢山の邪神が、私を不快にしよう。私の仕事を邪魔しようとして絶えず隙

を狙っている。然し、どんな邪神でも私には寄り付けないから、私の側の者に憑って邪魔するのだ』『

仰が深くなって、神様のお仕事----私のする事は、生命をかけてもお守りしようという真心があれば、邪神

も憑く隙がないのだ』『信仰というのは行いなんだかう、行いが出来なければ何にもならない、そんなの

は信仰の幼稚園だ』此の日はついにお仕事は中止、明主様はお帰りになってしまわれた。ご報告が遅れ、

ご注意をいただいた大森氏は、神様の御用を妨げたという事で、とうとうお許し戴けず、それから50日

間、御書体に関する一切の御用に従事する事が許されなかった。             



   昭和28年~ 石原幸子 側近奉仕者

※咲見町本部にて先生方のお世話をさせて戴いたりしております内に6月が参りまして、明主様は箱根にい

らっしゃったのです。そして間もなく「ユキを呼べ」と仰っているからと、急いで支度するようにという

事で身支度を整えまして箱根へ上がりました。当時教団は外車で、キャデラックやらポンチャックやらク

ライスラーやらそういう車で、明主様はキャデラックにお乗りになっていたと思うのですが、熱海の町を

外車が通る、救世教の教祖様だって名物になっていたような具合なんですね。そのキャデラックには乗せ

て戴けなかったのですが、ポンチャックという車だったと思いますが乗せて戴いて、着きましたのが箱根

の観山亭でした。私は何もよく勉強が出来ていないで上がっている訳ですからサッパリ分からないんです

が、「只今到着致しました」って、『ああそうか、来たか』と明主様が仰って下さって、丁度あの赤い絨

毯のお部屋でお花をお生けになってらっしゃるんですよ。何という見事な素晴らしい情景でしょうと思い

まして、お花をお生けになるという事は私はお聞きした事もないので、和服姿の明主様が床の間の方に向

かわれて準備された所にお座りになってお花をお生けになって、私もそっとその後ろに入らせて戴きまし

て、拝見していたんですが、そうしましたら、『どうだいいだろう、早いだろう』と仰るんですね。まさ

か私に声をかけて下さるなんて思いもしないもんですから、えっと思って意識が他にまだ出来ていないも

んですから、ああそうかお花の事を仰ってるんだなという事で、やっぱり明主様はもうここへ来たからに

は集中せよという意識をスッと向けて下さった思うんです。『これは神山荘に運ぶように、これは奥の間

』と言ってご指示をなさって、お済みになるとサッと奥の方へ入られちゃったんですね。それが今、思

いますとルームの方へ、まだその日は分からないですから、ルームの方へお入りになったんですよね。そ

れでまたこう続いて執務をお御取になっていた訳ですね。その日は何と素晴らしい所へ来させていただい

のかしらと、ぼやっとしていたと思うんです。その日は何をしたかあまり覚えていないで終わったかと思

います。そしてご日常を拝見していますと、まず朝はお目覚めになりますと朝食をお取りになる寸前に箱

根の、観山亭、神山荘の方が皆一緒に、皆一同にあの観山亭のお玄関から入った真っ直ぐ竹の間に参りま

す細い廊下へ、あそこへ全部伺いまして、一同ご挨拶をするんです。あの細い所へ何重にもなって並ぶわ

けです。そしてそれぞれが業務につくわけですが、、私は思いますと、特に難しい事はなかったと思うんで

すね。私のさせて戴く事、難しい事と言えば、ご経綸は明主様が進めてらっしゃるんであってお忙しいの

は明主様お一人がお忙しかったように思うんです。皆それぞれに分業されていて、あれもこれもというの

ではなく、ですからそれがちゃんと出来ないという事はいけなかったんじゃないかと思うんです。それ

で、私はごく日常的なお屋敷の、観山亭という中での明主様の側近という事でさせて戴いていましたか

ら、決められた事を決まった時間にキチッと出来ていくといいますか、それが出来ていかれるということ

が一番の大事な事になっていくんじゃなかったかなと思います。朝お食事が終わりますと、明主様が10時

にお茶を召し上がるんですね。それをルームに入られて、今で言うみ教えですね、お書きになっていた訳

