美術とその将来 五、書について                                      (自叢五 昭和二十四年八月三十日)

(中略)書にはその人の人格が霊的に印写されるのであるから、朝夕その書を観る事によってその人格の感化を受けるので、そこに書といふものの貴さがあるのであるから、書はどうしても大人物、大人格者のものでなくては価値がないのである。(中略)

 茲で、私の事を書いてみるが、私の救の業としての重点は書であるといってもいゝ。それは書が大いなる働きをするからで、此説明はあまり神秘な為何れ他の著書で説くつもりであるが、茲では只書道を随談的にかいたのである。

 

        私の観た私          (自叢十二 昭和二十五年一月三十日)

(中略)そうして今、私の仕事の中で一番主力を注いでいるものは、紙へ文字を書く事である。即ち書である。それは多くの信徒から乞わるるままに、出来るだけ満足を得させたい為に努力している。(中略)

 斯ういう事がある。私が書いた文字を見ていると、その文字通りの形が光となって無数に分散、空間に躍動するという事で、之は常に多くの人から聞く処である。又私の腹中に小さいゴム鞠位の光の玉を見る人もある。私の掌から光が出るのを見た人も多数ある。(中略)

 

       救 世 主            (早 昭和二十五年十一月二十日)

(中略)例えていえば、私が何かを冀うと必ずそれが実現する。私が墨で紙へ文字をかくとその文字が生きて躍動する。その紙を畳んでお守として懐へ入れるとその刹那から気持が明るくなり、奇蹟が起り始める。人の病気を治し得る力も発現する。不幸な境遇の人も漸次好転する。又私が書いた文字を床へ掛けたり、額にかけたりするとその文字から光を発し、肉眼で見る人もよくある。勿論家庭も明るくなり、農家に於ては忽ち収穫が増したりして、家庭は漸次天国化するという実例は多くの信者達が常に異口同音に唱える処である。(中略)



      大光明世界の建設 光の活動  
                (光世三号 昭和十年一月十一日)

 私が書いた、御神体は、観音様が直接に、お拵(コシラ)えになられると、言ってもいいのでありますから、此の御神体の強い光に遇へば、一家の暗黒即ち曇は、どんどん解けて、明るくなるんで、実に簡単なんであります。

 それで、一生懸命念じますと、其念願が、御神体を通して、観音様の処へ届くんであります。すると、観音様の家来は何億でもありますから、直ぐに家来に命じて、救はれるのでありますが、事柄に由っては、一瞬間に救はれるのであります。又、御神体の文字なり、お姿なりが、観音様の御意志の儘に、活動をするのであります。どういふ訳かといふ事は、とても幽玄微妙なんで、口では、説明し難いのであり、又、仮令説明をしても、人間は、今迄の学問や、唯物的知識で固ってゐる為に、非常に解り難いのであります。(中略)

 之を識るには、観音の光に浴して、真に智慧證覚を磨き、不言不語の裡に覚る、詰り仏教で言ふ「大覚者」にならなければ、真相は判り難いのであります。何時か、金高さんのお宅に、掛ってをります「大経綸」といふ額の文字が、一つ一つ「大」の字から消えて、次が「経」の字、次が「綸」の字といふ風に、順々に消えては又、元へ戻り、何回も繰返すといふ話が、ありましたが之は、其文字が、活きて働くんであります。大なら大の字が、額から抜け出るが否や「無限の速度」と、「無限の拡がり」と、「無限の活動」を起すのであります。

 そして「大経綸」といふ文字通りの「意味の働き」を、東京、日本、世界といふ風に拡がって、霊的活動をするんであります。ツマリ無機的な文字が、有機的に化し、文字の意味通りな活物的意志が発生する、否、活物其ものになるのであります。

 又、画像の観音様を、先日、或婦人が礼拝してをりますと、眼搏(まばた)きをされ、眉毛を動かされ、口を開かれて、お笑ひになり、歩行される所を、有々と拝まれ、大いに、驚かれたのであります。斯いふ事は、数限りなく日々に、あるのであります。