ですよね。そういう中でも10時になれば必ずお茶をお持ちしなければならなかったんですが、ほうじ茶を

召し上がっていました。お持ちしますと、それが『熱いじゃないか』『ぬるいじゃないか』になるんです

ね。そういうみ教えをお書きになってらっしゃる明主様がね、執務中にお茶が、ぬるかろうが薄かろう

が、熱かろうがね、言いように思いますでしょ。中々それが、やっぱりパスしないと駄目なんですよ。だ

からやっぱりこれは大事な事なんですよね。そのペンを置かれても、その時間をとって。明主様は1分でも

2分でも私の時間は大事なんだと仰っているのに、3分位遅れた骨董屋さんにも会われないんですよね。そ

れ位なのにお茶のことにちょっと時間を取って下さって、『これは熱いじやないか。私を焼けどさせる気

』とか、明主様特有のオーバーアクションが出るんですけど。そういうつもりはないのですが、熱かっ

たかなと思って、それをそのまま置いてきてはいけないのです。またそれを下げて煎れ直さないといけな

んですね。それをまた水屋で煎れ替えるんですが、その内に段々と分からなくなってきちゃうんです

ね。お湯飲みも温まってきますし、本当に熱いのかぬるいのか、適温なのかが分からなくなってきまし

て、それでもやっぱりお茶一つお煎れする事に専念するといいますか、それでお持ちして『よし』と仰る

とホッとするような事で、これは大事な事だなと思うんですね。誠を教えで下さったのか、ただダダッと

お茶を葉っぱを入れて、お湯を入れて、ササーッとお茶を配ればいいというものではなく、やはり一杯の

お茶が美味しいと嬉しいもんですものね。それから朝食が済まれて、お召し変えをなさるんですね、その

時にお召し変えをなさりながら『今日は花を生ける』と仰るんですね。そうすると、ああそうかという事

で、一旦ルームにお入りになるんですが、もうすぐにゴザをひいて、赤い絨毯のお部屋にお花を生けられ

るお支度をするわけです。それで、ご案内して、「ご準備が出来ました」と言ってご案内する訳です。そ

ういう日と、お花の無い日はそのままお昼までお原稿をお書きになりますから、そしてお昼になって、お

昼も気持ち良く召し上がって戴かなくちゃいけないという事で、お昼は割りに洋食が多かったんです。朝

お台所の方から材料のメモったのが私の手元に参りまして、今日子鯛があるとか海老があるとか、それを

お読みすると明主様が『今日は海老のボイルにしてくれ』『鯛のムニエルにしてくれ』と仰って、それを

お伝えする訳です。それがキチっと、間違ってはまた大変な事で、キチっとお伝えしてして戴かなくちゃ

いけませんしそれが箱根ですと、神山荘から観山亭まで運ばれてくる訳です。何人かがバトンタッチして

運ばれてきまして、私はいつも観山亭の所で受けとってお膳立てするんですが、中々、あの観山亭から神

山荘まての通る道が頻繁にそういう事で使われておりましたから、よく皆あそこを走っておりました。そ

してお昼からは骨董屋さんにお会いになりまして当時3人か4人の美術商の方がこられまして、神山荘の控

え室にいて戴いて、そして一人づつ来られた順から観山亭の赤い絨毯の部屋にお通しする。骨董屋さんが

無い時はそのままずっとルームに入られたっきりで、3時が来ると必ずまたお茶をお持ちしなければいけな

いんですが、それは和菓子とお煎茶でしたね。『和菓子には煎茶がいいんだな』と、お茶だけの時はほう

じ茶を召し上がっていました。そういうのを間違わないようにしなければならない、細やかな事を段々と

覚えてまいりました。そして5時になりますと、また浄化のご奉仕の方があると、ご浄霊をお願いしてあり

ますと、ご浄霊をいただきますしね。お済みになるとお風呂にお入りになられました。        
   


 (お陰話)
ああ奇蹟なり!!奇蹟なり!!!   『栄光』218号、昭和28(1953)年7月22日発行
                              『世界救世教奇蹟集』昭和28(1953)年9月10日発行
                      長崎県南松浦郡奈留島村    明輪中教会 宿輪 博(32)