斯いふ話をすると、そんな馬鹿な事があって堪るもんかと言はれるに、決ってをりますから、実に話が第三者の方へは、仕難いのであります。だからして、真の観音力の発現は、到底現在の人間の頭脳や知力では、想像も出来ないので、昔から観音力の事を、妙智力と言ふてありますが、実際、妙と言ふより言葉が無く、全く玄妙不可思議力なのであります。

 扨て、一軒の家に、先づ「光の活動」が起きるとすると、其家の暗黒が、解けて行きますから、悪魔の活動力が、弱って行きます。

 悪魔の弱るのと正比例して、悪い事が、段々無くなって行き、善い事が、増えて行きますから、自然自然に、一家は栄へ、終には天国になるのであります。ですから悪魔は、光を恐れる事、実に甚だしく、先刻の松久氏のお話にも、観音様をお祭してから、借金取りが来なくなったと、言ふ事がありましたが、それは、金は貰ひ度いのでありませうが、其借金取に、善からぬ霊が憑いてゐるので、観音様の光が、恐しいので、来られなくなったんであります。ですから、観音様をお祭りすると、悪い人は段々来なくなり、反対に善い人が、段々来るといふ事になります。

 斯ういふ実例は、沢山あるのであります。又、強い光に遇ふ時は、悪魔の霊は、溶ける性質がありますから、恐ろしくて側へは寄れないんであります。弱い光だと畏縮するんであります。そういふ訳でありますから、光明世界を作るには、理屈や議論は後からでいいんで、先づ第一に、御神体をお祭りすればいいんであります。そうすれば、朝夕拝んでゐる裡に、魂(ミタマ)がお光に照らされて、どんな悪人でも不良でも、善道に立還り、どんどん救はれて行くんであります。

 それから一軒の家へ、観音様を祭り、信仰を熱心にしてをれば、その家が救はれるばかりでなく、黙ってゐても近親が、段々救はれてゆくから面白いのであります。斯ういふ事を見た時、其御霊徳の洪大無辺なる事は、到底--言葉では現はせないのであります。(中略)


 

          活字の浄霊                                                     (栄百八十四号 昭和二十七年十一月二十六日)

(中略)それは私のかいた文章を読む事によって、目から浄霊を受けるのである。ではどういう訳かというと凡ては文章を通じてかく人の想念が其儘映るものであるからで、此点充分知らねばならないのである。之を霊的にみれば、つまりかく人の霊が活字を通して読む人の霊に通ずるので、此意味に於て私がかく文章は神意其儘であるから、其人の霊は浄まるのである。

 此様に読書というものは、読者の魂を善くも悪くもするものであるから、作家の人格が如何に大きな影響を及ぼすかは勿論である。(中略)


 

 

        御文字の働き(恵水、春光)  (S24・7・27)

【お伺】最近光明如来の御書体のある床の間に、煙の様な文字で「ポカポカ」と出るのを数人が見えると申します。如何なる現象で御座いませう。

【御垂示】之は御字が活動する。神秘なもので、簡単に説明出来ない。何れ「神秘の扉」といふのが出るから、それに書く。

之は字が働くのである。先に坂井の家で、水がいくら掘っても出ないので、「恵水」と書いた字をやった。すると間もなく近くへ水道が来て、困らぬようになった。又「春光」といふ字を掛けておくと冬でも暖かいので、ストーブの代用になるとよく言ったものである。字からそれだけの力が出るのである。





         教えの光 光る御文字                                                          (昭和二十六年五月二十日)

【お伺】光明のお軸を拝んでると床の左壁に光明の文字が白く浮出します。その訳をお教え下さい。

【御垂示】私の書いた絵や文字から光が出るのを見る人は沢山ある。事実光が出るのである。其文字の通りの光が出て光が文字の意味通りの働きをする。此説明は今の科学的頭では理解出来ない。私が光とかいた紙を懐に入れると光の働きをしてそれが腕を通つて放射し病気が治る。私が字をかくと私の手から光が筆を通つて紙に印象される訳である。それは私の腹には光の玉があつて、其光が手を通る又此玉は光明如来様から出る。光明如来様は又其上の神様から出る。私が大光明如来とかくと大光明如来の働きをする。是は極く簡単な説明で詳しく説明すると先づ霊界の構成から説明しなくては判らない。此説明は何れ著書でする。今は此程度で。我慢して貰う。





         御光話録5号            (昭和二十四年三月十三日)

【お伺】御書体(横額)を掲けさせて頂く場合、順序、位置は如何致すべきでせう。

【御垂示】之は床の間の真上はいけません。真上以外の一番いゝ所に掲ければ宜しい。だから違ひ棚の上の所など一番いゝ訳ですね。たゞ私の書いたものをかけてある所には他の人の写真や、他の人の書いた書体等はかけてはいけません。

【お伺】狭くて違ひ棚もない様な場合は――

【御垂示】どうしてもいゝ場所がなければ、床の間の端にかけておけばいゝです。

【お伺】「日月」、「地上天国」等の御書体の順序は如何致すべきでせうか?

【御垂示】出鱈目はいけません。私の書いた字は生きてゐる、生き物ですからね。矢張り順序は考へなければいけません。――「日月」はまあ一番上で「光明界」はその次位、「地上天国」は「光明界」の次でいゝでせう。「神龍」はずっと下でいゝですよ。龍のついたのは下でいゝですよ、龍は人間の次だから下です。「観音光」は、観音は仏で仏の光だからそう上でなくていゝですね、「地上天国」の次でいゝでせうね。「神世界」はずっと上でなければいけない、之は神様の世界ですからね。「光明浄地」、之は下でいゝです。「神風」は風だから何処でもいゝです。



         御光話録17号        (昭和二十五年二月二十八日)

【お伺】御守りの「丶」の意味について御伺ひ申し上げます。

【御垂示】これは、天から最高の霊、神様の御霊が御降りになって人間を御救ひになられる事なんです。――大本教では一厘の御霊って言ひますがね、今までは九分九厘の世の中で、そこに一厘の御霊が天から降って十になる。そうなった世の中が神の世だってありますが、之は非常に面白いですね、又それが本当なんです。だから、この「丶」を御光りなのにゝ書いたんです。「丶」のいはれは簡単なもんぢゃありませんからね、何れ又、詳しく話しませう。





        階下に真神の御書体               (S24・7・23)

【お伺】信者さんで御軸をお祭り致し度い人でございますが、二階に他人が住んで居りますので立のきを請求中であります。其間引越し致しますまで、私の以前に戴きました御軸の真神か大光明の何れかを貸して戴き度いと申されます。如何でございましょうか。又、お貸しすると致しますと、大光明をお貸し致しました方がよろしうございましょうか。御伺い申し上げます。

【御垂示】真神はいけない、神がある。大光明ならよい。





         御額掛ける場所                   ((*)・12・5)

【お伺】 光明如来様御祭りしてある床の間「おとしがけ」の所へ横の御額を御かけする事は差支へないでせうか、又ここの所へ普通の額のあるのは取りはずさせるべきでせうか。

【御垂示】床の間の正面なら差支えない。意味のいい、高い意味がよい。普通の額は取外すべきである。




        仏壇上に御書体

【お伺】仏壇の上に御書体のお額を掲げさせて頂いてよろしいでせうか。

【御垂示】 結構である。




        御額の順序

【お伺】 御書体(御額)を掛けさせて戴く場合、その位置はどの様に致すべきでせうか。日月、光明界、真善美、地上天国、神龍、神世界、観音光、光明浄地、神風。右御教示御願ひ申し上げます。

【御垂示】御書体の額を掛ける時の位置は、床の間の真上はいけない。真上以上の一番良い所、違棚の上など極いい。外の人の書いたものや写真などはいけない。日月は一番上、光明界も上、次に地上天国、次に観音光―之は仏の光であるからそう上でなくてよい。神世界はズーット上で、光明浄地は下でよい。龍のついたのは下でよい。神風は何処でもよい。掛けるのは向って左が上である。

【お伺】 光明世界、光明、春光、真善美、地上天国、建設、金龍、神龍等の御額のおかけする順序。

【御垂示】順序があるにはあるが、こういう文句なればどこへかけても構はぬ。

【お伺】 左の御書体を部屋に掲げる順位がありましょうか。地上天国、五六七、日月地、神霊境、善徳等。

【御垂示】順序はない。



       大いに注意すべき事                                             (栄百五十六号 昭和二十七年五月十四日)