 明主様日々の御守護誠に有難うございます。省みますれば二十五年十月入信以来、ただただ感謝感激表

現の言葉もございません。絶大なる御守護の下に幸福な生活を送らせて頂いておりますが、この度は又々

罪深き身のお咎めもなく、長男卓志(満六歳)に賜わりました御守護の一端を御報告申し上げ謹みて御礼

申し上げさせて頂きます。余りにも絶大なる御守護の為筆舌に表現の術を知りません事を申訳なく残念に

存じます。今思い出しまして慄然肌に粟を生ずる当時の出来事、御守護の広大さにただただ明主様有難う

ございましたと申し上げますより外言葉もございません。卓志は生来非常に病弱で何時も医薬の絶間があ

りませんでしたが、私共お道に入信の御救い賜わりましてよりその心配もなく、すくすくと頑健に育って

参りましたが、去る十一月二十九日午後一時突然家内の実家に遊びに行っておりました卓志が、苦痛に悶

えながら祖母に連れられて帰って参りました。「卓志が小便がつまって出なくなった」と祖母が心配顔で

オロオロとしております。私は生憎その夜は漁に出て不在でございましたが、使いが来て慌てて家に帰っ

て見ますと、「ただの小便づまりだから何も薬は使わず排尿の管だけ通して出して頂けば」と信仰の浅い

祖父の単純な考えから午後十一時半頃医師を招き尿道から管を通して小便を取っている最中でございまし

た。

 医師は、「これは尿道の結石だからその石を溶かす注射をしておきますから、後は自ずから出るように

なるでしょう。万一出ない時には八時間以上経過すると危険ですから時間にくれぐれも注意して下さい

と特に注意して帰りました。丁度その時は支部長先生も御出張中で御留守でしたから、家族や付近の信者

さん方にお願いして間断なく御浄霊させて頂きましたが、子供の苦痛を見るに忍びず、又しても大それた

大きな罪を犯して、六時間目の明けて三十日の午前六時頃二度目の医師を招きましたが、その時も前回と

同じ方法で排尿して頂きました。医師は「今度時間が来ても排尿しない時には時間に遅れない様に入院し

て来る様に」と言って帰って行きました。

 その時先生のお帰りが遅いので奥様がおいで下さいましたが、医者にかけた事を大変申訳ないと非常に

残念がって下さいましたが「出来た事は最早致し方がないから、よく明主様にお詫び申し上げられます様

」と励まされ、一同真剣にお詫び申し上げ、再び御浄霊させて頂きました。五時間、六時間、医師の注

意した危険な時間は切迫して参りますが一滴の排尿もありません。子供の苦痛は次第に烈しさを増して参

ります。信仰の浅い私達の脳裡に次々と不安な影がさして参ります。丁度その時小島先生がおいで下さい

ましたが、奥様と同じ様に私共の間違った道を踏んだ事を「本当に申訳ない、とんでもない事をしてしま

った」と非常に落胆なさいました。「今更出来た事は致し方ないから衷心より明主様にお詫び申し上げ最

後までお縋りさせて頂きましょう」と色々信仰的にお話や御注意を頂き、今更ながら私共の罪の深さと信

仰の浅さに愕然とさせられ、早速支部教会の御神前に参拝させて頂き、ひれ伏して罪のお詫びを申し上げ

させて頂き、引続き隣り合せになっております本家の御神前に先生を始め信者さん、家族、子供も一緒に

一同揃って祝詞を奏上させて頂き罪のお詫びを申し上げました。ところが何たる奇蹟でございましょう。

ああ何たる御守護でございましょう! この朝医者が危険な線だと言った八時間を過ぎる事まる四時間後

の午後六時頃でございましたが、お参りを終えたその瞬間タラタラと数滴の排尿の御守護を賜わりまし

た。ああ御守護だ! と一同感極まって再び御神前にひれ伏して御礼申し上げさせて頂きました。この御