 私のかいた文字を粗末にすると、必ず御気づけがあるから注意して貰いたい。之は御守に限らず、凡ての文字がそうである。というのは其上へ他の品物を載せると、霊的に大変な御無礼になるから必ず御気付けがある。何となれば一字々々に神霊が宿られているからである。その位の偉力がなければ、万民を救う事が出来る筈はないからで、つまり私の文字は生きているので、其つもりで扱うべきである。左の御蔭話は其事を神様が御示し下されたものである。

  祖霊の戒告 お守様のお箱の上の位牌に立腹(本文省略)




        私に関したもの                                                   (栄二百三十三号 昭和二十八年十一月四日)

 以前も口や筆で注意した事があるが、私に関したものを粗末にしたり、理屈に外れたりすると、必ずお知らせがあるから注意しなくてはならない。左記のお蔭話を見ても分る如く、栄光紙を机の抽斗へ入れたという丈でも間違っている。それでは普通の新聞か文房具と同様の扱いであるからである。古い人は分っているが、新しい信者にはそういう過ちが間々あるから、その支部長なり教師なりはよく注意する様にしなくてはならない。

  鼠も御写真丈は噛まず(本文省略)



      文字に表はれるお姿                                                   (地十三号 昭和二十五年二月二十日)

私が書く光明如来の御神体は、単なる文字であると思う人もあるかもしれないが、実は礼拝をする際観音様がお現はれになるのである。処が、話だけでは中々信じられ難いものであるから、時々奇蹟によって現実を御見せになる。(中略)



        御垂示録9号              (昭和二十七年五月一日)

(中略)私の書いたものに対する注意ですね。粗末にすると必ずお気附があるという事を、今度の新聞に出します。

「未信者に配ります時には――」

 それは構いません。未信者は粗末にしても構いません。それは、何んだ彼んだ言うと、そんなおつかないものなら俺は止そうと言う事になりますからね。又知らない人は神様はお許しがあります。解つてからはちやんとその点はお咎があります。



         御垂示録27号          (昭和二十八年十二月一日)

「宿屋で部屋がないために客間に大光明如来様を御奉斎しておりましたが、今度新館が出来まして、人を入れない部屋を作り、其処に御祀り致しましたが、『日月光』の御額を鼠がかじり、御文字を食べております」

メシヤ様:何処に掛けてあったのですか。

「家を直す時に下に置いたそうです」

メシヤ様:下のどういう所ですか。

「板の間のようです」

メシヤ様:それは神様なり祖霊さんなりが、そんな了簡の者では、そんなお扱いをするような人間なら、止した方がよいからというので鼠を使ったのです。

「食われた額はどう致しましたら宜しいでしょうか」

メシヤ様:御詫びして焼いたらよいです。

「申訳ございません。本人も申訳ないと申しております」

メシヤ様:だから私の本に書いてあるのです。私の書いた字をお粗末にすると何かあるという事を書いてあるのです。

「他の会から来た信者で、私は存じませんでした」

メシヤ様:掛ける所がないのに、どうして掛けたのですか。それは扱いが間違っていたのです。そういう人は本当に悔い改めて・・・

「大変に・・・」

メシヤ様:恐縮しているのですか。それは、あなたがよく話して、今度頂く時はこれなら差支えないという事を、あなたが見れば分るでしょうから、それから御下げするという事にしたらよいです。よく額を鼠に食われるとか、雨が染みるという事があるのは、決して偶然ではないので、意味があるのです。そういう時に調べてみると必ず何処か間違ってます。



      御教え集4号        (昭和二十六年十一月五日)

(中略)判断が、その人の智慧正覚ですからね。ですから、そう言う点も大いに勉強する。それには私の書いた本を出来る丈け読むと良い。ちやんと書いてありますからね。読み方が足りないと判断を間違えるんですね。ですから、そう言う事も、良く言つてやりましたがね。



      御教え集16号      (昭和二十七年十一月十六日)