守護に一同生気を取戻し一層お縋りの念を新に御浄霊を続けさせて頂きました。その頃より子供の腹部は

極度に膨満し、苦痛はその棲に達して参りました。可弱い六つになる罪なき子供に、かかる苦しみを見せ

るのも、総て親たる私共の道を踏み誤った罪かと思えば、熱湯をのむ思いと申しましょぅか、実に断腸の

血を吐く思いでございました。嗚呼これがかわれるものならかわってやりたい。「卓志本当に申訳ない、

許してくれ、お父さんが悪かった」と。

 恐怖の一夜は明け、十二月一日朝依然として排尿なく、膨満した腹部は板の如くに硬化し、睾丸も陰茎

も真赤に色着き、腫れて参りました。腹部の数カ所に大小の水泡が出来、段々と膨れて参りまして痛みは

益々烈しくなって参ります。激痛に悶え苦しむ子供に「もう少しだ、もう少し頑張っておれよ」と力付け

慰めてはおりましたが、その頃より子供心にも「皆が言うことは気休めだけだ。最早助かる見込なし」と

絶望し覚悟した様でございます。同日午前八時罪深き身の恐れ多くも明主様に御守護御願いの電報を差上

げました不遜を何卒お許し下さいませ。そして苦悶に悶える子供に「今明主様に御守護の御願い申し上げ

たから直きに楽にして頂けるよ」と慰め力付けて参りましたが、ともすれば心の中で先生に対しては、私

共が間違った道を踏んだ為悲壮な思いをしておられるとは知りながらも、現実にこの子供の苦しみを見る

に忍び難く、先は何うなろうとせめて今だけでも医者にかけて小便だけを出して貰って楽にしてやりた

い。と恐ろしい考えが時々浮んで参りましたが、先生を始め信者の皆様方の真剣な御浄霊を見せて頂いて

は今更ながら自分の弱い迷いの心が恥ずかしく情なく感じられてなりませんでした。こんな事をお尋ねす

るのは先生を益々お苦しめ申すとは存じながらも、「先生大丈夫でしょうか?」とお尋ね致さずにはおら

れませんでした。しかし今思い出しましてもぞっとする過去の私のあの大浄化の時でも、又他の多くの

人々の常識では到底想像もつかぬ様な大浄化の時でも決して悲観的な事は申されず、「必ず御守護戴きま

すから」と力強く申された先生が、今度ばかりは御返事が重く、益々心配せずにはおれない様な御返事し

か頂けませんでした。

 室内には信者さんや家族十数人が如何になり行くかと悲壮な面持で視線が子供一人に向けられ、咳一つ

ありません。ふと「この病気は外の病気と違って時間を争う恐ろしい尿毒症だからなあ」と溜息と共に囁

く声が片隅より聞えて参りました。と突然先生のお口より力強いお言葉があり、「医者では成程八時間以

上経てば危険かも知れません。しかし人間をお造りになられた神様のなさる御力です。二日や三日の小便

づまりがどうありましよう。一升や二升の出血が何ですか、神様は大豆大のコリでも一升や二升の小便に

して出して下さる御力がおありである以上、その反対に一升や二升の小便でも小さくして楽にして下さる

事も容易に出来るはずです。しっかりお縋りして下さい」と泰然として言い放たれる御信念の強さ。昼も

過ぎ夕方になりましたが一滴の排尿もありません。容態は目に見えて悪化して参ります。その頃より沢山

頂いてる玩具を恨めしそうに眺めながら「もうこんな物いらないよ」と投げ捨てる様になり、寸時も痛み

が止む事のない様になりました。恐怖の四日目も悲壮な思いで夜になりましたが、依然として排尿はあり

ません。食物は全然とらぬ様になりました。

 五日目の十二月三日、夜明頃より表現の言葉もありませんほどの激痛に悲鳴を上げて悶え苦しむように

なりました。夕方「明主様の御写真を見せてよ」と申しますので、明主様が日比谷公会堂でお写りなされ

ました御写真を拝ませてやりますと、あの苦悶の中から震える手で御写真に向って掌を合わせ、「明主様