 それから御神書とか、未信者に新聞などを読ませますが、あれは只書いてある意味を分らせる以外に、活字から浄霊される事になるのです。それは言霊の作用で、言霊が神意に合ってますと、その活字からやはり一種の光が出るのです。之は微妙なもので、私が書いた文章はそれがどんな木版でも活版でも、やはりそれを通じて光が出る。だからそれを読ませるという事は、その意味を覚るばかりでなく、そういう効果があるのです。それについて書いたのです。(中略)



      御教え集20号       (昭和二十八年三月十五日)

(中略)それから私の書いたものですが、これは又凄いのです。その上に外の物がのっていたりすると、とても訳の分らない苦しみがあるのです。昔私が宝山荘に居る時分に、その部屋がどうも気持が悪いのです。私も気持が悪いし、誰でもがそうなのです。それでその部屋に行くと皆病気みたいになるのです。

それでおかしいと思ったが、どうも分らないのです。ところが外の人から貰った、普通の人間が書いた色紙が柱掛けにかかっていたのです。それで気がついて、それをとってみるとその裏に私の色紙がはいっていたので、これだなと思ってそれを外したら、それですっとしたのです。(中略)

これは大いに注意する事です。それで病気になって幾日もなおらないのですが、分ってみると、すぐなおってしまうのです。よく子供の病気などであります。それは何かというと、順序が違うからです。ですから私は家に居ても栄光新聞は決して下におきません。それから私の書いたものとか写真は決して下におきません。(中略)



      御教え集20号      (昭和二十八年三月十六日)

(中略)ですから私の書いた文字を見ると、この文字から一つの浄霊をされるのです。今私がいろんな本を出してますが、興味本位からでも何んでも読めば、それから浄霊されるわけです。それは文句、つまり活字の並べ方に非常に影響があるのです。とに角私の書いたものを活字にしても、活字に霊が含まれるのです。べつに私が印刷したものでなくても、誰がしたものでもそうです。実に霊界というものは微妙なるものがあります。



      御教え集24号      (昭和二十八年七月十七日)

(中略)私がお守を書く場合に、丁度半紙大の紙に「光」という字を書くのですが、一枚書くのに七秒です。この間は急ぎだというので五百枚を五十分で書きました。

それで普通宗教でお守などを書くというと、もう斎戒沐浴(さいかいもくよく)して、羽織袴でチャンと御神前にぬかづいてお願いして書くものです。ところが私は、今時は暑いから上は裸です。まさか褌一つではみっともないからしませんが。

それから私は、ただ光を書くだけでは退屈でいけませんから、必ずラジオを聞きながらやるのです。それで早いですから三人がかりで手伝っているのです。そして時によると左の手に煙草をくわえて、右の手で書いたりしてます。

だからお守を作っているとは甚だ思えません。それで書き上がって、たたんで、三十枚を一束にして、それに私が霊を入れるのですが、この霊を入れるのは厄介なのです。割に力は全然入れないのですが、やはり相当に疲れます。だからこれは一度に沢山入れるわけにはゆきません。一回霊を入れるのに、丁度三包、九十体ずつをやるのに、一つに五分ですから十五分くらいかかります。それで丁度一ぱいです。それ以上は疲れます。

しかしそれだけでレントゲン以上の力が出るのですから、ちょっと理窟はつかないくらいなものです。それで今まではそういう場合に神様にお願いしたりお祈りするのは、つまり神様と人間の方とが離れてますから、どうしてもそうしなければならないのです。

ところが私は自分の腹の中に神様が居るから、私がこうやっているという事は、私の体、腹に御座る神様が道具として使っているのです。ですからそういう場合の私の腕というものはやっぱり筆と同じようなものです。筆と墨のもう一つ繋いだ元の方が腕みたいなものです。そこで他の余計な事は何も必要がないので、ただ書きさえすれば腕を通し筆を通して紙に光がはいって行くのです。そういうようなわけですから、今までの宗教の教祖という人達がやった事とは全然違うわけです。(中略)



       御教え集26号       (昭和二十八年九月六日)