助けて下さい、助けてよ、助けてよ」と礼拝し歎願している子供の姿に誰一人として泣かない者はありま

せんでした。ただ嗚咽と畷り泣きの一大悲壮な場面でございました。また「善言讃詞を奏げてよ、善言讃

詞を……」と連続歎願いたします。私はただただ断腸の思いでワッと子供に泣きつけば、「お父さんなぜ

泣くのだ、うろたえるなよう……」と子供の言葉とは思えぬ様な事を申しまして、ハッとさせます。堪え

がたい激痛が来る度に「善言讃詞を奏げて」「明主様の御写真を見せて」と申す様になりました。

 明けて四日、今晩で発病以来既に六日目の夜を迎えました。容態は依然として悪化の一途を辿っており

ます。小島先生には御多忙の身で丸五日、三度の御食事も満足になされず洋服の上衣をぬいで横に休まれ

る事もなく文字通りの不眠不休の御浄霊にお顔は目立って痩せられました。私は又しても「大丈夫でしょ

うか」とお尋ね致しましたが、その時の先生のお気持は如何ばかりだろうかと今更ながら本当に恥ずかし

く申訳なく存じます。六日夜から段々と意識が薄らぎ最早苦痛を訴える力を失って参りました。「神様に

お任せして最後までお縋りするんです」と皆で善言讃詞を奏上させて頂きました。皆の不安を尻目に状態

は刻一刻と悪化し、深夜頃より完全に苦痛を訴える気力を失い呼吸も益々弱まって参りまして、余程注意

しないと生きているのか死んでいるのか全く判らない程になりました。脈拍はほとんど感じられなく、全

身の痙攣と同時に目を引攣り完全に仮死状態になりました。部屋いっぱいに嗚咽の声が起り、私も最早臨

終の状態にある我が子にとり縋り、これが親子今生の別れかと思えば堪えがたく、つい我が子に取縋り、

子供の名を呼び返し呼び返し恥ずかしくも皆さんの前で実に醜態を演じました。その時先生から「皆さん

のお気持はよく分りますが、絶対に駄目だという訳ではありませんから冷静に落着いて下さい。取乱し騒

がれると、反って子供さんが苦しまれます。神様に対しても申訳ありませんから」との御注意がありまし

たが、その時の私には実に残酷としか思えぬ程強いお言葉としか受取れませんでしたが、続いて「皆さん

御一緒に善言讃詞を奏上して下さい」と力強く申され嗚咽と取乱した空気は一人一人善言讃詞に唱和され

三回、五回、十回ともなりますれば最早一人として泣く者も涙を流す者もなく、実に崇高な神聖そのもの

と申しましょうか、これが神人合一の境地とでも申しましょうか。その中に先生だけが静かに御浄霊の手

を翳しておられる姿は全く尊厳そのものの光景でございました。二十分、三十分悲壮に引攣った目が段々

と和らぎ完全に仮死状態にあった子供が徐々として危期を脱して参りました。「ああ御守護だ、何たる偉

大なる御神力だ」と一同感謝にうち震え御神前にひれ伏し、明主様に御守護の御礼申し上げさせて頂きま

した。


 明けて十二月五日、今日は当支部の世話人会のため先生が六日ぶりに初めて教会へお帰りになりまし

た。今日は早朝より親類の人々をはじめ知人の方々がひっきりなしに見舞に来て下さいましたが、この悲

惨な状態を見て涙を流さぬ人は一人もありませんでした。しかし当人はもはや何もわからず死線をさ迷っ

ております。昼頃より昨夜と同様な状態の痙攣が起り、キリキリと物凄く歯を噛み始め、目を吊り上げて

まいりました。午後二時頃、もはや快復の見込なしと、一同相談の上死亡診断書の関係上、医師(更生病

院院長)を招きました。医師は病人を見るより「これはもはや死の寸前です。希望とあれば注射もしてあ

げますが、ペニシリンをうったとてこうなったら最早駄目です。ここでは出来ないが病院にでも連れて来