(中略)今の私の写真というのは一番重要なのです。「光明如来」と御掛軸を書きますが、あれは私が書くのですから、光明如来様よりか私が上なのです。ところが人によると光明如来様の方を上にして、写真の方を下にするのがありますが、これは大変な間違いです。(中略)

昔でも、仏体とかそういう場合には管長なり教祖が魂を入れるという事になってますが、やはりそういったのは、形とか彫物とか絵というものは坊さんにはできないので、魂だけは開祖なら開祖が入れる事になってますが、やはりそれと同じようで、私が書くという事は、それが最高のものとして見なければいけないのです。(中略)



      地上天国13号 妙智之光                                    (昭和二十五年二月二十日)

【問】二年前より「光明」の御軸に毎朝観音様の御姿が拝せられます。それは先ず燦然たる光輪が現はれ、次に観音様の御像が拝せられます。次に、七彩も鮮かに大きな虹がほのぼのと立昇ります。光輪お姿、虹という順序に、次第にぼんやりと消えてゆきます。尚お姿は最初半年位の間は、全身の立像(斜左向)で御座ゐましたが、その後半年位は斜右向の七分身像になり、最近一年位は巖頭の座像(斜左向の全身像)にお変りになつております。又最初の全身像の場合は、両方のお手で巻物の如き物をお持になり、次の七分身像の時は左手に蓮華を右手に玉を持たれ、只今の巖頭像の時は頭上に外国のキングに見るやうな王冠の如き冠を頂いておられ、左手に蓮華、右手に巻物をお持ちになつておられます。

【答】之は私の書いた「光明」のお軸は単なる文字だけではない。観音様がおいでになる事をお知らせ下すった意味もある。之を多勢の人が知ると、御神体に対する考えが違うからである。

虹は、火と水の強い場合、虹になるのであるが、観音様のお働きは火と水であるから、虹が見えるのは、自然現象の虹と同じ理由である。最初に光輪が見えお姿が見え、虹がみえるといふ順序も面白い。

蓮華を持つておられるのは聖観音で、仏法の御働きを表はし、玉は如意宝珠の御働きで如意輪観音である。

巻物は昔でいふ六韜三略の巻で、実は経綸を書かれてある。王冠を頂いておられるのは、観音様が人間として御表はれになつた時、王様の御位であつたからである。

以上は、今迄の変り方を示されたものであるが、今後まだまだいくらも変られる。



      地上天国16号 妙智之光                                    (昭和二十五年八月十五日)

【問】私は去る十二日より御書体から無数の光の文字が出るのを判然と見させて頂く様になりました。その御書体の中で真善美のお額が一番お光がつよく見えますが、此お額は五年前或信者が頂いて表装も出来、お祭りする様に迄なって死んでしまいました。それを又或教導師が頂きお祭りする直前死んでしまいましたのでそれを私が頂きお祭りしてゐるのです。矢張り御書体を頂いてお祭りするには或程度浄化された者でなければいけないでせうか。

【答】書体の字の意味によつて種々になるのである。以前或弟子に如意の字の書を与へた処、落して無くして了つた。この字は普通の人には良すぎる為にそうなつたので、それ以来、如意といふ書は与へない事にした。「真善美」の書は誰が頂いても差支えない。これを頂いた為に死んだのではないので、死ぬべき運命になつてゐたのが、それを頂いて霊的に救はれたものと解すべきである。



      地上天国22号 教えの光                                    (昭和二十六年三月二十五日)

【お伺】次男が階下の衣桁へお守のかけてあるその上へ重ねてオーバーを掛けて二階へ上つていたのですが、こげ臭いのはそのオーバーが燃えている為だつたので御座います。右の出来事は尊いお守の上へ、不敬にもオーバーを掛けてあつたので、そのおとがめでしようか、何卒御垂示の程お願い申上げます。

【御垂示】右は勿論御咎めであるからよく御詫びして悔改めないと再びお知らせがあるものである。本教の御守は生きているのであるから、大いに注意すべきである。御守ばかりでなく、私のかいた文字の上へ何かを載せると必ずお知らせがある。又御神書や本教の新聞雑誌等でもその上へ普通の印刷物など載せると、お咎めがあるものであるから、此点よく注意すべきである。