れば何とか方法もない事もないが、しかし責任は持てません。お気の毒ですが夕方までとてももてませ

」と申します。最早この時は家族を始め全部の人達がはっきりと子供の死を覚悟致しました。明主様に

誠に申訳ない事でございますが、万一の僥倖を望む希望もなく絶対助からぬと諦めさせて頂きました。し

かしただ一つ子供のこの身体を見ますにつけ「たとえ助からなくともこの浮腫のままでは死んでも棺桶に

納める事も出来ないし、せめて小便だけでも出して貰って送ってやりたいものだ」と思っておりましたと

ころ、母が医師にその旨伺いましたところ、院長は「たとえゴム管を通しても最早小便が凍っているから

出ません」とそのままなす事もなく帰られました。この時でももし明主様のお救いがなかったら医師の言

う通り病院へ連れて行き、全身切り刻まれ戦慄すべき残虐な苦しみの果て一命を終えた事でございましょ

う。お蔭様で私の心は不思議な程冷静にならせて頂きました。最早死亡診断書の心配もなく明主様の絶大

なる御守護のもと、先生を始め多くの信者さん方から涙なくしては語れない程の親身も及ばぬ御浄霊を頂

き、これ以上の欲もなく今迄とまるで変って感謝と満足の気持にならせて頂きました。信者さん方へも

例え卓志が死んでも思い残しはありません。今後はなお一層精進させて頂きます」と申しまして、落着

いた気持で御神前に額ずきひたすら子供の霊を浄めて頂きます様御念じ申し上げました。安心した為か急

に空腹を感じ子供の御浄化以来、丸一週間ぶりに初めて腹いっぱい御飯を美味しく頂きました。丁度この

頃親戚一同ではいずれにしても明日は葬式だから暗くならない内にお米等を村の配給所へ行き事情を話し

て無理にお願いしたりなどして色々と準備をしていたそうでございます。四時、五時、いよいよ死の寸前

になりました。又一同で善言讃詞を奏上させて頂きましたが、最早この時には誰一人として助けて頂きた

いとお願い申し上げた者はありませんでした。ただ遊び盛りの六歳を一期として今この世を旅立たんとす

る不憫なこの子の霊を浄めて安らかに息を引取って下さる様お念じ申し上げるのみでございました。呼吸

も脈拍ももう感じられません。段々と手足も冷えて参りました。ただ時々ピリピリと痙攣があるのみでご

ざいます。その頃先生がまだ御用があるので奥様がおいでになり、「神様の御力は最後の一厘ですから最

後までお縋りさせて頂きましょう」と激励して下さいました。こんな状態が二時間余り続きまして、七時

頃非常に変な臭いが致しますので子供の蒲団をめくって見ますと、発病以来一滴も出なかった小便が出て

いるではありませんか。「ああ御守護だ、小便が出た小便が出た」と一同驚喜し感謝の涙に咽びました。

一同再び御神前に伏して厚く厚く御礼申し上げ共々涙を流して喜び合いました。お蔭様であれ程膨満して

いた腹部は一度に小さくならせて頂きました。しかし私共の気持はこれで助かったという喜びではなく死

後棺桶にも納めよくなりますし、又浮腫した悲惨な姿で葬式をせずに済んだという喜びでございました。

丁度先生が教会の御用を済ませ急いで来て下さいましたが、この状態をみて非常に喜んで頂きました。

 省みますれば二十九日夜より御浄化頂きこんな子供の排尿不能は八時間以上は危険だといわれた状態が

丁度今日で丸六日、時間にして一四四時間の間一滴の排尿もなく絶大なる御守護を賜わりました事、厚く

厚く御礼申し上げます。思い起しますれば、もう少しだもう少しだ、今に小便が出るか出るかと、ただ一

筋に排尿をいかに千秋の思いで待ちました事でございましょう。しかしその期待は無漸に裏切られ全部の

人が見込なしと諦めた時初めて執着より離れられましたが、その時神様の御守護を賜わりました事につき

今更ながら執着のいかに恐るべきかを痛切に覚らせて頂きました。今迄私達のこの執着の想念がいかに子

供に大きな苦しみを与えたかと思いますと本当に申訳なく存じます。その夜はずっと昏睡状態が続き、は

たの目にはいかにも楽しそうに見うけられました。



 翌六日は一日中生後幾日目の赤ん坊の様な状態で苦痛は勿論、食欲なども全然要求する頭脳をもちませ

ん。ただ口許に流動物を入れたサジを当ててやりますと、かすかに口を開き吸い込む事は出来ました。

 七日の日は生後半年くらい経った子供の知識程度にならせていただきました。その頃より部屋中に物凄

い悪臭が感じられるようになり、陰茎の根元あたりから盛んに濃い膿が排出いたしてまいりました。陰茎

から睾丸の周囲に丸く円形を画いた様に傷がついて参りましたが、それが一日、二日と経つ内に次第に大

きくなりまして八日の夕方頃には陰茎、睾丸諸共に半分以上も下にぶら下って参りました。でも御守護の

もとに五日夕、排尿以来苦痛は少しも感じませず日増に元気を快復させて頂きました。その頃より完全に

諦めておりました生命に再び希望と安心を覚える様になりましたが、今度は陰部の状態が非常に案じられ

る様になりました。

 十二月九日食欲も大分旺盛になり、排尿も好調になりましたが、皆の恐れていた陰部は睾丸諸共ドロド

ロに腐って流れる様な形を呈して参りまして、上向きに休んだ子供が敷蒲団につかえる程までに落下して

参りました。それと同時に下腹部にも二、三カ所直径五糎程度の水泡が破れ排膿が始りました。この悲惨

なと申しましょうか、凄惨な状態は二目と見られない様な、いかなる人でも目をそむけずにはおれない様

な状態になりました。


 それから一週間後の十六日未明、陰茎は根本より睾丸はわずかに線状の白い筋様のものを残し、原形も

残さず完全に根元より取れてしまいました。取れた後の傷口はちょうど大人の握拳程度のものになり、今

にもそこから腸が飛び出すのではないかと懸念させられるほどで、その無気味さはたとえようもございま

せんでした。身体の方はお蔭様で一日一日目に見えて元気にさせていただきます故、身体の方を見ます

と、誰でも元気に快復させていただけると思いますが、下の方の傷口を見られた方は「こんなんではとて

」と不安を感じられたそうでございます。お蔭様で生命はお救いいただきましたが、将来この子が大き

くなった時の事を考えますと、男として大切な生殖器がないとすれば……親として何とも言えぬ淋しい気

持にならざるを得ませんでした。先生に伺いますと「何もかも神様がよい様にして下さいますからお任せ

してお念じなさい」と申されます。しかし信仰の浅い私には、いったん取れたものが、又元通りになると

いう事はどうしても信じられませず、何れ小便だけが出る口が小さくどこかに開き、他はそのままだろう

と思えば子供が不憫で堪らぬ思いが致しました。しかしそれより十日も経ちます頃には、排膿も非常に少

くなり、一分のフクラミもなく完全に取れてしまいました。睾丸の両端より皮がつめより一日一日と目に

ついて原形に復して参りました。陰茎の方も先端の方が一寸出て参りまして、小便はその先より排尿させ

て頂ける程にならせて頂きました。

 その後日増に快復させて頂き今日で御浄化以来丸三カ月になります。お蔭様で陰茎も睾丸も大体原形の

ままにならせて頂きました。

 明主様本当に有難うございました。この度、長男、卓志に賜わりました御浄化の御報告申し上げ謹みて

御守護の御礼を厚く厚く申し上げさせて頂きます。今後共何卒罪の万分の一のお許しを賜わり御用にお使

いさせて頂きます様、伏して御願い申し上げます。(昭和二十八年三月十五日)